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02) 曹操との対峙を見落とすな

袁術についての「先行研究」の読解メモです。
偽黒武堂の三国志探訪『袁術くん、Hi!』
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/

193年、陳瑀を追いはらい、揚州に入る

袁術は、揚州へ。劉邦が韓信の兵を奪って、勢いを盛り返した故事をふまえるか。
前の192年、揚州刺史の陳温が病死。袁紹が袁遺を派遣したのは、193年になってから。袁術が陳禹*を追いだした事へのリアクション、と考えるのが妥当。

袁遺の赴任は、192年か?という問題。偽黒さんのここの結論は、ノー。だが下の段では、イエスと仰る。困ったなあ。笑
武帝紀と袁術伝の『英雄記』が根拠。ぼくも考えたい。

袁術の派遣した揚州刺史陳禹*と、袁紹の派遣した九江太守周昂が、192年の後ろ(秋冬)から193年の春まで共存していた。揚州の州都寿春は、九江郡の中。九江郡の拠点陰陵と、さほど離れていない。193年に袁術が揚州に逃れてくると、陳禹*が袁術を拒んだ。周昂と陳禹*の間に友交が生じていたのかも知れない。

袁紹派と袁術派の共存は、ぼくは考えにくい。
と、ここまで読んだところで、偽黒さんによる正反対の説のはじまり。


揚州刺史は、192年に死んだ。名が2つ伝わる。魏書系の伝と注で、陳温。呉蜀系で、陳韋*<ちんい>(韋*は示ヘンがつく)。死亡年が192年で同一。郭汜と郭多と同じパタンで、同一人物か。
陳温が死に、まず袁術が陳禹*が送り込み、寿春を占拠。陳温の兵を総どりした。

揚州「刺史」に兵は多くなかろうが。

袁紹は袁遺・周昴が送り込むが、先に寿春を押さえられている。袁紹側は、九江郡都として陰陵を選択したか。丹楊太守は、周昂の弟の周昕だから、周昂は迎えられた。袁遺と周昴は、一緒にいる。

袁術の揚州刺史・陳禹*は、袁紹の九江太守・周昴と共存。なぜ陳瑀は、周昂を追い出さなかったか。理由は2つ。
1つ。寿春の兵は、陳温の元部下。陳温は、袁紹派。曹操を支援し、九江太守・周昴を受容れた。
2つ。袁術派は寿春だけ確保。廬江の陸康、丹楊の周昕が袁紹派。
陳瑀は、袁紹派のなかでギリギリ存続しているバランスを、袁術に壊されるのをイヤがった。だから陳瑀は、袁術をこばんだ。

「揚州は、ほぼ袁紹派」というのは驚き。ならば、なぜ袁紹は冀州を奪うとき、退路を断ち、あんなに必死だったんだろ。袁紹は、偽黒さんが仰るほど、揚州に影響が浸透していなかったのでは?

袁術は孫賁を率い、陰陵をおとした。廬江の陸康が、袁術に挨拶したのが追い風。陸績がミカンを落とした。廬江郡を攻撃した記述がない。そのあと呉景は(廬江でなく)丹楊郡を攻撃した。
寿春の北と西は豫州、袁術の勢力圏。すぐ南の廬江郡。陳瑀の寿春は、陥落。193年3月のうち。潜在敵対勢力の分断と、各個撃破の好例。電撃的マジック。
袁術は、劉繇をつかい、丹楊郡の周昕を攻略する。

陶謙、曹操、袁術の三つ巴

193年夏、曹操は袁術にそなえて、定陶にいる。陶謙が、泰山郡に侵攻、任城国で略奪。彭城で大会戦。陶謙は泗水の北岸を守り、南を見捨てた。
陶謙の勢力圏は、豫州北端の魯国・沛国北部に到るが、袁術にさらされる。泰山郡の華県・費県を陶謙がとれば、魯国と瑯邪国への水陸が得られる。

陶謙の進攻の目的が「袁術にさらされない道の確保」。すごい!
陶謙-曹操-袁術の三つ巴なのですね。

だが陶謙は、避難民がいて、ゆたかな徐州南部を切ったのは、おろか。曹操は徐州南部を兵站にした。
陶謙が誤ったのは、趙昱と王朗が去ったから。薛禮と劉繇も、これに連なる人脈。のちに逃亡先に、旧友を選ぶ。劉繇は、陳温の後任の「正式な」揚州刺史か。

名士の人脈が、みな南に任官するのは、なぜ?


劉繇をむかえて、孫氏に丹楊を攻めさせる

袁術は、劉繇を曲阿に迎えた。劉繇に正統性を利用して、丹楊太守に呉景を、丹楊都尉に孫賁を任じた。丹楊太守の周昕を追い出すためだ。

ぼくがまったく抜けていた視点。袁術は、劉繇を利用した。のちの馬日磾もそうだ。袁術は、後漢の権力と調和する。

袁術は、広陵を攻めない。広陵太守の趙昱をはばかったのでは、なかろう。兵糧が尽きたと、史料にある。
袁術は、丹楊を攻めない。定陶の曹操を警戒したから。曹操は、呉景と孫賁が丹楊に行ったと聞き、第二次徐州征伐。だが寿春に大兵力がいて、曹操の計算が狂った。

曹操が徐州を攻めるとき、つねに袁術を見ていた。へえ!

呉景・孫賁らの丹楊攻略は193年末か、194年冒頭には完了。

孫策は193年の丹楊攻略に参加したはず。別行動の理由がない。それどころか、封丘の戦いに、孫策が参加したかも知れない。記録がない。

「記録がない」を云々するのは、検証できないから禁じ手。

孫堅の服喪3年の期間だから。孫策が喪を守らないので、魯粛や諸葛瑾は、孫策に従わず。
朱然が朱治の養子になったのは194年。193年の丹楊攻略が、とても厳しかったから、一族が死んだのでは。

孫策が九江太守になる権利を得たのは、陸康を敵対させなかった手柄からか。孫策が陸康に面会にいき、直接会わなかったのは、公務だから。かつて孫堅は荊州で、越境して陸康を救った。陸康を口説くには、孫策が適任だった。孫策は、自己アピールした。

偽黒さん、カンペキなる妄想の世界です。否定はできないが、肯定もできない。愛情が深くなると、こうなるのですね。笑

孫策の代わりに九江太守になったのは、丹楊の陳紀。九江郡(陰陵)を陥落させるとき、周昴・周愚*側にいた丹楊兵の寝返りを成功させたか。袁術の臣は、手柄があって任用される傾向がある。

これも妄想。丹楊出身というのが、にくい。

袁術が孫策を太守にしないのは、喪中だからか。もしくは袁氏でさえ、就職は20歳だから、若すぎる孫策を避けたか。

これなら袁術は「ケチ」とならない。


袁術は、馬日磾を「取り込んだ」。
袁術は勤皇だ。自分では、刺史や太守にならない。金尚や劉繇に、任地を回復させるため動いた。馬日磾は袁術に協調。袁術の下にとどまり、華歆を任命したりした。

「馬日磾が、袁術に捕らえられて憤死」も、ウソかも?


193年末、呉郡都尉の許貢が、呉郡太守盛憲(孝章)を追いだした。許靖は、許貢を去った。盛憲は、高岱の手引きで許劭の下へ。陶謙は、許貢とつながる。陶謙派が、揚州に入ってきた。
袁術は、太傅馬日テイの掾・朱治を呉郡都尉に。許貢にぶつけた。

ここまで193年。つぎ194年です。