表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第1章「名士層の形成」要約と感想

2節_「史」の自立

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


はじめに_91

四部分類は、魏晋に始まった。魏晋に「史」がふえたので、独立した。先行研究が、一致する。しかし「史部」が独立した社会的な背景は、明らかでない。
魏晋の史書の特徴は、「別伝」がもっとも多くつくられたこと。ほとんどの別伝が、唐代までに散逸した。
別伝とは人物伝だが、後漢から三国・両晋だけにしかないスタイルだ。別伝がおおく書かれたことは、名士が皇帝権力から自律した証拠だ。

人物評価_93

名士の人物評価は、不安定だ。史料や鑑定家によってちがう。しかも曹操が「唯才」をかかげて、名士の人物評価にゆさぶりをかけた。人物評価を、理論化する必要がでてきた。
「才性四本論」が考え出された。才能と性質の関係から、同・異・合・離の4つに分類される。ただし岡本繁1962によれば、哲学的な議論でなく、政治的な派閥争いだ。同と合は司馬氏派で、傅コや鍾会が支持する。異・離は反司馬派で、李豊や王広が支持する。
つぎに劉邵『人物志』を書いた。空疎になった。

別伝の盛行_97

名士の人物評価は、九品中正にとりこまれた。評価は、人物の徳才を端的にあらわす「状」と、別の人物とくらべる「輩」でつくられた。
「状」は、もともと名士がもつ恣意性に流れた。『晋書』劉毅伝は、評価が愛憎でつけられたいう。

もともと史書は「春秋略」の一部で、帝王の記録だった。後漢末、儒教が相対化され、紙が普及した。史書が、おおく書かれた。
勝村哲也1970は、地域や個人の名誉のため、政争の道具として史書がつくられたという。汝南と潁川の優劣論。何晏と盧イクがやった「冀州論」など。
西晋は、著作郎、佐著作郎をおき、国史を独占しようとした。船木勝馬1987によれば、佐著作郎の習作が、別伝の起源だ。著作郎への適性を見るため、別伝を書かせてみた。

別伝をつくる目的は、縁故者をよく書き、自分の門地の社会的評価をあげること。または、ちかい趣味をもつ人の伝記をかき、自分の趣味の文化的価値をあげること。異議の申し立ても、別伝で書かれた。傅玄『焦先伝』などが例だ。

傅玄の『傅子』は、偏向がすごい。ぼくが、たびたびサイトで書いていることです。身内をたかめるという目的があるから、偏向そのもの=悪ではない。しかし、わざわざ傅玄の利益を、ぼくらが守ってあげる必要はない。

別伝を書くという行為は、国家に収斂されなかった。曹魏や西晋から距離をおいて、名士は家柄をたかめるため、別伝を書いた。

史料批判_104

偏向がひどいのが『孫資別伝』だ。別伝で孫資は、明帝の意向を尊重して、人事に口を出さなかった。しかし現実の孫資は、曹宇を私怨して、遠ざけただけだ。
別伝のかたよりを受けて、裴松之は史料批判をした。補欠、備異、懲妄、論弁した。儒教っぽく、音義や訓コするだけではない。裴松之により、史学が独立した。
裴松之は、貴族の自律的な価値基準が、崩壊することを危惧した。つまり、みんなが自分の一族のために史書を偽造し、ゴミみたいな史書があふれたら、史書のジャンルが見向きもされなくなると。ゴミの史書に足をひっぱられ、南朝の貴族の文化まで、スポイルされると。
裴松之は、河東の裴氏という、一流の貴族だ。貴族の地位を保障するため、史学を家学にとりこんだ。

裴松之による偏向を、検証できたら、とても楽しい。しかし、裴松之が捨てた史料が手に入らないから、もう、なんとも云えない!
裴松之は、三国の人物から、直接の利害がほぼない。司馬氏が、やっと滅びた直後だ。裴松之の客観性を、信じておくしかない。もし裴松之が、渡邉義浩氏がいうように、偏向をきらったなら、信用できるのだが。


つぎの劉宋は、別伝がない。氏族譜が中心になった。貴族の家柄が固定したので、個人の伝記で、個人の名声をたかめる必要がなくなった

この節を読んで、ぼくが思うこと

渡邉義浩氏は、別伝の偏向をいう。しかし、別伝に限らず、すべての記録には、偏向がある。なぜなら、記録するのは、目的があるからだ。

史料批判の常識を、確認しただけです。ぼくが、とくに新しいことを、言い出したのではありません。

ひとは、基本的には、怠けるようにできている。目的がなければ、わざわざ書かない。また、書いたものが、伝えられもしない。

ほとんどの場合、史書がつくられる目的とは、渡邉氏がいうように、自分の一族や趣味をたかめること。
陳寿『三国志』の本文だって、元ネタになった史料は、一族や趣味のために書かれたものだろう。名声や文化が、何割か水増されている。名士論を読むとき、注意しておきたいことだなあ。
「日々の生業にしばられず、高い文化的な価値をもち、名声を獲得して社会の秩序をかたちづくった」
という名士の姿は、魏晋の貴族たちが、美化した自画像なんだ。

つぎ、袁紹と公孫瓚。なぜこの順番なのか、不明ですが。