表紙 > ~後漢 > 臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』を抄訳する

2章上:南陽で起兵する

臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
077ページから、107ページをやります。

2-1 舂陵ではじめて起つ

新末に農民が蜂起する

この章 022年-025年で、光武は、普通の庶民から、皇帝の宝座にのぼる。28歳から31歳だ。
新末の反乱は、前章でみた。017年、緑林がたつ。南陽、江夏、南郡のあたりだ。緑林がたった時期は、『資治通鑑』のみにある。018年、瑯邪の樊崇がたつ。緑林と赤眉は、新末に反乱した、2つの主力だ。ほかには、河北、山東と河南北部に、反乱がある。河北にすべられ、銅馬諸部(光武紀)となる。

反乱の理由は、2つだ。
1つ。中央の王莽は、地方を圧迫した。呂母の子が、県宰に殺されたのも、これだ。王莽伝はいう。天鳳五年正月、大司馬司允の費興を、荊州牧とした。費興は、荊州の状況を分析した。「六カンで、山沢の産業を禁じたから、飢えて盗賊となった 」と。
2つ。寒飢した農民がでた。王莽に起兵した地域は、飢饉がきびしい。虫害、洪水、日照。011年、河南や河北でイナゴ。015年、邯鄲で洪水。荊州では飢饉(劉玄伝)。山東の赤眉も、飢饉(王莽伝)。

緑林は022年、疫病で5万人の大半が死んだ。王常と成丹は、下江兵となり、南郡の藍口聚へゆく(王常伝)。王匡、王鳳、馬武、張卬は、新市兵となる。

ぼくは思う。ザックリまとめると。下江兵は、王常につれられ、光武の兄弟につく。新市兵は、更始をかつぐ。つまり新市は、光武のライバルとなる。

新市は022年、随県をせめた。下江は、荊州牧をやぶり、宜秋へゆく。光武の兄弟は、宛県や舂陵にいる。新市や下江と100キロも離れない。光武と緑林(新市+下江)が、南陽にいるので、王莽は大軍をおくる。光武の兄弟は、緑林に影響されて、起兵したのだろう。

まず緑林。それに応じるかたちで、光武の兄弟。そりゃ、劉縯よりも更始のほうが、はじめの皇帝にかつがれるわけです。


劉縯と光武が、発難する

先行研究はいう。更始や、光武の兄弟の起兵は、豪強な地主階級が「投機」した革命だと。封建の統治権を、王莽と奪いあったと。農民革命のなかで、一部分の貴族(前漢の劉氏)が、権力をもどそうとしたと。農民の軍権を、劉氏がうばったと。これら先行研究は、歴史の真実にあわない。
光武の起兵があるのは、『後漢書』光武紀、劉縯伝、李通伝、『東観漢記』帝紀一だ。光武らの起兵は、ながく準備されたものだ。劉縯伝は「王莽が簒奪してから、憤慨していた」とある。『東観漢記』は、光武が「深く思うこと、久しい」とする。劉縯は「王莽をたおし、王朝をつくろう」と宣言した。政治目標は、明確だった。

ぼくは思う。ほんとかよ。史料にそうあるのは事実だろうが、アトヅケだ。

劉縯が「平等、平均」を言うとき、20世紀の意味とはちがう。劉縯らは、王朝を交代したかったのだ。秦末の陳勝、漢末の黄巾におなじ。

緑林は、荊州牧を負かした。ずっと緑林は、赤眉とおなじだ。政府を攻めても、カンタンに官吏を殺さない。劉玄伝にひく『続漢書』はいう。緑林は荊州牧を殺したが、ほかの官吏を殺さない。緑林は、王莽の権威をおそれた。みだりに新室に、手だししない。光武らの政治目標はあきらかで、農民の反乱に、のっかったのでない。
李通伝で李通は、南陽の宗族に期待した。『東観漢記』で、光武が軍装すると、みな従軍した。光武の兄弟が起兵する前提は、ととのっていた。投機(バクチ)して、反乱をはじめたのでない。

ぼくは思う。ここに史料がひかれた動機は、中国の先行研究にたいする反論。史料は、ふつうに『後漢書』に載っているものだが、この意味で読むべきものかは、保留。


兄・劉縯の歴史的な功績

光武の兄弟は、022年10月、光武が28歳のとき、起兵した。南陽の起兵は、3ヶ所で同時だった。1つ、新野の鄧晨。2つ、宛県の光武と李通。3つ、舂陵の劉縯。ときに荊州牧は、2万で緑林を攻める兵力がある。
南陽の勢力は、連絡できる状況にある。022年後半、緑林はすでに、南陽の東南でうごく。新市は随県、下江は鍾県や竜山にいる。平林も随県にいる。羽山の賈復、湖陽の馮魴、魯陽の張宗も、兵をひきいる。ほかに、南郡の張覇、江夏の羊牧も、王莽にそむいた(王莽伝)。劉縯伝、光武紀、王莽伝は、諸勢力の連携をしめす。

下江と連合したのは、劉縯の功績だ。棘陽で勝てた。だが022年末、小長安で、南陽太守の甄阜と、南陽都尉の梁丘賜に、やぶれた。緑林は、ダメージ。光武は、兄弟や宗室を、数十人うしなう。劉縯伝、王常伝によると、敗残の兵を、劉縯があつめた。

このあたり、劉縯伝や王常伝からの引用がつづくので、はぶく。

023年正月、劉縯が、舂陵、平林、新市をまとめて、甄阜を殺す。下江が、梁丘賜を殺す。劉縯は、淯陽にすすむ。厳尤と陳茂をやぶり、宛城にかえる。

緑林に2回の大勝利をもたらしたのは、劉縯である。甄阜と梁丘賜、厳尤と陳茂を殺したのは、劉縯の指揮による。劉縯は、緑林からリーダーに見られた。ゆえに王莽は、劉縯に懸賞して、画像を矢で射た。

『後漢書』劉縯伝と、『漢書』王莽伝で、記述が一致する。真実だろう。
ぼくは劉縯伝を読み、劉縯伝をおとしめてきたが。劉縯伝をスナオに読めば、緑林を勝たせたのは、劉縯の功績だな。更始の即位が、不適切!となる。笑

劉縯は王莽にとって、おそるべき人物だった。

宛城の激烈な戦闘

南陽で光武は、劉縯とちがう役割をはたす。唐子郷をやぶり、湖陽尉をころすと、財物をひとしく分配した。緑林に、好感をもたれた。棘陽をせめた。023年5月、厳尤と陳茂は、頴川をまもった。厳尤は「あの美男のガキが、こうなったか」と笑った(光武紀)。厳尤が光武の人柄を知るはずがないが、この人柄が、光武を勝たせた原因となる。
このとき劉縯は、王莽の宛城をかこむ。光武は、宛城の北にある昆陽、頴川の定陵、郾剣などをさだめた。光武は兵糧を、劉縯に運んだ。頴川の銚期、王覇、祭遵、傅俊、馮異が、光武をたすけた(各列伝あり)。馮異伝は、仲間になる経緯がくわしい。「牛酒で迎えられた」から、光武は頴川で印象がよかった。

劉縯と緑林が、宛城をかこむとき、犠牲をはらった。1姉1兄が、王莽軍に殺された。次姉の悲しみが、鄧晨伝にある。光武の叔父・劉良は、妻と2子が死んだ。族兄の劉祉は、家族がすべて系獄された。小長安で敗れたとき、劉祉は棘陽にこもり、死なずにすんだ。すべて甄阜に殺されたのだ(劉祉伝)族兄の劉嘉も、小長安で妻子が殺された。光武の妹夫(伯姫の夫)・李通は、父の李守が殺された。劉氏は、王莽への怨恨をつよめた。
ほかに、光武と親愛した、族兄の劉終は、舂陵で湖陽尉を「誘殺」した。族兄の劉賜は、劉縯とともに起兵して、諸県を攻撃した。劉嘉は、更始にしたがい征伐した。
李通は「家をやぶり、国のため」戦った。鄧晨は棘陽で、賓客をあわせた。妻兄の陰識は、長安にいたが、劉縯に合流した。
南陽の豪強な地主が、農民戦争を、横どりしたのでない。

2-2 昆陽の戦い

更始政権の建立

淯陽の戦いののち、緑林は指揮系統が、1つになる。023年2月、更始を皇帝にたてた。

更始帝・劉玄の紹介は、はぶく。劉玄伝、劉縯伝、光武紀。『漢書』と『後漢書』では、更始が即位した月がちがう。王莽伝では、地皇四年の三月。光武紀と劉玄伝では、二月辛巳。いま『後漢書』にしたがう。

劉玄伝で、更始がガタガタふるえた理由は、ないか。農民の軍内で派閥あらそいが始まったからだ。更始の派閥は、劉縯の派閥よりも、大きかった。

更始が皇帝に不適任だと表現するため、更始が『後漢書』で、臆病に描かれる。どうせ更始の臆病は、小説にすぎないだろうに、著者は合理的な解釈をこころみる。

王莽は、白髪をそめ、皇后をむかえて、強がった。隗囂ら72人「七公幹士」に、全国をまわらせた。4月、5月に、王莽は大軍をだした。昆陽の戦いが、はじまる。

42万の王莽軍が、光武を囲む

王莽は、三公である王邑、王尋をうごかす。王尋は大司徒だ。王尋は、赤眉が起兵したとき、洛陽でそなえた。王邑は大司空だ。王邑は、かつて翟義と劉信をしずめた。戦争にゆたかな経験がある。巨人や猛獣をうごかした。

王莽軍の威容は、王莽伝、光武紀にある。はぶく。

王邑は023年4月、洛陽をたつ。5月、頴川につく。厳尤と陳牧とあわさる。更始軍は、十数万にふくらむが、分散する。劉縯が宛県で、主力を指揮する。王常は、汝南をとなえる。光武は、昆陽にいて、頴川で王莽軍にあたる。王常が光武にあわさるが、8、9千人。王莽の42万より少ない。更始軍は、大規模な作戦をしたことがない。光武は、みなを昆陽につっこむ。郾県や定陵に、急援をもとめた。

昆陽の戦いの、経過と分析

昆陽は、緑林(更始軍)が勝った。なぜ少数が多数をやぶったか。
王莽のおもな失敗の原因は、不義の戦争をしたこと。『東観漢記』が描写する軍容はすごい。だが士卒は、新室のために戦いたくない。
大司空の王邑は、王莽の叔父・王商の子だ。王莽とは従兄弟だ。だが王莽は、疑りぶかいので、王邑はおそれて、016年に退職をねがった。王邑は翟義を討つとき、翟義を生けどれず、罰せられた。王邑は昆陽でも、失敗をおそれた(光武紀)。
中下級の軍官は、王莽に失望した。天鳳のとき、五原郡の軍隊で、衣食が不足した。020年「食は穀物を見ない」という状況。車馬もたりない(王莽伝)。下級の官吏は、俸禄がはらわれない。全軍の指揮がおちた。

王莽軍が、こんなに弱っていたなんて、ちゃんと意識してなかった。

王莽は、失敗すれば、きびしく罰した。翼平連率の田況の例がある。赤眉とたたかい、免官された。かるがるしく、動けない。納言将軍の厳尤は、王莽の異民族政策をいさめたので、つかまった。将軍たちは、王莽のもとで、働きにくい。

王莽がやぶれた原因、2つめ。統帥が協調しない。王邑はおごり、部下の意見をきかない。厳尤が王邑に「昆陽より、宛城をやぶろう」というが、王邑がきかない。王尋もえらそうで、勝利が見えていない。王莽伝と光武紀にある。

やぶれた原因、3つめ。戦術にあやまりがある。王莽軍は、数がおおい。兵力をあつめ、完全に更始軍を討てばよかった。大部分を宛城の包囲につかった。

これが、決定的な原因だろうなあ。総大将のまわりが、手薄って。

光武が、昆陽の包囲をやぶり、郾県や定陵から援軍をつれたとき、王邑は「1万余人」だけだった。のこりの数十万を、つかえず。王邑の1万は士気がひくく、光武の数千はつよい。また王邑は、王莽の軍令にしばられ、動けない。光武は、すばやく王尋を殺した。主将が死んだので、王莽軍は大敗した。

昆陽の戦い、直前の光武

王莽軍がくると、光武はアジって、自軍をふやした(光武紀)。いち方面で、王鳳と王常は、8、9千で固守した。いち方面で、宗トウ、李軼、鄧晨ら13将軍が、夜に昆陽の包囲をぬけた。

光武紀は、13将軍に、驃騎大将軍の宗トウ、五威将軍の李軼をのせる。鄧晨伝は、鄧晨をくわえる。

光武は昆陽で王莽軍をひきつけ、宛城の負担をかるくした。昆陽の包囲をぬけたのは、危険なことだ。

光武は、郾県や定陵にいく。もともと光武や王常が、義軍を組織したエリアだ。利害をといて「珍宝が万倍になる」と言った(光武紀)。光武のアオりは、当時の農民の思想にあわせたもので、苛求なものでない

著者は、後漢の正統のために、光武を弁護するのでない。研究の対象として、光武を愛しているのだろう。

023年6月、光武は頴川から、援軍をあつめた。『後漢書』は人数をのせないが、王莽伝は「数千人」という。1万に足りない。
王邑と王尋は、敵をかろんじた。「みずから歩騎1千余」をひきいた。光武紀は「光武は小敵にビビるのに、大敵につよい」という。光武紀は、光武の勝利をのせる。
天水の成紀で、隗崔が王莽にそむく。弘農の析県で、安定の王旬がそむく。3ヶ月後、王莽が殺された。昆陽の戦いが、新室の滅亡に、意義がある。

光武の勝利には、おおくの原因がある。光武の軍事的才能。緑林(更始軍)の協調。昆陽の包囲をぬける闘志。新市(王鳳)、下江(王常)、舂陵(光武、李通、鄧晨)の合作など。だが劉縯が、更始に殺された。

2-3 劉縯が殺害される前後について

更始(劉玄)と劉縯の、派閥闘争

中国において、農民階級が戦争するときの弱点は、派閥闘争だ。張耳と陳余、陳勝と呉広らの例がある。

中国の近現代史が、ほのめかされている。くわしく知らん。

惰弱な更始は、劉縯の才能をねたんだ。更始を皇帝にしようとすると、劉縯は3つの理由で反対した(劉縯伝)。劉縯の意見は、とおらず。劉縯は大司徒となるが、更始に殺された。史書は、時期を記さない。劉玄伝によると、更始元年(023年)の6月-8月だ。
先行研究は、光武の兄弟が地主階級として、緑林ら農民階級の軍権をうばおうとしたから、劉縯が殺されたとする。だが、この指摘は科学的でない。劉邦や項羽は、貧農の出身でない。呂母だって、富商だ。張角や張魯も、農民でない。更始と劉縯は、おなじ皇族、おなじ階級のなかでの、派閥あらそいだ。更始と劉縯の経歴をくらべたとき、経済的なゆたかさ、人脈は、おなじである。
派閥闘争は、024年2月にもおきる。李軼、朱鮪、張卬、王匡は、長安で横暴した。張卬は更始にせまり、南陽にもどそうとした。025年3月、赤眉が長安をとると、釣魚と廖湛は更始をおどした。王匡は赤眉と連合し、更始と李松をやぶった。025年10月、更始は赤眉にくだった。張卬だけは、赤眉とたたかい、謝禄にくびられた。内部闘争は、やまない。

このあたり、複雑だけど、劉玄伝と『資治通鑑』を読めば、ながれは追える。


光武が北上する

劉縯が殺されても、光武は態度をかえず。頴川の父城より、宛県に謝りにきた(馮異伝)。024年9月、関中から更始に、王莽のクビがとどいた。更始は、宛県から洛陽に、遷都をきめた。光武を司隷校尉とした。光武は、完全に更始の指揮のもとだ。光武は洛陽へゆき、うまく政治した。
更始は洛陽にくると長安にゆく。このとき全国は、緑林に有利だ。劉玄伝はいう。海内の豪傑は牧守を殺し、更始の詔命を待ったと。関中、河北、山東が、更始についた。李松は武関を、鄧曄は弘農から長安にすすむ。韓鴻に河北を安集させた(彭寵、寇恂、呉漢伝)。劉縯にかわる大司徒は、劉賜(光武の族兄)だ。劉賜は「光武を河北に」という(劉賜伝)。
このとき光武は、頴川の父城で、掾吏の馮異に言われた。「河北を専命せよ」と。更始の人事権をもつ左丞相の曹竟、曹翊の父子に、光武がたのんだ。朱鮪に反対されたが、光武は大司馬となり、河北にゆく。だが重要な武将は、光武の手元にゼロ。劉良、劉祉、劉歙、劉賜、劉嘉、李通の兄弟、光武の舅表舅の来歙らは、関中にのこる。光武には、困難な条件である。

ぼくは、光武が更始を放逐されたと思って読んできた。史料にもとづいても、不自然すぎるほど、困難な条件を課されたことに、ちがいはない。


だが河北は、光武に有利な状況だ。河北は王莽にみだされた。韓鴻が、漁陽と上谷にゆくと、2郡は更始の冊封をうけた。

光武が王郎をうつとき、漁陽と上谷は、光武に味方してくれた。だがじつは、更始の韓鴻に、したがっていただけかも。光武が天下統一したのち、功績を美化するために、光武に味方したように書いたが。証拠に、王郎がほろびたのち、呉漢が更始の幽州牧をころす。王郎討伐は、更始の手柄なんだなあ。光武は、ただの部将として、兵を集めただけなんだ。あたかも孫策が、独自で会稽郡をおとしたように、錯覚するのと同じだ。

河北には、前漢の皇族の勢力がのこった。数千から数万ずつ。

ここ、出典がほしいが、とくに書いてない。

河北の賊は分散して、赤眉や緑林のように統制がない。銅馬、城頭子路、青犢、上江、大ユウら。ゆえに河北に、更始が入りこむ余地があった。
023年、光武は持節して河北へゆく。以上の条件から、州郡を鎮慰しやすい。歓迎された。邯鄲にゆく。光武の親信が、あつまる。鄧禹、傅俊、劉嘉の長吏・陳俊(各列伝)。頴川から、銚期と王覇。さきに河北にいたのが、鄧晨と任光。鄧晨は、光武の姐夫。更始が洛陽にきてから、鄧晨は常山太守にゆく。任光は、劉氏に温県をうけた人。宛城で劉賜に命をすくわれた(任光伝)。更始が洛陽にきて、信都太守となる。光武の河北安集は、順調だ。

つぎ、河北を平定して、皇帝即位します。つづきます。