04) 龐統との関係性が、怪しい
周瑜のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。
陳寿や裴松之は漢文のまま、『集解』はぼくの日本文です。
いつもと、文字色や構成が違うので、注意してください。。
6節、黄蓋が火計を成功させる
再現したイラストを見たほうが、よほど勉強になります。
江表傳曰:(中略)瑜等率輕銳尋繼其後,雷鼓大進,北軍大壞,曹公退走。
魏志がひく『山陽公載記』はいう。曹操の船を焼いたのは、劉備である。曹操は華容道を、歩いて撤退した。
趙一清が『太平御覧』から『英雄記』をひく。
曹操は長江の北岸にいたり、赤壁で長江を渡ろうとした。船がなかったので、竹ハイで船を作らせた。漢水を下り、長江に合流した。そのとき、周瑜が100艘で夜襲して、曹操の船に火をつけた。火種を持った周瑜軍は、数千人。曹操は、逃げ帰った。
7節、曹仁と南郡を取り合う
8節 劉備を葬るべきでございます
權拜瑜偏將軍,領南郡太守。
『荊州先賢伝』によると、このとき周瑜は、荊州における龐統の名声を聞いた。周瑜は龐統を招いて、功曹に任じた。
盧弼がみるに、「龐統伝」の注釈にも同じ話がある。
『古今刀剣録』によると、周瑜はこのとき刀を作らせ、「トウ寇将軍」という銘を刻ませた。だが盧弼が考えるに、周瑜はまだその将軍位に就いていない。
以下雋、漢昌、劉陽、州陵為奉邑,
「奉邑」という語は、『史記』河渠書にある。官人が支給される、封邑のことである。
周瑜が死んだのち、4つの邑は魯粛が継いだ。
魯粛が死んだのち、4つの邑は呂蒙が継いだ。
屯據江陵。劉備以左將軍領荊州牧,治公安。備詣京見權,
「劉璋伝」「先主伝」をあわせて参照。
『資治通鑑』がいう。劉備は、劉表の故吏をおおく従えた。
劉備は孫権に、頼みにきたのだ。「周瑜からもらった土地では、人を養うのに狭すぎる。私に、荊州を都督させてください」と。
瑜上疏曰:「劉備以梟雄之姿,而有關羽、張飛熊虎之將,必非久屈為人用者。
盧弼がいう。なぜ諸葛亮について言及しないか。
(中略)今猥割土地以資業之,聚此三人,俱在疆埸,恐蛟龍得雲雨,終非池中物也。」
「龐統伝」につけられた『江表伝』がいう。
劉備は龐統にきいた。
「龐統は、周瑜の功曹だった。私は呉に来たとき、聞いたぞ。龐統は、私を呉に留めよと、ひそかに孫権に提案したそうだな」
「そうですよ」
「ああ、危うく私は、周瑜の手を免れることができなかった」
「呂範伝」や「魯粛伝」注にも、劉備をとどめる話がある。
(中略)瑜還江陵,為行裝,而道於巴丘病卒,時年三十六。
もし周瑜が死ななければ、曹操は憂いが残った。劉備玄徳が、蜀を定めることも、きっとできなかっただろう。
權素服舉哀,感動左右。
龐統も、周瑜の喪のため、呉を訪れた。陳寿「龐統伝」本文にあることである。
龐統の蜀取りと、周瑜の蜀取りをつなげたら楽しいかも?
いま、特大の妄想のタネが生まれました。すごい話ができるかも!
例えば、 龐統は孫呉の回し者で、それに気づいた劉備が、龐統を途中で葬って…いや、妄想は、また今度やりましょう。今回は、ストイックに『集解』を訳すと決めたのだ。
9節 周瑜の有名エピソード
初瑜見友於策,太妃又使權以兄奉之。
杭世駿がいう。『呉書』によると孫権は、いつも周瑜に衣を与えた。暑いときも寒いときも、孫権は周瑜に、衣を与えた。諸将を率いることについて、周瑜に及ぶ人はいなかった。
10節 周瑜の子孫
瑜兩男一女。女配太子登。男循尚公主,拜騎都尉,有瑜風,早卒。
尚公主とは、孫魯班のことだ。
周循が死んだあと、孫魯班は全琮に嫁いだ。
おわりに
後半は手を抜いたみたいになったが、、
『集解』の面白い注釈のバランスが、たまたまそうだっただけ。。
はじめにも書きましたが、このページは、
3月28日に名古屋でやる、漢文勉強会の準備です。
当日は、これも盛り込んで喋る予定です。
『集解』を抑えたから、とりあえず安心。あとは妄想を。100324