表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第4章「曹操政権論」要約と感想

1節_曹操政権の形成(3)

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


徐州大虐殺_289

曹操は徐栄に敗れた。しかし、のちに献帝を擁立する、大義名分になる。漢の護持をかかげる名士は、曹操の存在を注目した。
曹操は191年まで、袁紹の陣営にあった。

曹操の伝記は、石井仁氏で、いちおう完成したという認識のようです。石井氏に沿って、概説されてました。
ぼくは、191年を自立とするかも、議論が分かれると思うが。ぼくは、袁氏の影響を、大きく見積もってしまうので、196年だと思う。

曹操の兗州支配は、陳宮と鮑信という、兗州名士の規制力をたよった。鮑信は、青州黄巾との戦いで、死んでしまった。陳宮の規制力が、頼みの綱である。

名士論を休み、先行研究の紹介がここで入る。
曹操は袁術を倒したあと、揚州人士を加入させたと。だれ?
曹操がつかう野戦型の将軍は、1万人をこえる兵力をもたない。方面司令官は、一族と親族で占められた。李典が部曲を移して、曹操に歓迎された。曹操は、将軍と兵力が、個人的に結びつき、割拠することを警戒した。
ぼくは思う。曹操じゃなくても、警戒するだろうねえ。


石井仁2000はいう。曹嵩が襲撃されたのは、袁紹派への徴発だ。曹操が虐殺すると、笮融、諸葛瑾、厳畯などの徐州人士が、江東ににげた。
兗州人士の辺譲は、郭泰に評価された名士だ。辺譲は、曹操の虐殺をとがめた。兗州人士の陳宮は、そむいた。

辺譲は、すでに死んでなかったか? 裴松之か盧弼が、証明していました。渡邉氏は、辺譲の話が便利だから、史料批判せずに使っていますが。

「魏志」に専伝は99人ある。兗州の名士は、7人しかいない。呂布を倒しても、曹操の兗州支配は、安定しなかったことが分かる。曹操は兗州を、新たな拠点を求めざるを得ないそれが豫州の潁川だった。

曹操は兗州を、なかば、あきらめて、豫州に移った。
と、ぼくには読めます。
列伝の数で論証する手法は、あまり賛同できませんが、おもしろい話だと思う。もともと兗州は、刺史が殺されたあと、曹操が電光石火で奪った土地。袁術が、手を出す隙を与えなかった。だが袁術は兗州をあきらめず、曹操に戦いを挑んだ。匡亭の戦い。
陳宮と張邈の黒幕は、袁術です。張邈が袁術を頼ったことからも、わかる。袁術は、兗州を得られないなりにも、呂布をつかい、曹操にあきらめさせることに、成功した。渡邉氏の話をつなげると、そうなります。
曹操が新しく選んだ潁川は、袁術の勢力圏。曹操は袁紹から自立するため、袁術の懐に飛び込んだことになる。袁紹から、土地を切り取るのは難しいと思ったのだろう。
武帝紀はいう。曹操は、汝南と潁川の「黄巾」と戦ったと。これは、袁術を駆逐したんだと思う。袁術は、在地勢力を軽視したから、曹操が切り崩すのはカンタンだったかも。


荀彧の加入と潁川「名士」_294

荀彧のおもな仕事は、袁紹の分析。
曹操集団には、汝南人士が、和コウしかいない。汝南人士は、ほぼすべて袁紹に従った。官渡のとき、曹操の領土であるはずの汝南で、袁紹の「門生・賓客」が曹操と戦った。
汝南を鎮圧した満寵が、戸2万、兵2千を得たほど、汝南に敵がいた。

汝南は、曹操領ではない。そう考えたほうがキレイだ。


曹操は、汝南に名声があるが、袁紹に敵わない。そこで曹操は、潁川の荀彧がもつ規制力をたよった。曹操は、潁川に名声がないが、荀彧のおかげで人材を獲得した。

兗州から、豫州へ。曹操が、荊州の張繍と戦い始めるのは、このころだ。兗州にいたら、荊州との関係は、あまり気にならない。豫州にいたら、荊州と関わらねばならん。

曹操は荀彧のすすめで、献帝を守った。献帝がいたら、曹操は漢を滅ぼせないという制約をうける。だが、徐州虐殺に向けられた名士の反発をかわすには、献帝を守るしかなかった。

曹操は成功する。だから史料では、明確なビジョンを持って、献帝を迎えたような話になっている。しかし実際は、渡邉氏がいうように、やむにやまれず、生き残るために献帝を守ったのだろう。
やむにやまれない理由が、名士からの不支持なのかは、ぼくは判断を保留しますが。


曹操政権の展開_298

曹魏政権の構造を分析するとき、廟庭に祭られた功臣の顔ぶれを分析すればよい。曹氏と夏侯氏がおおい。汝南がいない。荀彧の人脈がおおい。出身州は、ばらける。

廟庭の顔ぶれが、役に立つのかなあ。役に立たなくはないが、それのみを論拠にするのは、ちょっと乱暴だと思います。列伝の数と同じ危うさをもつ。
袁紹に勝つまでの曹操を、全国政権のタマゴでなく、河南の支配者でなく、潁川だけの地域政権だと見ると、いろいろ気づけるかも知れない。
荊州に伸びず、揚州にも伸びず、司隷は使えず、兗州をあきらめ、青州は遠すぎてムリ。おなじ豫州でも、陳国は袁術、汝南は袁紹だ。


袁紹をたおすまでの自棄、曹操の基盤となった潁川名士に、どんな特徴があったか。つぎの節で論じられてます。つづく。