03) 赤壁は誰が言い出したか
周瑜のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。
陳寿や裴松之は漢文のまま、『集解』はぼくの日本文です。
いつもと、文字色や構成が違うので、注意してください。。
4節、孫策が死に、孫権に仕える
五年,策薨,權統事。瑜將兵赴喪,遂留吳,以中護軍與長史張昭共掌眾事。
「呉主伝」に、張昭と周瑜だけが、孫権を支持したとある。
江表傳曰:曹公新破袁紹,兵威日盛,建安七年,下書責權質任子。
胡三省はいう。曹操は、孫権が言うことを聞くと思っていたんだろう。
權召群臣會議,張昭、秦松等猶豫不能決,權意不欲遣質,乃獨將瑜詣母前定議,瑜曰:「昔楚國初封於荊山之側,不滿百里之地,繼嗣賢能,廣土開境,立基於郢,遂據荊楊,至於南海,傳業延祚,九百餘年。
胡三省がいう。西周の成王は、熊繹を楚に封じた。子男之田国を、丹陽に封じた。
漢南郡の枝江県が、封地である。
のちに、楚の荘王が出て、中原と覇を競った。
楚の威王のとき、越王を破り、南海まで手に入れた。
秦に滅ぼされるまで、楚は900余年も続いた。
今將軍承父兄餘資,兼六郡之眾,(中略)
胡三省がいう。父は孫堅、兄は孫策だ。
六郡とは、会稽、呉郡、丹陽、豫章、廬陵、廬江だ。
極不過一侯印,僕從十餘人,車數乘,馬數匹,豈與南面稱孤同哉?
胡三省がいう。赤壁の前に、周瑜が到着する前に、魯粛が孫権に言ったことと同じだ。
不如勿遣,徐觀其變。若曹氏能率義以正天下,將軍事之未晚。 若圖為暴亂,兵猶火也,不戢將自焚。將軍韜勇抗威,以待天命,何送質之有!」
胡三省がいう。
周瑜の説得は、時機にかない、孫権を感動させた。
周瑜の発言は、大義に悖らない。魯粛や呂蒙のような連中では、周瑜に及ばない。
『通鑑集覧』がいう。もし周瑜を死なせなければ、孫呉は絶対に、曹丕に「臣」と名乗らなかった。人質を催促されることもなかった。孫権は、中くらいのレベルの人材に過ぎない。
權母曰:「公瑾議是也。公瑾與伯符同年,小一月耳,我視之如子也,汝其兄事之。」遂不送質。
ある人がいった。劉備は劉禅に、諸葛亮へ父のように仕えさせた。孫権の母は孫権に、周瑜へ兄のように仕えさせた。(こういう正しい親を持てば)子孫が、成功しないわけがないのだ。
盧弼は考える。曹操が孫権に人質を要求したのは、建安7年(202年)だろう。202年から、建安12年(207年)まで、曹操は、袁譚と袁尚を討つために、北伐したからだ。北伐が終わり、曹操は孫権を放っておかない。
(中略)十三年春,權討江夏,瑜為前部大督。
前部大都督は、出征するときだけ、臨時に置かれる。
5節、赤壁を開戦に導く
(前略)議者鹹曰:
『資治通鑑』は、長史の張昭のセリフとする。
「曹公豺虎也,然託名漢相(中略)愚謂大計不如迎之。」
「魯粛伝」にある。諸将はみな、孫権に「曹操を迎えよ」と勧めた。魯粛は、諸将の言うことを聞くなと、孫権に言った。このとき周瑜は、命令を受け、鄱陽郡にいた。魯粛は、周瑜に帰還をさせた。
魯粛が知らせてくれなければ、発言の機会もなかった。
瑜曰:「不然。操雖託名漢相,其實漢賊也。(中略)瑜請得精兵三萬人,進住夏口,保為將軍破之。」
李安漢がいう。周瑜のセリフは、諸葛亮とほぼ同じだ。智謀のある人が考えることは、同じなんだなあ。
盧弼は考える。周瑜は、長江や淮水のあたりで生まれた。地元出身だから、周瑜は地形を暗記し、揚州が険要だと知っている。周瑜は、孫策に従って、横江や当利で戦ったとき、負けなかった。敵情をつかむことに、周瑜は長けている。
周瑜は、少ない兵で、曹操の大軍を追い返した。赤壁は、周瑜の大勲である。それなのに、劉備の文武をたたえ、劉備を万人の英雄だというのは、ウソ(虚語)である。
もう1つ。盧弼は曹操を「阿瞞」と呼んでる。なぜ、わざわざ?
江表傳曰:及會罷之夜,瑜請見曰:
何焯がいう。周瑜のセリフは、諸葛亮のセリフからパクり、飾ったものだ。ゆえに陳寿は、周瑜のセリフを長く載せなかったのだろう。
程普は、諸将軍のなかで最年長だから、「程公」と呼ばれた。
臣松之以為建計拒曹公,實始魯肅。(中略)本傳直雲,權延見群下,問以計策,瑜擺撥眾人之議,獨言抗拒之計,了不雲肅先有謀,殆為攘肅之善也。
周寿昌がいう。「魯粛伝」では、魯粛は作戦を述べていない。ただ魯粛は、周瑜を呼び戻そうと言っただけだ。裴松之は魯粛の手柄だと言うが、違う。周瑜の1人のお手柄でいいのだ。
『江表伝』で孫権は、「周瑜と魯粛は、私と同じ考えだ」と明言している。周瑜と魯粛は、それぞれ自分だけで発案し、並行して孫権に提案したんだろう。
次は、赤壁です。陳寿と裴松之を訳さないって、変な感じだ。