表紙 > 漢文和訳 > 『三国志』姜維伝の前半より、曹魏が治めそこねた雍州の名士

02) 魏は雍州を治めず、蜀を妨害する

『三国志』姜維伝を、『三国志集解』を参考に注釈づけ。

蒋琬の部下、費禕のライバル

十二年,亮卒,維還成都,為右監軍輔漢將軍,統諸軍,進封平襄侯。延熙元年,隨大將軍蔣琬住漢中。琬既遷大司馬,以維為司馬,數率偏軍西入。六年,遷鎮西大將軍,領涼州刺史。

234年、諸葛亮が死んだ。姜維は成都にもどり、右監軍、輔漢將軍となり、諸軍を統べた。
238年、大将軍の蒋琬にしたがい、姜維は漢中にゆく。蒋琬が大司馬になると、姜維は大将軍の司馬になった。

費禕は、孫呉の動きを利用して、荊州から曹魏を攻めようとした。曹魏は、司馬懿をつかって、防いだ。

243年、鎮西大将軍となり、涼州刺史を領した。

列伝のこのあいだ、246年に蒋琬が死んだ。
満田剛氏によれば、蒋琬は、諸葛亮とおなじく一頭体制。まとめました。
満田剛氏の蒋琬政権にかんする論文2本より抜粋
「諸葛亮没後の『集団指導体制』と蒋琬政権」
「蜀漢・蒋琬政権の北伐計画について」『創価大学人文論集』17,18
姜維は、蒋琬の部下である。へんな暴走をせず、へんな牽制をうけず。


十年,遷衛將軍,與大將軍費禕共錄尚書事。是歲,汶山平康夷反,維率眾討定之。又出隴西、南安、金城界,與魏大將軍郭淮、夏侯霸等戰於洮西。胡王治無戴等舉部落降,維將還安處之。十二年,假維節,複出西平,不克而還。維自以練西方風俗,兼負其才武,欲誘諸羌、胡以為羽翼,謂自隴以西可斷而有也。每欲興軍大舉,費禕常裁制不從,與其兵不過萬人。

247年、姜維は衛将軍となった。大将軍の費禕とともに、尚書のことを録した。

大将軍の蒋琬のとき、大将軍の司馬。大将軍が費禕にかわると、衛将軍。蒋琬が一頭体制であり、費禕が一頭体制でないことが分かる。
姜維が権力をにぎる過程で、覚えておきたい年号を、先どりで整理。
246年、蒋琬が死ぬ。253年、費禕が死ぬ。258年、陳祗が死ぬ。

この歳、汶山郡を平定した。また郭淮と夏侯覇と、洮西で戦った。異民族をくだし、蜀漢の国内に移住させた。
249年、仮節をうけ、西平を攻めた。姜維は勝てず。
姜維は西の風俗がわかるから、羌族や胡族を従えられると考えた。隴水より西を、曹魏から切り離せると考えた。

姜維の戦略の前例を、漢末の宋建に求めました。再リンク。
韓遂よりもシブトイ涼州の自称王・宋建の史料をぬきだす
洛陽に都があるので、後漢も曹魏も、西方の統治が苦手だ。ぎゃくに長安に都をおけば、青州(旧斉)のあたりに、支配が行き届かなくなる。

姜維は武勇をほこり、大軍をほしがった。

原文は「負其才武」と。姜維は、武勇をほこって、ムチャな北伐をしたというイメージだ。3年前はこれに基づき、姜維を考えました。『真・三国無双』で、呂布と魏延を混ぜたような人。笑
いま、ぼくは違うと思う。
この時代、教養のない軍人は、軽蔑される。張飛が劉巴に、話してもらえなかったように。軍人は、戦場は任されるが、中央の高位には登れない。
姜維は軍人ではなくて、教養人だ。蜀漢の高官で、費禕に次ぐ。鄭玄を学んだ。李邵と馬良に比べられた。鍾会とむすんだ。
姜維を軍事マニアに描く理由は、2つあるだろう。
 1.蜀漢を矮小化して、西晋にこびる(軍人に操られたバカな国)
 2.蜀漢の滅亡を惜しみ、姜維に責任をかぶせたい
これは妄想の域だが、陳寿は後者の気持ちが強かったのでは? 陳寿は『仇国論』の譙周の弟子である。譙周とおなじ意見を持ち、姜維を亡国の罪人にしたかったのだと思う。割り引くべき。姜維伝を読むときは、注意。

費禕が姜維をおさえ、いつも1万人未満しか兵を与えなかった。

もし9千人だったとしても、充分に多いのでは? まして大平原で、手広く陣をひろげるのではない。戦場は、山岳地域である。多ければ、いいというものではない。
諸葛亮よりも多く北伐して、いつも数千規模の軍を動かした。姜維は、とても有能な「軍師」だと思います。戦争を設計する人です。


漢晉春秋曰:費禕謂維曰:「吾等不如丞相亦已遠矣;丞相猶不能定中夏,況吾等乎!且不如保國治民,敬守社稷,如其功業,以俟能者,無以為希冀徼倖而決成敗於一舉。若不如志,悔之無及。」

『漢晋春秋』はいう。費禕は姜維に云った。
「諸葛亮さんでもムリだった北伐を、私たちが成功できるわけがない」

おもしろいセリフです。とても上手いと思います。


費禕が死んで、曹魏の空白地帯・雍州を攻める

十六年春,禕卒。夏,維率數萬人出石營,經董亭,圍南安,魏雍州刺史陳泰解圍至洛門,維糧盡退還。明年,加督中外軍事。複出隴西,守狄道長李簡舉城降。進圍襄武,與魏將徐質交鋒,斬首破敵,魏軍敗退。維乘勝多所降下,拔(河間)〔河關〕、狄道、臨洮三縣民還,後十八年,複與車騎將軍夏侯霸等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經眾死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。魏征西將軍陳泰進兵解圍,維卻住鍾題。

253年春、費禕が死んだ。

『通鑑』はいう。費禕が死んで、姜維は志を得た。
ぼくは思う。費禕と姜維が、北伐をめぐって対立したと捉える人は、多い。でも、費禕は北伐に反対ではないと思う。費禕はいつも、1万弱を姜維に与えている。蜀漢の意思決定の仕組みを、ぼくは調べておりませんが、、もしぼくが費禕で、ほんとうに北伐に反対ならば、1兵たりとも与えない。つまり費禕は、いくらかは北伐に賛成したのでは?
もちろん「費禕は姜維を抑えられず」という面もあるだろう。しかし、二項対立に単純化しすぎている可能性を、指摘しておきたい。
大司馬とか大将軍とか、蜀漢の官制を調べるべきだ。宿題です。

夏、姜維は数万で北伐した。雍州刺史の陳泰に、撃退された。兵糧が尽きて、姜維は撤退した。

1万弱で北伐するときと、数万で北伐するとき、戦い方や目的がちがうのだろうか。
兵数が少ないときは、異民族を味方にすることに重点がある。兵数が多いときは、漢族の内乱戦を、堂々とやる。前者は小さな戦果を得られる。後者は、強烈な防御と、兵糧不足にあう。
諸葛亮は、兵数の多い戦さをやり、失敗した。だから費禕は、諸葛亮を反面教師にして兵数の少ない戦さに、成功の可能性を見ていた。『漢晋春秋』の費禕のセリフに、筆者・習鑿歯の想像力が補った「真実」があるとしたら、この点かも知れない。

255年、雍州刺史の王経を破り、数万人斬った。

雍州刺史のポジションは、姜維にとって、元上司ですね。


十九年春,就遷維為大將軍。更整勒戎馬,與鎮西大將軍胡濟期會上邽,濟失誓不至,故維為魏大將鄧艾所破於段穀,星散流離,死者甚眾。眾庶由是怨讟,而隴已西亦騷動不甯,維謝過引負,求自貶削。為後將軍,行大將軍事。

256年、姜維は大将軍になった。
鎮西大将軍の胡済と、上邽で合わさるはずだった。胡済が来なかったので、魏の大将である鄧艾に破られた。段谷の戦い。
蜀漢は、死者が多かった。隴水から西は、騒動した。姜維は、後将軍に降格した。

なぜ隴水より西は、騒動したか。蜀漢が秩序をつくっていて、その蜀漢が敗れたから? もしそうなら、蜀漢すごいなあ。
鄧艾は姜維をやぶったが、隴水より西は混乱したまま。
発想の転換が必要かも。曹魏が治めた雍州を、姜維が狙ったのではない。曹魏が失敗した雍州を、漢族としては初めて、蜀漢が治めようとした。こう単純化して考えたら、姜維は無謀ではない。涼州の地図は、うすい蜀漢色に塗りたい。べつにぼくは、蜀漢ファンではありませんが、そう思います。後漢から禅譲を受けたという理由で、曹魏色に塗ってはいけない。
曹魏は、涼州の統治はどうせムリだが、蜀漢に治められるのはシャクなので、妨害している。現地からしたら、曹魏こそ迷惑だ。西晋初、涼州刺史が殺された。魏晋が、涼州や雍州に支持基盤がなかった証拠だ。


二十年,魏征東大將軍諸葛誕反於淮南,分關中兵東下。維欲乘虛向秦川,複率數萬人出駱穀,徑至沈嶺。時長城積穀甚多而守兵乃少,聞維方到,眾皆惶懼。魏大將軍司馬望拒之,鄧艾亦自隴右,皆軍于長城。維前住芒水,皆倚山為營。望、艾傍渭堅圍,維數下挑戰,望、艾不應。景耀元年,維聞誕破敗,乃還成都。複拜大將軍。

257年、諸葛誕が淮南で、曹魏に叛いた。関中の兵が、東にくだった。姜維はこのスキに乗じた。

諸葛誕のとき、ほんとうに関中は手薄だったか?
魏は、呉蜀2つを相手にするから、大変だという。だが、蜀をふせぐ兵を、低コストで呉に移すことはできない。となれば、呉と蜀にどれだけの兵を振り分けるか、考える意味が小さい。関中と淮南を、並行してべつべつに管理するのみだ。関中の兵は、関中でつかおう。
司馬懿のように指揮官だけなら、移動コストが安いし、希少な才腕だから、ちがう戦線に使いまわすことはあるだろう。しかし頭数が揃えばよい兵士を、いちいち動かすのは、費用対効果がつりあわない。関中の兵が、どれだけ淮南に運ばれたか、ぼくは疑問に思います。
呉蜀の共同作戦が、いちども成功しなかったのは、孫権の「不誠実な」外交方針のせいばかりでない。呉が魏を攻めても、魏が蜀を防ぐ兵が、そんなには減らない。共同作戦のメリットが、小さかった?
(追記)
「三国志予備校」の配信で、小前亮『姜維伝』という小説で、作者なりの解釈が付されていることを、教えていただきました。そのうち読みます。

魏の大将軍の司馬望と、鄧艾が駆けつけた。 姜維は、成都にもどった。大将軍にもどった。

司馬望と鄧艾のペアが姜維を抑えたとき、淮南では、司馬昭と鍾会が乱を鎮圧した。どちらも司馬氏を大将とする。鄧艾と鍾会のペアが、好対照をなしている。話として、出来すぎている。笑


おわりに:のこりの列伝は後日

姜維伝はまだ続くのですが、つづきは別の機会に。
はぶいた列伝後半のうち、指摘したいのは、潁川名士の代表・鍾会が、姜維を盟友として扱ったこと。鍾会はプライドが高い逸話がおおい。その鍾会が、姜維を認めたのだから、姜維はたんなる軍人ではない。

鍾会の曽祖父は、鍾晧。名士の原型みたいな人。
鍾会の父・鍾繇が、姜維の故郷&北伐でねらった、関中に影響力があったことも気になる。まだ、史料の穴を埋める準備がないですが。

蜀漢の後期を学んでから、出直します。100820