表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋初期政治史試論」を読み、司馬攸を悩む

04) 賈充が思う象徴天皇制

司馬攸は、司馬炎の封じ込め作戦にハメられて、「養母の喪」という名の軟禁状態になりました。

武帝の伐呉強行と賈充の反対

賈充がなぜ伐呉に反対し続けたか。
安田氏の意見は、
「賈充は、伐呉に反対したのではない。時期尚早を述べただけだ。司馬攸が養母の喪から復帰した後に、呉を平定したい。そうすれば司馬攸が手柄を取り、司馬炎への牽制となる。司馬炎が、独裁者へ変貌するのを防げる」
です。
論文の順序に反して結論を書いてしまったが…この指摘が、安田氏の論文の価値なのです。『晋書』が押し付ける賈充像を退け、オリジナルな賈充を作って見せているのだから。

ぼくは知らないが、唐代の朝廷に、賈充に仮託させて批判したいような、へつらいの重臣がいたのだろうか。


賈充は、王濬が武昌を平定した280年2月末でさえ、
「撤兵して、後日また出直そう」
と言っている。なぜ賈充が反対したか。『晋書』では、賈充が見識・判断力に欠如して、ただ君主にへつらうだけのバカだから、としている。
そうではない。
例えば、以前に杜預は上表で、
「伐呉に反対する人は、自分が蚊帳の外にいるから、気に入らないだけである。司馬炎と羊祜だけが手柄を得るのが、イヤなのだ。反対派は、孫呉が強いから、慎重になれと言う。だが孫皓の暴政は明白だから、孫呉を平定するのがムリということは、決してない」
と言った。
羊祜はもう死んだが、賈充の心理は、杜預が言ったことに通じる。賈充は、武昌を落としたことがどれほど有利か、知っている。賈充は成功が目に見えているからこそ、反対した。

もともと伐呉は、280年末に予定されていた。
279年閏7月に、杜預が、
「出撃の体制が整いました。いつやりますか」
と司馬炎に聞いた。司馬炎は、
「明年だ」
と答えた。これが証拠である。
ちなみに280年末という意見は、司馬炎が1人で決めたのではない。益州刺史・王濬の上疏を受けて、朝廷のみんなで話し合ったことである。賈充もまた、280年末には賛成していたはずだ。
だが司馬炎は、1年早めた。

安田氏は、司馬炎が司馬攸を服喪で退場させたことと、司馬攸が服喪の間に伐呉しちゃうことを、結びつけて論じた。だがもし指摘が正しいなら、司馬炎はとても無計画である。
だって、司馬攸の服喪がいつ終わるかは、正確に計算ができる。280年6月である。それなのに、司馬炎は一度は、280年末に伐呉を始めることを同意した。司馬攸を、伐呉から外すことが計画に入っていたなら、あまりに軽率だ。いちおう衆議で決まったことになっているが、「明年」と言い出したのは司馬炎じゃないか。わざわざ自分で自分を邪魔するものか。
安田氏の好みそうな論法で補うなら、
「司馬昭は、はじめから司馬炎を後継者にするつもりだった。だが敢えて司馬攸というダミーを仕込んだ。同じように司馬炎は、はじめから280年前半に、伐呉をするつもりだった。だが敢えて280年末というダミーを仕込んだ。群臣が反対して、世論が自然と280年前半という答えを導き出すのを期待した」
となるのか? そんなバカな。半年しか違わない。重臣が立場を賭けてまで、諫言したくなるテーマではない。どっちでもいいじゃん。

張華が、予定の繰上げを提案した。司馬炎は、
「張華だけが、私の気持ちを分かっている」
と言った。
果たして伐呉は、1年を早められた。前年に賈充は、張華を処断せよと言った。司馬炎は張華を守るために、こんなセリフを言ったのだろう。だが、それだけではない。
「張華は、司馬攸を外したいという私の真意を分かっている」
という、にんまりしたニュアンスがあったはずだ。

賈充が1年の前倒しに反対する理由は、安田氏曰く、司馬攸が服喪中だったこと以外に見出しえない。ライバルの司馬攸を一切関与させず、司馬炎が1世紀ぶりに天下統一すれば、司馬炎が独り勝ちする。賈充は、それを防ごうとした。

安田氏の話では、司馬炎はまた矛盾する。だって、司馬攸が伐呉で手柄を立てることが、皇位継承に影響があると思っているんでしょ。だったら、司馬衷に伐呉の手柄を持たせればいいじゃん。司馬炎の頭の中に、安田氏に言うフレームワークがあるなら、当然そうなるって。
「いやいや、司馬衷は軍事的にも無能だから」
という反論は聞けない。だって西晋には有能な将軍が集まり、孫呉は虫の息だ。颯爽たる指揮をしなくても、ただ名前だけトップに置けば、手柄が転がり込む。
同じ伐呉で思い出すのは、隋の煬帝だ。父の楊堅は、まだ晋王だった煬帝を後継争いで有利にするため、南朝の陳を討たせた。

司馬昭は、
「お前の理解者は、賈充だ」
と司馬炎に遺言して死んだ。その遺言どおり、賈充は司馬炎の志向・性格を熟知した。賈充は、司馬炎の思惑を感じ取った上で、わざわざ反対した。もともと司馬攸に3年の服喪をさせたのは、賈充の提案である。賈充は、責任を取るためにも、司馬攸を抜いた伐呉に反対せねばならなかった。

ぼくが安田氏に反論するなら、1年早めた理由を見つけねばならん。後日やりましょう。

むすび

司馬炎は、司馬攸が不在のうちに伐呉をやり、賈充の心配どおりに変貌してしまった。
282年正月に劉毅は、
「司馬炎さまは、後漢の桓帝・霊帝みたいな人だ」
と言った。
同じ正月に司馬炎は、せっかく伐呉を推進した張華を幽州刺史に左遷した。醜い独裁者である。
282年12月、司馬炎は司馬攸に、斉国に赴任せよと命じた。誰が諌めても、
「司馬さん家の、プライベートな事情だ」
と言って、司馬炎は聞く耳を持たない。283年3月、36歳で司馬攸は憤死した。『晋書』はこの場面で、荀勖や馮紞の陰険さを強調した。司馬炎は「寛仁」ではなく「不滋」である。

安田氏が注意したいのは、司馬攸を斉国に締め出したのは、賈充の死後だということ。賈充は、282年4月に死んだ。賈充の重石が外れて、司馬炎は暴走した。司馬昭の期待に反する天子となった。
賈充は司馬炎を、
「朝臣の意向を十全に顕現し得る、いわば同輩中の第一人者
と位置づけたかった。

古い歴史の概説書に書いてある、後漢皇帝をイメージすればいいのだろう。後漢は大土地所有した豪族の寄り合い所帯だった…というやつです。

また賈充は司馬炎を、
「実権を専断行使する君主ではなく、象徴天皇に近い機能的存在
に留めたかった。

「同輩中の第一人者」が、実権を持たずに「象徴天皇」になることは可能なんだろうか。うーん。恐ろしく矛盾の臭いを感じる。安田氏が、頭の中にある君主像を、軽々しく書いてしまっただけじゃないのか。


侫臣とされる荀勖や馮紞は、賈充のマネをして、司馬炎にへつらった。つまり、司馬炎を牽制しようとした。だが、司馬炎は政治的にも内面的にも変貌してしまったので、牽制など利かない。荀勖や馮紞がやったのは、文字通りの「へつらい」でしかなかった。

賈充を持ち上げるが、荀勖や馮紞は『晋書』が提供したステレオタイプで片付けてしまうわけですね。

おわりに

やっぱ論文は面白いなあ!というのが第一の感想。
今回は、司馬昭と賈充の、史料には残らない思惑を推測していました。べつに史料が散逸したから残らないのではなく、人間の内面への洞察だから、記録に残りようがないのです。司馬昭や賈充が現代人だったとしても、事情は同じ。真意を他人が勘ぐることは、どこまでも仮説に過ぎないわけで。っていうか、真意は本人にすら分からないのかも。
安田氏の論文はまだ入手してるので、そのうちやります。091111