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01) 董卓の官位を捨てない

袁術についての「先行研究」を読みました。
偽黒武堂の三国志探訪『袁術くん、Hi!』
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/

ぼくにない知識&視点をメモります。
もちろん、先行研究が仰っていることと、ぼくが勝手に云っていることを、混同させずに書くつもりです。パクるのでなく、参考にさせていただくためのメモです。

要約ではありません。ぼくの興味ある部分が厚いです。
地の文が引用、グレイかこみの注釈がぼくの感想。


ぼくのサイトは後発ですが、この『袁術くん、Hi!』に対抗意識を燃やしてます。なぜか。
「上手くいけばネットでもっとも、っつーことは世界でもっとも詳しくまとめられた袁術伝になると思う…なれる…といいなぁ」
と、宣言されてるからです。ぼくも同じところを目指します。笑

洛陽から南陽まで、192年まで

卞皇后伝の中で曹操が死んだらしいと言う知らせを彼女の下に持ってくるのが袁術である。

単なるぼくの見落とし。自分の目で確かめます。


袁術が洛陽を脱出するのはおそらく189年11月か12月である。(翌年正月の蜂起には名前が挙げられている。)

『資治通鑑』で、袁術が後将軍になるのは、189年12月。
つまり、まだ11月には、洛陽を脱出しないんだろう。挙兵のギリギリまで洛陽にいて、何をしていたのか、妄想がふくらむ。

曹操と違って袁術は後将軍の官位を捨てなかった。捨てたら反董卓と表明したことになってしまうからだろう。

袁紹は車騎将軍を自称。袁術は自称せず。なぜ?
皇帝権力の強さを、袁術がよく見ていたからかも。董卓は悪人で、献帝は児童にすぎない。でも「皇帝という機関」である。軽々しく、敵対していいものではない。だから慎重に付き合った。
のちに袁術は皇帝を称する。皇帝というシステムに、袁術なりの筋のある持論がないと、こんなリスクを犯さないよね。

袁術はこの(洛陽に入城した)功績を評価し、このころ死去した(と思われる)豫州刺史孔チュウの代わりに孫堅を(勝手に上表して)刺史に任じた。秋の内には孫堅が豫州刺史として認められるような状況になったと思われる。

孫堅を封じたのは、洛陽攻めのあと? ぼくは南陽で合流した直後だと思っていた。しかし孔チュウの後任だとするなら、洛陽攻めのあとだな。


190年から191年前半までは必要性の無かった劉表の排除は、(劉表が袁紹につき、蔡瑁やカイ越を味方にしたので)この時行わなければならない状況となっていた。

排除の「必要性」は、190年からあったと思う。
劉表を任命したのは、董卓だろうね。董卓は名士を厚遇したから、筋はとおる。だがこの時期、すでに董卓は、名士に裏切られている。袁紹が好例。董卓が懲りずに、名士という理由だけで、劉表を荊州に送り込むか?
前任の荊州刺史・王叡は、孫堅に殺された。董卓が劉表を任じるなら「袁術&孫堅を、荊州から駆逐してよね」と、事前に劉表に約束するはずだ。董卓にとり、いちばん厄介なのは、袁術&孫堅だから。
すると劉表は、任命の経緯からして、はじめから敵同士だ。


(192年正月、董卓軍は)中牟で朱儁を撃破、そのまま陳留・潁川敖略を行わせる。孫堅の死でまともな軍事行動の取れない袁術はそれを望見するしかなかった。

ぼくは史料を読み「朱儁と袁術のつながりを、発見したぞ!」と息巻いていた。だがすでに、指摘ずみ。まあ、よくあること。笑
袁術が朱儁を救えない理由を、孫堅の死に求めるのは、ぼくにない視点。孫堅が没したタイミングは、裴松之がサジを投げている。参考になる。


192年の袁術の行動は、ここまで。袁紹は黒山賊を排除。曹操は青州黄巾賊に翻弄された。袁術は、彼らの苦境を眺めていれば良かった。南陽で放蕩した。そんな時間の使い方はすべきでは無かった。この歳の10月、荊州刺史の劉表は、長安から鎮南将軍・荊州牧に。徐州刺史の陶謙も、幕僚である趙イク・王朗らの意見を受容れて、長安に趙イクを使者。翌年早々に安東将軍・徐州牧。

ほんとか? 長安を攻める準備をしていたのでは? 192年は、董卓が呂布に殺された歳。袁紹は董卓をあきらめ、河北に逃避した。袁術だけは継続して、関中を見ていたと思う。


192年。エン州刺史劉岱の後任のエン州刺史に、京兆出身の金尚(元休)が、(李カク・郭巳*ら)長安政権から派遣された。曹操が拒んだ。金尚が袁術の下にきた。

偽黒さんは、袁術の「勤皇ぶり」を見せてくださる。勉強になります。権威主義者、と言い換えたら、性格が悪そうだが。


193年、兗州にいき、曹操に敗れる

袁術は、封丘に駐留。将軍の劉詳を匡亭に駐屯させた。(この劉詳、劉巴の父、劉祥となんらかの関係があるか。)
『零陵先賢伝』で劉巴の父、江夏太守で盪寇将軍の劉祥が、(南陽太守の張咨を殺害した)孫堅への加担を怨まれ、南陽の士民に殺害された。劉祥の死は、この時か。(後方で兵站を担う)劉祥の排除が「南陽の士民」によって行われた。劉表は檄文だけで南陽を組み込んだ? その後袁術は、南陽を顧みない。

まったく知らなかった。考えたこともなかった。。


袁術は兵站を、南陽ではなく、潁川郡や陳国、河南郡東部から取ったか。陽武・中牟・京・密県などを含む地域から。朱儁との関わり、孫堅の陽城、河南尹の経験から伺われる。

南陽の「放蕩」は、袁術が出陣の準備をしたんだと思う。南陽は、洛陽をうかがうにはベストだ。更始帝の故事がある。だが董卓のせいで、洛陽が無価値になった。袁術は、南陽の国力をヌケガラになるまで吸収した。他人に取られるより、自分で取ったほうがマシ。南陽を捨てた袁術は、豫州や兗州に出たのでは?
南陽(荊州)にいても天下が取れないことは、劉表が証明している。劉表は、荊州においては袁術に勝った。だが天下に雄飛せず。

195年後半、曹操は曹洪に、陽武・中牟・京・密を曹洪に攻略させた。曹洪伝にある。曹洪は、陳国へ侵攻。河南郡が、袁術の支配にあった証拠。

地図を見て、よく確かめておかねば。

袁術は、荊州(南陽・江夏の2郡)、司隷(洛陽以東の河南郡)、豫州、エン州をもつ、中原の一大勢力へ。北方の公孫贊*、東方の陶謙(その公孫贊*と陶謙は青州を分けあう)は、袁術に協力的。

偽黒さんは、揚州をふくめない。だが袁術は、陳瑀を揚州刺史に送っている。のちに陳瑀は叛くが、この時点で揚州を含めていいだろう。


袁術は曹操に、囲魏救趙の応用で敗れた。
まず曹操は、敵の前衛拠点を攻める。つぎに、曹操の疲弊を待って進発する敵本軍を、有利な地点で迎撃する。黒山賊との戦い、袁術との匡亭の戦い、呂布との定陶の戦い(第一次)、鉅野の戦い、袁尚との業*包囲戦で実施。

戦術について、ぼくは無学。勉強させていただきます。待ち伏せの場所選びが重要らしいが、、結果オーライの戦法に見えなくもない?

袁術は太寿で水攻めに懲りた。寧陵(高地)に布陣。過*水(過*はサンズイがつく。読みはカ。)か隹*水(隹*は目ヘンがつく。読みはスイ。)の水運を用い、豫州を飛ばして揚州へ。曹操は兵站がつながらないので、追撃をやめた。

水路を逃げたのか! 2つの川の名、あとで地図を見ます。

曹操が水攻めにつかった川を、夏侯惇が修復。

次回は袁術が、揚州に入ります。