1節_漢魏交替期の社会(2)
三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。
「名士」と在地社会_76
国家が把握できない「塢」「壁」が出現した。
田疇の集団が、典型的だ。ただし田疇は、川勝義雄が述べたように、民衆のリーダーではない。田疇が付き合ったのは、父老とよばれる豪族層だ。田疇は、曹操に帰属するとき、せっかく支配権力が浸透している徐無山中をすてた。再生産構造から、名士たる田疇は離れている。
田疇のほかに、陳寔が裁判の機能を代行したように、名士が豪族の支持を受けて、社会を統合することはあった。
程昱は、民衆をバカあつかいして、大姓の薛房とともに、東阿県をまもった。史料に「民の望」とあっても、デモクラシーではない。
『後漢書』党錮で張倹は、再生産構造にたいして賑恤をやりすぎて、財政を破綻させた。しかしこれは、名士が再生産構造をおもんじた証拠にはならない。賑恤する前から、張倹は「党人」の名声があった。
大前提として、人は食わねばならない。再生産構造を軽視する人は、絶対にいない。豪族であろうが、名士であろうが、食事は大切だ。
史料に、再生産構造をまもる話が、あまり出てこないのは、当たり前すぎるからだ。現代日本で定職にある人は、食い扶持のことを、あまり考えずにすむ。日記には、お金の心配を書かず、交際の話題でもつづるだろう。しかし無職の人が日記をかけば、明日のご飯の話が、多くなるのだ。身の回りを見て、分かったことだ。笑
張倹は、めずらしくも再生産構造を維持できなかったから、史料にのこった。みな再生産構造を維持して、それが当たり前だった。
また、豪族への賑恤が史料にのこるのは、珍しい例だから。「1ミリも腹が膨れないのに、出費したぞ」という興味だ。
もしくは、子孫が記録するとき、「私の祖先は、あの人を助けたのだ」とアピールできる。「私の祖先は、食うに困らぬ経営をした」なんて、書いてもアピールにならん。
マルクス史家をムキになって否定するあまり、極端に走った?
三国政権と「名士」層
曹操は、豪族集団を吸収した。許褚など。
曹操は田疇を取りこめなかった。田疇は、袁尚にコク礼した。仕官を拒んだ。荀彧と鍾繇は、田疇の態度をみとめた。名士と曹操のせめぎあいが、田疇の例でも始まっている。
では名士は、なぜ皇帝の官僚になったか。名士のたがいへの評価は、恣意的で主観的で、分裂しがちだった。許劭は、陳寔や陳蕃をきらった。汝南、潁川、山陽、太原には、べつべつの名士番付があった。崔琰は、楊訓をきらった。毛カイが罷免された。
皇帝に裏づけられないと、名士の立場は安定しない。
つぎの節にいく前に
同時代に生きた人が、おたがいを評価しあうのは、つねにあることだと思う。会社でも学校でも、人物評があるでしょ。後漢末のめずらしい現象ではない。漢室の官僚制がはたらいているときだって、採用や昇進は、他人からの評価に拠ったはずだ。
後漢末が、他の時期とちがうのは、人物評が史料に残りやすいか、残りにくいかだ。
なぜ後漢末からはじまる史料で、人物評価の話が多いか。つぎの節で、渡邉義浩氏が明らかにしてくれます。
ぼくは思う。渡邉義浩氏は名士論を、ご自分で殺そうとしていないか? 後漢末に「人物評価が盛んになった」のでなく、「人物評価の史料が作成&残存しやすくなった」のだと自ら云えば、名声による社会が出現したとする、名士論が特徴をうしなう。
渡邉氏の論法であやうく思うのは、裴松之の注釈を、史料批判なく採用してしまうところ。たとえば、ご先祖さまバンザイの『別伝』のたぐいを、論拠とされる。
バンザイ系の史料は、有名人とのからみが多く描かれる。なぜなら、有名人と交流したとか、コメントをもらったと書いたほうが、ご先祖にハクがつくから。あたかも、人脈にもとづく名声社会が存在していたように、錯覚する。ホントウだろうか。
また渡邉氏の名士は、文化的価値を専有したことが、特徴とされる。これも、史料批判が足りない気がする。むかしから、食うことに関係ない抽象論をぶつのは、高級なインテリの仕事だ。美談となる。ご先祖をバンザイするとき、再生産構造(明日のメシ)を血眼になって維持したことを書くより、サロンで交際した話を書くだろう。
というわけで。
渡邉義浩氏は次節で、史学が独立したことを解く。これによってご自身の名士論が、ご先祖をバンザイしたい、六朝貴族の宣伝戦略に踊らされた議論だと、自ら証明なさってしまいました。いや、証明しているように、ぼくには読み取れます。