表紙 > 読書録 > 偽黒武堂の三国志探訪『袁術くん、Hi!』を読む

04) 劉備と呂布と、徐州を争う

袁術についての「先行研究」の読解メモです。
偽黒武堂の三国志探訪『袁術くん、Hi!』
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/

196年、劉備を攻める

袁術が、劉備の徐州牧を黙認したのは、廬江太守の陸康の対処に忙殺されたから。いま劉備と対決。クイ・淮陰の辺りでぶつかった。
陶謙は郯を本拠にしたが、劉備は下邳を本拠にした。郯は、笮融に荒らされたから。劉備は、淮水へ注ぐ泗水を用いて、速やかに軍を進めた。『後漢書』呂布伝によれば、劉備は淮水をつかい、袁術をはばんだ。
袁術の敗因は、淮水南部の攻略が遅いこと。呉景に、ジワジワ攻めさせたのが失敗。孫策なら、成功していたかも知れない。孫策なら、泗水と淮水の合流地点の近く、泗水の東方にあり、淮水の北に接する淮浦を長駆侵攻し、一気に下邳を落とせた。

孫策の拙速さが有利なのは、食糧を大量に必要としないからかも。
イフに思いをはせるとは、偽黒さんも、これを楽しんで書かれていますね。笑

劉備が、粘りづよいのも、袁術に禍い。三国志で長引いたベスト3は、夷陵の戦い、益州平定戦、漢中争奪戦。いずれも劉備が噛んでいる。195年冬から、196年秋に呂布が下邳を奪うまで、この戦いもよほど長い。

袁術は、呂布に手紙を送った。
「糧秣、米二十万斛を与えるので劉備の後背を襲ってくれ」
呂布は動けない。小沛相の陳珪が、兵站を押さえているから。陳珪に呂布を抑えさせたのは、劉備の作戦。呂布は袁術の兵糧を得て、泗水を下った。呂布は、つねに他からの働きかけで動く人だ。董卓、王允のときも。

この指摘、まさに。

丹楊出身の許耽が、下邳で叛乱。張飛が曹豹を殺したのは、袁術との内通に気づいたからか。呂布は、一舎はおよそ三十里なのに、1日で三百里をかけて、下邳を攻めた。水運を使った。水運は、騎馬と同じく早い。陳宮の立案。
陳宮は兗州の謀反で、水運を用いて東郡東部、東平国との境界へ兵を侵入させた。程イクに津(渡し場)を破壊され、陳宮は阻まれたが。黄河や斉水が流れる、東郡出身ならではの作戦。赤壁に従軍していれば、、
呂布は、許耽が張飛に平定される前に、下邳へ。だが呂布が下邳を得ることは、劉備だけでなく、袁術にとっても誤算だった。
呂布は下邳で、将吏の家口を虜にした。『資治通鑑』より。中級官僚が動揺したか。劉備は、広陵(恐らく郡都である淮陰)を強奪。「奪」とあるから、もとは広陵は、袁術のものだったか。呉景の赴任は、不明。
徐州人は、劉備と呂布と袁術を静観。東海出身の簫建は、瑯邪相だが、瑯邪(キョ県)を守って、様子見した。劉備を推戴した1人か。
このときの徐州の情勢は、分からない。
『三国志』『後漢書』『資治通鑑』で違う。どの史料をひろい、どれを捨てるかの差異があるだけ。一貫したストーリーにはならない。

劉備は呂布にやぶれ、海西へ。先主伝では「楊奉・韓暹が、徐・揚の間を攻めた。劉備が迎え撃った」とあるが、彼らはまだ献帝の周辺にいる。
『英雄記』では、建安元年6月に、呂布の部下で河内出身の赫*萌が下邳で叛乱した。

おわりに

偽黒さんの考察は、ここで終わっています。
ご再開を楽しみにしています(笑)
帝位を名乗ることについて、書かれていない袁術論なんて、袁術論としては不足です(笑)絶対に必要なところです。

ぼくにない、おもな視点は、以下でした。
州でなく郡単位に、領土を区切って読む。戦場での作戦を論じる。移動距離、水運の活用を織り込む。兵糧の有無など、リアルな事情を斟酌。袁術が劉繇を、はじめ利用したとする。陶謙と曹操と袁術の三つ巴。袁術を支えた琅邪の人脈。

今回はただのメモで、グダグダでした。この勉強の成果をヒントにして、自分なりの袁術を組み立てたいと思います。