8章 州郡察挙
厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳
県の長官と県府を、飛ばしてしまった。また後日。
州郡の察挙_351
察挙は、漢代にはじまった優良な制度だ。すでに(厳耕望が)秦漢編でやったので、わずかに郡守の職権について記す。
察挙は、魏晋南北朝も続いた。南北の状況は変化したが、漢代とおなじく重要である。地方の人士をもちいる制度として、機能した。また、地方長官の権力の源泉にもなった。
州が秀才を挙げる_351
刺史がもつ重要な察挙の権限は、秀才をあげること。
『宋書』百官志下にある。
漢代の察挙は、太守があげた孝廉が重んじられた。刺史があげた茂才は、地位がたかいが、数量と影響において、孝廉にまけた。魏晋もおなじだ。
『華陽国志』大同志で、蛮夷校尉も、秀才をあげた。
『晋令』はいう。秀才をあげるとき、5策が認められると、郎中になれる。1策でもダメだと、選んでもらえないと。これが晋制である。秀才の試験は厳しい。
しかも司馬炎は、みずから面接した。『晋書』華譚伝に、武帝の策問が記される。武帝が5策にわたり質問した。『晋令』と合致する。時務や経国について聞かれた。唐代の科挙とおなじだ。
『晋書』孔坦伝では、経義(儒学)について質問された。
西晋末は、試験を免除して、よろこばれた。『晋書』王接伝で、試験がないという。元帝も試験を免じたが、再開したいと考えた。『晋書』孔坦伝を見よ。
南朝宋も、武帝紀にあるように、秀才を皇帝が試問した。
宮崎市定は、王氏や謝氏が、秀才の挙に応じなかったという。だが、一般の人士が就官するためには、南朝をつうじて秀才が重要なルートだった。だから刺史は、権力を持った。
郡が孝廉を挙げる_360
孝廉をあげるのは、漢代の守相がもつ重要な権限だった。魏晋でも、おもく尊ばれた。
『三国志』文帝紀に、重要な詔書がある。
黄初二年、郡国の人口10万のところは、1年に孝廉1人。ただし特別に優秀なら、人数にこだわらない。
文帝の黄初三年、明帝の太和二年にも詔書あり。
後漢の和帝のとき、20万人ごとに1人だった。文帝は、孝廉の人数を2倍にふやした。漢末に人口が減ったので、10万人としたのだろう。あとの2回の詔書は、運用の補足である。
蜀漢も、孝廉あり。孫呉は史料がないが、あるだろう。
『晋書』にも孝廉がおおい。
魏蜀では、郡大吏が孝廉にあげられ、郎や長になった。晋代も、大吏から郎中になる事例がおおい。『晋書』司馬倫伝で、郡の綱紀から孝廉をあげる。郡吏から選ぶのだから、同郡の人が選ばれた。
東晋になると、史料が極端に少ない。だが廃止されてない。
その他_364
秀才や孝廉のほかに、イレギュラーな察挙もあった。『晋書』武帝紀の太始五年、州郡に「勇猛秀異」をあげさせた。など。いろいろ。
察挙は、短いけど、これで終わりなので仕方ない。飛ばしたのは。5章の後半、郡府の佐吏(佐官+属吏)。6章の県府組織。目次に、郡中正と州中正があるけど、本文に見当たらない。目次と本文が違うような? また今度。
120219