表紙 > 漢文和訳 > 『世説新語』に登場する、司馬炎を総ざらい!

03) 平和ボケして、全国で武装解除

司馬炎その人の性格も分かるが、
取り巻きの人間模様が分かるのが『世説新語』の醍醐味らしい。

方正14、一緒に車に乗りたくない

司馬炎には、2人の有力な臣下がいる。
中書監の荀勖と、中書令の和嶠だ。

前頁の逸話に登場しました。荀勖は、司馬衷が成長して賢くなったと偽った。和嶠は、司馬衷がもとのまま暗愚だと直言した。
司馬炎の逸話には、このペアが欠かせない役者のようだ。

もともと中書監と中書令は、1台の車に相乗りするのが、慣例だった。
だが和嶠は、へつらいの荀勖がキライだった。車が来たとき、和嶠はさっさと乗り込み、シートを1人で占領してしまった。荀勖は仕方なく、別の車を見つけて乗った。
中書監と中書令が別の車を手配するようになったのは、この事件が始まりである。

荀勖のような人が、幅を利かせたのが西晋だ。

方正15、チビを笑いものにしてやろう

山濤には、山該という背の低い長男がいた。身長が足りないので、車に乗るときも、壁に寄りかかるように座った。

『晋書』では、山濤の三男・山允が、くる病で小さかったとある。

司馬炎は、
「どんなチビなのか、見てみたいものだ」
と興味を示した。山濤は、息子に恥をかかせたくないので、断った。だが司馬炎がゴリ押しするので、
「分かりました。息子を連れてきましょう」
と折れた。
しかし山該は、
「司馬炎さまの命令だろうと、イヤなものはイヤだ」
と断った。世間の人は、イエスマンの山濤よりも、気概のある息子のほうが立派だと言った。

司馬炎の興味は、しょうもないねえ。三国を統一した君主だから、絶対的な権力を持つ。必然的に、司馬炎の身の回りに、権力に対する身の処し方のエピソードが増えるようだ。

方正16、君臣の秩序を乱しているのは、陛下だ

向雄が河内郡の主簿のとき、上司の勘違いで処罰され、杖で打たれた。

上司は、河内太守の劉淮という人。沛国の人で、司徒にまで昇進。
しかし、初耳の名前です。誰やねん。

向雄は、上司を恨んだ。司馬炎は向雄をなだめた。
「上司と部下は、仲良くせねばならん。仲直りせよ」

白々しいねえ。

だが向雄は、仲直りしない。
「こら向雄、なぜ意地を張っているのか」
「いまの時代の上司は、部下を使うときは骨の髄が枯れるまで、コキ使います。でも仕事が終われば、深い淵に突き落とすように、お払い箱にします。こんな時代にあって、上司と部下が仲良くせねばならんなんて説教されても、ジョークとしか思えません」
司馬炎は、向雄を見逃した。

向雄は直接言っていないが、暗に司馬炎の人使いを批判しているのでしょう。君臣のあり方がもっともクローズアップされたのが、「転職先」のなくなった西晋時代かも知れないですね。

識鑑4、武装解除しちゃダメだったのに

司馬炎は、宣武場でスピーチした。
天下統一できたんだから、もう軍隊は解散しよう。みんな武器を捨てて、ペンを持とう。武より文なんだ」
山濤が反論した。
「陛下、いけません。天下統一したからと、カンタンに軍隊を解散しては危険です」

のちに西晋は、あちこちで盗賊が発生した。しかし地方の行政機構には、盗賊を征圧するための軍事力がない。たちまち西晋は、戦乱に陥った。人々は言った。
「山濤さんの言うとおりだった。山濤さんは『孫子』『呉子』を読んでいなかったが、真髄だけは理解していた

平和ボケ政策は、少なくとも『晋書』にある話。

賞誉17、叔父はバカではありません

王渾の子・王済には、王湛という叔父がいた。

王渾は、孫呉を滅ぼした武将です。

叔父の王湛は、彼の親が死ぬと、ずっと墓前でヌカづいていた。王済は、墓前で動かない叔父と、ときどき挨拶する程度だった。
司馬炎が、王済に聞いた。
「王済よ、キミの阿呆な叔父は、生きているかね」
「あ、ええと、、」
王済は、冴えない叔父について聞かれると、いつも困った。

王済は、叔父を試すために、時事について議論を吹っかけた。叔父は、ずっと墓の前にいるくせに、スラスラと答えた。
王済の家には、ひどく乗りにくい馬がいた。叔父に乗らせてみると、奔馬を見事に操った。
「一門に名士がいるのに、30年も気づかなかったとは」
王済は驚いた。
後日、司馬炎がまた、王済に聞いた。
「キミの阿呆な叔父は、そろそろ死んだかね」
「叔父はバカではありません。山濤より少し下ですが、魏舒より上の人物です

魏舒は、司馬昭に褒められた司徒。西晋は「なかなか本気を出さない人」が多いです。竹林の七賢しかり。
しかし、阿呆だと思われている叔父のことを話題に上げたがる司馬炎って、低俗な人だなあ。背の低い山濤の子、然り。

品藻32、司馬炎の過ちはどちらか

東晋のとき、人々が議論した。
司馬炎の過ちは、どちらが重いだろうか? バカな息子を次の皇帝にしたことと、優秀な弟を地方に左遷したこととでは」
大抵の人は、
「バカな息子に、後を嗣がせたことだ」
と言った。

息子を嗣がせるために、弟を追い出した。「どちらが」という問いの立て方が、そもそも間違っているような気がする。

だが桓温は、違うと言った。
「子に父の位を嗣がせ、弟に一族の祭祀を任せたのは、当たり前のことだ。どうして司馬炎の越度だろうか」

ただの機知に富んだ会話ではない。桓温は、東晋の司馬氏を滅ぼそうとした人だってのを忘れてはいけない。
司馬氏を衰えさせた愚行は、桓温には快いことです。