2章下:河北を平定して、鄗城で皇帝即位
臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
108ページから、153ページをやります。
2-4 王郎を撃破する
食糧なく、ウロウロする
光武の河北経営は、突然コケた。同年12月、前漢の趙王・劉元の子である劉林が、王郎をたてた。邯鄲を占拠した。王郎は、2つウソをついた。1つ、劉子輿の子だ。2つ、翟義が死なず、王郎の軍中で指揮をとる。
王莽は、光武を懸賞した。更始二年(024年)正月、広陽(薊県)王の劉接は、王郎に呼応した。このとき光武は、真定あたりで活動したが、王郎に逆転された。
光武は根拠地をうしない、うろたえた。李忠伝にひく『東観漢記』はいう。垢まみれの着物を、李忠に替えてもらったと。光武は、真定から薊県にゆき、王覇に募兵させた。薊県で笑われた。
以降、110-115ページまで、以下の列伝の切り貼り。知ってる内容。光武紀、銚期伝、馮異伝、鄧禹伝、任光伝、邳彤伝、郭后紀、耿純伝、馬武伝、鄧晨伝、呉漢伝、蓋延伝。よくまとまっているから、ていねいに訳したほうが、よかったのか。
王莽が鉅鹿を2つにわけて、鉅鹿と和戎とした。和戎は下曲陽にあり、邳彤が和戎太守だった。
王郎が河北に割拠したのは、022年12月から、023年5月。5ヶ月に満たない。
光武が勝ち、王郎がやぶれた理由
光武が勝った理由。1つ。河北の政策が、正確だった。王莽の苛政をのぞいた。光武紀。部将が団結したのも、勝因。邳彤、法著、呉漢、耿弇、臧宮ら。
第2に、河北の豪族に支持された。劉植、劉揚、耿純、寇恂は、豪強大族もしくは貴族地主だ。上谷と漁陽の太守、郡吏がついた。正確な政策ゆえ、支持された。
第3に、王郎が失敗した。王郎は2つウソをついた(上記)。邳彤いわく「降らねば、族滅」をした。河北の豪族に支持されなかった。邳彤伝、李忠伝、寇恂伝に、政策の失敗がある。ついに邯鄲の城門を、内側から開かれた。
2-5 銅馬帝
100万の銅馬軍をとなえる
王郎ののち、2つの問題が光武にのこる。
1つ。河北の平定がおわらない。要所だけおさえたが、銅馬以下の賊軍がいる。更始が派遣した、尚書僕射の謝躬に牽制される。呉漢伝いわく、光武と謝躬は、邯鄲で分裂する。
2つ、更始と赤眉が関中にいて、全国をおさえる。光武の権限は、ちいさい。023年、光武が洛陽と武関をおとしたとき、海内の豪傑がなついた。「漢の大将軍」を自称した王憲が、数十万で更始についた(劉玄伝)ように。025年、赤眉が100万で長安に入る。光武は、兵数がいる。
新末の河北の特徴は、分散していること。歴史家たちを、悩ませた。『両漢のあいだにおける河北農民軍の雑考』によると、6つに分類できる。中山の白奢、獲鹿の綿曼、鄴県の西山、清河の長直、平原の五里と漁陽、青冀の七支。
もちろん、すべて包括しない。ただし、最大の影響があるのは、5つである。銅馬、青犢、尤來、檀郷、五校だ。このほかは、ちいさい。
銅馬は、もとは山東にいた。赤眉の一部だろう。瑯邪におこる。呂母の部下だ。022年、成昌と無盤で勝ったが、呂母が死んだ。盆子伝は赤眉が、青犢や銅馬に入ったとする。赤眉は、東海、楚郡、沛郡、汝南を転戦した。更始に封号をうけた。
024年、銅馬は鉅鹿のキュウ、清河の清陽、東郡の博平のあたりにいた(光武紀)。李賢は「賊は地名を号した」という。東山や上淮は地名だ。高胡は、人名だ(鄧晨伝)。重連は、『後漢紀』では董連とあり、人名だ。光武紀は「高湖と重連は、東南からきた。銅馬とあわさり、光武と蒲陽で対戦した」とある。史料がすくないが、高湖と重連は、銅馬の主力だろう。
青犢ら河北の賊軍は、赤眉の一部である
青犢は、呂母の一部だ。青犢は銅馬よりも、赤眉と関係がちかい。共同作戦をすることがおおい。023年末、鄧禹が光武にいう。「赤眉と青犢の属は、万でうごく」と。赤眉と青犢が、連携したことがわかる(鄧禹伝)。024年後半、光武紀は「赤眉の別帥、大ユウと青犢は、函谷に入る」という。024年秋冬、青犢は射犬で活動した。赤眉が函谷に入るのと、連携する場所だろう。
盆子伝は、赤眉がひろがる場所を記す。濮陽の赤眉は、更始に封号をもらうが、不満だ。赤眉は2つに分かれた。長社から宛県ルートと、陽翟から梁県ルート。
光武が、銅馬と青犢をほろぼしたのは、024年5月に王郎をほろぼし、赤眉が入関する024年冬以前だ。青犢を射犬でやぶるのは、024年の秋冬だ。赤眉が、はげしく活動した時期と、かさなる。
これだと、光武に2つのケチがつく。1つ、更始の部将としての「精勤」がバレる。これがバレると、更始への謀反が明らかになってしまう。2つ、更始を守りきれなかったという失敗が、バレる。ゆえに後漢の史家は、青犢を、赤眉とは別物だと言いはり、事実を見えにくくした。いま臧嵘氏が、ふたたび、つないでしまった。
史書がゆがめる、独立の意図と時期について。孫策がいつ袁術から独立するか、HPで考えたことがある。『呉書』は孫策の立場で書かれるから、「初めから独立するつもり」「独立の時期は早い」と主張する。裏読みが楽しい。後漢の光武が、更始から独立する話も、原理はおなじ。
これにより、青犢と大ユウ10余万が、赤眉の活動の一部だとしたら。東西のおおきな流動が理解できる。耿純伝に6つの賊軍の名が出る。すべて赤眉の一部かも。光武紀、銚期伝、呉漢伝、賈復伝、馮異伝にある賊軍は、赤眉かも知れない。
五幡は、耿純伝、呉漢伝、馬武伝にある。青犢とは合わさらない。しかし、銅馬や尤来とつらねて、記される。五幡も、赤眉や青犢につらなるか。流動性がつよく、射犬でたまたま合わさったのかも。
尤来、大槍も、山東よりおこる。赤眉とのつながりは、青犢におとらない。『東観漢記』は、尤来の渠帥・樊崇という。『水経注』により、この樊崇が赤眉のリーダーと同一人物とわかる。尤来山が、賊号の由来。022年4月、王莽軍の王匡と廉丹と戦うとき、マユをそめた。赤眉と改名した。だが母体の尤来は、名を残した。
呉漢伝は、024年秋冬、光武が謝躬に「私が射犬をおう。謝躬は、山陽の尤来をおえ」という。射犬と山陽は、10キロより近い。赤眉の一部として、青犢とつらなる証拠。呉漢伝は、尤来が隆慮山ににげたという。光武紀はいう。耿弇と馬武は、尤来をうち、元氏にきたと。尤来は、大槍や五幡とくっつく。
檀郷も、山東からきた。複雑に形成された。任光伝がくわしい。城頭子路とか。
内部の矛盾をかかえ、董次仲が檀郷でおちつけたと分かる。魏郡と清河にいた。はじめたのが、城頭子路と力子都。呂母と、同時に起兵した。関係がふかい。王莽伝018年に「赤眉の力子都、樊崇」とまとめられる。更始が洛陽にきた023年10月以降、赤眉が封号を受けたので、内乱してリーダーがかわる。024年初までに、檀郷におちつく。赤眉が西進するとき、檀郷は河北にむかった。王莽伝・下に、更始将軍の廉丹らが、平定に失敗した記事がある。檀郷は、王莽に削がれない。
光武が任光に「城頭子路にくわわりたい」というのは、024年春だ。檀郷は、魏郡や清河にいた。銚期伝では、范陽や内黄にいた。
五校は、任光伝で檀郷とあわさる。上谷から広平、趙国にいる。信都、真定、臨平をふくむ。光武紀、賈復伝、呉漢伝、耿弇伝、任光伝、王梁伝、杜茂伝にある。河北に基礎がある、おおきな勢力。20余万で、上谷を寇した(耿弇伝)。賈復は、五校にケガさせられた。破虜大将軍の叔寿は、25年底、曲梁で五校に殺された(光武紀)。
ほかに、獲索と富平(どちらも平原の県名)がある。連携がない。呉漢伝、耿弇伝、伏湛伝、彭寵伝でも、平原で単独でうごく。また呉漢伝には、清河の長直、平原の五里がある。耿純伝には、綿曼がある。みな小さい。
河北の義軍が、連合しなかった理由
なぜ河北の義軍は、つよく連合しないか。緑林や赤眉のように、北や西をめざし、王莽と戦わない。最後には、光武に撃破されてしまった。なぜか。3つの原因がある。1つ、軍事的な流動性がたかい。2つ、組織がちらかる。3つ、明確な政治目標がない。これらは、農民階級の地位と、小生産の状況による。
1つめ。河北では、「衆数百万」となるが、固定した土地がない。赤眉が「城を攻めて、地をおさえる計略がない」というように(盆子伝)。王莽伝で、飢民の群れと見なされた。食糧を求めて、ウロつくだけ。024年秋、光武が持久すると、食糧がつづかず、館陶でやぶれた(光武紀)。
2つめ。山東では「文号や旌旗がない」ので、王莽がいぶかった。土地の名が号され、建国しない。五幡は024年底、尤来とともに光武を慎水でふせぐ(馬武伝)。2年後、新安で銅馬とならぶ(呉漢伝)。青犢は024年に大ユウとあわさり、射犬で光武と戦う(光武紀)。026年、銅馬と尤来は、上郡で孫登を皇帝にたてた。
光武に帰するまでの3-5年、河北の賊軍は、離合集散した。尤来は、赤眉にあわさる。檀郷は、城頭子路がまとめたが、説明がない。首領を殺した、云々。ついに成熟しない。先行研究は、こうした「平等な農民軍」を美化するが、ただしくない。幼稚な組織では、つよい部隊にならない。
3つめ。政治目標がない。劉縯は「高祖の業をもどす」といった。王莽を否定した。河北は、しばらく更始につき、のちに光武につく。尤来と大槍は連合して、張歩と連盟した。真定の綿曼は、真定の割拠勢力と「交通」した。檀郷は「鄴中の豪」李陸とつながる。獲索と富平は、漁陽の彭寵につく。王莽の統治がとどかない河北で、自立しなかった。
光武が銅馬を編入した、4つの戦役
024年秋から光武は、河北の義軍に着手した。同年5月、王郎を平定して、邯鄲にいた。更始から「蕭王」に封じられたが、つかず。このとき初めて、更始にそむいた。更始に代わり、天下を統一する決心をした。
1つめの戦い。キュウ、清陽、館陶、蒲陽を通過した戦役だ。銅馬を編入した。おおむね024年秋だ。上谷と漁陽の騎兵をつかい、銅馬をうつ。呉漢は10郡の兵をだし、更始の幽州牧・苗曾を斬った。耿弇、鄧禹、呉漢、陳俊、銚期伝に、戦闘がしるされる。
青犢と射犬で戦ったことを、先行研究は、一大決戦だという。先行研究は、農民軍との必然的な衝突に、大騒ぎする。しかし耿純伝、光武紀に、記述はすくない。銅馬より、すくない。義軍は、なぜ射犬にあつまったか。先行研究のいう「射犬で光武と決戦する」という意図は、なかろう。河北の義軍は幼稚だから、戦略がない。
光武が銅馬と、蒲陽で戦うのは、赤眉が入関する前だ。光武が銅馬をやぶるのは、024年秋だと明らか(光武紀)だ。赤眉が入関するのは、『後漢紀』が更始二年の冬12月という。蒲陽の戦いが、入関より前だと考えて、ムリがない。
光武は苦戦した(耿純伝、賈復伝、銚期伝、光武紀)。
のちに鮑永が河東にきて、027年、呉漢と蓋延と耿弇とともに、シ県で青犢をうつ。026年、王梁が箕関にいて「赤眉の別校」をくだす。これらは、いま光武がやぶった青犢が、散ったものだ。光武紀は、024年冬、青犢と赤眉が、函谷関に入るという。青犢の一部は、赤眉とともに、函谷関に行ったのだろう。
2つめの戦い。尤来、大槍は、元氏、北平、順水を通過した戦役でかたづけた。025年の春だ。光武紀、耿弇伝にくわしい。
光武は、13将軍をつかった。耿弇、呉漢、景丹、蓋延、朱祐、邳彤、耿純、劉植、岑彭、祭遵、堅鐔、王覇、陳俊。馬武伝にもある。
3つめの戦い。檀郷は、026年正月に、鄴県の東でかたづけた。この月、光武は皇帝につきそう。呉漢を大司馬・大将軍として、9将軍をひきいさせた。王梁、朱祐、杜茂、賈復、堅鐔、王覇、劉隆、馬武、陰識だ。呉漢伝にくわしい。杜茂伝、王梁伝にひく『続漢書』にもある。光武紀はいう。026年8月、光武は親征して、五校をやぶる。
余党は029年、昌慮で董憲にまねかれた(光武紀)。とても小さい余波だ。
4つめ。重要な戦い。獲索、富平だ。029年、光武が最後にくだした。呉漢伝で、028年冬、戦い始める。耿弇伝にもある。
関西で光武を、銅馬帝という
光武の戦略を、みなほめる。南宋の詩人・陳亮。王夫之『読通鑑論』など。河北で銅馬をくだしたのが、大きかった。
光武の兵力はどれほどか。光武紀は「数十万で銅馬とよばれた」とする。ほかに呉漢が、檀郷、五校10余万をくだす。耿弇が、獲索、富平4万余をくだす。のちに張歩についた10数万の「五校余党」を、呉漢、耿弇、蓋延、馮異らが、昌城でくだす。光武の兵力の実数が見えてくる。
025年6月(銅馬をくだした半年後)、鄗県で皇帝となる。ここで光武は、銅馬を降したことを、河北の功績にかぞえる。銅馬を、光武は重視した。
なぜ銅馬は、光武にもちいられたか。これは光武の政策による勝利だ。光武紀はいう。銅馬、高湖、重連をくだしてから、列侯にした。光武は、単騎でとびこみ、信頼をえた。ゆえに銅馬を、天下統一につかえた。
2-6 鄗県で皇帝をとなえる
幽州の兵変と、更始政権との決裂
025年3月から、3回の勧進があった。1回、025年3月、尤来をやぶったとき。2回、025年4月、中山にきたとき。3回、南平棘で。4回、6月に皇帝即位した。『東観漢記』では5回の勧進がある。
なぜ、何回もことわったか。光武は、更始との決裂を、決心できなかったか。ちがう。時期の成熟をまった。鄧晨伝「劉秀が天子になる」、李通伝「李氏が輔ける」がある。光武はわかくから、志がある。鄧禹、耿弇と語った(各列伝)。はじめから光武は、皇帝になる決意がある。
呉漢伝で、幽州牧の苗曾を殺した。耿弇伝で、更始の幽州牧、漁陽太守、上谷太守をおいかえした。呉漢伝で、尚書僕射の昇級を殺した。更始との決裂は、皇帝をことわる前に、すでに決定的だった。
では光武は、なにを心配したか。全国の形勢である。2回目にことわるとき「四方に寇賊がいるのに、皇帝になれるか」という。037年や038年に、公孫述と盧芳を倒すまで、四方に敵をうけた。きびしく、おもたい。
光武は断るとき「天下の3分の2を得ねば」とか言うが、フェイクだ。邯鄲と鄴県、河内より北をもつ。幽州10郡の兵をつかえる。しかし外敵は、おおい。
幽州10郡は、026年2月(即位の8ヶ月後)、彭寵につく。光武の中心は鄗県で、真定郡とちかい。真定王の劉揚が陰謀して、銅馬の支隊・綿曼とむすんだ。彭寵と劉揚は、光武が皇帝となるとき、不安要素である。
ほかに、河北の銅馬の一部を、完全に粛正できていない。025年、杜茂が「五校を真定にうち、進んで広平をくだ」した。翌年、王梁が「五校を魏郡、清河、東郡でくだした」と。いずれも、鄗県や邯鄲にちかい。流亡した農民でも、光武の脅威となった。わりに、つよい。
梁王の劉永が、済陰ら28城をたもつ。光武の西に接する。邯鄲や鄴県の西は、上党である。上党は、更始がおさえる。河東の安邑は、更始の重鎮だ。北、西、東に、光武は敵をかかえた。
ともあれ、外敵がいるから、皇帝即位に慎重になるのは、とても「道理」がある。著者がいうとおりだ。じゃあ、なんで即位したんだ。という疑問が、保留される。読みすすめるのが、たのしみ。
だが東西北の敵は、光武にせまらない。光武は、南に威勢がふるう。ときに更始が、洛陽をまもる。李軼、田立、朱鮪らが洛陽をまもる。河南太守の武勃がいる(馮異伝)。『後漢紀』は、光武が、洛陽の李軼と、鄴県の謝躬をうれいたという。
2京にせまり、河北とともに粛正する
光武の南への戦略は、洛陽をとること。そのために、2つの重要な門戸、鄴県と河内をやぶる。
馮異伝はいう。「魏郡(鄴県)と河内は、城邑が温存されている」と。鄧禹は「河内は、黄河にまもられ、北は上党、南は洛陽につうず」と分析した(鄧禹伝)。鄴県と河内をとれば、洛陽をとりやすい。
『資治通鑑』は024年秋冬に、鄴県と河内をとる。河内が前で、鄴県が後だ。
河内とりは、岑彭伝にくわしい。岑彭は、同邑の河内太守・韓歆を説きおとした。『後漢紀』では、岑彭のほかに、武人の衛文が、奇計をつかう。どちらにせよ、河内は、カンタンにとれたようだ。
いっぽう鄴県とりは、困難だった。呉漢と岑彭が、ともに策謀した。鄴県には、謝躬がいる。呉漢伝にくわしい。青犢が、尤来が、、とか。さっき書いた。
河内と鄴県のつぎ、洛陽にかかる。中原で、形勢が変化した。劉玄伝はいう。李軼と朱祐は、山東でほしいまま。王匡と張卬は、三輔であばれると。耿弇は「天子は門をでない」という。赤眉の樊崇は、024年冬、長安を攻めて、更始の帝位をうばった。皇帝をとなえる者が、全国でおおい。延岑、劉永、秦豊、田戎、隗崔、公孫述、劉嬰がたつ。
光武の群臣は、冷静に分析して、3路ですすむ。
1路、河北で銅馬の余党をうつ。彭寵や劉揚の討伐もやる。025年4月-6月、呉漢と耿弇は12将軍をひきい、銅馬と尤来を、潞東でうつ。河北にゆく。1万3千余級を斬るくらいだから、河北に大軍がいった。
2路、鄧禹に2万をつけ、長安をとる。025年正月にでて、箕関をうつ。河東の安邑をかこむ。同年6月、王匡と成丹をやぶる。河東太守の楊宝を斬る。
3路、洛陽にゆく。洛陽は、黄河にそって長安に行くとき、重要な門戸になる。鄧禹が「寇恂がいい」というから、寇恂を河内太守とした。馮異と寇恂が、朱鮪をふせいだ。黄河を境界にした。
鄗城で登基する
寇恂が、河内から物資をくれる。馮異が李軼に手紙して、くだす。李軼がうごかないから、上党と滎陽より東の13県をえた。洛陽の形勢が、逆転した。洛陽の東と北を、光武が更始から、うばった。
朱鮪は、李軼を殺した。馮異伝、寇恂伝に、洛陽の攻略がある。
025年6月、光武は皇帝をとなえた。河内がさだまり、諸将は光武を祝った。馮異伝は、即位の状況をつたえる。「更始は三王にそむかれた」と。洛陽で勝ったことが、光武の皇帝即位を、つよくすすめた。
さきに025年4月、公孫述が皇帝即位した。6月、盆子が皇帝即位した。だが光武の即位は、すすまない。耿純がすすめた。『赤伏符』とか。6月己未、皇帝に即位した。7月、三公を任じた。皇帝即位により、洛陽と長安に、着手した。更始と赤眉を、消滅させにゆく。
つぎは3章につづきます。「光武帝の統一戦争」です。つづく。110821