表紙 > 考察 > 「周瑜伝」の『三国志集解』をストイックに訳す

02) 孫が先か、周が先か

周瑜のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。
陳寿や裴松之は漢文のまま、『集解』はぼくの日本文です。

緑が陳寿、青が裴松之、黒が『集解』の翻訳。
いつもと、文字色や構成が違うので、注意してください。。

2節、孫策との出会い

瑜長壯有姿貌。初,孫堅興義兵討董卓,徙家於舒。
趙一清が引くことには。
周瑜の城は、廬州舒城県から、西に18里いったところだ。
周瑜は、孫策にしたがって挙兵したとき、家を舒に移した。そのとき、この城を築いた。今日の浄梵寺である。

堅子策與瑜同年,
呉夫人は、いった。
「周瑜と孫策は、同い年だ。生まれが1月違うだけだ」
これは、呉夫人の列伝に見える。

獨相友善,
「孫策伝」はいう。孫堅がはじめ義兵を起こしたとき、孫策は母をつれて、舒に移った。孫策と周瑜は、友人になった。
『江表伝』がいう。孫堅は家を故郷に留めたまま、寿春で有名になった。孫策が10余歳のとき、周瑜が孫氏の名声を聞きつけて、みずから舒からやってきた。周瑜は孫策に、舒に移るように勧めた。

どっちが先に、握手の手を伸ばしたかという問題。きっと孫氏が周氏を頼ったのだろう。だが、のちに皇帝になる孫氏が、立場が下というのは、気まずい。だから『江表伝』は、逆転させたのだろう。


瑜推道南大宅以舍策,升堂拜母,有無通共。瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之。
周寿昌がいう。このときの丹陽太守は、他の誰でもない、周瑜の従父の周尚である。周瑜は、周尚のところに行った。

陳寿の記述の繰り返しかよ。

どうして(従父を頼って引っ越した)周瑜が、兵を率いて、孫策を迎えることができるだろうか。できない。
のちに孫策が戦勝して領地を得たとき、周瑜にこう言った。
「周瑜さんは、丹陽に戻って、丹陽を平定してくれ」
このとき、周尚について、まったく記述がない。
袁術は、従弟の袁胤を、周尚の代わりに丹陽太守とした。周尚と周瑜は、寿春に戻った。のちに周瑜は、居巣県令になりたいと言い、呉に帰った。だが、周尚は行方不明である。周尚は、その生没年も、列伝に書いてない。
『江表伝』を検討した。孫策は周瑜に、丹陽郡を平定させようと、兵と船と兵糧を与えた。このとき、孫策が助けようとした丹陽太守が、周尚だったのだろうか。周尚と周瑜は親族だから、丹陽の平定はほんとうは周尚なのに、周瑜の手柄だと、孫策が見なしたのだろうか。

史家の考察ですね。勉強になります。


會策將東渡,到曆陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策。策大喜曰:「吾得卿,諧也。」
『集解』は、孫策のセリフに語釈をつけてます。省略。

遂從攻橫江、當利,皆拔之。
蕭常がいう。江北にいた孫策は、横江を渡って、劉繇を征伐した。孫策は劉繇を、牛渚で大破した。周瑜は、横江や当利で、攻撃を手伝った。赤壁の戦いだけが、周瑜の手柄ではないのだ。

史実の補足ではなく、ただのコメントだ。笑


乃渡擊秣陵,破笮融、薛禮,轉下湖孰、江乘,進入曲阿,劉繇奔走, 而策之眾已數萬矣。
笮融と薛禮は、「劉繇伝」にある。

因謂瑜曰:「吾以此眾取吳會平山越已足。卿還鎮丹楊。」
いま孫策は、充分な兵が集まったと周瑜にいった。裏を返せば、もともと孫策が連れていた兵では、数が足りなかった証拠である。周瑜が、劉繇の残党を服従させた功績は、とても大きい。

こういうツッコミ系が大好きです。
『集解』は、「或曰」として書いている。きっと『集解』を著した盧弼が、思わず書いてしまったんだろう。でも恥ずかしいから、名前を伏せたとか。


瑜還。頃之,袁術遣從弟胤代尚為太守,而瑜與尚俱還壽春。術欲以瑜為將,瑜觀術終無所成,故求為居巢長,
217年、曹操軍は居巣に入り、夏侯惇に守らせた。夏侯惇は、26軍を率いた。
盧弼は考える。魯粛が南にいき、居巣で周瑜と合流したのは、このときだろう。

欲假塗東歸,術聽之。遂自居巢還吳。 是歲,建安三年也。策親自迎瑜,授建威中郎將,即與兵二千人,騎五十匹。
建威中郎將は、定員1名。呉が設置した。

3節、周郎が小喬を娶る

瑜時年二十四,
霊帝の熹平4年(175年)生まれだ。孫策と同い年だ。

吳中皆呼為周郎。
沈欽韓がいう。六朝時代、年少者を「郎」と呼ぶ習慣があった。
だから袁術は、陸績を陸郎と呼んだ。
盧弼が「孫策伝」に引かれた『江表伝』を参照すると、若い孫策は、官位をもらっているにも関わらず、士民は孫策を「孫郎」と呼んでいる。士民たちは、孫郎と聞くと、みな魂魄を失ったとか。
笮融が孫策に攻められたときも、孫郎と呼んでいる。年少の人を「郎」と呼んだ証拠である。

以瑜恩信著於廬江,出備牛渚,後領春穀長。
馬与龍がいう。「春穀県長」という肩書きをもった周瑜は、黄蓋や周泰の列伝に見える。

頃之,策欲取荊州,以瑜為中護軍,
胡三省がいう。秦は、護軍都尉をおいた。前漢の高祖は、陳平を護軍中尉にした。前漢の武帝は、護軍都尉を復活させた。護軍都尉は、大司馬に属した。
三国時代のはじめ、中護軍というポストがあった。
『東観記』がいう。漢の大将軍が出征するとき、中護軍を1人おいた。魏晋よりあと、中護軍のうえに、護軍将軍がおかれた。
孫呉もまた、左右護軍があった。孫呉では、中護軍、左護軍、右護軍の3つがあったのだ。

領江夏太守,從攻皖,拔之。
このときの戦果は「孫策伝」に引く『江表伝』にある。

『集解』に引用があるが、省略。ちくま訳を読んでください。笑


時得橋公兩女,皆國色也。策自納大橋,瑜納小橋。
沈欽韓がいう。「公」とは、漢の三公のことだから、橋玄を指す。
盧弼がいう。孫権は(三公でない)張昭を、「張公」と呼んだ。

張昭が三公にしてもらえないことは、因縁ぶかい。笑

当時の人は(三公ではない)程普を、「程公」と呼んだ。龐徳公は、龐公と呼ばれた。『漢書』にも、三公でない人が「公」と呼ばれる事例がある。「橋公」が、橋玄であるとは限らない。
范曄が記した橋玄の故郷は、梁国?陽県だ。皖にはいないだろう。

次回、孫策が死にます。