表紙 > ~後漢 > 臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』を抄訳する

4章:柔道で天下をおさめる

臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
263ページから、332ページをやります。

4-1 天下は疲耗し、やすませた

天下をやすませる

范曄は光武の政策を「やすませる」という。
有識な統治者は、つねに人民を休養させるものだ。賈誼『過秦論』は、始皇帝が誤ったという。前漢の高帝は、田租をかるくし、15分の1税とし、大赦令をだし、兵役をのぞいた。
鄧禹は光武に「田民を安んぜよ」という。『後漢書』循吏伝に、光武が百姓をやすませたという。051年、臧宮や馬武への手紙で「柔よく剛を制す」という(臧宮伝)。光武は「やすませる」政策で、成功した。
光武の「柔道」な天下は、どのような政策か。功臣を殺さない。武事をやめる。民をやすませる。傜賦をへらす。刑罰をゆるめる。奴婢をはなつ。王莽の逆をする。

『帝王世紀』はいう。赤眉と中興の戦乱で、百姓は20%にへった。『後漢書』馮衍伝、朱浮伝、江革伝にある、人が食いあう状況だ。

奴婢を放免する、奴婢の地位をたかめる

光武は奴婢について、9回の政策をだした。026年5月、030年11月、031年5月、035年2月、同年8月、同年10月、036年3月、037年12月、038年12月。史上、ここまで奴婢の待遇をやった皇帝は、すくない。なぜか。王莽のとき、奴婢がひどく害をうけたから。また戦乱のとき、良民が奴婢におそわれたから。社会問題であった。
光武の奴婢政策を考えるとき、2つの原則がいる。1つ、当時の政治や経済の状況を、ふまえること。2つ、中国史のながい流れのなかで、とらえること。

中国史で奴婢は、農業生産、手工業生産をしてきた。仲長統伝、馬援伝に人数が書かれる。人口の2分の1以上とも、人口の10分の1、100分の1ともいう。前漢末に奴婢は、最低でも385万人以上いた。人口の15分の1である。奴婢の由来は、捕虜となった異民族、貧窮した人など。
奴婢には3種類ある。1つ、破産した農民が、田地を売ったもの。前漢の晁錯が指摘する(漢書・食貨志)。2つ、他人に売り飛ばされた人。『史記』英布伝、外戚世家、『漢書』梁冀伝にある。3つ、官奴婢。はじめ2つは私奴婢だったが、これはちがう。犯罪者と、その家属が、官奴婢となる。『三国志』にひく『漢律』は、官奴婢をいう。罪人の妻子は、奴婢にならない。罪人である父兄には、坐さない。

前漢の歴代は、奴婢を放免または禁止して、おさめた。王莽のとき、おおくの良民が、奴婢におちた。理由は3つだ。1つ、王莽との政治闘争にやぶれた人が、罪をきせられ、官奴婢となった。2つ、王莽が刑罰を厳しくした。010年12月、貨幣の鋳造をとりしまったり。3つ、新末に群雄がたち、武装して戦争した。普通の農民が、掠奪されて、奴婢におちた。緑林が竟陵で「婦女を略し」たように。
光武の奴婢解放は、以上3つで、奴婢がふえた状況への対応だ。

光武の9回の政策は、ひろい。まずいくて子女を売った人、王莽に罰せられた人、割拠する軍閥にぬすまれた人などを、良民にもどした。026年から032年は、王莽の暴政をやめ、劉永と張歩、隗囂と公孫述におかされた人口をすくった。光武が「奴婢は家畜でない」と言ったのは、とうとい思想だ。
光武の目的は、4つある。
1つ、階級矛盾をやわらげる。王莽の紙きれ政策でなく、光武は生活をふまえた政策をやった。
2つ、政府の歳入をふやす。戸数をふやすことで、税収がふえる。両漢の税とは、土地税、人頭税、傜役、戸税だ。戸税をふやすため、戸籍を整備した。『西漢会要』『東漢会要』にある。江革が、税収を設計した(江革伝)。
3つ、026年から038年まで、地方を平定する戦略だ。平定すると、その地域で奴婢を放免した。『後漢書』巻39の諸列伝にある。

以下の3つで、階級矛盾がゆるまったとわかる。
1つ、030年12月、田租を、10分の1税とした。2つ、050年正月『東観漢記』で、官吏の待遇をよくした。国家の収入がないと、改善できない。3つ、040年、豪族に度田した。これにより、戸数が428万に回復した。前漢の平帝のとき、戸数が1323万だ。3分の1にもどった。王莽のとき、平帝の5分の1におちたから、回復している。和帝のとき、1600余万となり、平帝をこえた。
ただし、奴婢の制度そのものは、のこった。西洋近代の視点から、ほめすぎるな。

土地を開墾する、土地の兼併を制限する

階級矛盾は、奴婢のほかに、土地の兼併でもおきた。
土地の問題は、董仲舒、張禹が論じた。何武と孔光が論じた。『漢書』食貨志にある。王莽の、王田制はミスった。『後漢書』皇后紀で、光武の妻は、前漢よりすくない。国家の歳入が、すくないからだ。

農民の戦争と、軍閥の混戦により、大中小の地主がほろびた。公孫述が滅びると、延岑を族殺したり、吏人の家属がながれ、地主がいない土地ができた。026年、野草がはえた。『東漢会要』巻34は、光武による6回の屯田をしるす。たとえば、028年、淮南の李憲をたいらげると、劉隆が武当で屯田した。李通伝、王覇伝、劉隆伝、張純伝に、屯田がある。生産が回復しないと、10分の1税をやれない
鄧禹伝、馮異伝で、流民を本業にかえした。雁門や代郡などで、徙民した。『東観漢記』は028年までに、開墾したという。

4-2 度田事件、豪強を打撃したこと

不法な豪族を、きびしく打撃する

生産基盤の安定が、社会にとって大切だ。先行研究は、光武が「柔道」をやり、豪族と妥協して、豪族が土地を兼併することを、ゆるしたという。ちがう。
歴代の統治者は、豪族と利害を一致させ、「合作」してきた。前漢の高帝しかり。唐と明しかり。士大夫とともに、天下をおさめる。だが豪族が、農民をしいたげると、統治者は豪族とぶつかる。
光武は、河北、隴西、南陽の豪族に支持された。統一戦争のプロセス、参照。光武は原則として、豪族と「合作」して「柔道」をやった。ただし豪族が不法をやれば、光武は豪族を打撃した。具体例は、294ページまで。

度田事件と、その評価

不法な豪族との、最大の衝突が、度田事件だ。039年6月から、040年9月におきた。墾田の帳簿がただしくないので、光武が調査した。郡国の大姓が、起兵して抵抗した。「度」とは、はかること。
先行研究の評価は、さまざま。光武が農民をおどし、増税した。これまで大地主の土地をはからず、中小の地主の土地ばかり、はかってきたとか。度田事件は、光武が豪族にたいして、支配をすすめたとか。
度田事件は、『後漢書』光武紀、劉隆伝、歐陽歙伝、酷吏の李章伝、五行志、『東観漢記』『後漢紀』など。『資治通鑑』は、ちらばった記述をまとめる。『資治通鑑』は、『後漢書』をおぎなう。歐陽歙が度田にそむいて下獄されたなど。

臧嵘氏が『資治通鑑』をひき、その出典を確認してある。296ページ。

度田事件を、筆者がまとめる。
1つ。後漢が、不法で豪強な地主と、闘争したものだ。土地の帳簿をつけるのは、両漢の政府が、つねにやったことだ(礼儀志)。地方官の治績は、墾田の測定できまった。皇帝がかわるごとに、帳簿を更新した。『後漢書』循吏の秦彭伝、劉般伝にでてくる。光武の目的は、豪強な地主と、土地をうばいあい、課税することだ。
2つ、不法な豪族と、豪族とつるむ不法な官吏を、しめつけた。史料には「河南と南陽は、しかたない」とある。「帝城、近親だから」とされる。だが光武は、この地域でも、とりしまった。歐陽歙は獄死したし、河南尹の張伋は、帳簿がただしくない人を下獄した。河南と南陽を特別あつかいするのは、光武の本意ではなかった。雲台28将の劉隆ですら、下獄された。光武がほめた瑯邪太守の李章ですら、帳簿がただしくないと、罪をうけた。
3つ、度田に反対して「郡国と群盗がならび起つ」というのは、豪族の起兵であり、農民の起兵でない。「群盗」とあるが、農民でない。もともと光武の敵だった、青州、徐州、幽州、冀州あたりが、起兵したのだ。

「盗賊」という語の史料における用法について、302ページあたり。

4つ、光武は度田に、成功したのか、失敗したのか。先行研究は、失敗という。だが『後漢書』では、渠帥を斬り、生産を安定させた。光武が勝利したのだ。

ぼくの抄訳は、すごくザツ。すみません。どんな議題があるのか、把握できればいいと、思ってる。いちおう、ひととおり、目をとおしてる。


4-3 吏治を整頓し、精兵簡政

すべて政治犯を釈放し、良吏をもちいる

王莽も更始も、政治があらい。光武が、2つの問題を解決した。1つ、冤罪をとく。すべて政治犯を釈放する。2つ、酷吏をのぞき、循吏をもちいる。026年3月、027年7月、詔書した。025年から031年まで、毎年、大赦した。
即位した光武は、重要な決定をした。卓茂を、三公にした。卓茂をおいたことは、吏治が整頓される、きっかけだ。卓茂は「寛仁」な人だ。利益をもとめない。王莽につかえない。卓茂は、官民に評判がよい。光武の政策は、循吏伝にまとまる。循吏や良臣には、4つの特徴がある。
1つ、民間と辛苦をともにする。并州牧の郭伋、南陽太守の杜詩、九真太守の任延など。李通、来歙、馮異ら、28将も。
2つ、生産の回復と発展につくし、税収をふやす。
3つ、豪強な地主を打撃する。酷吏伝に、湖陽公主の話がある。

ぼくは思う。「循吏」と「酷吏」というのは、対立概念として、機能しない。人民と生産をたすければ、循吏。人民と生産をさまたげる豪族をつぶせば、酷吏。あたりまえだが、どちらも後漢の官吏なんだから、めざすところは、おなじ。ただ方法がちがうだけ。
臧嵘氏は、いちいち具体例をあげてるが、はぶく。317ページあたり。循吏伝と酷吏伝に、にた記事があると、くらべている。

4つ、私財をためないこと。

兵をへらし、傜賦をへらす

光武の兵と税政策は、3つある。
1つ、精兵。031年3月、天下の郡国から、兵をあつめた。031年、関都尉をはぶく。046年、辺境の亭候吏卒をやめる。兵卒をへらしたのは、人民の負担をへらすためだ。『漢書』王莽伝で42万が出動するが、人民の負担であった。
2つ、官吏の定員を減らしたこと。030年に、10分の1にするなど。平帝のとき1587県あったが、後漢の安帝のとき、1180県だ。034年から044年に、定襄、朔方、金城、五原らを整理した。10分の1は、誇張だろうが、定員を減らしたのは事実だろう。王莽伝と比較すると、減ったことがわかる。324ページ。
3つ、光武は減税して、貨幣の混乱をもどし、災害をすくい、薄葬させた。天下統一しても、ゼイタクしなかった。歴代の統治者のなかで、めずらしい。

具体例の引用を、はぶきました。つぎ、光武と臣下のこと。つづく。110825