01) 曹魏が天水郡の保全をミスる
『三国志』姜維伝を、『三国志集解』を参考に注釈づけ。
父が羌族に殺され、鄭玄をまなぶ
姜維字伯約,天水冀人也。少孤,與母居。好鄭氏學。
姜維は、天水冀県の人だ。
涼州刺史の治所は、天水郡である。『三国志集解』でくわしい注釈は、明帝の太和2年にある。王粛伝がひく『魏略』にある。
姜維が生まれ育った涼州については、2つ書きました。
韓遂よりもシブトイ涼州の自称王・宋建の史料をぬきだす
小説『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を、史料と照合する
後者は、曹操と曹丕の死で、西平郡の麹氏が叛いた史料。
ほかに馬超の反乱。211年、潼関の戦い。212年馬超が、涼州刺史の韋康を殺害。冀県を拠点にした。地元の姜序、梁寛、趙衢が、馬超を追いはらった。天水の四姓だ。姜維とおなじ姓の人がいる。四姓に、姜維とともに蜀漢にくだり、高官についた人がいる。姜維伝の末尾にある。
はやく父が死んだ。鄭玄の学問をやった。
鄭玄は、党錮をくらった古学派。曹魏で主流となる学派かな。王基伝によると、王基は鄭玄を肯定した。王朗の子・王粛は、鄭玄を否定した。王朗は諸葛亮の北伐をふせぎ、王粛は曹真の北伐に反対した。
姜維が、鄭玄を学んだのは、独学だろうか。後漢の公式見解をとりよせ、せっせと独学したのなら、よほど熱心である。どれほど人生に活用されるか、注意したい。
鄭玄は裴注『鄭玄伝』によると、州に孫乾を推挙した。身近?
傅子曰:維為人好立功名,陰養死士,不脩布衣之業。
『傅子』はいう。姜維の人となりは、功名を立てることを好んだ。ひそかに死士を養った。庶民や小役人の仕事には、興味がなかった。
あとで、潁川の名門・鍾会と、意気投合する。いわゆる「名士」としての教養や発想がないと、プライドの高い鍾会くんが、姜維を相手にしてくれるとは思えない。
仕郡上計掾,州辟為從事。以父冏昔為郡功曹,值羌、戎叛亂,身衛郡將,沒於戰場,賜維官中郎,參本郡軍事。
天水郡につかえ、上計掾となった。涼州に辟され、從事となった。
父の姜冏は、むかし天水郡の功曹だった。羌戎の反乱にあって、姜冏は身ずから郡將をまもり、戦没した。姜冏が死んだので、姜維は中郎となり、天水郡の軍事に参加した。
諸葛亮の北伐で、馬遵が天水維持に失敗する
建興六年,丞相諸葛亮軍向祁山,時天水太守適出案行,維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等從行。太守聞蜀軍垂至,而諸縣回應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上邽。維等覺太守去,追遲,至城門,城門已閉,不納。維等相率還冀,冀亦不入維。維等乃俱詣諸葛亮。會馬謖敗於街亭,亮拔將西縣千餘家及維等還,故維遂與母相失。
228年、諸葛亮が北伐した。
後主伝の227年にひく『諸葛亮集』はいう。
涼州諸國王各遣月支、康居胡侯支富、康植等二十餘人詣受節度,大軍北出,便欲率將兵馬,奮戈先驅。
月支が大月氏なら、アフガニスタン。康居は、現在のカザフスタン南部。西域の使者が、魏領のはずの涼州を通過して、蜀漢の北伐の露はらいになると、申し出ている。涼州は、ほぼ曹魏に服属していない。
天水太守は、たまたま外出した。
中郎の姜維と、功曹の梁緒、主簿の尹賞、主記の梁虔らは、天水太守にしたがった。天水太守は、姜維にふたごころがあると思い、逃げた。姜維はふるさとの冀県から締め出された。
諸葛亮は、1000余家を連れ去った。姜維と母は、はぐれた。
魏略曰:天水太守馬遵將維及諸官屬隨雍州刺史郭淮偶自西至洛門案行,會聞亮已到祁山,淮顧遵曰:「是欲不善!」遂驅東還上邽。遵念所治冀縣界在西偏,又恐吏民樂亂,遂亦隨淮去。時維謂遵曰:「明府當還冀。」遵謂維等曰:「卿諸人(回)復信,皆賊也。」各自行。維亦無如遵何,而家在冀,遂與郡吏上官子脩等還冀。冀中吏民見維等大喜,便推令見亮。二人不獲已,乃共詣亮。亮見,大悅。未及遣迎冀中人,會亮前鋒為張郃、費繇等所破,遂將維等卻縮。維不得還,遂入蜀。諸軍攻冀,皆得維母妻子,亦以維本無去意,故不沒其家,但系保官以延之。此語與本傳不同。
『魏略』はいう。天水太守の馬遵は、雍州刺史の郭淮にしたがい、西県にいた。諸葛亮が祁山にきたと聞き、郭淮は馬遵にふり返り「今にもヤバくなりそうだ」と告げた。
姜維が馬遵に「天水郡治の冀県に帰りましょう」と云った。馬遵は、冀県が西側にかたよっているから、冀県行きたくない。
郡治が西に偏っているのは、西への進出&平定を期待されたからでしょう。攻めるときの前線である。守るときは、危険極まりないから、いたくない。郭淮も、認めているようであり。
馬遵は姜維に云った。
「お前たちは故郷の人を治め、魏に対する信頼を回復せよ。でなければ、みんな賊になってしまう」
ちくま訳で「諸君はもう信用できない。みな逆賊だ」とある。馬遵は、自分が連れている現地採用の役人たちを相手に、いきなり何を言い出しているのか。人間不信も、ここに極まれり。そんなバカな。
セリフの前半をぼくが読めば「信を回復せよ」でしょう。
冀県は、曹魏がキープしにくい。蜀漢の北伐をうけて、動揺した。だから、信用を回復すべきだと。
馬遵は、いきなり部下を解雇したのではない。郭淮の前で、そんな暴挙にでるものか。部下に故郷の鎮圧を命じたが、うまくいかなかっただけ。太守の仕事ぶりを想定するなら、これが自然では?
(追記)
昨日配信した「三国志予備校」にて、「回」は誤字で「できない」を表す別の字だと、教えていただきました。訳しなおすと、こうなります。「諸君たちが故郷の秩序を回復できなければ、諸君たちはみな、曹魏の帰属から離脱し、賊になってしまう」と。より一層、意味が通りました。
姜維は、母を諸葛亮にとらわれた。蜀漢にくだった。
姜維が馬遵に用いられたのは、姜維が人口をひきいているからだ。姜維の武勇や学問がすぐれているとして、それだけじゃ曹魏の役に立たない。姜維を支持する人口がいるから、天水郡に用いられたいたのだ。
姜維は、生活基盤も勢力も失ったから、蜀漢にいくしかない。『三国演義』で母をめぐって、諸葛亮がズルをする。実際は、あんな策略の必要はなかっただろう。
蜀漢名士社会にくわわり、天水郡の保全をちかう
亮辟維為倉曹掾,加奉義將軍,封當陽亭侯,時年二十七。亮與留府長史張裔、參軍蔣琬書曰:「姜伯約忠勤時事,思慮精密,考其所有,永南、季常諸人不如也。其人,涼州上士也。」又曰:「須先教中虎步兵五六千人。姜伯約甚敏於軍事,既有膽義,深解兵意。此人心存漢室,而才兼於人,畢教軍事,當遣詣宮,覲見主上。」後遷中監軍征西將軍。
諸葛亮は姜維を、倉曹掾にした。
奉義將軍を加えられ、當陽亭侯となった。27歳。
諸葛亮と、留府長史の張裔と、參軍の蔣琬は、書いた。
「姜維は、李邵と馬良にならぶ。涼州の上士だ」
渡邉義浩氏の指摘がある。益州の張裔と、荊州の蒋琬にむけて、「姜維は、益州の李邵と、荊州の馬良に匹敵する」と述べた。諸葛亮は、益州と荊州を融合させた、蜀漢名士社会をつくった。
姜維伝の末尾から、諸葛亮は天水で、軍人でなく、名士を採用したことが分かる。天水の四姓を中心に、狩ったらしい。笑
維昔所俱至蜀,梁緒官至大鴻臚,尹賞執金吾,梁虔大長秋,皆先蜀亡沒。
諸葛亮は云った。
「姜維は、漢室に心をよせる。軍事をまかせ、劉禅に会わせたい」
孔明より功名を志す死将!姜維伝
姜維は、蜀漢になにを求めたか。ぼくは、故郷である天水郡の保全だとおもう。曹魏に羌族がなつかず、父が殺された。郭淮と馬遵は、諸葛亮が北伐すると、たちまち動揺した。曹魏には、もう期待できない。
そもそも漢代、涼州は、いちおう治まっていた。劉氏の漢室というネームバリューが、異民族対策に有効ではないか。やむなく蜀漢にうつった姜維が、漢室に期待を持つように発想を変えたのでは?
のちに姜維は、中監軍、征西將軍になった。
蜀漢につうじていた大国を、曹魏に来させた。敵国から自国に振り向かせたのだから、功績は大きい。
陳寿は司馬氏の功績を云うため、『三国志』に東夷伝をつくったが、西域伝をつくらなかった。曹真-曹爽をけなすためだと云われている。陳寿があえて黙殺しなければならないほど、曹真の手柄が大きかったことを、ぎゃくに証明できる。
孫盛雜記曰:初,薑維詣亮,與母相失,複得母書,令求當歸。維曰:「良田百頃,不在一畝,但有遠志,不在當歸也。」
孫盛『雑記』はいう。姜維は諸葛亮に云った。
「遠い志があれば、郷愁に切なくなっている場合ではない」
つぎ、諸葛亮の死後です。つづきます。