京兆の韋氏と対抗した、扶風の馬超伝
驢馬の会にむけて、馬超伝を予習。
『三国志集解』を読むだけですが。
耿鄙のあと、董卓、李傕、鍾繇にしたがう馬騰
馬超は、あざなを孟起。右扶風の茂陵の人である。
父の馬騰は、霊帝の末期に、辺章、韓遂らと、西州で起事した。初平三年(192)、韓遂と馬超は、長安にゆく。韓遂は鎮西将軍となり、金城へ。馬騰は征西將軍となり、郿県へ。のちに馬騰は長安をおそい、涼州にもどる。司隸校尉の鍾繇は、關中に鎮した。馬騰は馬超をやり、鍾繇にしたがい、平陽で高幹を討つ。馬超は、龐徳をひきいて、郭援の首をきる。
のちに馬騰と韓遂は、和せず。京畿にかえりたい。馬騰は徵され、衛尉となる。馬超は偏將軍、都亭侯。馬騰の部曲を領した。
『典略』はいう。馬騰は、馬援の後裔。桓帝のとき、父の馬子碩が、天水蘭幹尉となる。
ぼくは思う。桓帝のとき、天水が荒れたっけ。桓帝紀をみたら、推測できるかも知れない。
天水郡は、「魏志」明帝紀の太和二年にある。『郡国志』はいう。漢陽郡に蘭幹がある。王先謙はいう。蘭幹県は、曹魏がはぶいた。『晋書』にない。場所はわからない。
のちに隴西にとどまり、羌族と錯居した。馬騰は、彰山から材木を切り出した。
靈帝の末年、涼州刺史の耿鄙は、奸吏を任信した。王國らは、氐羌と反叛した。
ぼくは思う。180年代後半、涼州は、わるい刺史・耿鄙によって、荒廃した。韓遂たちが活躍する土壌となった。ただし耿鄙は、ほんとうに単なる悪人だろうか。史料批判をやっておきたい話だ。
涼州が、曹操どころか、西晋にも治められなかったから、耿鄙は、その責任を着せられたのかも。後漢の地方官なんて、たいていは身内に便宜をはかり、金もうけをしていた。異民族の討伐がむずかしいのも、当然だ。耿鄙は、特別な悪人でない。
馬騰は州郡に応募して、軍の從事となる。部眾を典領した。
馬騰は功績により、軍司馬となる。偏將軍、征西將軍にうつる。
征西将軍になったのは、陳寿の本文から、李傕の朝廷だとわかる。じゃあ、そのまえの偏将軍は、董卓に任じられたか。馬騰が、やんわりと董卓の下にいれば、李傕と同僚となる。李傕は、董卓のもとで官位が低かった。馬騰が「李傕になんか、したがうか」と対抗意識を燃やしたのは、わかる話だ。
つねに、汧隴の間にいた。初平のとき、征東將軍となる。
ぼくは思う。初平は、193年までだ。征西将軍のつぎに、征東将軍なんて、横ばいの異動では、モチベーションが起こらない。名目でなく、実際の任務として、東を征せよと期待されたか。西が鎮まり、東で反乱が起きたのか?
むじんさん(@yunishio)はいう。たしかこれ誤記かなにかだったような…。後漢紀に平狄だかなんだかと書いてあったはず。ぼくは補う。『後漢紀』じゃなく、『資治通鑑』かも知れません。馬騰が安狄将軍、韓遂が安降将軍になった。胡三省いわく、暫定的な将軍号で、また後世にないと。
むじんさん(@yunishio)はいう。征東征西は雑号でも一番上、安狄なら一番下ですね。就任の時期が違う。張済の鎮東と同じ。
このとき西州では、穀物がすくない。馬騰は上表して、池陽で穀物を得たい。
ぼくは思う。董卓の母が、池陽君。李傕は、池陽侯。馬騰は、董卓の遺産をねらったか。池陽に兵糧があるとしたら、董卓が蓄えたものだろう。李傕と馬騰が衝突するのは、食料が原因かも知れない。すごくよく、わかった。
長平の岸頭にきた。
部将の王承らは、馬騰に殺されるのを恐れ、馬騰の軍営を攻めた。馬騰は敗れに、西ににげた。
三輔が乱れ、東にゆかない。馬騰は、鎮西將軍の韓遂と、異姓兄弟となる。のちに敵対する。韓遂は、馬騰の妻子を殺した。
建安の初め、司隷校尉の鍾繇、涼州牧の韋端をおくり、秩序をもどす。馬騰を徵して槐裏におき、前將軍、假節、槐裏侯とする。異民族にそなえる。
曹操の涼州経営って、どういう特徴があるのだろう。鍾繇は潁川の人だが、韋端は京兆の人。韋端は、地元の人である。韋端が中央で太僕になると、子の韋康が涼州刺史となる。馬騰が中央にゆくと、馬超が部曲をついだことに似ている。
馬超に殺される。この流れをみると曹操は、韋氏と馬氏をペアで張り合わせて、バランスをとっていたかも。馬騰は前将軍だから、充分に官位がたかい。のちに馬超は反乱し、直接的に韋康をねらう。曹操との関係はともかく、韋氏と馬氏がバランスをとっていたのは、ホントウかも知れない。
建安十五年(210)、馬騰は徴されて衛尉となる。
ぼくは思う。もし208年の出来事にすると、張既が説得している時間がないということか。曹操が河北を攻めているとき、馬騰は何をしていたんだろう。馬超が、高幹を攻撃したことから、曹操の味方である。説得の必要がない。ふたたび張既が、馬騰を中央によぶ理由がわからない。「曹操が天下統一するから、儀式に出席せよ」という用件では、あるまいに。曹操は荊州、揚州の遠征を、何年間と見積もっていたのか、気になる。張既の使い方から、伺い知れないかな。
はじめ曹操が丞相になると、馬超を辟したが、就かず。のちに司隷校尉の督軍從事となり、郭援を斬った。徐州刺史、諫議大夫となる。馬超が許都にゆくと、馬超は偏將軍となる。馬超だけ、鄴にゆかず。
涼州刺史の韋康と対立し、漢中ににげる
馬超は、韓遂とあわさり、潼関に進軍した。曹操と韓遂は、單馬會語した。馬超は曹操を殺したいが、許褚がにらむので、動けない。
「魏志」武帝紀の建安十六年にくわしい。読まねば。
賈詡に離間されて、馬超は敗れた。
『山陽公載記』はいう。曹操は「馬超が死んでくれないと」と言った。
曹操は、安定(郡治はケイ原)にきた。北方に有事があり、曹操は東にもどる。
楊阜は曹操に言った。「馬超をおいて東にかえれば、隴上の諸郡は、国家の領土でなくなる」と。
ぼくは思う。郡をつくるには、意図がある。李傕が、漢陽あたりを、くわしく統治しようとしたか。それとも、太守の席数をふやすための政策か。
馬超は、隴上の郡縣を寇した。涼州刺史の韋康は、冀城(漢陽の郡治、涼州の州治)による。馬超は、征西將軍、並州牧,督涼州軍事を自称した。韋康は、故吏の民・楊阜、姜敘、梁寬、趙衢らとはかり、馬超を撃ちたい。楊阜と姜敘は、鹵城で起兵した。
梁寛、趙衢は、馬超を冀城から閉めだした。馬超は、漢中の張魯をたよる。劉備にくだった。
『典略』はいう。建安十六年(211)、馬超は曹操に敗れ、安定から、涼州へゆく。張魯から、都講祭酒にしてもらう。張魯は、娘を馬超の妻にしたい。ある人が張魯を諫めた。「馬超は、親族を愛さない。嫁がせるな」と。
馬超の妻は、楊氏だ。楊阜伝にひく皇甫シツ『列女伝』にある。馬超の妻は、冀城で死んだ。楊阜伝にある。ぼくは思う。妻が楊阜と同姓。なにかある。早く見なくちゃ。
馬超が曹操にそむく前、馬超の妻の夫・董种は、三輔にいた。
ぼくは思う。『典略』がいきなり「种」と、名だけで呼び始めるのは、おかしい。裴松之が注釈するとき、順序を変えたのだろう。『典略』がつけた馬超の家族がらみの記事は、董氏しかないから、さしずめ趙一清にしたがう。ちくま訳も、董种と、いきなり書いている。
馬超が敗れると、董种は漢中にゆく。
正旦、董种が馬超を祝うと、馬超は血を吐いた。「祝えない」と。馬超は張魯に兵をもとめたが、許されず。張魯の部将・楊白らは、馬超をジャマした。馬超は武都から、氐中ににげた。蜀にゆく。建安十九年(214)である。
蜀将の馬岱が北伐し、張魯が馬秋を殺す
劉備は馬超をむかえた。馬超を平西將軍とし、臨沮を督させ、前都亭侯とした。
銭大昕はいう。「前」は衍字である。先主伝にも、都亭侯とある。
趙一清はいう。もとより馬超は、都亭侯に封じられた。入蜀してからも変更されず、都亭侯のままだった。関羽の爵位が、改められなかったことと同じだ。梁商鉅はいう。「前都亭侯」でなく、「前に都亭侯と為る」と読むべきだ。
さて。ここで裴注に、『山陽公載記』があり、馬超が劉備をあざなで呼んで、関羽の怒りを買った話がある。裴松之はいう。袁イや楽資は、デタラメである。
盧弼はいう。この記事を見ると、ますます陳寿の本文がすぐれていると、わかる。「魏志」袁紹伝の注釈で、審配を論じたときも、この袁イと楽資は、裴松之に批判された。
劉備が漢中王となると、馬超は左将軍、仮節。章武元年、驃騎将軍、涼州牧。章武二年、47歳で死んだ。
子の馬承がつぐ。馬岱は平北将軍、陳倉侯。馬超の娘は、劉理にとつぐ。
むじんさんに聞きました。まだ蒋琬が漢中に入る前です。諸葛亮の死後、どういう体制でいくのか、決まっていないうちに、馬岱は曹魏を攻めた。これは、どういう意味なのだろう。ひとりで動かせる軍隊を持っていたのか。魏延の軍を、奪ったりして。笑
『典略』はいう。馬超が蜀に入ると、庶妻の董氏と、子の馬秋は、張魯にのこる。張魯が敗れると、曹操は馬秋らを得た。董氏は閻圃にあたえられ、馬秋は張魯にわたされ、張魯に手ずから殺された。
以上、馬超よりも、馬騰がおもしろいことを、確認できた。笑 110616