03) 服喪3年は、政敵の封じ込め?
司馬炎が司馬攸をライバルと見なしたのは、勘違いだった。
だが人間は、現実ではなくて、心理的現実を生きているものです。司馬炎は、架空のライバル・司馬攸を敵視してゆきます。
武帝の斉王攸対策
賈充らは、暗黙裡に司馬昭と約束を交わした。賈充は献身的に忠勤したから、寵任を得た。
賈充は、剛正派である任愷、裴諧、庾純に批判された。
271年3月に、当権派の裴秀が死んだ。剛正派は、賈充を長安に出鎮させようとした。
荀勖が賈充を助けた。賈充の娘と、司馬衷が成婚した。
賈充は、ピンチを脱しただけでなく、外戚として権勢を固めた。
司馬炎は、賈充らを批判した勢力に、腹を立てた。
このころ司馬衷が不慧(バカ)である疑惑が浮上した。司馬衷の資質に疑惑が向けられた時期は、定かではない。だが、武元楊皇后伝によれば、生母の死去より以前からバレていたことが推測できる。司馬衷が14歳になった年の初めごろから、知れ渡っていたかも。
司馬炎は、司馬衷の資質を心配して、楊皇后に、
「同母弟の司馬カンを皇太子にしようか」
と持ちかけた。つまり、司馬攸を次の皇帝にしないというのは、決着済のつもりである。少なくとも、司馬炎の中では。
だが楊皇后が死んでから1年半後、武帝が感染症になって死にかけた。
このとき朝臣は、司馬攸に期待した。司馬衷は無視られた。賈充もまた、司馬攸に心を振れさせた。司馬炎は、賈充ですら信頼できないと思い知らされた。司馬衷のために、司馬攸を葬る必要があると認識した。
そのために司馬炎は、武悼楊皇后を立てた。
前の楊皇后が死んでから2年余も経っている。司馬炎が重態になってから、半年後である。新たに子作りするためではなく、司馬衷を支援させるために、同じ外戚の氏から皇后を迎えたのだ。
司馬炎は、東宮制を充実させた。司馬攸に対抗して、司馬衷を強化するためである。
魏明帝のときから、皇太子がずっと不在だったので、東宮制度は欠落しまくっていた。
太子中舎人の職位を定めた。太子太保を新設して、賈充が着任した。三傅制を置いた。次の恵帝のとき、司馬遹のために三太三少の六傅制が作られるが、そのステップである。
271年に司馬攸は、太子少傅となった。274年に荀顗を襲って、司馬攸は太子太傅となった。282年の斉国へ行けと命じられるまで、司馬攸は太子のお守りを兼任した。
「司馬攸の声望を、司馬衷が吸収できる。味方に取り込める」
なんて理屈が成立しないことぐらい、司馬炎は分かっていただろうに。
276年。司馬攸は、皇太子のあるべき姿について、一文を提出した。
「皇太子は、皇帝の第一の補佐役である。皇太子たる人は、緊密な父子や兄弟の間柄を裂く、不忠邪侫な異姓の臣下を排除すべきだ」
安田氏の読み方では、これは司馬攸から司馬炎に対する当て付けである。
「荀勖や馮紞らは、私(司馬攸)を排除して、司馬衷を守り立てている。悲しく、憤らずにはいられないことだ」
これが司馬攸が練りこんだ本心だ。
司馬衷のキャラクター、特に帝位への野心を列伝から読み取らないと、何とも言えない。司馬攸はもっと直情タイプだろうから、司馬衷を輔佐しているうちに、輔佐が目的化し、夢中になり始めたように思えるが。
世間の人は、司馬衷の遠まわしな当て付けを「工」すなわち「うまい」と評価したという。識者は、司馬攸の込めたメッセージを理解したからだろう。
弘訓太后の死と斉王攸の服喪
278年6月、司馬攸の養母の羊氏が死んだ。いま死んだのは、司馬師の妻で、羊祜の姉である。
司馬攸がどのように服喪すべきかで、議論が分かれた。
王恂や有司たちが言うには、
「司馬師は、司馬炎の直系の父祖ではない。だが、景帝として帝統に列せられている。だから、斉王に過ぎない司馬攸は、親子関係が認めらない。司馬攸は、3年の服喪をしてはいけない」
しかし賈充が言うには、
「オフィシャルな祭祀は出来ないと『礼記』にあるが、プライベートな親子関係までは否定しない。司馬攸は、羊のために3年の喪に服してよい」
と反論した。
司馬炎は、賈充を支持した。理由は、司馬攸を3年間も政治から失脚させることができるから。西晋では大臣は、既葬還職がふつうだった。つまり喪中でも復帰して、政治に参加できた。だが司馬炎は、司馬攸にだけは厳密に3年を守らせた。
「司馬攸は、司馬炎よりも孝行である」
という評判があった。司馬炎はそれを利用して、政敵を押さえ込んだ。
「3年もサボったから、司馬攸に期待はできないよ」
なんて言い分はゼロだ。
「あいつは有給休暇ばかり取っているよ。ナニサマだ」
と白眼視される、窮屈な中小企業と一緒にしてはいけないのだ (笑)
司馬衷と司馬攸は、実務上の功績を競い、出世レースで戦っているのではない。名声で競い合っている。実務勝負をやるなら3年は大きなハンデとなるが、名声という観点からすれば、3年の服喪はプラスだ。3年も亡母に尽くせば、司馬攸のマイナス評価である「性急」を薄めてくれる。
また司馬攸は充分に若いから、3年間の「空費」が、余命が少ないわけでもない。ほんとうに司馬炎の封じ込め作戦だったのかなあ?
司馬攸は、278年6月から280年6月まで、表舞台から退場した。
12年後に司馬炎が死んだとき、外戚の楊駿は、
「新帝の司馬衷さまは、喪に服すべきです」
と司馬衷を政治から遠ざけて、自分が権力を確保しようとした。服喪を利用して政敵を遠ざける術策は、確かにあった。
司馬攸が自発的に服喪し、楊駿が司馬衷を押し込めたことに別の意図があれば、安田氏の話は壊れます。