02) 皇太子の衷が、立派に成長したよ
『世説新語』を小噺で紹介する試みです。
言語78、言われるまで気づかない鈍さ
東晋のとき、太傅の謝安は、一族の子弟にクイズを出した。
「司馬炎は、山濤に給与を少ししか出さなかった。なぜかな?」
謝安の甥・車騎将軍の謝玄が答えた。
「山濤がもっと欲しいと言わなかったから、司馬炎は与えている俸禄が少ないことに気づかなかったのです」
言われるまで気づかない愚かさは、誰もが身に覚えがあるはず。
方正9、皇太子さまは進歩ゼロです
司馬炎は、和嶠を重んじた。
司馬炎は言った。
「和嶠よ。オレの皇太子は、このごろ立派になってきたぞ。成長ぶりを、ちょっと見てくれないか」
親バカでもある司馬炎は、皇太子がとても気になっている。
和嶠が戻ってきた。そわそわして聞く、司馬炎。
「どうだ、思慮分別が付いてきただろ」
「いいえ。皇太子の性質は、相変わらずでした」
不覚にも、ぼくは笑ってしまった。
孫盛『晋陽秋』に関連する話がある。
荀勖は、司馬炎にへつらう侫臣だった。
司馬炎が、荀勖と和嶠に言った。
「オレの皇太子は、このごろ立派になってきたぞ。成長ぶりを、ちょっと2人で見てきてくれないか」
2人は戻り、感想を述べた。荀勖曰く、
「皇太子は知識に明るく、見違えるまでに成長しておられました」
和嶠曰く、
「皇太子は、もとのままのバカでした」
司馬炎は黙ってしまった。
方正10、諸葛誕の仇を討てず無念だああ!
魏の諸葛誕は、寿春で挙兵したが、司馬昭に敗れた。「淮南の三叛」の3つ目である。
諸葛誕の子・諸葛靚は、孫呉に亡命した。
孫呉が司馬炎に滅ぼされ、諸葛靚は仕方なく西晋に移った。だが、父の仇である司馬氏を憎み、都のある洛水に背を向けて座った。
司馬炎は、諸葛靚を招いた。
「なあ諸葛靚、オレたちは竹馬の友だ。忘れていないね」
諸葛靚はキレた。
「くそぉ。古代の刺客のように、炭を飲み込んで声を潰し、身体に漆を塗ってライ病を演じ、お前を暗殺する機会を狙う根性が、私にはなかった。平和ボケしたお前と、こうして酒を飲まねばならんとはな。ああ、口惜しい!」
司馬炎は気まずくなって、退室した。
『晋諸公賛』が諸葛靚と正反対の話を載せる。
竹林の七賢・嵇康は司馬氏に処刑された。だが、嵇康の子・嵇紹は、司馬衷を、命がけで守って死んだ。
嵇康が殉じたのは蕩陰の戦いで、敵は成都王・司馬頴。
世間の人は、
「諸葛靚も嵇紹も、父を司馬氏に討たれた。諸葛靚は、父の名誉を守り、司馬氏を憎んだ。嵇紹は、父のことを水に流して、主君の司馬氏に尽くした。人の生き様はいろいろだなあ」
と感心しましたとさ。
方正11、皇弟・司馬攸を左遷
2つ上の話で見たように、司馬炎は後継者問題を抱えている。
「司馬炎のバカな息子・司馬衷を廃太子すべし。司馬炎の聡明な弟・司馬攸が、次の皇帝になるべきだ」
というのが、心ある人たちの意見。この話に登場する王済も、弟・司馬攸を支持してる。しかし司馬炎は、賢い弟よりも、知恵遅れの我が子が可愛い。だから、弟の司馬攸を左遷したい。
ある日、司馬炎は和嶠に聞いた。
「王済は、オレが選ぶ後継者に不満があるようだ。王済を罵って、王済に恥をかかせてやろう。次の皇帝は、オレの弟はでなく、オレの子だと、王済に分からせてやる」
和嶠は答えた。
「王済は、賢くて性格には芯があります。カンタンに、恐れ入ったりしないでしょうが」
司馬炎は、王済を呼び寄せ、王済を責めた。
王済は言った。
「他人は疎遠な人を親しくできますが、私は親しい人を疎遠にすることは出来ません」
「よく分からんよ」
「つまり、血縁関係のある親しい兄弟(司馬炎と司馬攸)を仲違いさせることに、私は加担したくありません。私は、弟・司馬攸さまを左遷することに反対し続けます」
参考文献も意味不明。ぼくは一晩寝て温めて、上のように噛み砕くのが精一杯だった。司馬炎が後継者を代えないから、西晋は滅びる。