2節_寛治から猛政へ
三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。
はじめに_309
曹操は、荀彧を殺したあとも、潁川名士をもちいた。陳羣、鍾繇ら。
丹羽兌子1970はいう。清流士大夫の理想は、曹魏の建国を手伝ったせいで、矛盾してしまった。
堀敏一1996はいう。後漢と対立した名士が、曹魏政権とかかわって、変容した。地方名士から、王朝貴族に変貌した。
渡邉氏は、名士が曹魏政権に、従属したのではないという。
名士がもつ、文化的価値を中心とする、儒教理念の内発的な展開から、考察したいそうだ。
後漢の「寛」治_310
今文『尚書』堯典にある「五教在寛」が、後漢の政治方針の根拠だ。『後漢書』章帝紀で、寛治をうたった。
陳寵伝では、廷尉の陳寵まで「寛恕」に務めていた。
いっぽう『傅子』で郭嘉は、袁紹の寛治を批判した。
古文『春秋左氏伝』にある「寛猛相済」を根拠にして、部下を厳格に統制すべきだという、考え方が出てきた。
「猛」政への傾斜_313
後漢の順帝のとき、王符は『潜夫論』で、法律を重視した。
ただし王符は、法律バンザイではない。法律は、太平を積極的につくる手段でなく、「民事」を治めるものに過ぎない。こう限定をつけた。王符は、儒教の内側から、カイゼンを始めた。
桓帝の後期に、崔寔は『政論』を書き、前漢の文帝は、前漢の宣帝に劣るとのべた。とはいえ、やはり法家バンザイではない。
池田秀三はいう。『礼記解コ』の盧植や、『独断』の蔡邕は、実践に移すことを重視した。実践した儒者は、党錮で敗れた人たちだ。
党錮の禁のとき、何休は『春秋公羊伝解コ』で、永遠の漢帝国を考えた。鄭玄『六芸論』は、後漢では活用されなかったが、西晋に引きつがれた。
荀悦『申鑑』は、漢帝国を復興する希望を託した。荀悦は『漢紀』を書いた。列伝をはぶき、他の覇者から、漢室を際立たせた。
荀悦は、仁義を基本としつつも、猛政(肉刑の復活など)により、漢を復興したいと考えた。寛治の後漢を守りつつ、猛政の曹操に仕えた荀悦の生き方は、荀彧に似ている。
肉刑復活論と潁川「名士」_317
後漢では、章帝が白虎観会議で、今文を正統に定めるまで、肉刑の論者はいた。
光武帝のとき、梁統が肉刑の復活をいった。班固も、肉刑に賛成だ。
潁川名士は、猛政したいから、肉刑に賛成だ。荀彧、陳紀、鍾繇らが、肉刑を提案した。だが、後漢の孔融、王脩が反対した
陳羣をトップに、潁川名士は「新律十八篇」をつくった。君主権力を教化し、後漢とはちがう国を作るため、猛政を具現化しようとした。
曹操政権は、荀彧の死から、突然わかりにくくなります。
渡邉氏は、曹操が荀彧を殺した原因を、名士たちが、貴族に変わるのを阻止したからとする。貴族という用語を持ち出すと難しくなるが、要は、つよい臣下を、君主が片づけたんだと。
「君主と名士との、せめぎあい」と表現すれば特徴的に聞こえるが、珍しい話ではない。つよい部下がウザいのは、万国万時、共通だろう。
渡邉氏の本は、ここで休止します
このあと時代を下らせ、曹魏のふところの深さを、知ることができる論文がつづきます。しかし、いま要約と感想をつくりません。
論文の、文意だけなら追える。でも、ぼくが史料の原文を読んでいない時代なので、自分で考えることができない。これが、いま着手しない理由です。
渡邉氏の本の再開は、来年かも知れないし、再来年かも知れません。いまは後漢末について、もっと考えたいと思っています。
最後に、確認を。渡邉義浩氏が論じるところの、
「日々の生業にしばられず、高い文化的な価値をもち、名声を獲得して社会の秩序をかたちづくった」
という名士の姿は、魏晋の貴族たちが描く、美化した自画像である。
ぼくが渡邉氏の本を通読した印象は、これです。史料批判の甘さが、ときどき気になります。これを取っかかりに、ぼくなりの三国志を考えてみたいと思います。10年7月分、おわり。100731