表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第4章「曹操政権論」要約と感想

1節_曹操政権の形成(1)

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。

目標は、渡邉義浩氏の研究を、まず自分のなかに取りこむこと。史料を読むときに、ふまえたい。
あわよくば、渡邉義浩氏への反論を、くみたてたい。自分で原典史料を読んでいる人ならば、誰もが、反論のチャンスがあると思うのです。ただのファンにすぎなくても。
構成は渡邉氏の本のまま。タイトルの後ろの数字は、ページ数。

はじめに_281

曹操は、文化人としての才能だけで、乱世を治めたのではない。将軍を統御し、官僚を操縦しなければ、君主の権力を打ち立てられない。政権樹立について、渡邉氏が論じる。

曹操政権をめぐる諸研究_281

川勝義雄が、日本の曹操研究の中心。初期の曹操の家臣は、任侠的な結合をした。西欧中世と似ていると唱えた。
五井直弘1956は、故吏が多いから、家父長的・私的隷属的だとした。三国は貴族制でなく、秦漢帝国とおなじだと考えた。

ここまでは、マルクス色がつよい。渡邉氏は、曹操政権に「世界史の基本法則」に適用することは、けっきょく難しかったと断じる。いまマルクスのニーズは、もうないからねえ。


内藤湖南1922は、魏晋を貴族制とする。

ここから、魏晋貴族のルーツは、後漢のだれか?という議論がはじまる。結論は「よく分からん」である。研究者たちですら、定見にたどり着かないことが、確認できればよい。史料的制約が、きついのだろう。引用します。

川勝義雄1950は、後漢末の清流が、魏晋貴族の母体だとする。
増渕龍夫1960はいう。清流派や太学生の儒教は名目化し、清流が外戚の竇武とむすぶなど、矛盾が生まれていた。清流派に向けられた、君主に仕えない人士(逸民)の批判こそ、儒教をつらぬいていると。
川勝義雄1967はいう。逸民だって、清流派の外延だ。清流も逸民もセットになり、濁流の領主化にレジスタンスしたと。

吉川忠夫1967はいう。六朝貴族をひらいたのは、清流の党人でも、逸民的な人士でもない。就くでもなく、就かぬでもない生き方をした権道派である。

3年くらい前、大阪大学の図書館で、このあたりの研究史を読んで、ぼくのなかの後漢末が破綻した。
権道派という、『後漢書』や『三国志』に出てこない、オリジナルの用語で説明されると、もう分からない。だって、何でもアリになるじゃん。

多田ケン介1970は、清流士人と、治められる側の黄巾に、一連のレジスタンスがあることを云った。

◆渡邉義浩氏が対決するのは、川勝氏と谷川氏
川勝義雄1970aと谷川道雄はいう。
清流貴族のルーツは、矛盾をかかえた。
矛盾とは、領主化する傾向をもちつつ、一般民衆の輿論にしばられたせいで、大土地所有できなかったこと。
川勝氏と谷川氏は、清流貴族のルーツは、郷論の支持にもとづく「豪族共同体」だ定義した。

矢野主税1976,1976aは、川勝氏が考えた全国的な士大夫の集団を否定した。曹魏政権に密着した人が、貴族となった。たかい官位を世襲するうち、在地性を失い、国家からのサラリーに寄生する官僚になったと。

ぼくは、矢野氏の話に、納得できます。


矢野氏に対して、さらに渡邉氏は反論する。
矢野氏は史料にもとづき、後漢と曹魏の官僚の家が、連続しないことを云った。それは史料から見て、まちがいない。しかし、後漢と曹魏のつながりを、論じるのを辞めてしまっては、いかんだろうと。
渡邉氏曰く、後漢末の党人の名声が、魏晋の貴族につらなった。

「AとBは、関係ないよ」と言うだけなら、学者は必要ない。一見すると関係ないものを、つなげて見せて、つながる理由を述べてこそ、学者の存在価値がある。
ぼくは、矢野氏の結論に共感する。しかし、矢野氏の態度のまま終わってしまったら、けっきょく何も言っていないのと同じ。これも分かる。。


中村圭爾1982はいう。史料に出てくる「郷論」とは、デモクラシーではない。渡邉氏は、この中村氏の話を、継承する。

◆汝南と潁川
万縄楠1964は、曹操の政権構造を、理論化した。政権の基盤となった「譙沛集団」と、世族地主集団の「汝潁集団」が抗争したと。
唐長ジュ1981は、潁川出身者がおおい原因を2ついう。
ひとつ、許県をふくむ潁川郡を安定させるため。
ふたつ、もともと汝南と潁川に多かった名士を、曹操が荀彧に推挙させたから。
ほかに唐長ジュは、曹操が、崔琰を中心にして冀州人士をランクづけし、韓嵩を中心にして荊州名士にランクづけしたことを云った。

つぎ、曹操が登場します。