表紙 > 読書録 > 吉川幸次郎『漢文の話』より、ぼくらが漢文を読める理由

04) 司馬遷の思いを捨てるな

漢文そのものを読む重要性について、
『史記』高祖本紀より。 

歴史学の功と罪

高祖本紀の1文目は、劉邦の出身地、姓名、父母の名を載せる。
「高祖,沛豐邑中陽里人,姓劉氏,字季。父曰太公,母曰劉媼」
歴史学のおかげで、以下のことが分かる。
劉邦はろくに名乗りもない家柄に生まれた。だから彼自身は、三男か四男を表す「季」と呼ばれた。父母の名前も分からないから、「じいさん」「ばあさん」という情報で精一杯だ。

こういった読み取り=帰納を可能にするのは、歴史学の功績だ。
しかし、この文から得られる情報を手にして、司馬遷の文を、歴史家の全員が忘却してしまっては、有害である。
司馬遷の気持ちが、抜け落ちてしまうからだ。

司馬遷の気持ち

例えば故郷を「里」まで記すのは、他の列伝の書き始めと比べたとき、いちばん詳しい。司馬遷が劉邦を、もっとも重要な人物と思っていた証拠である。

また他の列伝は、
「項籍者」「韓信者」「蕭相国者」
と、「者」という字が入っている。これは日本語の、
「××という人は」
に該当する。対象を阻害するニュアンスがある。

「劉邦は」と言えば、劉邦が読者に知られているが自明。
いっぽう「項籍という人は」と言えば、
「読者の皆さんは知らないかもしれないが、項籍っていう名前の人の記述を、今から始めようと思いましてね」
という感じかな。

『漢書』を記した班固によれば、
「司馬遷は、孔子を尊重せず、老子を敬ったバカモノ
である。しかし、老子の列伝には「者」があり、孔子の世家には「者」がない。司馬遷もまた、班固と同じように、孔子を重んじていたことが知れる。

この視角は、まったく知りませんでした。


もう1つ。
「曰」には、わざわざ襟を正して構えるニュアンスが感じられるので、「父曰太公」という表現について、
「劉邦の父は、正式な名前を書こうと思っておりますが、なんと驚いたことに、劉のおやじさん、だと言うことであります」
となる。

ニュアンスの中身は、ぼくが勝手に書いています。
吉川氏は「意地の悪い穿鑿の気持ちを、含まないではないだろう」とスマートに書いています。

「父太公」でも、充分に通じるにも関わらず!
漢王朝に好意がある班固は、劉邦の父母に関する8文字を省いた。何も新事実を伝えていない上に、劉邦の出自を卑しめるから。

劉邦の外見を謳うリズム

劉邦の人となりとして、
「高祖為人,隆准而龍顏,美須髯,左股有七十二黑子」
と司馬遷は書いた。
吉川氏が特にこだわる「隆准而龍顏」を中国語の音にすると、
「long2 zhun3 er2 long2 yan2」
となる。
この音のリズムが、聞き手に与える印象について、それこそ数十ページを使って、吉川氏が説明している。

ぼくには、分かるような分からんような話なので、いちいち引用しません。日本の14世紀の『筑波問答』から、和歌と音の印象に関する議論を引用し、論証しておられます。
やはり、分かるような、分からんような、微妙な感じだ (笑)

日常言語では意識されないが、リズムは間違いなく意味に影響を及ぼす。英語でも同じであり、母国語話者でない人が書いた英語はリズムがおかしいそうだ。ハーバート・リードの本が言っている。

さすが「漢文は原音で読め」という学者です。


司馬遷の文章を捨てて、劉邦の外見に関する情報だけを得てしまっては、「隆准而龍顏」がもつリズムが殺される。司馬遷の意図を忘れてしまう。これでは、ダメである。

本を抜粋し終えて

吉川幸次郎氏の本からは、以上です。本には、もっといろいろな話が載っているので、関心をお持ちになられた方は、元の本をお手に取って下さい。漢文を読むのが楽しくなります。

ぼくは本屋でも何でもないのだが、、おススメです。

大学の第2外国語で、一瞬だけぼくは中国語をやりました。遅くとも唐代から、あまり変化のない口語だと思えば、学ぶ意欲が沸いてきますねえ。やってみようかな。やらないだろうなあ。100115