表紙 > 考察 > 『三国演義』の袁術の記述を集め、物語の演出手法を指摘する

03) 袁術フルボッコは、根拠なし

ぼくの好きな袁術について、『演義』の記述を集めました。

第17回:三国+呂布連合、袁術討伐は架空の戦い

怒曰:「吾袁姓出於陳。陳乃大舜之後。以土承火,正應其運。又讖云:「代漢者,當塗高也。」吾字公路,正應其讖。又有傳國玉璽,若不為君,背天道也。吾意已決,多言者斬!」

いわゆる僭号のシーンです。裴注『典略』を水増ししてある。
典略曰:術以袁姓出陳,陳,舜之後,以土承火,得應運之次。又見讖文雲:「代漢者,當塗高也。」自以名字當之,乃建號稱仲氏。


命兗州刺史金尚為太尉,監運七路錢糧。尚不從,殺之,以紀靈為七路都救應使。自引軍三萬,使李豐、梁剛、樂就為催進使,接應七路之兵。

兗州刺史の金尚に、太尉を断られた。『演義』で金尚は、兵糧の調達を期待されている。正史にない。おそらく、袁術が兵站に失敗する伏線だろう。「金尚に断られたから、兵糧が調達できなかったんだ」と。巧妙だ。
李豐、梁剛、樂就をつかい、7路20万の軍勢だと『演義』はいう。将軍の名前も、軍勢の数も、出典がよく分からん。正史『三国志』に、対応する記述はない。


登曰:「兵雖眾,皆烏合之師,素不親信;我以正兵守之,出奇兵勝之,無不成功。更有一計,不止保安徐州,並可生擒。」布曰:「計將安出?」登曰:「韓暹、楊奉乃漢舊臣,因懼曹操而走,無家可依,暫歸必輕之,彼亦不樂為用。若憑尺書結為內應,更連劉備為外合,必擒矣。」布曰:「汝須親到韓暹、楊奉處下書。」陳登允諾。

呂布が陳登に「お前のせいで、袁術に攻められた。大ピンチだ」という。『演義』も正史でも、陳登は、袁術が烏合の衆だという。『演義』でのみ、劉備と連合すれば、袁術を捕えられるという。
正史での出典は、呂布伝にある。
術怒,與韓暹、楊奉等連勢,遣大將張勳攻布。布謂珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之軍耳,策謀不素定,不能相維持,子登策之,比之連雞,勢不俱棲,可解離也。」


門旗開處,只見一隊軍馬,打龍鳳日月旗旛,四斗五方旌幟,金瓜銀斧,黃銊白旄,黃羅銷金傘蓋之下,身披金甲,腕懸兩刀,立於陣前,大罵呂布:「背主家奴!」

袁術が、呂布の前に登場! 完璧なる『演義』の創作。でも、袁術が映画のように登場するシーンを見れたから、嬉しい。「虚構だ」なんて騒ぐまい。袁術が呂布を「裏切り者め」と罵っています。
『演義』の呂布は、正史に輪をかけて、主人を裏切るキャラだ。袁術の口からも、裏切り者と言わせて、キャラを強調している。
正史では、袁術が自ら出陣していない。ゴージャスな装飾もない。


引著敗軍,走不上數里,山背後一彪軍出,截住去路。當先一將,乃關雲長也。大叫: 「反賊!還不受死!」慌走,餘眾四散奔逃,被雲長大殺了一陣。收拾敗軍,奔回淮南去了。

『演義』で袁術は、関羽に叱られた。これが『演義』の真骨頂です。準主役にして、神様の関羽に「叛いた賊め。死にさらせ」と云われた。悪役&やられ役が確定した。
汜水間のとき、関羽を侮った報いか。もし報いなら、関羽は、性格が軽い。かつて袁術に軽んじられたことを、根に持っているんだから。文学作品として失敗である。
ちがうか。僭号したことを、叱られたのかな。


卻說敗回淮南,遣人往江東問孫策借兵報讎。策怒曰:「汝賴吾玉璽,僭稱帝號,背反漢室,大逆不道!吾方欲加兵問罪,豈肯反助叛賊乎?」遂作書以絕之。使者齎書回見看畢,怒曰:「黃口孺子,何敢乃爾!吾先伐之!」長史楊大將力諫方止。

袁術は孫策に「兵を貸してくれ」と頼んだ。孫策は「お前は玉璽を奪って、僭号した。漢室に叛いた。手を貸せるわけがない」と云った。
正史の裴注で、張紘か張昭がつくった絶縁文があるが、趣旨が違うので、元ネタだとは認定できない。いま袁術にダメ押しするためだけに、この部分がある。
『三国演義』の研究者に個人的に教えていただいたのですが(お名前を出していいのか聞いてないので伏せてます)魯迅に「フェアプレイはまだ早い(論「費厄溌頼」応該緩行)」という文章があり、ここに「打落水狗(水に落ちた犬はたたかねばならぬ)」という句があるそうです。
四世三公という成功条件があるのに、失敗した。中国人の思考パターンだと、いじめたくなるそうです。
「董卓討伐同盟で、第1鎮だったのに、このザマかよ!」と。


卻說孫策自發書後,防兵來,點軍守住江口。忽曹操使至,拜策為會稽太守,令起兵征討。策乃商議,便欲起兵。長史張昭曰:「雖新敗,兵多糧足,未可輕敵;不如遺書曹操,勸他南征,吾為後應。兩軍相援,軍必敗。萬一有失,亦望操救援。」策從其言,遣使以此意達曹操。

『演義』では、曹操と孫策の同盟が成立した。
曹操が孫策に官位を送ったのは、正史にある。だが、どこまで両者が近いのか、よく分からない。むしろ軽く敵対している。
いま『演義』で、袁術をフルボッコにするために、妙に仲良しに。


知曹兵至,令大將橋蕤引兵五萬作先鋒。兩軍會於壽春界口。橋蕤當先出馬,與夏侯惇戰不三合,被夏侯惇搠死。軍大敗,奔走回城。忽報孫策發船攻江邊西面,呂布引兵攻東面,劉備、關、張引兵攻南面,操自引兵十七萬攻北面。大驚,急聚眾文武商議。(中略)
李豐、陳紀、樂就、梁剛都被生擒。操令皆斬於市。焚燒偽造宮室殿宇,一應犯禁之物。壽春城中,收掠一空。商議欲進兵渡淮,追趕。荀彧諫曰:「年來荒旱,糧食艱難,若更進兵,勞軍損民,未必有利;不若暫回許都,待來春麥熟,軍糧足備,方可圖之。」

『演義』で袁術は、曹操、夏侯惇、孫策、呂布、劉備、張飛、関羽にボコボコにされた。太祖武帝紀から、似た部分を引いてきますと。
秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。
これだけ! 少ない! 何の史料的根拠もなく、ただ物語の盛り上がりというニーズだけで、架空の大☆袁術討伐作戦を作った。すごいな。
『後漢書』袁術伝から、ムリに該当部分を探すなら、これ。
術大怒,遣其將張勳、橋蕤攻布,大敗而還。術又率兵擊陳國,誘殺其王寵及相駱俊,曹操乃自征之。術聞大駭,即走度淮,留張勳、橋蕤于蘄陽,以拒操。操擊破斬蕤,而勳退走。術兵弱,大將死,眾情離叛,加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮間相食殆盡。
曹操は、荀彧に深入りを止められた。寿春に、深入りしなかった。だが荀彧伝に、記述なし。曹操を止めたのだから、荀彧あたりの助言だろう、という設定か。すごい妄想だ。『演義』は参謀を活躍させたいらしく、君主がひとりで決めたことも、助言というかたちをとる。舞台で見せるとき、会話が必要だから? 思考が視える化するし。


第18回:袁術が、脅威の回復力をみせる?

操即聚眾謀士議曰:「吾欲攻呂布,不憂袁紹掣肘,只恐劉表、張繡擾其後耳。」荀攸曰:「二人新破,未敢輕動。呂布驍勇,若更結連,縱橫淮、泗,急難圖矣。」郭嘉曰:「今可乘其初叛,眾心未附疾往擊之。」

荀攸が「呂布と袁術が結んだら、あぶない」という。
前回、オールキャストで袁術を叩いたのに、袁術がなお精強だという。『演義』の袁術は、よほど回復力が強い設定のようだ。笑
それは冗談。ちがう。正史ベースの話に戻せば、じつは袁術は大きな敗戦をしていない。『演義』は、ときどき派手に脱線するが、すぐ冷静になって、ふたたび正史を踏襲する。だから、こんな不自然が起こる。


第19回:呂布の死に際は、同盟相手として頻出

且說曹操得了徐州,心中大喜,商議起兵攻下邳。程昱曰:「布今止有下邳一城,若逼之太急,必死戰而投矣。布與合,其勢難攻。今可使能事者守住淮南徑路,內防呂布,外當。況今山東尚有臧霸、孫觀之徒未曾歸順,防之亦不可忽也。」

『演義』で程昱も、曹操にいう。袁術と呂布がむすんだら、厄介だ。


この回では頻繁に名前が出てくる。しかし、呂布と曹操の戦いで、戦況分析に使われるだけ。袁術その人は出てこない。省略します。

第20回:親類の楊彪を、曹操が殺そうとする

操曰:「吾所慮者,太尉楊彪係親戚;倘與二袁為內應,為害不淺。當即除之。」乃密使人誣告彪交通,遂收彪下獄,命滿寵按治之。

『演義』はいう。曹操は、劉備が「皇叔」と呼ばれ、楊彪が献帝のそばにいるから、面白くない。曹操は楊彪を殺そうとしたが、孔融がとめたので、追放ですませた。
『後漢書』楊震伝にある。正史のほうが長い。孔融がしゃべるから。笑
建安元年,從東都許。時天子新遷,大會公卿,兗州刺史曹操上殿,見彪色不悅,恐於此圖之,未得宴設,托疾如廁,因出還營。彪以疾罷。時,袁術僭亂,操托彪與術婚姻,誣以欲圖廢置,奏收下獄,劾以大逆。將作大匠孔融聞之,不及朝服,往見操曰:「楊公四世清德,海內所瞻(後略)」操不得已,遂理出彪。


次回、袁術が死にます。血を1斗も吐きます。