02) 法を視える化&標準化
岡本光生『2時間でわかる図解/韓非子』中経出版2000
を読みました。
2時間どころか、10分に凝縮しようという試みです。
3章、韓非は法をどう捉えたか
韓非が語る法とは、もっぱら「刑法」です。
まずは韓非と対立する、孔子を確認しておきます。
孔子ら儒教者は、成文法をきらった。
「もし刑法を成文化すれば、民は抜け道を探すようになる。成文化せず、徳と礼で導けば、自ら民は恥の感覚を持つようになり、犯罪はなくなる」
三国の魏の明帝の詔は、同じこと言う。
「法令が厳しく、煩雑になれば、犯罪がふえる」
期せずして、三国時代の話が出てきてテンションが上がる (笑)
中国の歴代王朝は、成文化をきらう孔子の立場が好きだ。権力闘争に明け暮れた、陰惨な三国時代ですら「礼教国家」の建前は崩さなかった。
孔子と違って、韓非は成文化&公布を主張した。
韓非は、刑罰は法律に照らして行なわれるべきだと言う。罪刑法定主義だ。韓非子曰く、
「家に『常業』があれば、飢饉にあっても飢えることはない。国に『常法』があれば、国が危うくなっても滅びることはない」
「賢者や智者に政治を任せて、『常』を無視してはいけない」
「たまたま真っ直ぐな木だけで、矢を作っていては、必要数に満たない。曲がった木を加工して、矢を作ることが大切だ」
めったに出ない智者に頼れば、智者がいなくなったあとに困る。偶然の逆転ホームランより、こつこつヒットを積み重ねようと。
韓非子は、法があらゆる人に適用されると考えた。
ハンバーガーを作る手順と、チーズバーガーを手順がまったく違えば、そんな作業マニュアルは要らん。
いっぽう儒家と墨家は、韓非子と対立する。
儒家は、士大夫には法が適用されないと言った。家の中にも、法が適用されないと言った。士大夫がミスをすれば、法では裁かれず、自殺して自らを罰する。
墨家は、仲間内には、外の法を適用させないと主張した。治外法権を認めろと言うんだから、韓非の敵である。
劉備たちを、いちおう国家に仕立てた諸葛亮の苦労が偲ばれる。
◆韓非が学んだ、刑名の2人の先輩
1人は、韓の昭侯に仕えた、申不害。
昭侯は『韓非子』にエピソードがある。
「昭侯が居眠りした。昭侯は寒かった。衣服の係は、仕事をサボった。冠の係が、気を利かせて、昭侯に衣服をかけた。目を覚ました昭侯は、衣服の係を職務怠慢で罰し、冠の係を越権行為で罰した」
韓非は、昭侯の厳格さに、共感した。
もう1人は、秦の孝公に仕えた、商鞅。商鞅は、彼が定めた法律をほめた民を、罰した。
「民の身分のくせに、法を論じるとは、違反行為だ」
という調子だ。最後に商鞅は、自分で定めた法律で、殺された。
車づくりに通じるのか?
◆君主がいらない
韓非は、法(マニュアル)を整備したら、君主は要らないと言った。
だが、いまぼくが読んでいる図解本を書いた岡本氏は、ジレンマを指摘する。
「マニュアルで対応できない例外に対応するため、非常時のマニュアルを作るべきだ、という議論がある。そもそもマニュアルで対応できないから、例外だと呼ぶのだ。マニュアルなんか作れるものか」
そして止めたあと、トラブルに対処するときの思考法まで「標準化」されています。つねに問題点を探すクセがついてれば、あらゆるトラブルは想定内なのです。
当たっているかどうか分からんが、言葉の上ではジレンマが解決?
◆刑罰は重くあるべし
韓非が主張する刑罰は、とても厳しい。馬車のウマが路側帯を踏んだら、その御者は死罪。街に灰を捨てたら、罰する。
これは、見せしめだ。未然に犯罪を防ぐ目的だ。
韓非の厳罰は、当時で少数派だった。
当時の主流は、同害報復刑だ。つまり、
「人を殺したら死罪、人を傷つけたら傷つけられる」
である。目には目を、歯には歯を。『荀子』、『呂氏春秋』に見られる秦法、前漢の劉邦が定めた法三章、いずれもそうである。
・・・ぼくが車の生産方式の話をするのは、平日の昼に、ちょっとだけ関わりがあるからです。他意はありません。
諸葛亮が「なぜなぜ」の手法で劉備を改善したら
次回で韓非は、君主だけは法が適用されないと言います。