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03) 陸康のせいで、徐州とれず

袁術についての「先行研究」の読解メモです。
偽黒武堂の三国志探訪『袁術くん、Hi!』
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/

194年、徐州遠征を、陸康がくじく

193年に陶謙は朝廷にたのみ、劉繇や王朗を任じ、揚州に陶謙閥をつくろうとした。袁術が劉繇を抱き込んだので、陶謙はくじけた。陶謙は、劉備を豫州刺史にして、袁術に報復した。

このあたりの派閥形成は、整理できない。劉繇の立場について、ぼくなりの持論が必要だろう。でないと、偽黒さんに論駁できない。

曹操は、袁術と陶謙が決裂したので、挟み撃ちにあうリスクがない。安心して泗水を攻めた。第二次の徐州征伐だ。
194年夏、曹操は泰山郡を抜け、徐州北部の瑯邪国を侵す。陶謙の拠点、炎*へ進撃。曹操の道は、小沛の劉備を避けたものだ。

徐州五郡(瑯邪・東海・彭城・下ヒ・広陵)の守将について、偽黒さんは詳しい。ぼくの興味から逸れますので、省略。興味を持ったら、帰ってきましょう。

笮融は、彭城・下ヒ・広陵の南部3郡の物資流通を統括。のちに下ヒの相となる曹豹。陶謙に援軍しない、広陵太守の趙昱(趙昱が陶謙に味方しない理由は後述)。東海で利殖し、劉備をむかえた麋竺。
徐州は、麋竺や孔融が劉備をおし、袁紹派の国になった。曹操は袁紹に恩がある。曹操は、徐州に手出しができなくなった。

偽黒さんでは、袁紹があまり登場しない。曹操の動きが、曹操単独と評価されている。ぼくが加筆するなら、曹操-袁紹のつながりだ。


かつて袁術は、琅邪相。袁術が任じた、揚州刺史の恵衢、廬江太守の劉勲、豫章太守の諸葛玄は、琅邪の人脈。広陵太守の趙昱も、琅邪出身。194年正月ごろから、陶謙に「袁術のスパイ」と疎まれた。だから袁術と劉繇は、193年に広陵を攻めなかった。

琅邪のネットワーク。知らなかった、気づかなかった!

趙昱は、笮融に殺された。劉繇は(趙昱-袁術の敵である)笮融を受け入れた。つまり劉繇は、袁術をはなれようとしていた。

ぼくが思うに、劉繇は初めから袁術の敵。劉繇が笮融をかばったのは、劉繇が方針転換して、袁術を離れたからではない。
偽黒さんがいう「袁術が劉繇を利用」は、ちくまの誤訳?を丸呑みしたせいではないか。「迎」の一字を、歓迎の意味にとったら、袁術が劉繇を歓迎したと読むしかない。
袁術の勤皇ぶり(ぼくの言葉で云えば権威主義)は、偽黒さんの優れた着眼。でも、劉繇との協調にまで、適用できないと思う。

袁術は、下邳の陳氏と仲直りして、徐州を取ろうとした。だが失敗。陳応を人質にとり、最悪な関係に。

袁術は、徐州遠征へ。
廬江太守の陸康に、米3万石を要求。3万の軍の6~7日間の行動を支える。(登*艾伝より換算)徐州下ヒ国の淮陵あたりに到る行程。下邳の陳氏に、補給させれば、計算があう。
だが陸康がこばんだ。袁術は、陸康を討つ。このタイミングに合わせ、劉繇が袁術に叛いた。

劉繇と劉備が、同じタイミングで袁術にそむく。偽黒さんは、これを言いかけて、論証はしていない。

もともと劉繇は、袁術に敵対するなら、周昕や周昂と結べばよかった。だが地元の協力がなく、挙兵できなかった。いま彭城の薛禮と、下邳の笮融が、劉繇に合流した。丹楊郡の豪族とむすび、会稽の王朗と結べば、袁術に対抗できる。

劉繇は、笮融の南下で兵を得て、袁術に叛いた。へえ!
のちに劉繇が袁術に敵対するから、「はじめから敵対した」と単純化してしまう。ぼくは、その失敗をおかしているのだろうか。


195年、孫策が廬江をほろぼす

陶謙が194年秋に死に、194年冬に孫策が廬江を攻めた。
孫策には、呂範、程普、蒋欽、周泰、黄蓋がいる。194年秋は不作だったか。廬江は孫策に包囲されて、4ヶ月で落ちた。袁術に兵糧を出せなかったのも、もっともか。
袁術は孫策に、廬江太守にすると約束した。だが劉勲を任じた。劉勲は、袁術の門生故吏だ。袁術は劉繇に裏切られたから、疑心暗鬼だ。裏切らない、門生故吏を任じたのだろう。

袁術の内面の描写。なるほどそうか、としか言えない。

20代後半で太守になるのは、出世のトップスピード。孫策が嫉妬されるのを避けるため、袁術は孫策を廬江太守にしなかった。
袁術は孫策に、程普や韓当を返した。北方出身だから、方言でコミュニケーションが取れない人たちだった。
周瑜の従父、周尚が丹楊太守になった。廬江の平定に功績があったか。三公の家だからか。祖先、周栄は袁安の故吏だからか。
恵衢が揚州刺史として、政治する。呉景が督軍中郎将として、軍事する。袁術が左将軍として、戦略をねる。朱儁や皇甫嵩らが中郎将職となり、朝廷からの指示で動いたのと同じ形式だ。

孫策は、拠点をカラにするほど、極端に兵力を集中。牛渚をうばわれる。徐琨伝も参照。195年冬、揚州が定まる。
孫策は、飛び石の作戦。呉景はジワジワ。孫策は、会稽太守の王朗をうつ。王朗は、陶謙が送り込んだ人。

孫策の戦術について、くわしい。また後日。


劉繇の敗因は、揚州「牧」になれなかったこと。195年冬から196年春、朝廷には、袁術にちかい楊彪や董承がいる。劉繇の昇進を、妨げたのではないか。195年10月、曹操がエン州牧になった。同じ時期をねらったはず。

献帝周辺の人と、袁術のつながり。ぼくが思いついたことも、すでに書かれていた。董承は根拠を見つけたが、楊彪について、ぼくは直接の証拠を知らない。

諸葛玄も、袁術の故吏。豫章太守の周術が死に、194年末から195年半ばに、諸葛玄を赴任させたか。諸葛玄とぶつかった朱晧は、劉繇や王朗が朝廷に任命させたか。

袁術が諸葛玄を豫章におくると、献帝に逆らっていることになる。偽黒さんの話が一貫しない。

劉繇は、袁術の死後まで、豫章を治める。劉繇が死ぬと、華歆が豫章を治めた。華歆は、失敗ばかりの袁術に愛想をつかし、袁術に敵対したか。

派閥争いは、1人を「こっち派」から「あっち派」に移すと、ドミノ倒しのように、話が変わってくる。
偽黒さんは、劉繇も華歆も「初めは袁術派、のちに叛いた」とする。しかしどちらも、叛いた時期・理由が史料にない。はじめから袁術に敵対をしつづけたと考えたほうが、スッキリいくかも。


袁術が兗州を攻めると見せかける

195年8月、曹操が、張超の雍丘を包囲。朝廷に使者して、兗州牧の地位をもらった。洛陽-長安間の行軍日程が20日余り(魏書明帝紀などより)だから、9月には使者を出したか。
袁術が、寿春で膨張した。袁術は徐州を攻めるつもりだが、兗州の雍丘を支援すると見せかけ、曹操を牽制した。196年正月、袁術が陳国を攻めた。袁術が、陳国太守に袁嗣を任命し、武平においたのは、曹操を抑えるため。195年12月まで、曹操は雍丘を攻めきれない。袁術、袁嗣に背後を突かれるから。
声東撃西のお手本だ。
袁術は兗州を救うと見せかけるが、本命は徐州。徐州の劉備は、油断している。雍丘に、袁術は2とおりで行ける。
1:寿春から淮水を東下、義成近傍で淮水と合流している渦水に入り、武平に到着。北北西へ進む。
2:寿春から淮水を西に遡り、淮水と合流している穎水・汝水に入る。陳国の国都・陳に到着。北へ進む。

195年冬、袁術は呉景を、広陵太守に。趙昱の後任である。正統性を確保してから攻めるのが、袁術のやり方。
周尚は丹楊太守にのこる。
195年12月、袁術は淮水を東下。曹操は、袁術がこないと知り、楽進に雍丘を落とさせた。篭城期間は5ヶ月だった。196年1月、曹操は陳国の武平に攻め寄せた。2月、潁川と汝南の黄巾を攻撃。このとき黄巾は、袁術の任命した汝南太守の孫香の傘下。
曹操はなぜ、寿春を攻めないか。寿春に、食糧などの戦利品がないから。汝南と潁川をとり、収支を回復させるのが優先。

「袁術は兵站の概念がない」と、別冊宝島?で書いてあった。違う。概念はあるが、食糧が圧倒的に足りない。袁術は、いち早く中原の第一勢力を目指した。戦いが多かった。だから、いちばん食糧が足りなかった群雄だ。
曹操も織田信長も、大躍進の直前、四方に敵を受ける。袁術も同じだった。そして失敗した。笑


次回、最終回。袁術の死までは、届きません。