1章上 行政区画の州郡県
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
1章 行政区画_001
魏晋南朝の地方行政は、州郡県の3級制である。実際は州の上に、都督区がある。刺史の上に、権力をもつ都督府がある。先行研究も、みな指摘する。
唐代の節度方鎮の制をみるに、魏晋南朝からの影響がおおきい。隋と唐初にある、総管都督の制から変化したものだ。隋代の制度は、魏晋南朝から変化したものだ。
『宋書』百官志、『南斉書』百官志は、ほしい記述がすくない。都督と刺史の関係、都督の区域の変化が、よくわからない。ただし古来より、州制と都督の関係は、論じられてきた。呉廷燮『魏晋方陳年表』で、刺史と都督は並列される。東晋より以下になると、州刺をしるし、都督を記さない。刺史と都督がかねられたからだ。だが実際、刺史の官位はとても軽く(4品、5品)都督あるいは都督数州をかねると、「都府」「都督府」とよばれ、方鎮とよばれた。刺史だけでは方鎮でない。
『晋書』范寧伝はいう。府が州を統べ、州が郡を監し、郡が県をまとめると。ほか正史でも、州のうえに府がある。都督府が、最高の統制機関であるのは明らかだ。呉廷燮は、都督でなく刺史として作表したが、誤った。都督が最大の行政区域である。
上 州、郡、県_002
『宋書』州郡志、『南斉書』州郡志、『晋書』地理志は、州郡について詳しい。ただし誤りがおおいから、清代の洪亮吉の父子と、徐文范は、州郡の建置を明らかにした。この仕事に依拠して、演変を明らかにする。
1 三国と西晋の州郡県_003
前漢末、州は13、郡国は103、県道侯国は1585。後漢の順帝のとき、州は13、郡国は105、県道侯国は1180。桓帝まで、おおきく変動せず。前漢末から、後漢末まで、行政区画は変動なし。後漢末から三国に変動する。洪亮吉に依拠して、以下まとめる。
◆1 魏_003
州は13、郡は101、県は731。
司州は、治所が河南。6郡(旧郡4郡、新設2郡)、60県。
豫州は、治所が安成(汝南)。12郡(新旧6郡ずつ)、85県。
兗州は、治所が廩邱。8郡(みな旧郡)、64県。
青州は、治所が臨菑。7郡(旧郡5、新設2)、54県。
徐州は、治所が彭城。6郡(旧郡5、新設1)、56県。
雍州は、治所が長安。5郡(旧郡3、新設2)、33県。
涼州は、治所が武威。10郡(旧郡7、新設3)、49県。
秦州は、治所が上邽。4郡(旧郡4、新設1)、20県。
冀州は、治所が信都。16郡(旧郡11、新設5)、126県。
幽州は、治所が涿県。11郡(旧郡9、新設2)、60県。
并州は、治所が晋陽。6郡(旧郡4、新設2)、44県。
荊州は、治所が宛県。8郡(旧郡2、新設6)、61県。
揚州は、治所が寿春。2郡(みな旧郡)、19県。
◆2 蜀_004
益州のみ、治所は成都。22郡。旧郡11、改名1、分割による新設10。138県。
◆3 呉_004
揚州、荊州、交州、広州の4州、44郡、3尉部、337県。
揚州は、治所が建業。14郡(旧郡4、分割による新設10)。典農校尉1、都尉1。138県。
荊州は、治所が江陵。16郡(旧郡6、分置10)、107県。
交州は、治所が龍編。8郡(旧郡5、新設3)、49県。
広州は、治所が番禹。6郡(新旧3郡ずつ)、都尉部1、43県。
以上から、曹魏は、おおくを後漢から継承した。蜀漢は、旧郡と新設が半分ずつ。孫呉は、新設が旧郡よりもおおい。
蜀呉は、開墾して郡県を新設したのだ。
◆4 西晋_005
『晋書』地理志は、19州、173郡国、県が若干。三国を合算した数値にちかい。州は後漢の5割増、郡国は7割増だ。
あらたな行政区画をもちいたので、単純には比べられない。だが指摘できるのは「旧郡○部都尉」を、独立した郡に昇格したことだ。洪亮吉によると、三国と西晋で増設された郡は、70前後もない。うち25郡が、都尉から改めたもの。増加要因のうち最大だ。『宋書』百官志で、「漢末と三国、おおくの部都尉を郡とした」というのは、これである。
2 東晋南朝の州郡県_005
晋室は、南渡した。南朝の行政区画は、おおく分合した。『宋書』州郡志はいう。1郡1県を、4つ5つに分割し、コロコロ改称する。とても全て記せないと。南朝末期、領土はせばまるが、州郡の数は、日ましに増え、数倍になった。分割や僑置の結果である。
◆1 僑置と土断_006
流民が寄寓して、郡県制度を「僑置」した。僑置が、行政区間がパニくる原因である。いかに複雑か。
広陵から晋陵までのあいだに、徐州、青州、兗州、冀州らをおいた。襄陽1郡に、雍州、梁州、秦州の数十郡をおいた。東海郡を海虞におき、さらに京口にうつした。以下はぶく。
複雑すぎるので、主要な部分だけを記す。
【1】実州-実郡-実県
交州、広州、寧州である。正常な方式だ。
【2】実州-実郡-実県と、実州-僑郡-僑県
揚州、荊州、益州である。
揚州は、実際は11郡、93県だ。ほかに、僑郡6、僑県13。実郡が、僑県3を領する。
荊州は、実郡20、実県117。僑郡6、僑県21。実郡は僑県も領する。
【3】僑州-実郡-実県と、僑州-僑郡-僑県
徐州と秦州のみである。
【4】僑州-僑郡-僑県
襄陽にすっぽり入った雍州など。青州、豫州など。
僑した州郡県は、北方の漢人が、南方に流寓して、本籍で登録するために設けた。ゆえに民戸があるが、土地がない。
もとの本籍の統治と、寄寓した先の統治をうける。僑郡県の統治をうける。いくえにも統治され、行政、治安、徴税などが、うまくゆかない。劉裕が土断を請い「民に定本なし、傷治は深くなる」というのは、この状況だ。
ゆえに東晋初から、土断がされた。咸和年間など。
桓温が執権したときも、さかんに土断した。劉裕も土断した。しかし劉裕でさえ、土断は徹底しない。武帝紀にある「徐州、兗州、青州の3州から、晋陵にきた人は、土断しない」など。
歴代の南朝をつうじ、つねに土断した。
土断には、2つの方法がある。1つ、僑郡県をやめて、移住先の区分に編入すること。2つ、移住先の土地を分割して、僑郡に土地をつけること。ゆえに隋唐のとき、南方の州県に、漢魏の北方の地名がのこった。
土断は失敗し続けた。なぜか。租税との関わり、豪族勢力との関わり、から論じた。はぶく。
◆2 州郡を増置する_012
東晋南朝は、土地をどんどん分割した。東晋の元帝の317年、僑郡県をおき、11実州、96実郡とした。東晋の孝武帝の379年、9実州、9僑州。84実郡、40余僑県。呉蜀のように、州郡がふえた。
『晋書』符建載記はいう。符建が前燕を滅ぼしたとき、「鄴宮で名籍をみた。157郡、1579県だった」という。前燕の版図は広く、郡県を置きまくった。前燕の事例や、南朝宋から推定すると、東晋の孝武帝のとき、1千前後の県があったのだろう。呉蜀の2倍である。
宋斉梁陳は、東晋よりも増えた。
南朝陳は、領域は孫呉よりせまいが、州は15倍、郡は4倍、県は2倍もあった。『北史』で隋文帝が、呉と陳を滅ぼしたとき、40州、100郡、400県、50万戸、200万口。これは、司馬炎が孫呉を滅ぼしたとき、4州、43郡、52万戸、230万口と比べると、明らか。人口は同じなのに、州数が10倍である。
◆3 統括と領戸_016
州郡県が、分裂や増置されたので、領戸も混乱した。南朝宋が、南朝のうち領土が最大で、まだうまくいった。諸史料から、混乱ぶりがわかる。はぶく。
3 州郡県の等級_019
◆1 州の等級_019
『通典』36によると、曹魏の司隷校尉は3品。その他の刺史は、領兵するか、領兵しないか(単車)による区別があったが、州による官品の高低なし。『通典』によると、晋代の官品は、曹魏とおなじ。
『宋書』百官志はいう。南朝宋は、魏晋がおなじで、ただ司隷がない。ただし、刺史の節でいう。「秀才。東晋から、揚州が1年に2人の秀才をあげ、ほかの州は1年に1人。あるいは3年に1人。州の大小にしたがう」とある。
南朝斉はわからない。南朝梁と南朝陳では、旧来からある大州はランクがたかく、新設された小州はランクがひくい。南朝陳で最高ランクなのは、揚州、南徐州、東揚州である。
◆2 郡の等級_020
『通典』はいう。魏晋の守相は、みな5品。『宋書』百官志でも、魏晋とおなじ。郡のあいだにランクなし。
ただし『晋書』郗イン伝で「呉郡太守に欠員が出たが、インの資望が少ないので、インは臨界太守になった」とある。その他おおくの事例より、大小や遠近で、郡にランクがあるのは明らか。魏晋どころか、漢代からある。
まあ、同じ高さの仕事でも、アタリ外れがあるのは、現代も同じ。
南朝梁では、10等級があった。南朝陳で、丹陽、会稽、呉郡、呉興の4郡が最高ランク。領戸が1万戸以上ある。郡のランクは、ずっとあった。
◆3 県の等級_021
『通典』魏制によると、曹魏の県令1千石は、第6品。6百石以上は、第7品。県長は、第9品。晋制では、ただ県長が8品となるが、ほぼ魏代に同じ。魏晋の県は、以上に見えるように、3等級に分かれる。
『晋書』王彪之伝はいう。秣陵は三等県で、公容も三等県だと。厳耕望が思うに、2県とも建康に近いが、三等県である。6等か7等のランクがあったのかも知れない。『隋書』では、南朝梁の県を7班(7等級)という。県のランクは、南朝梁より前からあっただろう。
県のランクと、長官の地位は、1対1対応しない。
『宋書』百官志によると、晋制とおなじ3等級。南朝斉はわからない。南朝梁は、県が7等級。大小の県のあいだで、差異が大きい。『隋書』百官志によると、南朝陳の建康県は、県令1千石、7品。5千戸以上がつぎの等級で、県令1千石。5千戸未満は、県令6百石。南朝梁の県は、戸数がすくない。
漢代からの県に「県長」がおおい。とくに、江南の諸県におおい。孫呉のとき「県令」「県長」が半分ずつ。南朝宋から「県令」がふえる。戸数が減っても、名称だけはインフレして「県令」が増え、ついに「県長」はなくなった。6章にある。県の下、郷里の制は、6章にある。
1章の後半につづく。120214