表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『構造』 第4章「曹操政権論」要約と感想

1節_曹操政権の形成(2)

三国ファンのバイブルである、
渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院2004
をやっと入手しました。要約しつつ、感想をのべます。

地の文は渡邉氏の論文より。グレイのかこみは、ぼくのコメント。


曹操と「名士」との出会い

曹操の理想は、橋玄だ。橋玄は「橋君学」をはじめた橋仁の7世孫。橋玄は寛治でなく、猛政した。皇甫氏の汚職を摘発し、人質のわが子を殺そうとした。橋玄は、曹操を許劭に紹介した。汝南の許劭は、名士の人物評価の中心だからだ。
汝南と潁川は、陳蕃と李膺がいて、党人のメッカである。

この因果関係が、いつも、とても気持ち悪い。おそらく、すべての三国志の本に、書いてある逸話ですけど。違和感ある人はいないのかな。
のちに曹操が魏王になり、潁川や汝南の名士が、高官を占めた。曹操にとって、潁川や汝南にむすびつくとは、いかにも出世の要件であるように見える。曹操を許劭に会わせた橋玄は、心優しいスカウトマンに見える。しかし、時系列がぎゃくなんだ。
現時点、後漢末の潁川や汝南は、名士の産地ではない。ただの、政権のあぶれもののハキダメだ。のちに潁川や汝南の出身者が、曹操のおかげ?で、たまたま勝ち残った。曹操がいなければ、潁川なんて、目立たなかったはず。時系列をさかのぼって、ありがたがるのは、変じゃないか。ぼくら現代日本人に、潁川郡を宣伝するメリットはないし。笑
橋玄の行動は、せいぜい自派に、若者を1人さそっただけそれ以上でも以下でもないはず。
日本史の例で悪いですが。わかい豊臣秀吉が、わかい織田信長に気に入られたことが、いかにも天下統一の布石のように、騒がれるのも気持ち悪い。当時の信長は、ただのバカ殿じゃん。未来は、不確定だ。


渡邉義浩1991はいう。党人は、橋玄のような歴代高官ではない。政治的の地位がひくい豪族が、党人のレッテルを貼られた。豫州の汝南と潁川、兗州の山陽がおおい。後漢に高官をだした、河南と南陽は、党人を出さない。

河南や南陽を、後漢末にはじめに抑えたのは、袁術でした。史料に書かれない袁術の人脈は、南陽にある後漢の名家から、見つければいいのか。范曄や陳寿が、記録してくれないから、妄想するしかない。
思いつきました。
上にまとめた、曹操政権の研究史を借りれば、話がつくれる。
袁術は、汝南という恵まれない地域の出身だった。代々三公を出すことで、汝南の在地性からフリーになり、純粋な中央官僚になった。中央官僚として、後漢で高官についた南陽や河南の豪族とのあいだに、人脈をそだてた。この人脈を活かし、南陽の「望」として割拠し、河南の洛陽から董卓を追い出すことに成功した。
袁紹は、袁術の正反対をゆき、在地性にこだわった人集めをした。汝南の名士は、あとから曹操政権に吸収された。とか。笑

渡邉氏はいう。橋玄は、時代の先端をいく「党人」の中心地である汝南郡を名声の「場」とする「名士」に曹操を推しあげたのである。

原文のまま、引用しました。漢字はカンタンにしましたが。
この一文で、渡邉氏が、結果からさかのぼって歴史を眺めていることが分かる。「時代の先端」なんて、結果論じゃん!

曹操は、許劭の評価をうけた。汝南名士社会に、仲間入りした。だから、コメントの中身が何であろうと、喜んだ。

コメントをもらえば、仲間入り。渡邉氏はこれを提唱し、ファンのあいだでも教科書的な見解だろう。だが、史料の読み方が、あまいと思う。
史料では、たしかに名士は、たがいをコメントし合っている。しかし、仲間だからコメントするのであって、コメントするから仲間ではない。論理学の初歩の本に、よく書いてある誤りを犯していませんか?

名士は、全国的な情報のネットワークを持った。曹操が、このネットワークに入れたのは大きい。

のちに潁川や汝南の人は、全国的なネットワークをもつ。渡邉氏のおっしゃることは、ぼくが史料を見ても感じることだ。
だが、また時系列がひっくり返っている。汝潁の名士は、広大な領土をもつ曹操政権で主流になったから、ネットワークが全国に育ったのではないか? 初期の荀彧は、故郷の潁川にはくわしいが、全国に詳しいとは思えない。そんな素振りは、見せないけどなあ。


袁紹の地位は高い。曹操は何顒の下位だ。袁紹は、何顒と同格だ。袁紹と何顒は「奔走の友」だ。袁紹は四世三公だし、汝南が地元だから、汝南名士社会で、ずば抜けた存在だった。

「ずば抜けた」は、渡邉氏がつかった言葉。
家柄と出身地をいうなら、袁術もおなじ条件だ。袁術も「ずば抜け」るべきだ。袁術がちがうなら、理由の説明がいる。
史書は、思考するのが面倒になると、個人的な性格のせいにする。しかし、物足りない。
ぼくは思う。袁術は、地元に溜まっている日陰ものに、興味がなかった。もっと現実的に、政治で活躍する道をさがした。
袁紹と何顒の友情をあらわす「奔走」は、勢いまかせに、暴れているだけだ。あとでテロをやる。現体制をキラっているくせに、三公の家柄に惹かれるなんて、態度が一貫しない。ろくでもない。笑
たまたま400年も続いた漢室が倒れた。袁紹たちは、珍しすぎる時期を生きた。だから、袁紹が交際した日陰ものは、たまたま脚光を浴びた。しかし、大多数の予測どおりに動けば、袁紹はただの挫折者である。
袁紹は妾の子で、自棄に不良とつき合った。不良は、自棄な貴公子が降りてきて、交わってくれたから、後漢での出世の糸口をもとめて、群がった。


武帝紀にひく『逸士伝』はいう。曹操は汝南名士の一員として、袁紹の母の葬儀に参加した。3万人もが参列した。

この史料では、袁紹と袁術は、共通の母を亡くした。しかし、袁紹と袁術の母が同じであることの証明には、ならない。『逸士伝』は、つぎのセリフを曹操に言わせることが、目的である。演出のため、袁紹と袁術を、同じ母の葬式に出席させているだけだ。曹操曰く、
「あの袁紹と袁術を倒さねば、これから起こる乱は治まらない」
アホみたいな、後世の創作だと分かる。
渡邉氏が云うように、もし曹操が汝南名士社会に、かろうじて入れてもらえたなら、トップの袁紹を悪く言うわけがない。
これを論拠にした渡邉氏は、矛盾しているし、史料を信じすぐでは? ぼくは「陳寿が正しく、陳寿と矛盾する裴注はウソだ」とは言いません。しかし、今回の『逸士伝』ほど典型的な創作風だと、警戒したくなる。
並行して読んでいる渡邉氏の『「三国志」の女性たち』山川出版社では、裴注をすべて「史実」と扱っている。言葉の定義を確認せず、批判してはいかんのだが、史料批判に甘さを感じる、、

渡邉氏はいう。『逸士伝』にある3万人という人数から、袁紹と袁術が、汝南名士社会の中心だったと分かる。また曹操のセリフから、ゆくゆく二袁に対抗することを目指していたと分かる。

前者の指摘、3万人の動員という記述は、なんらかの名士社会の事実が、含まれていそうだ。3万人でなかったとしても。
しかし後者の指摘、曹操の志は、あとづけでしょうね。


次回、荀彧が参加します。もっと袁氏の話がほしい。笑