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4・5章 郡国の長官と佐吏

厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳

4章 郡国の長官

郡守国相の制度史の概略_225

三国は、漢制をつぎ、郡に太守1人ずつおいた。曹魏の王国は、漢制とおなじく、国相をおいた。洪亮吉の職官表にくわしい。
呉蜀は、封王の制があるが、国を立てないようだ。『三国志』先主伝の遺詔にいう。「郡国の太守、相、都尉」と。酷暑というのは、虚号であり、治民しなかった。

『晋書』職官志はいう。郡に太守をおく。河南は京師があるから、河南尹という。王国には内史をおき、太守の任務をやると。
河南尹は、漢魏とおなじ。ただし、内史は漢魏とちがう。『晋書』武帝紀の、太康十年に国相を改めた。はじめは魏制をつぎ、途中で変えたのだ。
しかし『晋書』で、王国の行政長官は「国相」と記されることが多い。国相と内史が、並列して見えることもある。225頁に事例あり。内史も、国相も、太守と同じ役割をする長官の通称であり、おかしくない。

けっきょく、内史への変更は、徹底しなかったのね。
秦漢編の073頁のぼくの抄訳より。内史は前漢での呼称。
諸侯王は国をおさめ、属官は行政をした。丞相が官を統べ、内史は民をおさめ、中尉が武官をにぎる。景帝中五年、諸侯王に治国をやめさせた。丞相を「相」とした。成帝のとき、内史をはぶき、相に太守とおなじく治民させた。郡守と国相は、名称がちがうが職務が同じになった。

東晋は、建康を都とした。丹陽尹をおいた。河南尹とおなじ。

宋斉梁陳は、みな太守と内史をおき、丹陽尹をおいた。晋制と同じ。正史類を見ても、まったく正しい。
漢制で、太守と国相は、秩2千石だ。三輔の長官は、中2千石だ。秩禄は、官位をあらわす。魏代に九品の制ができると、序列があてられた。
『隋書』百官志で、梁制では郡が10班(10等級)に分けられたとある。よく分からない。食貨志は梁制をいう。丹陽、護軍、会稽の太守は、太子セン事(14班)や尚書(13班)と同ランクだという。小郡の太守は、3班にすぎない。このランクは、百官志に補われるべきだ。
この時代、品班がランクを表したが、秩禄もランクがあった。『隋書』にある陳制しか、史料がない。列伝から、復元をこころみる。
漢制で、太守と守相は、2千石だ。あるいは、中2千石の「殊栄」もあった。三国から南朝まで、おなじ。『晋書』にある、呉興太守の孔厳は、中2千石。ほかに豫章・会稽・呉郡・呉興太守、呉国内史、晋陵・義興・豫章太守、臨川内史などが、中2千石。以下はぶく。政治上の地位がたかく、重要な郡の長官が、2千石から中2千石に「加秩」された。

太守の品秩は、227頁からの表のとおり。

おおむね、尹が3品、その他が5品だ。陳制はちがう。

漢代の太守は、1郡をすべて統治して、治民が要務だった。三国は戦争が多いので、戦争が要務になった。
司馬炎が即位すると、全土統一する前に、漢代の旧制にもどした。刺史を監察にもどし、地方行政の重心を、郡国の守相にシフトした。『晋書』武帝紀の太始四年にある。6月甲申朔、、12月、、と。230頁。
武帝紀の2条を見ると、2つの点に注意が必要だ。
 1つ、地方行政の重心を、守相におく。刺史でない。
 2つ、郡国の守相は、民事が本文で、軍事でない。
この2つの原則は、漢代と同じである。
厳耕望は、司馬炎の詔書が、どれほど「推敲」されたものかと疑う。『晋書』山濤伝にある。平呉ののち、武帝は天下の兵をやめた。州郡は兵をのぞく。大郡は武吏100人、小郡は50人と。
この重要な措置(軍縮)をしたが、すぐに永嘉の乱が起きる。兵を減らす、軍事を軽んぜよ、というのは、実現されていない。漢制に復したとは考えられない。

このあたり、どこまでが理想で、建前で、実際なのか。ちゃんと考えるべきだなー。

軍事が第一の時代だから、漢代と異なる制度が生まれた。
1つ、加将軍。2つ、加督。3つ、加節。4つ、軍府をおき、2郡で1人の太守。軍事との関連がふかい。以下、くわしく見る。

郡守に将軍・都督・持節を加え、軍府をおく_231

1)将軍と都督を加える
漢代の太守は「郡将」「郡将軍」とよばれたが、将軍号の官位はない。建安から三国のとき、太守は将軍号をもらった。臧覇、文聘、呂虔、王基、鄧艾、張嶷、朱治、賀斉、諸葛恪、周魴である。
功績が大きく、とくに重んじられた場合にだけ、将軍号をもらえた。
司馬炎が滅呉すると、漢代と同じように、太守に将軍号をくわえるのを辞めた。将軍は、とても少ない。西晋末、ふたたび太守が将軍をかねる。劉弘、陶侃、王導らだ。とくに配慮せず、太守と将軍をくっつける。東晋から南朝は、将軍と兼ねまくる。

荊州、雍州、広州、寧州、益州にいは、蛮夷校尉がおかれ、よく刺史とかねた(前述)。内地に蛮夷がいれば、諸護軍をおき、太守がかねた。これらの太守は、将軍号のほかに、護軍を加えられた。
曹魏と西晋は、護軍をおき、蛮夷を鎮撫した。
『通典』は、諸部護軍を記すが、太守と兼務とはいわない。『晋書』杜弢伝で、西晋のとき父が護軍となるが、太守でない。東晋から南朝宋に、郡守と護軍の兼務が始まるか。236頁まで、詳細な検討あり。
以上、護軍は、武陵1郡をのぞき、みな安徽の中西部と、湖北東部、北は河南東南隅、南は江西の北鄙などに置かれた。内地だが蛮夷がいたので、護軍を加えられた。辺境は蛮夷校尉をおき、刺史がかねた。郡守は蛮夷校尉を兼ねない。

2)督を加える
『隋書』百官志は、陳制をいう。
丹陽尹、会稽太守、呉郡と呉興の2太守は、5品。加督されると、4品に進む。加都督されると、3品に進む。諸軍も、督と都督によるランクアップがある。
太守や内史(国相)は、将軍号だけでなく、督や都督がくわわった。西晋末に始まった。『晋書』李矩伝にある。滎陽太守の李矩は、都督河南3軍事、安西将軍となったと。応セン伝にもある。東晋が建つ前にも、事例がある。

東晋の中後期から、会稽、東陽、新安、臨海、永嘉は、つねに会稽太守が都督する。督は、同郡の太守、別郡の太守、刺史などが担当する。定型はない。王敦ら「督」の東晋の事例は238頁。襄陽を中心に、沔水あたりに督が置かれる。
東晋末から陳末まで、太守で督や都督になる事例は、つねにある。239頁。対内、対外の、軍事の要地におかれる。南朝の前期は「督」がおおく、南朝陳は「都督」がおおい。名称がインフレする。

3)節を加える_240
南朝の太守は、つねに加節、持節、使持節をくわえられる。これは魏代に始まる。江夏太守の文聘に、加節。これは、非常の制である。ゆえに『三国志』に文聘の1例しかない。

へー!文聘だけなんだ。どんな状況だったか、周囲の史料を読むと、楽しめそう。

晋宋にも、記録がない。『南斉書』以降、しばしばある。。重要な郡の太守にかたよる。呉郡、呉興、豫章、竟陵、瑯邪、歴陽、巴西などの大郡である。

4)軍府をおく_241
『三国志』孫瑜伝はいう。建安九年、孫瑜は丹陽太守となり、綏遠将軍を加えられ、奮威将軍にうつる。学者を招き、2府の将吏に学ばせたと。

うっかり筆が及んでくれて、良かったなあ。

ここから、郡府と将軍府があったとわかる。
『晋書』傅咸伝で、都督府が4、監軍府が10に過ぎないが、郡県には100の軍府があるという。太守が将軍号をもらったとき、郡府を置いたものだろう。武帝が滅呉した、1年後のことである。
東晋以後、郡府に軍府が置かれるのは、ふつうになる。242頁。
会稽郡軍府、丹陽郡軍府、呉興郡軍府など、多数ある。はぶく。督を加えられた太守は、軍府をもったのだ。太守が、鎮蛮護軍をかねれば、蛮府がおかれた。

246頁。漢代、もとは太守は兵馬を領した。三国時代も、郡守は兵を領した。
太始六年の碑陰ではいう。南郷郡には、県8、戸17130、職散吏320、兵3000、騎300と。『三国志』孫皓伝にひく『晋紀』はいう。丹陽太守の沈瑩は、鋭卒刀楯5000がおり、青巾兵といった。この2史料より、三国と晋初に、太守が数千を率いたことがわかる。
司馬炎が州郡の兵を辞めた。山濤伝。南朝では、大郡の太守が2千から5千をひきいた。

2郡の太守をかねる_247

『北魏書』地形志はいう。2つの郡に1人の太守を置いたと。頴州の、汝陰&弋陽郡、北陳留&頴川郡、東郡&汝南郡など。戸数が少ないので、20郡を11太守が治めた。9人の「双頭」郡太守がいた。

頭が2つ、、志怪小説じゃないのね。東郡と汝南をまとめて2県、1太守が領する。北陳留と頴川をまとめて5県。汝南と太原をまとめて4県。清河と南陽をまとめて3県。県数が、少ないから仕方ないか。

2郡をまとめるのは、東晋に始まった。『晋書』毛璩伝で、譙郡と梁郡をかねる。のちに、宜都と寧蜀をかねる。以下、兼務がふえてゆく。
東晋には、『晋書』毛穆之が3郡をかねる。襄陽、義成、河南。3郡は、督区とおなじエリアである。南朝宋よりのち、2郡はおおいが、3郡は少ない。251頁以降、いくらでも事例あり。262頁まで。

豫州、青州、冀州、徐州、兗州らの北朝との境界は、土地が荒れて、人口が少ないから、「双頭郡」となり、1太守が領した。長江流域は、軍事の要地だから、近隣の2郡をまとめて1太守が領した。南北で、2郡をまとめる理由がちがう。

5章 郡国の佐吏

この時代、郡守の幕僚組織は、発展した。州制の発展とおなじだ。
三国や西晋のとき、郡守の幕僚は、漢制の群佐吏とおなじだ。太守が将軍号を加えられ、軍府が置かれたが、史料がすくない。南朝になると、史料がふえる。南朝に、漢代のような郡吏の系統が、史料に現れなくなる。
郡府の1系統が、軍府の1系統におさえられる。

三国と西晋の郡府佐吏

『通典』36魏官はいう。守相や内史は、5品。丞、長史は8品。もろもろの州郡の防門は、8品や9品。太守は、みずから属吏を辟す。『三国志』傅嘏伝にひく『傅子』で、河南尹が、郡吏7百人をもつ。杜畿伝にひく『魏略』で、弘農太守が、郡吏2百余人をもつ。漢代から西晋まで、郡吏は数百人の規模である。
『通典』36晋官も、魏官とおなじだ。ただし、264頁の碑文などでは、郡佐吏の人数が、『晋書』の数倍もいる。

漢代の太守は、みな丞をおく。辺郡では、丞でなく長史だ。司馬もおく。帙は2百石から6百石。守相とおなじく、中央から任命される。「長吏」とも呼ばれた。功曹、督郵、主簿より以下の掾史は、みな1百石以下。守相がみずから辟した。「属吏」と呼ばれた。

長官のほかに、中央が「長吏」をおき、自分で「属吏」をおく。へー。


佐官_268

1)丞と長史
『晋書』百官志は、郡丞と長史を載せない。だが『宋書』から、西晋までは、漢制とおなじく、郡丞と長史をおいたとわかる。
曹魏には、管寧伝、管輅伝、張既伝。『晋書』武帝紀で、太始四年に、長史、郡丞、長史に、馬1匹ずつを賜った。
蜀漢は、呂凱伝に永昌郡丞がある。孫呉は記述がないが、おそらく郡丞があった。
郡丞は、漢代から閑職だった。『御覧』252の陸機集で、郡丞が軽んじられたエピソードがある。

2)司馬_269
漢代、辺郡には司馬があった。軍職だ。内郡には、たまに置いた。西晋の南郷郡の碑文では、郡佐吏のトップが司馬の黄根である。2百石以上。散吏に数えられず、太守が自ら辟さない。

郡の司馬は、中央からくる。偉いなあ。


属吏_269

魏晋で、郡国の属吏は、7種類である。門下、綱紀、列曹、学官、督将、観察、上計である。『晋書』職官志にもあり、より詳しい。
主簿や記室より以下、門幹や小吏まで、太守の門下の職である。五官や功曹は、郡政の綱紀をみた。戸・兵諸曹、学官、督将、監察らは、官位は小史より高いが、郡守の門下でなく、外曹であった。
以下、7種類の機能について。

主簿は「綱紀」とも呼ばれ、門下のトップである。功曹と五官掾、、
つかれたので、298頁にとぶ、、

東晋と南朝の郡府佐吏

東晋以降、一般の郡国の佐吏組織は、だいたい西晋と同じ。ただし、軍府の置かれた郡では、軍府の佐吏が力を持った。はぶく。

次回、7章の「州郡察挙」をやって、厳耕望を終えます。