表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第1章「名士層の形成」要約と感想

3節_袁紹と公孫瓚

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


四世三公_120

従来の研究は、袁紹が曹操にやぶれた原因をさぐる。
袁紹は四世三公だから、門生故吏がおおく、経済力と軍事力があった。満寵伝にあるように、官渡のとき汝南郡では、門生故吏が曹操に敵対した。
また袁紹は名声があったから、豪族から支持された。

袁紹政権の構造_123

山崎光洋1983は、袁紹が名士と婚姻したことを指摘する。扶風の馬氏、陳留の高氏、潁川の李氏、中山の甄氏、弘農の楊氏だ。

これは袁紹の婚姻だが、袁術の婚姻でもある。弘農の楊氏は、袁術との関係がクローズアップされ、曹操にきらわれた。袁煕と甄氏は、袁術でなくて、袁紹だけが利用できた婚姻のつながりだが。

董卓を討つとき、ただの渤海太守で、あまり軍事力のない袁紹が、盟主にかつがれた。権威があった証拠だ。

南陽で孫堅をつかってた袁術への期待は、もっと大きかったはず。なぜ袁氏のネームバリューは、袁紹だけのものとして、論じられるかなあ。笑
この原稿のタイトルが「袁紹と公孫瓚」だからか。


袁紹は、何顒グループに属す。汝南の名士は、冀州牧になった袁紹にまねかれた。曹操のしたには、汝南の名士がいない。袁紹が、汝南を総どりにしたことが分かる。

何顒の話で、つねに付きまとう疑問があります。
何顒グループの人材が、のちに曹操をささえて権力をもったから、さかのぼって「何顒すげえ!」となっているのか? それとも後漢末から、曹操が是が非でも仲間に入れてもらいたいような、有力な集団だったのか?
渡邉氏みたいに、「魏志」の列伝から統計を取るだけでは、分からないと思う。「魏志」に専伝をもつ重臣の、出身地や人脈の比率なんて、結果論の最たるものだ。曹魏は知れても、後漢末は知れない。

袁紹のしたには、支配領域を本貫とする冀州名士と、袁紹と個人的に結合した豫州名士がいた。袁紹は、後漢の寛治をつぎ、名士の自律性をみとめたから、派閥がバラけた。袁紹は、唯一無二の公権力をつくることは、できなかった。

このあたりは、渡邉氏のべつの本で読んでいるから、知っている。三国ファンのあいだで、ほぼ共通理解のようになっている?


「名士」と君主権力_128

袁紹と正反対に、名士を抑圧したのが、公孫瓚だ。君主権を確立するため、軍事力を強化した。曹操の青州兵、劉焉の東州兵とおなじだ。公孫瓚は、社会的地位がひくい人を優遇した。
谷川道雄1989は、異民族と接する辺境に、名士を抑圧する政権が成立しやすいといった。渡邉氏は、谷川氏に反対だ。渡邉氏の根拠は、陶謙だ。陶謙の徐州は、辺境ではないと。

自信をもって、ぼくは渡邉氏に反論できる。
陶謙は、辺境の武将である。強兵の産地、南方の丹楊郡が出身だ。陶謙の主力は、青州兵や東州兵にならぶ、丹楊兵だ。劉備に分け与えるほど、持っていた。谷川氏のいう、「辺境だから、名士を抑圧する」を、ぼくは面白いと思う。読んでみよう。
ちなみに谷川氏は「名士」という言葉をつかわない。


公孫瓚と初期劉備、陶謙の共通点は、商人をもちいたこと。麋竺は、陶謙から初期劉備にうつった。

やっぱり、陶謙は公孫瓚と似ているじゃないか。笑

血縁になぞらえた任侠も、共通点だ。任侠は、増渕龍夫1951によれば、儒教国家が成立するまえに尊重された、文化的な価値だった。
公孫瓚は、儒教から距離をおいて、名士を遠ざけた。だから、寛治する劉虞と袁紹は、公孫瓚の敵となった。
公孫瓚の智恵袋である関靖は、酷吏の出身だ。
しかし名士はつよく、公孫瓚は安定せず、孤立してほろびた。

おわりに_132

袁紹は、名士の文化的価値を、尊重しすぎた。後漢みたいに弛緩した。袁紹は名士のおかげで、地域の支配は安定したが、君主権力が弱いので、軍事的にやぶれた。劉表は、袁紹とおなじである。
公孫瓚は、名士の文化的価値を、否定した。呂布は、名士とかかわりを持たない。公孫瓚と呂布は、支配が安定しなかった。

呂布は、渡邉氏が名士だという、陳宮や陳登と、つきあっているじゃないか。呂布のことを、あまりに無視しすぎである。笑

君主権力と、名士がもつ社会的な規制力のあいだで、バランスを取らないと生き残れない。
名士とせめぎあった、曹操、劉備、孫権だけが、勝ち抜いた。

つぎは「蜀漢政権論」です

第1章は、ここまでです。
袁紹とか公孫瓚とか、個別の群雄の議論になれば、ぼくも参加できるように錯覚する。でも個別の性質を指摘しつつ、全体の議論を忘れてはいけない。気をつけねば。

「日々の生業にしばられず、高い文化的な価値をもち、名声を獲得して社会の秩序をかたちづくった」
という名士の姿は、魏晋の貴族たちが、美化した自画像である。
と、前ページでぼくは思いつきました。
渡邉義浩氏の名士論に、疑問らしいものは浮かんできました。でも、まだカタチになっておりません。要約をしつつ、感想をつけつつ、なにか言えるようになりたいと思います。100728