1章下 都督区
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
1章の下 都督区_022
『晋書』地理志の揚州はいう。もと江州刺史は、荊州の竟陵郡を督した。何無忌は、江州刺史となった。何無忌はいう。「竟陵は州から遠く、江陵から3百里ある。竟陵を、江州から荊州に返還したい」と。安帝はみとめた。
『晋書』殷仲堪伝はいう。はぶく。
以上より、東晋のとき、竟陵はもとは荊州に属したが、江州が督したとわかる。巴西、梓潼、トウ渠の3郡は、もとは梁州に属したが、益州が督したとわかる。
この4州は、督府から命令が出されて、もとの州との交渉がない。
『宋書』劉スイ伝から、梁郡はもとは南豫州に属したが、豫州刺史に督されたとわかる。行政や軍事も、豫州督区にしたがった。もともと属したはずの南豫州からは、まったく関係が切れた。
督区は、州の境界を越えるだけでなく、州よりも固定されやすい。東晋から、荊州をわけて、湘州をおいた。荊州と益州をわけて、巴州をおいた。湘州と巴州は、どちらも荊州都督に属した。
揚州をわけて、東揚州をおき、揚州都督に属させた。交州と広州をわけて、越州をおき、さらに10余州にバラすが、すべて広州都督に属した。他例をはぶく。
以上のように、州区がコロコロ変わっても、都督区は変わらない。
『宋書』州郡志で、梁郡は、豫州と徐州のあいだをウロウロする。ずっと豫州で、1年だけ徐州に属した。のちに南朝宋が徐州都督をおくと、梁郡は徐州都督に属した。豫州のままでも、つよく徐州都督とつながった。州区より都督区が優先した。
晋宋斉隋の地理志などは、みな行政区画として、州単位で記し、都督区で記さない。ゆえに、都督区が明らかでない。
1 三国と西晋の都督区_025
◆甲・曹魏の都督区_025
曹魏には12州あり(前述)沿辺の諸州に都督がおかれた。
『三国志』杜畿伝はいう。太和のとき、鎮北将軍の呂昭は、冀州を領した。呂昭が上疏した。曹操が貯蓄しても、10州の兵を充分にできなかった。縁辺の州には、兵がある。荊州、揚州、青州、徐州、幽州、并州、雍州、涼州である。これらの州は、内地の州の備蓄をたよる。兗州、豫州、司州、冀州の備蓄である。冀州は経済力がある。
史料にある「兵あり」とは、都督のこと。以下、曹魏の都督区について。
1)雍涼都督
魏初からある。雍涼都督諸軍事、1人。治所は長安、蜀にそなえる。曹真、司馬懿、趙𠑊、夏侯玄、郭淮、陳泰、司馬望がやる。甘露元年、鄧艾が隴右都督となり、司馬望が雍涼都督、、以下はぶく。
2)荊豫都督
魏初、曹仁が都督荊揚益州諸軍事となり、夏侯尚が都督南方諸軍事となり、荊州刺史を領す。はじめ、荊豫都督の制度は、固まらず。太和元年、司馬懿が、都督荊豫二州諸軍事となり、宛県に治す。はぶく。
3)揚州都督
魏初からある。治所は寿春。曹休、満寵、王淩、諸葛誕、毋丘倹、王基、石苞がつく。甘露二年、陳騫が淮北都督になり、盧欽、司馬駿がつぐ。これは揚州都督を2つに分けたものだ。
4)青徐都督
治所は下邳。夏侯楙、桓範、胡質、胡遵、石苞がつく。
5)河北都督
胡族にそなえる。呉質、呂昭、程喜、陳本、劉靖、許允、何曾、王乂がつく。呉質は信都を治所とし、呂昭は冀州刺史を領した。督区が冀州を兼ねたのだ。程喜より、都督河北幽并軍事となり、薊県にうつる。劉靖も薊県にいた。督区が、幽州と并州のみになったのだろう。
◆乙・蜀漢の都督区_027
沿辺の郡に、都督をおいた。漢中都督が、曹魏にそなえた。江州都督および永安都督(巴東都督)で、孫呉にそなえた。庲降都督が、南中7郡をおき、南蛮にそなえた。蜀漢の都督は、数郡をみるだけで、曹魏とおおきく異なる。
◆丙・孫呉の都督区
孫呉の督区は、蜀漢より、さらに小さいようだ。西から東に、信陵、西陵、夷道、など、諸督が20ある。都督という名称もあった。洪亮吉らによれば、権限がかるいのを「督」といい、おもいのを「都督」といった。
『三国志』陸抗伝はいう。陸抗は、まず西陵都督となるが、のちに都督となり、楽郷にゆく。督区はおなじで、治所がうつっただけ。陸抗への下文から、陸抗が、西陵都督の歩闡ほか5人の「督」を統括したとわかる。「督」より「都督」がおもいのだ。
朱然伝によると、朱然がついた「大督」とは、陸抗とおなじように、複数の「督」を統括する。「大督」と「都督」はおなじだ。朱然の死後、子の朱績がつぐ。孫呉の督は、みな世襲だ。ただし朱然は、楽郷督として、西陵と公安の2督を統括した。しかし子の朱績は、まず楽郷督だけになった。
長江ぞいだけでなく、沿海にも都督があった。呉郡都督がある。会稽督、臨海督、建安督がある。広州都督がある。交州都督がある。ぜんぶで4つの都督区があった。
◆丁・西晋の都督区_034
『通鑑』で咸寧五年に傅咸が上書する。「ふるい都督が4つある。いま監軍とあわせ、10とせよ」と。
胡三省がいう。曹魏には、呉蜀と胡族に備えるため、「征」「鎮」「安」「平」の4号があった。のちに増やされた。
都督鄴城守諸軍、都督秦雍涼諸軍、都督梁益諸軍、都督荊州諸軍、都督揚州諸軍、都督徐州諸軍、都督淮北諸軍、都督豫州諸軍、都督幽州諸軍。これで10コだ。「資」が軽ければ、都督でなく「監軍」といわれた。
平呉ののち、この制度は廃されず。呉廷燮にくわしい。
呉廷燮によると、司州と兗州におかない。并州と梁益州は、おいたり置かなかったり。交州と広州は、つねに刺史が都督をくわえた。寧州も、刺史と都督はかねるだろう。みな経常的な制度でない。経常的におかれたのは、8つである。
豫州都督、許昌に鎮す。鄴城督(都督でない)西晋末に冀州都督となる。幽州都督、平州をかねて薊県に鎮す。関中都督(関西都督、雍涼都督ともいう)、雍涼秦州をすべ、長安に鎮す。沔北都督、宛城に鎮す。荊州都督、襄陽に鎮す。青徐都督、下邳に鎮す。揚州都督、寿春に鎮す。
もしくは、呉蜀の地は、刺史が全権をもてば充分(充分とはどういう意味か、分からずにこれを書いてますが)と考えたのか。
恵帝は、荊州をわけて、江州をおくが、つねに揚州の都督区にふくまれた。
懐帝は、荊州と広州をわけ、湘州をおき、つねに荊州都督区にふくまれた。州を21に分けたが、都督区は増えない。
2 東晋の都督区_036
東晋は、区域をわけて都督をおいた。西晋末の制度をつぎ、刺史が都督をかねた。呉廷燮の年表は、刺史ごとに作成されており、都督区がわからない。『晋書』にもとづき、東晋の都督区を整理する。
1)揚州都督区:
人によって区域がことなる。比較的、豫州とかね、あるいは江州や兗州をあわせる。以下、はぶく。
2)荊州都督区:就任者14名が輝かしい
3)江州都督区、4)徐州都督区、5)豫州都督区
6)会稽都督区、7)沔中都督区、8)益州都督区
9)広州都督区、(ここまでで、046頁にとぶ)
東晋になり、長江一帯の、せまくて長い土地でさかえた。軍政は、孫呉の時代が回復した。揚州と荊州を中心とする。対外的には、揚州と荊州の、東西で力をあわせて、防御した。。対内的には、東西で対立して、政変になった。
江州は、長江中流の重鎮である。東西のバランスをつないだ。東晋初、王敦は、荊江州にいて、中央にせまった。永和のとき、殷浩は5州、桓温は6州を都督したが、どちらも江州を手に入れられず、勢力がバランスした。永和のすえ、桓雲が江州となってバランスがくずれ、桓温が東にきて、揚州&国政をにぎった。
桓温と、荊州都督の桓コクが、あいついで死に、桓氏が荊州に後退した。揚州を謝安がとり、東西でバランスした。ときに江州は桓沖が督した。謝安が江州刺史をうばおうとして、桓沖がいかった。東西で、江州を奪いあった一例である。
隆安のとき、司馬道子や司馬元顕と、桓玄が、ふたたび東西で争った。義煕のとき、劉裕が揚州で国政をにぎると、司馬休之が、みたび荊州で張りあった。劉裕に江州をとられて、東晋はおわった。
荊州と揚州があらそい、江州を奪いあうという構図は、南朝でずっと不変。
3 宋斉の都督区_047
南朝宋の劉裕のとき、北魏におされた。だが、秦嶺より南すべて、黄河より南の大半の州郡は、南朝宋が統治した。23州に分割して治めた。
『宋書』『斉書』本紀は、刺史にくわしいが、都督の区域を記さない。列伝は督区をしるすが、呉廷燮は見ていない。厳耕望が、督区についてまとめる。
1)揚州都督区、2)南徐都督区、3)南兗都督区、
4)徐兗都督区、5)青冀都督区、6)会稽郡都督、
7)南豫、豫州都督区(南豫州と豫州の表が059頁)、
8)荊州都督区、9)湘州都督区、10)雍州都督区、
11)梁秦都督区、12)益州都督区、13)江州都督区
14)郢州都督区、15)広州都督区(付・交州都督区)
4 梁陳の都督区_072
『梁書』『陳書』は、地理志がない。州郡の数が、わずかにわかるだけ。梁の武帝は、23州から104州にふやした。梁末に、江北と荊雍の西方を、まるまる失って54州にへった。
史料がすくない。都督について分からない。刺史の任免は、もとの州(インフレする前)にもとづき、記される。都督も、もとの州の刺史に加えられる。州を増やしたが、重要な州鎮に、変化はないのだろう。
1)揚州都督区、2)南徐都督区、3)南兗都督区、
4)徐兗都督区、5)豫州都督区と司州都督区、
6)会稽東揚州都督区、7)荊州都督区、8)湘州都督区、
9)雍州都督区、10)梁秦都督区、11)益州都督区、
12)江州都督区、13)郢州都督区、14)広州都督区、
15)新都督区など。
「南朝は強がりなだー」と笑っても、仕方ない。ぼくは、正史の筆法が、そして中国の地方行政制度が、領土の大きさに縛られないという性質に、さっき感銘をうけた。86頁の地図を見ると、恥ずかしいほどに、圧縮された領土のなかに、トコロせましと、州治が置かれている。だが、この圧縮があっても、文書だけ読めば、さも大陸全土の帝国が存在しているような気になれる。ここがすごいところ。
拡大や縮小に堪えるという点では、デジタルデータに似てる?
はじめて中国史を聞いたとき(小学生だったかな)殷周が、今日の中華人民共和国とおなじ広さだと思った。さすがに、その錯覚はすぐに修正されたが、周代を起源?理想?とする地方行政の名は、サイズにかかわらず、同じような天下の治まりかたをイメージさせる。認識できる範囲は、あまねく治まっているような気がする。「小中華」を生み出す可能性が、筆法や制度のうちに、含まれているのかもなー、とか。
蜀漢が突っぱれたのも、ちかい理屈かも知れない。曹魏にはりあって?、都督を置きまくったり。さすがに、州を分けなかったけれど。
南朝梁が、州郡を増やしたのを見ると、蜀漢のつつましさに気づく。「1州のみ」なんて悔しいから、10郡に分割しても良かったわけです(あくまで可能性として)。ふるい漢制を尊ばねば、自己矛盾すると考えたのか。。漢中都督、江州都督、永安都督、ライ降都督など、都督の大きさは曹魏より小さいが。
ここまでは、地ならし。つぎから本論。120214