表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第1章「名士層の形成」要約と感想

1節_漢魏交替期の社会(1)

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。

目標は、渡邉義浩氏の研究を、まず自分のなかに取りこむこと。史料を読むときに、ふまえたい。
あわよくば、渡邉義浩氏への反論を、くみたてたい。自分で原典史料を読んでいる人ならば、誰もが、反論のチャンスがあると思うのです。ただのファンにすぎなくても。
構成は渡邉氏の本のまま。タイトルの後ろの数字は、ページ数。

はじめに_61

貴族の起源について。
川勝義雄と谷川道雄は、マルクス主義から分析していう。中国では、領主化するはずの豪族が、清流豪族に転化した。 清流豪族は、領主のように民衆を所有しつつ、民衆の支持に支えられもした。所有と支持。清流豪族は、自己矛盾をかかえた存在だ。
渡邉氏いわく、川勝・谷川説は、成り立たない。後漢末からの知識人は、民衆の支持を基盤としない。豪族どうしの支持を集めた「名士」が、貴族の起源である。以下、これをいう。

後漢末期の豪族と在地社会_62

後漢末期の豪族は、4つの特徴がある。渡邉義浩1995より。
 1)大土地所有する
 2)独立した戸が、同姓ゆえにつらなる
 3)賓客をもち、任侠的にむすびつく
 4)代々、官職につく
豪族の特徴は、崔寔『四民月令』にみえる。祭祀儀礼や、農事などの社会生活をえがく。なかで、名声をもとめて、家の財産を使い果たしてはいけないと説かれる。救済するのは、親族が優先。他人を救済するのは、名声を得る手段にすぎない。まちがっても、名声を得るためにバラマキをやり、再生産構造を失ってはいけない。本末転倒だ。

渡邉氏が強調するのは、あとで魯粛を対比させたいから。魯粛のような名士は、『四民月令』と正反対をやったぞと。しかし魯粛は、後漢末の名士のなかでも、特殊な例外だと思うのです。キャラ的に。?
後漢末になっても、おおくの名士は『四民月令』を守りつづけたはず。


豪族は、郡県の掾属を中心に、官吏になるルートを確保した。
増渕龍夫1962はいう。「成陽霊台碑」は、仲氏の宗族がカンパして立てた。名簿をみれば、郡県の掾属に、仲氏が就いてきたことがわかる。官吏に採用されるために必要な「仁」「義」という徳目&名声は、一族のなかの貧者を、金銭で助けることで得られた。
一族のなかの名声が、採用される基準だったことは、『後漢書』チ惲伝にある、汝南太守・欧陽コウの行動からもわかる。汝南の「衆儒」をあつめて、郷論を確認して、採用者をえらんだ。

「名士」層の形成_68

川勝義雄1982はいう。清流豪族は、民衆と連帯して、宦官ら濁流豪族の領主化とたたかった。党錮の禁がおきた。

さっき渡邉氏は、川勝氏の定義した清流豪族を、否定した。つまり、民衆の支持に拠って立つことを、否定した。しかしここでは、川勝氏にしたがっている。分かりにくいなあ。

清流貴族が怒ったのは、宦官のせいで、官吏になる道を閉ざされたからだ。『後漢書』史弼伝は、宦官の侯覧に、ジャマされた話がある。太学生を中心に、抗議した。しかし宦官は、皇帝権力の延長だ。宦官が勝った。党錮の禁である。
多田ケン介はいう。党錮の禁は、治者の内側の権力闘争だ。党人である范滂の朝廷批判は、ふたたび後漢に採用されたい太学生たちが支持した。後漢そのものを、否定しない。
党人のランキング上位に、外戚の竇武と、宗室の劉淑をおいた。

後漢からはずれた「名士」が誕生した。『後漢書』李膺伝はいう。景顧は、第一次党錮の禁にもれたが、自発的に退職した。郭泰は、李膺に評価された。郭泰は、黄憲を評価した。郭泰は、在地社会の再生産構造からはなれた場所で、名声を得た。再生産構造をもつ豪族であることは、「名士」の必要条件でなくなった

◆名士の性質1:再生産手段から、はなれる
再生産構造をすてて名声をもとめたのが魯粛だ。上記『四月民令』に逆らった。魯粛は、故郷の臨淮郡でなく、揚州の場で「名士」になった。

渡邉氏は魯粛伝をひく。赤壁前、孫権に云った。「わたしが曹操に降伏しても、郷党に推薦してもらえる」と。渡邉氏は、郷党を臨淮郡でなく、揚州とする。名声が揚州にあるから。
ぼくはちがうと思う。魯粛は「下曹従事には、なれる」と述べた。最低限の下っぱだ。三公の家・周瑜に評価された人が、下っぱか? やはり魯粛は、徐州の臨淮郡での名声を前提に、しゃべったと思う。
魯粛が徐州を去ったのは、曹操に虐殺されて故郷が荒れたからだ。例外的な緊急対応である。一般化してはいけない。再生産手段を、積極的に捨てて、揚州に好きこのんで来たのではない。周瑜に母をとらえられたし。

魯粛のほかに、再生産構造をもたない「名士」は、司馬徽である。潁川郡をすてて、襄陽郡にきた。司馬徽は、琅邪の諸葛亮や、博陵の崔州平など、再生産構造から離れた「名士」を人物評価した。

潁川郡は、黄巾と李傕にあらされ、袁術と曹操がとりあった。司馬徽も、故郷をよろこんで捨てたのではない。再生産構造から離れたのは、やむを得ぬ結果だ。名士の性質として、捉えてはいかんよな。
証拠に、曹魏の典型的な名士として、渡邉氏があげる程昱と荀彧は、東阿と潁川から絶対に離れなかった。陳羣や司馬氏だって、曹魏の領内に故郷があるから、曹魏に仕えたのだ。
いま思いついたが、荀彧が袁紹を捨てたのは、潁川郡の攻略が、ムリっぽいからか。袁紹は、縁もゆかりもない冀州に根づき、汝南や潁川から遠ざかった。荀彧は、潁川への南下を、待ちきれず。
魯粛と司馬徽は、物理的に故郷を押し出された。なにも、後漢の体制に逆らうため、故郷にツバを吐いたのではない。


◆名士の性質2:豪族の支持をうける
全琮は、北来の名士に、家をかたむけて賑恤した。全琮は、民衆にたいして賑恤したのではない。つまり全琮は、生産構造=民衆からの支持を得て支配者になるより、豪族から名刺を集めたい。
渡辺信一郎1978は、おなじ全琮の史料を、ちがう読み方をした。全琮は、在地社会の再生産を保障するため、民衆に賑恤したと。ちがう。民衆でなく、豪族にめぐんだのだ。

ぼくは思う。話題の全琮の史料は、北来の名士にめぐんでいる。間違いない。しかし、いま北来の名士に賑恤したことが、在地の民衆を軽んじたことと、イコールになるか。ならない。
今日の日記で、ぼくがカレーを食べたと書けば、ぼくは牛丼を食べない人間か。じつは牛丼が多いかも知れない。これだけのデータでは、何とも云えないのだ。
イレギュラーだからこそ、記録に残したという論法もある。史料をあつかう歴史学者が、これを言い出すとキリがないから、禁じ手である。でもこの論法は、渡邉義浩氏も使っている。だから、引き合いに出してみた。笑


豪族すべてが、名士になったのではない。しかし、豪族でなくても、名士になれた人がいるのは確か。潁川のユ乗は、はじめ門番だったが、郭泰に評価されて、貴族になった。多田ケン介1975,1976が指摘したことだ。名声ひとつで、門番でも名士になる可能性が開かれた。
豪族だって、郭泰のような評論家(生産構造をすてた名士)と交われば、社会的な地位があがる可能性がある。

名士として伸しあがる可能性にかけて、魯粛はすすんで故郷を捨て、全琮はわざと民衆にめぐまなかった。直接はそう書いていないが、そうとでも云いたそうな書き方だ。ちがうと思う。
渡邉義浩氏の名士論に、つねに付きまとうとは、論理学でいう「前後即因果の誤謬」だ。ただ時系列で、Aがあり、Bが起きただけなのに、「AしたゆえにBが起きた」と、短絡的にむすびつけてしまう。
再生産構造から離れた人が、渡邉義浩氏に云うところの名士となった。名士は、社会的指導者になった。これは時系列。異論なし。しかし、これに因果関係を見出していいのか? いわゆる「結果論」ではないか? だって再生産構造は、持たないより、持ったほうが、ぜったいに有利じゃん
「結果論」の気持ち悪さは、のちの曹魏政権のところで、もっと顕著に出てきます。問題を保留して、つぎに行きましょう。


ぼちぼち疑問も出てきましたが、、つづきます。