01) 周瑜の祖先、袁術の祖先
周瑜のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。
『集解』の全訳でないことは、ご容赦ください。学術研究者ではなく、ファンにとって興味深い事実は、漏らさずに書くつもりです。どうしても主観で取捨選択してしまいますが。
陳寿や裴松之は漢文のまま、『集解』はぼくの日本文です。
いつもと、文字色や構成が違うので、注意してください。。
タイトルに書きましたが、テーマはストイック。
途中で妄想が出てきても、あまり自分の意見を長々と語らず、翻訳に徹する予定です。でも、思いついたら、注釈を突っこんでしまうかも知れませんが。。
飽きても、先延ばしにしている場合じゃない。笑
1節、後漢の名門・周氏
周瑜字公瑾,廬江舒人也。
廬江郡の郡治は、舒である。
從祖父景,景子忠,皆為漢太尉。
范曄『後漢書』がいう。
桓帝の166年9月、光禄勲の周景は、太尉になった。
霊帝の168年4月、太尉の周景は、薨じた。
献帝の192年12月、光禄大夫の周忠は、太尉・録尚書事となった。
193年6月、太尉の周忠は免職になった。
「周景伝」を見ると、周景は陳蕃に代わって太尉となった。
168年、周景は薨じた。
中子(次男か)の周忠が、皇甫嵩に代わって、太尉・録尚書事になった。周忠は、災異により免職になった。
袁宏『後漢紀』は周忠を「周思」と載せるが、ミスだろう。
章懐太子の注釈は『呉書』を引用していう。
周忠は、あざなを嘉謀という。周忠は、朱儁とともに、曹陽で李傕に敗れた。
謝承後漢書曰:景字仲嚮,
范曄は「周景伝」に記した。
周景のあざなは仲饗。
ほかの本や碑文を読むと、饗と嚮が通じ合うことが解る。
少以廉能見稱,以明學察孝廉,辟公府。後為豫州刺史,
范曄「橋玄伝」はいう。豫州刺史の周景は、部曲を率いて、梁国に到った。
橋玄は、周景に面会していった。
「陳国の相・羊昌は、罪悪をはたらいている。周景さんは軍を送って、羊昌を倒し、陳国の平和を取り戻してください」
周景は、橋玄の思いに賛同し、軍隊を派遣した。
辟汝南陳蕃為別駕,潁川李膺、荀緄、杜密、沛國硃寓為從事,皆天下英俊之士也。稍遷至尚書令,遂登太尉。
范曄「周景伝」にいう。周景は、梁冀の大将軍府に招かれた。周景は、豫州刺史、河内太守となり、のちに将作大匠となった。梁冀が誅殺されると、周景は梁冀の故吏なので、免官&禁錮された。
だが朝廷は、周景が忠正なので、ふたたび任用した。周景は、尚書令となった。太僕衛尉にうつり、劉寵に代わって司空となった。
このとき宦官が、子弟に高官を占めさせた。周景と、太尉の楊秉は、将軍や太守、牧以下に就いている姦悪な人を、糾弾した。50余人が免官になった。朝廷で、周景と楊秉をたたえない人はいなかった。
司空になって2年目、地震により免職になった。1年あまりして、周景は復職し、陳蕃に代わって太尉となった。
張璠漢紀曰:景父榮,
趙一清は『後漢書』の「周栄伝」を参照していう。
周景の祖父は周栄で、あざなを平孫という。
周栄の子は、周興である。周興は、郎中となった。
周興の子が、周景である。
章、和世為尚書令。
范曄「周栄伝」にいう。
後漢の章帝のとき、周栄は「明経」の科目で合格し、袁安の司徒府にまねかれた。
袁安は周栄を、竇景に推薦した。
竇憲が、北単于を立てるか議論したとき、周栄はつぶさに意見を述べた。意見が的を射ていたので、周栄の名は、有名になった。
レキ県令から抜擢され、周栄は尚書令になった。つぎに潁川太守になった。法に触れて周栄は獄に下された。
つぎの和帝は、周忠が忠節なので、1年あまりで復職させた。周栄は、山陽太守となった。地方官を歴任した。老人や病人や死人のある家を見舞ったので、周栄は任地でたたえられた。
初景曆位牧守,好善愛士,每歲舉孝廉,延請入,上後堂,與家人宴會,如此者數四。及贈送既備,又選用其子弟,常稱曰:「移臣作子,於政何有?」先是,司徒韓縯為河內太守,在公無私,所舉一辭而已,後亦不及其門戶,曰:「我舉若可矣,不令恩偏稱一家也。」當時論者,或兩譏焉。
范曄「周景伝」にも、同じような内容がある。
父異,洛陽令。
周忠の子、周暉もまた、洛陽令となった。周異と周暉の兄弟は、ともに賓客を招くのを好んだ。兄弟は、長江と淮水の間で、雄(有力な勢力)であった。
周暉は董卓に殺されたと、范曄の周景伝にある。
周瑜の祖先の話はおしまい。次から、ご本人です。