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- 『後漢書』列伝70下・文苑伝の張超伝 open
張良の子孫でなく、張耳の子孫か
張超字子並,河閒鄚人也,留侯良之後也。張超は、あざなを子並という。河間の鄚県のひと。
唐代の瀛州の鄚県である。
ほかの版本では「エイ」県とあるが、河間にあるのなら、鄚県が正しい。唐代の河間府の任邱県の北30里にある。
留侯の張良の子孫である。
洪亮吉はいう。『唐書』宰相世家系表には、河間の張氏は、漢代の常山景王・張耳の子孫である。鄚県に住んだ。前漢の張良の子孫だという『後漢書』の記述が、何を根拠とするか分からない。
案ずるに。『漢書』功臣表では、張良の子孫は、陽陵に居した。『漢書』世系表では、武陽の犍為にうつされたという。
ぼくは思う。張良の子孫というよりは、張耳の子孫という可能性が高い、という結論だろうか。その根拠となるのは、具体的な系図のつながりでなく、住んでいる土地だけ。不確定だなあ。せっかくなら、張良のほうが、漢室のなかで立場が良かったのに。親友と双頭政治をやって漢初の群雄となり、仲間割れしてコケた張耳でも、子孫がちゃんと活かされていた。知らなかった。
@AkaNisin さんはいう。河間の張氏といえば、張コウとの関係は?って昔むじんさんが言ってましたね。
文化資本をもち、朱儁の別部司馬となる
有文才。靈帝時,從車騎將軍朱儁征 黃巾,為別部司馬。著賦、頌、碑文、薦、檄、牋、書、謁文、嘲,凡十九篇。超又善於草書,妙 絕時人,妙絕時人。世共傳之。張超は文才がある。
霊帝のとき、車騎將軍の朱儁にしたがい、黄巾を征した。別部司馬となる。
『集解』で恵棟はいう。『続漢書』百官志によると、漢代の将軍が兵を領した。外に討伐にでると、五部を営した。五部には、軍司馬が1人ずついた。その別に営する者を、別部司馬という。すべて『経籍志』で、張超の官位は「別部司馬」と書かれる。
ぼくは思う。朱儁の配下で、別に兵の部を営した。朱儁のしたに、5集団の軍があり、その1集団の別軍を率いた。張超は、霊帝のもとで「文才」によって、官位に就いたという記述がない。記述を省略されたのか。それとも、年齢が若かったのか。
後漢の知識人は、どのような経路によって、文化資本を軍事的に活用できるのか。わかるようで、よく分からない。曹操が草書の名人から、後漢で随一の将軍になったんだけど、張超は同じタイプであることを期待できるのだろうか。筆をつかって、戦場で活躍すればいいのか。比喩でない意味で、、馬岱のように。そりゃないか。
著賦、頌、碑文、薦、檄、牋、書、謁文、嘲,凡十九篇。超又善於草書,妙絕時人,妙絕時人世共傳之。賦、頌、碑文、薦、檄、牋、書、謁文、嘲を著した。全部で19篇である。
『集解』で恵棟はいう。『経籍志』に『梁張超集』5巻がある。
王補いわく、張超には『誚青衣賦』、『楊四公頌』、『霊帝河間旧盧碑』、がある。どれも『芸文類集』にある。
ぼくは思う。「王補曰」って、王先謙が補って曰く? 『後漢書集解』へのリテラシーが、圧倒的に不足している。いかんなあ。印影本にあたるの、ほぼ初めてです。
以下、張超の作品の内容や背景を、ぼくが勝手に推測してゆきます。
『誚青衣賦』とは、青衣を責め咎めるという賦。誰かが、儒教に於いて分不相応に、(もしくは、ブルーのファッションが似合いもしないのに)青い衣をつけたから、それを責め咎めたのだろう。脱ぎなさいと。
『楊四公頌』は、弘農楊氏のことをほめたのか。四世三公の楊氏へのプレゼントか。同時代だと、楊賜とか楊彪だろうか。楊脩まで世代がくだることはなさそう。弘農楊氏は、わりに手堅い学者の家系であり、かつ高官の家柄。この楊氏を、まったく他所から、賞賛することはなかろう。知りもしない人から「すばらしい」と言われても、気持ちわるいしね。張超は、弘農楊氏と交流があったと推測できる。張超は、持ち前の文化資本を、うまく「高い官位を継続的に得ることができる諸条件」に転じることに成功していたんじゃないかな。四世三公との人脈!
『霊帝河間旧盧碑』は、霊帝がまだ皇帝に選ばれる前に、貧しい生活をした旧宅に建てられた碑文だろうか。霊帝は不遇なとき、河間にいた。霊帝は、河間王の子孫だから。そして張超は河間の人。だから、ちょっと意味がちがうけど「同郷」意識があるのかも。張超がつくったのは、国ほめのウタってやつか。流行り歌に、自分の知っている地名が出てくると、その地域の人たちが喜ぶ。昭和の歌謡でも、同じことがあった。
張超は文才がある。霊帝と仲良くなるために、どうしたら良いか。霊帝の治世のために、抽象的なホメ言葉を連発しても、あまり喜ばれない。それよりも、共通の故郷である河間の、具体的な地形を綿密に描写するほうが良い。その土地を祝福したことになり、同郷者を喜ばせるらしい。べつに、「こういう山があるから、べつの地方の山よりも、こういう理由で美しい」という、理屈をこねる必要がない。「右手にこれがあり、左手にあれがあり」と、具体的に数えるだけで良いらしい。張超は、河間をきちんと描写して、霊帝に喜ばれたのだろうか。
霊帝は、文化資本を愛した。草書が上手いし、文書の達人である張超は、霊帝に典型的に愛されるパターンである。だから黄巾のときに、めぼしい官位をもらった。これ以前にも、着実に官位を洛陽で稼いでいたのだろう。張超は、列伝はすごく短いけれど、後漢の後期に、かなり高官についても不思議でない条件をもってる。
、、という根拠のない伏線は、墓碑の「平原太守の張超」という記述によって、たまたま傍証される。行きあたりバッタリで書いてるけど、冴えてるなあ!
崔瑗につぐ草書の名人、平原太守になる
張超は、草書もうまかった。妙なることは、時人のなかで抜群で、
『後漢書集解』で恵棟はいう。王僧虔『伎録』はいう。張超は草書がうまい。「崔氏と張氏で及ばない者(下手なほう)は、崔瑗と張芝だ」と謂われた。
侯康はいう。庾肩吾『書品』中之上は、論じていう。張超と崔寔は、州里でライバルと見なされた。張超と崔寔の関係は、「醤は塩水より塩からく、氷は水より冷たい」と評された。この評価から考えるに、張超の草書は、崔瑗より下手だが、崔寔より上手だったとわかる。
ぼくは思う。翻訳が違ったら、すみません。誰が誰より上手いと言われていたのか、まったく知らないのに、漢文の比較とか比喩とか、ひどいなあ。
生没年をウィキペディアより。崔瑗は、077-142。崔寔は、103?-170?。張芝は、?-192。崔瑗は同時代人でない。「もう死んだ人」より上手くなることはできないから、崔瑗に負けても仕方ないのだ(新しい恋人は、死んだ恋人よりも強く愛してはもらえないのと同じ論理だ)。崔瑗を除き、同時代人のなかでは、張超はもっとも上手い。「時人のなかで抜群」という記述と、ツジツマがあう。
うー、自信がないが。崔寔と崔瑗、張超と張芝がいて、この同姓のペアが、醤と塩水、氷と水になっている。うまい順ランキングでは、142年に死んで逃げ切った崔瑗、つぎに後漢末ではトップの張超、3位と4位が、崔寔と張芝、となるのか。
著作とともに、筆跡が伝えられた。
柳従辰はいう。『一統志』は『九域志』をひき、張超の墓碑をのせる。張超の墓碑は、任邱県にある。「漢末の平原太守」が、張超の最終の官位である。柳従辰はいう。張超が平原太守になったという記述がなく、また張超の没年もわからない。のちに平原太守となったのだろう。
ぼくは思う。190年代の平原太守って、ほかに誰がいたっけ。孔融とか曹操とか、袁譚とかとの抗争に巻きこまれたのだろうか。袁紹と曹操が、文化資本をめぐって、張超の奪いあいをしていたのなら、おもしろくなる。
張超は、みごとに太守になった。かなりの高官! 後漢末は、文化資本の卓越者であることが、高官になるために、かなり有利になることがわかる。相関関係がつよい。ただし、後漢末の混乱のなかで、うまく立ち回ることとは、別問題だけど。
@goushuouji さんはいう。そういえば張超の著作に檄がありますが、朱儁に代わって檄文を書いてたりしてもおかしくなさそうでね。
あとは、秦頡と徐璆をやろう。120911閉じる
- 『後漢書』列伝38・伝国璽と丞相の媒介者・徐璆伝
度遼将軍の子、家学は『孟子易』『公羊伝』など
徐璆字孟玉,廣陵海西人也。父淑,度遼將軍,有名於邊。徐璆は、あざなを孟玉という。
「璆」は「仇」と同音。キュウ。
洪亮吉はいう。『先賢行状』では、あざなを孟平とするが、『汝南先賢伝』では、孟玉である。孟玉でよい。『先賢行状』で、徐璆が衛尉を歴した、ともいう。廣陵の海西のひと。父の徐淑は、度遼將軍で、辺境に名あり。
謝承書曰:「淑字伯進,寬裕博學,習孟氏易、春秋公羊傳、禮記、周官。善誦太公六韜,交接英雄,常有壯志。」謝承『後漢書』はいう。徐淑は、あざなを伯進という。『孟子易』『公羊伝』『礼記』『周官』をならう。よく太公『六韜』を誦した。英雄とまじわり、つねに壮志があった。
汪文台は『文選』をひく。沈約は、斉の安陸を封地とした昭王の碑文に、謝承『後漢書』から注釈をしていう。徐淑の戎車(戦車)は、路の首たり(先頭を走った)。
ぼくは思う。徐淑も、後漢に典型的な、有能な官僚。文化資本があり、かつ勇敢で有能な将軍。もちろん「学問も戦闘もできなけりゃ、立派な官僚になれない」というのは分かる。だがそれは、使いこなす側の資本家の、じゃなくて皇帝の側の都合である。生身の人間において、どういう回路によって、古典への造詣と、先陣をきって突撃する勇猛さが両立するのか、よく分からない。先陣の突撃は、レトリックだろうか。軍事の指揮をした功績を称えるために、定型句があるのかもなあ。もしくは、諸書に通じていたのが、ぼくたちが考えるほどに「難しいこと」ではないのかも。本質的な問題なのに、価値観や理解度がゆらいでる。継続的に検討する。
ぼくが、高校や大学で「修了」したことになっている科目が、今となっては、サッパリ分からないことに、比していいんだろうか。ダメだろうな。列伝に残るのは、凡人とは比べられない稀有に優秀な人たちだけだ。そこを勘定に入れずに、自分に引きつけて理解しようとしたら、いかんな。歴史上の人物を、自分と対称性ある人間だと引きつけて「思いやる」ときと、まるで宇宙人だと捉えて自分から距離をおくときを、うまく使い分けないと。
璆少博學,辟公府, 舉高第。 袁山松書曰:「璆少履清高,立朝正色。稱揚後進,惟恐不及。」徐璆は、わかくして博学である。公府に辟され、高第に挙がる。
福井重雅氏の本で、高第=優秀な成績だと認定されても、その後の出世の経路には、あまり影響がないと書いてありました。
ともあれ、わかくして博学になれるのは、父親から継承した文化資本そのもの。生まれた時点で、かなりの程度には、差がひらいている。決着が、わりに付いている。という世界です。どこもかしこも。袁山松『後漢書』はいう。徐璆は、わかくして清高をふみ、朝に正色をたてた。後進を称揚し、ただ及ばざるを恐れた。
ぼくは思う。後進というのは、徐璆が推挙すべき人材たちのことか。私欲をまぜずに人材を見定め、その見定めが及ばないことを恐れたと。理想的な官僚として、描かれているなあ。これが、のちに袁術とぶつかるから、おもしろい。「後漢の理想的な高級官僚」が、「後漢でもっともダメな高級官僚」と衝突するための、伏線なのです。ここまでの、非の打ち所のない列伝は。
後漢の「破壊者」たる霊帝母と、荊州で戦う
稍遷荊州刺史。時董太后姊子張忠為南陽太守,因埶放濫,臧罪數億。璆臨 當之部,太后遣中常侍以忠屬璆。璆對曰:「臣身為國,不敢聞命。」太后怒,遽徵忠為司隸校尉,以相威臨。稍うやく、荊州刺史に遷る。ときに、董太后(霊帝の母)の姉子・張忠が、南陽太守となった。張忠は、放濫して、數億を臧罪した。
ぼくは思う。荊州刺史の役割は、南陽太守らを取り締まること。まったく同じ構図が、荊州牧の劉表と、南陽太守の袁術のあいだで起きる。南陽は帝郷だし、そうでなくても富裕な郡なので、不正(皇帝権力との癒着ともいう)が起きやすいのだろう。
霊帝は、親族を高位につけたり、手足である宦官の子弟を高位につけたりした。成功した「皇帝による専制政治」をやった「名君」である。ここにカギカッコを付けまくっているのは、ぼくの悪意というか、保留の気持ちを表現してます。皇帝が、あまりにも身の回りの者で利権を固めてしまうと、うまく回らない。皇帝というからには、中央集権、一極集中、絶対権力、が理想型かと思いきや、意外にそうでもにない。霊帝の「成功による失敗」が、この逆説を示している。
徐璆は、南陽郡の境界まできた。董太后は、中常侍をつかわし、張忠と徐璆を仲間にしようとした。
ぼくは思う。「属」は、つく、つける、くっつく、つづく、つづける、たのみこむ、たまたま、ちょうど、やから、むれ、なかま。結合をあらわす。交尾を示しているらしい。董太后は、身内でカネの粗い張忠と、度遼将軍の子で清潔な徐璆とを、交尾させようとしたのか。
皇帝の身内のロジックは、とにかく一身に財産を集めて繁栄しよう!というもの。徐璆のロジックは、後進への目配りを欠かさない、次世代へのパス。この2つのロジックは、決定的に対立しているから、仲良くなれるわけがない。でも、異なるものだからこそ、「交尾」の化学反応が期待できるのか?
徐璆は、中常侍にこたえた。「私は国のために、張忠をとらえる。董太后の指図はうけない」と。董太后は怒り、張忠を司隷校尉とした。司隷校尉の張忠と、荊州刺史の徐璆がはりあった。
どちらも1州の監察官レベルだから、「以て相い威臨する」ことができる。徐璆は広陵の出身だから、司隷校尉となって、出身地にひっかけて、徐璆を罰しようとしたのでない。洛陽から南陽にゆく境界は、司隷と荊州の中間地点だから、こんな張り合いが起きるのだ。刺史レベルの張り合いは、後漢末に通じるなあ。この張り合いを、皇帝の母が創出してしまうのだから、イランコトシイである。
璆到州,舉奏忠臧餘一億,使冠軍縣上簿詣大司農,以彰暴其事。又奏五 郡太守及屬縣有臧汙者,悉徵案罪,威風大行。徐璆は荊州にきて、さらに張忠が臧した一億のことを挙奏した。冠軍県の上簿を使者にして、大司農にゆかせ、張忠の悪事を明らかにした。5郡の太守と、属県の県長のうち、臧汙した者の罪をあばいた。威風は大行した。
ぼくは思う。冠軍県のようなものに、注釈してくれないと。いまググったら、光武帝の臣の賈復の出身地だった。
『後漢書』賈復伝・漢中王の七光、朝飯前の賈復
ぼくは思う。荊州って、7郡だっけ。もはや荊州は、太守によって「食い物」にされていた。という、編者の強い意志を感じる記述。霊帝(と母の董太后)が後漢の破壊者なら、袁術も後漢の破壊者だよ! 2人の悪辣な破壊者に立ち向かう者こそ、徐璆である。そういう歴史観が、うっすら織りこまれているのだろうか。
もとは皇帝の代理として、太守の職務を取り締まるのが、刺史だったのに。刺史が、皇帝の身内を罰している。「このような倒錯がおこるほど、後漢は乱れていた」という状況に、ぼくは納得がいかない。やっぱり、刺史は皇帝の代理だ。皇帝の母を怒らせて、無事でいられるというのは、ムリがある世界設定である気がする。
黄巾を平定し、汝南太守、東海相になる
中平元年,與中郎將朱儁擊黃巾賊於宛,破之。張忠怨璆,與諸閹官構造無端。璆遂以罪徵。有破賊功,得免官歸家。中平元年(184)、中郎将の朱儁とともに、黄巾を宛城でやぶる。
ぼくは思う。徐璆は荊州刺史だった。宛城は南陽である。南陽は荊州である。というわけで徐璆は、荊州刺史の経験者として、赴任の経験がある土地で戦った。時系列がきちんと書いてないが、黄巾の時期に重複して、荊州を治めていたのかも。
朱儁は会稽からきて、辺境の各地で手柄を立てている人。荊州にとくに地縁がない(という認識で良かったっけ)。いっぽうで徐璆は、荊州に詳しい。現地のサポート係だな。「ともに」と書いてあるから、徐璆は、朱儁の部下ではない。荊州刺史の資格か、そうでなくても、中郎将と同格くらいの権限?で、軍をひきいている。
張超は朱儁の明確な部下だったから、張超と徐璆はちがう!
張忠は、徐璆を怨んでいた。張忠が、徐璆の罪をチクった。黄巾を破った功績があるので、免官だけですみ、広陵に帰家した。
ぼくは思う。吉川英治を再読したばかり。地方の戦功と、中央による恩賞が、いまいちリンクしない。宦官もふくめ、中央の連中は何もしていないが、褒賞があつい。この気持ち悪い感じが、何を意味しているのか。いま徐璆伝で、この気持ち悪さが発生したので、「正史」においても問題として成立しそう。
「霊帝が暗愚だから」でなく、情報の経路とか、賞罰の基準とかに、なにか、ぼくの気づいていないルールがあるのだろう。軍事の賞罰って、そもそも、きちんとした評価の体系が後漢にあったのだろうか。「軍事行動に対する褒賞は、どんなか」という観点で、中央の意見具申とか、地方の行政統治とかの、どんな行動に比せられるのか、検討してみると面白そう。
黄巾の討伐で活躍した将軍を、霊帝の周囲が過小評価すると、「黄巾よりも、黄巾討伐の将軍のほうが、ちょっとジャマ」というメッセージになる。後漢は黄巾を支持して、自殺をする。これは極端な単純化、風が吹けば論法だけど、なんだかそういう矛盾が描かれている気がする。あー、捉えにくい時代!記述!
後再徵,遷汝南太守,轉東海相,所在化行。のちに、ふたたび徵され、徐璆は汝南太守に遷る。東海相に転じる。赴任地では、教化が行われた。
ぼくは思う。徐璆は安定して、二千石をめぐる。これを見ると、ほんとうに張忠による讒言があったのか、疑問になる。おなじ霊帝の時代っぽいのに、これほど評価が変わるものか。それとも、いちど「高官になる資格」をとってしまえば、官位に就く・就かないは、あまり重要なことではないのか。退職を「骸骨を乞う」と言うわりには、職歴のブランクに寛大な気もする。
徐璆は、病気とか服喪とかで、ちょっと故郷に帰ったけれど。それを史料の著者か編者が、張忠のせいにしたのでは。張忠も、南陽太守や司隷校尉までに昇っているから、権勢はあなどれないだろうが。荊州刺史として実績があり、黄巾の討伐にも実績がある徐璆の職歴に、真空ができるほうが、よく分からない。
ぼくは思う。徐璆伝に書いてないのは、董卓との関わり。ずっと地方に赴任していて、董卓との関わりがなかったか。汝南太守のとき、関東の袁紹らが挙兵したら、ぜったいに巻きこまれる。東海相のときに、袁紹を横目に見たか。あとで印綬をまとめて、皇帝に返還する。皇帝が長安から許県にうろつく時期に、汝南太守と東海相をやっていることは窺われる。
むりに物語をつなげようとすると。董卓の乱のときに汝南太守だった。二袁の戦いに巻きこまるか微妙な時期くらいに、李傕から東海相に任じられた。李傕の意図を受けて、東方の秩序を回復しようとした1人か。陶謙はずっと徐州の長官だから、陶謙とは絶対に関わりを持っている。すると、陶謙のしたにいる在地豪族のような人たち(麋竺とか)とも関係があるのか。徐璆は、190年代の関東で埋もれてしまったが、父の代からの由緒ある後漢の地方官。こういう由緒ある高官を「無視」するかたちで、二袁のバトルは行われていたんだなあ。武帝紀の戦闘の履歴に出てこない太守は、わりとキッチリ、民政をしていたのかも。武帝紀の戦歴に出てこない太守、二袁に引きずられない太守。いい観点!そのうちやろう。
これを書いたあと、むじんさんから朱儁の話を教えて頂きました。ここに書いたことは、半分くらい違ったけど(董卓と関わってるじゃんとか)、大枠では外さないので(せっかく書いたので)消さずに残します。
袁術の王朝で、最高位を約束される
獻帝遷許,以廷尉徵,當詣京師,道為袁術所劫,授璆以上公之位。璆乃歎曰:「龔勝、 鮑宣,獨何人哉?守之必死!」術不敢逼。献帝が許県にきた。徐璆を、廷尉として徴した。
ぼくは思う。ずっと徐璆が東海相をしていたら、袁術、劉備、呂布の抗争に、巻きこまれたはずだ。いつかのタイミングで、東海を諦めて、帰郷したのかな。でも、帰郷しても広陵だから、おなじく、袁術、劉備、呂布の抗争に巻きこまれたはずだ。これは推測だけど、故郷の広陵を抑えた袁術によって、故郷ごと、徐璆は召し抱えられたのかも。広陵太守の呉景によって、「名士」サマとして徴発され、、というパターン。呉景は、徐璆よりは家柄が低いから、袁術の手足として動きつつ、徐璆にバカにされつつ。
1郡を占領するというのは、帰郷している、後漢の元高官を、いちおうリクルートする権限が発生するらしい。そりゃあ、必死になるよなあ。そして、曹操と呂布が兗州を奪いあったように、在地の豪族(ないしは、元高官でも「名士」でも、何でもいいけど)と協調しながら、支配を安定させるという。
徐璆が、イヤイヤながらも袁術のもとにいたのは、袁術の広陵支配が、一定の成果を、一定の期間はあげていたという証拠じゃないかな。
許県に行こうとすると、袁術に劫(おど)された。「上公の位をあげるから、袁術の王朝に仕えよ」と。
ぼくは思う。袁術がバラまいた官位のなかで、最高位ではなかろうか。兗州刺史の金尚は、三公か何かを約束されたはず。なぜ最高位をもらえたか。徐璆の父が度遼将軍で、徐璆が荊州刺史ほかの二千石だから。袁術は、後漢の秩序に基づいて、官位の序列をつくろうとしている。これは、曹魏と同じだ。
190年代、地方長官がかってに「群雄」に転じるなかで、きちんと地方長官、後漢の官僚としての態度を貫いたのが、徐璆。袁術は、そういう徐璆を欲しがった。みんな「わが子を州牧に」「劉備を州牧に」とか言い始めるけれど、これは袁術ならずとも僭越である。任期が終わったら、皇帝の璽綬を返さないとダメなんだよ。徐璆の潔癖?と比べることによって、いわゆる「群雄」の僭越がわかる。徐璆は歎じた。「前王朝のために節義をつらぬくのは、前漢末の龔勝、鮑宣だけではない」
龔勝字君賓,楚人也。好學明經,哀帝時為光祿大夫,乞骸骨。王莽即位,遣使以上卿徵,勝不食而死。鮑宣字子都,渤海人也,哀帝時為司隸校尉。王莽輔政,誅漢忠臣不附己者,宣及何武等皆死。龔勝は、哀帝の光禄大夫である。王莽から「上卿にする」と言われたが、ハンガーストライキで餓死した。鮑宣は、哀帝の司隷校尉である。王莽につかないので、王莽に誅された。
ぼくは思う。王莽は、漢室からの禅譲の故事を生みつつ、その周辺では、「禅譲を拒否する人」の行動の類型という副産物をうんだ。漢室を滅ぼす者に対して、漢臣がどのように振る舞えばよいのか、カタログのなかから選ぶだけである。そういう意味で『漢書』は、後漢の正統性を言うだけでなく、後漢の滅亡を抑止する機能もある。『忠臣・自殺マニュアル』でもあるのだ。袁術は徐璆に、ムリに強いなかった。
伝国璽、汝南、東海の印綬を返却する
術死軍破,璆得其盜國璽,及還許,上之,袁術の軍が破れた。徐璆は、袁術がぬすんだ国璽をえて、
ぼくは思う。 後漢に忠実で、立場が正当な徐璆。後漢に忠実でなく、立場が僭越だが、印綬がホンモノの袁術。その徐璆に、上公の印綬を与えようとする袁術。それを拒む徐璆。袁術の敗後、袁術から伝国璽をとりあげる徐璆。神話分析における「項の変換体系」のようなことが、袁術と徐邈のあいだで起きている。徐邈は、さすがに四世三公でないものの、袁術と表裏をなす役割。袁術の特性を、よりクッキリ浮かび上がらせるのが、徐邈の神話的な機能。
レヴィ=ストロース曰く、fx(a):fy(b) から、fx(b):f-a(y)へと。
f伝国璽(袁術):f漢室(徐璆)から、f伝国璽(徐璆):f-袁術(漢室)へと。
これを読解するなら。はじめ、袁術は伝国璽を持っていた。徐璆は漢室に忠実であった。徐璆はトリックスターである。伝国璽は徐璆に移った。神話の論理によって、漢室が袁術を滅ぼし(-袁術)、そのあとの世の中は、漢室の強さが確認されましたと。
中沢新一『野生の哲学』135頁では、
f権力(自然):f社会(王)から、f権力(王):-自然(社会)へ、
という事例があり、自然が去勢される。150頁では、
f子性(キリスト):f父性(霊)から、f子性(霊):f-キリスト(父性)へ、
という事例があり、キリストが刑死する。
許県で献帝に返した。
衞宏曰:「秦以前以金、玉、銀為方寸璽。秦以來天子獨稱璽,又以玉,羣下莫得用。其玉出藍田山,題是李斯書,其 文曰『受命于天,既壽永昌』,號曰傳國璽。漢高祖定三秦,子嬰獻之,高祖即位乃佩之。王莽篡位,就元后求璽,后乃出以投地,上螭一角缺。及莽敗時,仍帶璽紱,杜吳殺莽,不知取璽,
公賓就斬莽首,並取璽。更始將李松送上更始。赤眉至高陵,更始奉璽上赤眉。建武三年,盆子奉以上光武。孫堅從桂陽入雒討董卓,軍於城南,見井中有五色光,軍人莫敢汲,堅乃浚得璽。袁術有僭盜意,乃拘堅妻求之。術得璽,舉以向肘。魏武謂之曰:『我在,不聽汝乃至此。』」時璆得而獻之。衛宏はいう。秦より以前は、金・玉・銀をもって、一寸四方の璽をつくった。秦より以後は、天子のみ「璽」とよび、玉を用いた。群臣は「璽」と呼べず、玉を使えず。天子の玉とは、藍田山からでた。李斯が文字を書いた。「命を天にうけ、既に寿にしてながく昌(さか)ゆ」とある。伝国璽という。
漢の高祖が三秦を定めると、2世皇帝の兄・子嬰が、高祖に璽を献じた。高祖が即位して、璽をおびた。王莽が簒奪するとき、元后が投げたので、ミズチの1角が欠けた。王莽が敗れたとき、璽をおびたままだった。王莽を殺した杜呉は、璽を取ることを知らず。
ぼくは思う。璽の重要性を知るか否かに、階層の差異がある。公賓就が王莽のクビをとり、璽をとる。李松が更始帝にたてまつる。赤眉が高陵にくると、更始帝が赤眉に璽をわたす。建武3年(027)、劉盆子が光武帝に璽をたてまつる。孫堅が璽をえて、袁術がぬすむ。
袁術が、これ見よがしに高くかかげて、璽をひじに向けた。曹操が袁術にいう。「私がここいにいる。袁術がそんな行為をすることを、ゆるさない」と。袁術の敗後、徐璆が皇帝と曹操に献じた。
ぼくは思う。荊州刺史のとき、徐璆は権限を濫用する者に、きびしくあたった。袁術も、徐璆から見れば、後漢の官職における権限を濫用する者。だから、袁術に従わなかったんだなあ。
璽をぶらさげて、「ほれほれ」とやり、曹操に叱られるエピソードでは、武帝紀?では袁紹に割り当てられている。袁紹と袁術のどちらか分からず、史料が混乱していることが、残念なのでない。袁術でも袁紹でも、起こり得そうである、という諒解が史料の編者のなかに形成されてるのが面白いのだ。特筆すべきなのだ。
『後漢書集解』はいう。沈欽韓はいう。『三国志』袁紹伝で、袁紹が1つの玉印をえた。曹操との座中で、ひじに引っかけた。袁紹伝にひく『魏書』で、曹操は大笑して「私は袁紹を許さない」と言った。この袁紹が璽を見せる記事は、董卓を討つときであり、伝国璽が許県に届いたあとでない。また、袁術が孫堅の妻をとらえて璽をうばったのは、孫堅の没後である。董卓との戦いは、その3年前である。袁術は淮南にいたから、曹操の目の前で、璽をひっかけられない。曹操が、二袁の両方から、璽を見せびらかされることはない。どちらかが誤りである。
ぼくは思う。どちらも誤りで(創作で)、しかしどちらも真実味があった!のだとしたら、面白いと思うなあ! もう二袁そろって、ぶらぶら、やればいいと思う。
并送前所假汝南、東海二郡印綬。あわせて徐璆は、前から仮りていたところの、汝南、東海の2郡の印綬を、
ぼくは思う。2郡の印綬は「仮」されていた。これは、どちらの意味だろう。もとは皇帝のもので、一時的に徐璆が「仮」りていたのか。もしくは、皇帝が長安で交通できないので、徐璆が「仮」に自作?したレプリカか。
前者なら、共通の用法が他の史料にあるのかなあ。後者なら、レプリカにせよ、統治には有効だろうし、まして皇帝の承認を得ているのは事実だから、問題がなさそう。しかし、印綬のニセモノを作り出したという点では、袁術と同じ。いや、もし伝国璽がホンモノで、袁術がそれを盗んで濫用したのなら、袁術は曲がりなりにもホンモノを使ったことになる。徐璆はニセモノで代用しているのだから、より「僭越」な感じがする。徐璆が僭越かどうかは置いておいて(恐らく僭越ではない)交通が途絶えるというのは、官位の再配分という機能を果たすべき皇帝にとっては、致命的だなあ! 具体的には、印綬が「クラ交易」することによって、後漢の天下は、1つにまとまっているのだから。
以下、むじんさんとの往復ツイート。
@yunishio さんはいう。普通に読むと「あたえる」かなー?
ぼくはいう。前に假(あた)える所の二郡の印綬ですね。でもそうすると、東海相の印綬をもらうとき、汝南太守の印綬を返せそうです。徐璆は、後漢の印綬を、私蔵しそうな性格ではありません。長安の献帝と交通が途絶えたので、印綬の授受がないまま、徐璆が汝南から東海に移ったのなら、徐璆は東海の印綬を、皇帝からもらうことができません。東海の印綬はレプリカになりますよね。
@yunishio さんはいう。朱雋を太師に推戴する上表文に「東海相劉馗…汝南太守徐璆…」とあります。この劉馗が亡くなるか任地を去ったあと、徐璆が二郡の太守を兼任してその印綬を預かったと考えることはできないでしょうか。
ぼくはいう。徐璆伝で「東海相に転じ、所在に化、行わる」とあるので、印綬を預かるだけでなく、統治をしてます。遠隔地の太守を、形式的にも「兼任」する事例はありますか?魏晋南朝でも、隣接地域の軍事権をもつ事例しか知りません、、汝南の争乱が激しすぎたゆえの、例外的な事態でしょうか。
@yunishio さんはいう。おそらく袁術がらみだと思います。袁術の圧迫を受けて汝南を去り、そのころ劉馗が亡くなったか何かの原因で東海相の任務を続行できなくなったので、徐璆が代行した、という感じではないですかね。とすると徐璆は失地回復を考えているので印綬の返還はありえないわけです。
ぼくはいう。朱儁を推戴したのは、徐州刺史陶謙、前楊州刺史周乾、琅邪相陰德、東海相劉馗、彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、太山太守應劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄でした。『後漢書』朱儁伝より。陶謙と徐璆は袁術の敵対者、鄭玄は袁紹を拒否。彼らは、関東が二袁に収斂すること抵抗したかもですね。
@yunishio さんはいう。袁忠は袁紹の族兄ですが、宦官との関係を嫌って絶交していたようですしね。東海相のことは、東海王伝のほうに何か書かれてないでしょうか。
ぼくはいう。『後漢書』東海恭王彊伝よりです。「(劉臻)立三十一年薨、子懿王祗嗣。初平四年、遣子琬至長安奉章、獻帝封琬汶陽侯,拜為平原相。祗立四十四年薨、子羡嗣。二十年、魏受禪、以為崇德侯。」と。初平四年の長安への使者は、徐璆のアドバイスと見えなくもないかも知れません。
@yunishio さんはいう。東海相については言及がないんですね。初平四年はかなり絶妙なタイミングですね。袁術が曹操に敗れて揚州入りしたのがこの年です。
ぼくはいう。その初平四年に曹操が徐州に攻めこみ、翌年に徐州牧の陶謙が死に、劉備と呂布が徐州に出入りし、袁術も徐州をねらい、、という「いつもの話」がこれに接続されるんですよね。そして袁術が徐璆をラチすると。また後日お願いします。
話題を分岐させ、、
ぼくはいう。徐璆が汝南太守の印綬を持っていれば、職務の資格として、汝南出身の袁術を罰することができます(あってます?)。汝南太守の印綬を手放さないのは有効です。ところで「東海にいて、汝南の失地回復を考えている」は、実現可能性が低そうですが、成功の要因ってありそうですか?
@yunishio さんはいう。当時の官制を調べなければよく分からないですが、汝南出身者だからといって袁術を罰することは難しいんじゃないでしょうか。汝南の袁氏邸を出入りする食客を捕まえて尋問し、供述書を司隷校尉に提出するのはできそう…。徐璆の汝南太守は、劉備の予州牧と同じですね。
ぼくはいう。『後漢書』劉矩伝で「(梁)冀妻兄孫祉為沛相、(劉)矩懼為所害、不敢還郷里、乃投彭城友人家」とあります。劉矩は沛国の人です。劉矩は故郷に帰りさえしなければ、沛相に危害を加えられなかったようです。この記述を勘違いして記憶し、誤ったことを言いました。献帝に返却した。
ぼくは思う。趙岐や馬日磾は、袁紹と袁術をなだめにいくが、徐璆のような、後漢の順調な官僚に会ったという記述がない。会う必要がなかったのだろう。董卓の死後においては、李傕は天下に官位と使者をバラまいて、安定させようとしている。とりあえず、官位の再配分者としての皇帝の機能を回復させてる。
袁紹と袁術が、せっかくの収束の傾向を、撹乱しようとする。曹操も撹乱者である。陶謙は、いまいちキャラがハッキリしないが、おそらく後漢の順調な官僚として、秩序の回復に協力しているのだろうか。そのラインに徐璆がいる。徐璆は陶謙よりも、秩序回復の推進者として積極的か。勤務態度に、節度があるもんなー。
このとき天下は、李傕を筆頭に、趙岐、馬日磾、徐璆、陶謙?のような人たちが安定させようとするが、二袁が乱していたのだろう。
ぼくは思う。史料を見て、曹操と二袁ばかり活躍しているように見えるのは、彼らが余計なことをしているからだ。史料への出現の頻度が高いことは、権勢が強いことばかりを意味しない。わざわざ書きとめなければならない、面倒ごとを起こしているのだ。もし面倒を起こさなければ、徐璆のように「どこ太守、どこ相をやり、どの任地でも教化が行われた」という記述で充分である。
司徒趙溫謂璆曰:「君遭大難,猶存此邪?」璆曰:「昔蘇武困於匈奴,不隊七尺之節,況此方寸印乎?」司徒の趙温は、徐璆にいう。
ぼくは補う。趙温は、李傕と戦ったが、曹丕を推薦して曹操に叱られた。
献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 03
文帝紀を読む/巻首-延康元年の春、曹丕が魏王となる
ぼくは思う。徐璆は、官歴においては、いつ三公になっても不思議でない。袁術から上公に誘われただけでなく、司徒の趙温と親しく付き合っている。趙温や楊彪は、長安の献帝に随行して、漢室の最有力者になった。徐璆や袁術は、関東に残って勢力をきずき、やはり漢室の最有力者になった。このあいだにあって、長安に行くでもなく、関東に専心するでもない曹操が、両取した。
関西の高官(趙温や楊彪)と、関東の高官(徐璆や袁術)が、曹操のもとの許県で再会して、おたがいをねぎらう。袁術は脱落したけど、楊彪とは義兄弟の関係だから、ねぎらいたかったに違いない。妄想だけどね。趙温はいう。「大難にあったのに、よくぞ伝国璽をなくさなかったね」と。徐璆はいう。「前漢の蘇武は匈奴で追いこまれたが、7尺の節をおとさなかった。まじて、1寸四方のものを、おとすものか」と。
曹操を丞相にしに行き、丞相にされかける
後拜太常,使持節拜曹操為丞相。操以相讓璆,璆不敢當。卒於官。のちに徐璆は、太常となる。持節して、曹操に丞相の印綬をとどけにいく。曹操は、丞相の印綬を徐璆にゆずろうとした。徐璆は、丞相の印綬を受けなかった。在官のまま死んだ。
さっきは、徐璆と袁術の関係を表して、
f伝国璽(袁術):f漢室(徐璆)から、f伝国璽(徐璆):f-袁術(漢室)へと、
とした。しかし、媒介者やトリックスターとしての役割ならば、徐璆よりも曹操のほうが優れている。井波律子先生が書かれてた。分野はちょっと違うけどね。そういうわけで、曹操を媒介者の位置にもってくる。
ただのデリバーではなく、曹操から丞相を押しつけられそうになったのが、よい。徐璆が丞相の印綬を持っているとき、名目ではデリバリだが、一時的には形式的には「徐璆が丞相」だったわけで。ここに、贈与の押しつけあいによる、せめぎあいを見て取れるのが良い。さすがに、魏公、魏王、魏帝のときは、こんな戯れは起こらない。持節した使者は、単なるデリバーである。贈与論的な戦いが起こらない。
f丞相(徐璆):f漢室(曹操)から、f丞相(曹操):f-徐璆(漢室)へと。
はじめ丞相の節は、徐璆の手許にあった。これを、漢室を支える曹操のもとに移した。漢室は、主語と述語が逆転して、徐璆のような忠臣を殺すことになった。あたかも漢室に主体的に働きかけた袁術が、主体としての漢室に殺された客体になったように。
ところで、この2つの変形式を接続すると、どうなるんだろ。やらないほうがいいなあ。よく分からない、3次元の見取り図のようなものを書かないといけなくなる。
袁術や曹操との比較対象として、徐璆はふくらむなあ!120913閉じる
- 『後漢書』より、黄巾と戦った南陽太守・秦頡
秦頡は列伝がないので、中央研究院で検索して集める。
『後漢書』霊帝紀:殺された南陽太守の後任者
中平元年春二月,鉅鹿人張角自稱「黃天」,其部帥有三十六方皆著黃 巾,同日反叛。安平、甘陵人各執其王以應之。 三月戊申,以河南尹何進為大將軍,將兵屯都亭。置八關都尉官。
中平元年春2月、張角が挙兵。安平と甘陵で、王が黄巾に捕らわれた。
ぼくは思う。秦頡に結びつきそうなところだけ、抄訳する。黄巾は、郡国のトップを捕らえて、後漢にそむいた。その最初が、冀州の安平と甘陵である。秦頡も、太守として黄巾とたたかう。
安平王は劉續であり、甘陵王は劉忠である。捕らわれた。
3月、河南尹の何進が大将軍となる。八関都尉をおく。
ぼくは思う。朝廷がまずやるのは、地方の討伐でない。張角への攻撃でない。洛陽の防御を固めることだ。これから、秦頡は南陽太守になる。南陽から洛陽に攻め入る事例はおおい。光武帝がそうだし、袁術と孫堅も同じ。秦頡が、いかに南陽を守り通すかによって、洛陽の命運が変わる。もし南陽が陥落したら、八関都尉は、マジで戦わなければならなくなる。
八関とは、函谷、廣城、伊闕、大谷、轘轅、旋門、小平津、孟津。
壬子,大赦天下黨人,還諸徙者,唯張角不赦。詔公卿出馬、弩,舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者,詣公車。遣北中郎將盧植討張角,左中郎將皇甫嵩、右中郎將朱儁討潁川黃巾。庚子,南陽黃巾張曼成攻殺郡守褚貢。北中郎將の盧植が、張角を討ちに。左中郎將の皇甫嵩と、右中郎將の朱儁が、頴川の黄巾を討ちに。
3月庚子、南陽の黄巾・張曼成が、太守の褚貢を殺した。ぼくは思う。南陽を破られたら、洛陽があぶない。朱儁たちは、頴川ばかりで戦っているわけには、いかなくなった。南陽から頴川、頴川から洛陽に入るというルートは、まさに光武帝であり、まさに孫堅である。東晋の桓温も、同じようなルートから、一時的に洛陽を占領するんだっけ。
というわけで、つぎの南陽太守となる、秦頡の重要性をあおるわけです。
夏四月,太尉楊賜免,太僕弘農鄧盛為太尉。司空張濟罷,大司農張溫為司空。
朱儁為黃巾波才所敗。侍中向栩、張鈞坐言宦者,下獄死。 時鈞上書曰:「今斬常侍,懸其首於南郊以謝天下,即兵自消也。」帝以章示常侍,故下獄也。夏4月、太尉が、楊賜から鄧盛へ。司空が、張済から張温へ。
ぼくは思う。黄巾のとき、軍事のトップである太尉には、楊賜では心許なかったか。楊賜は『後漢書』楊賜伝で、張角の脅威を説明していたのに、納れられなかった。挙兵があれば、もう楊賜のような学者では、役に立たないのか。弘農の鄧盛は、あざなを伯能というらしいが(ふーん)楊賜と同郡の出身だなあ。注釈であざなが書かれるくらいだから、列伝のような高級なものはなかろう。
朱儁が黄巾の波才にやぶれた。
ぼくは思う。さっき後漢から出撃したのに、頴川で敗れてしまった。ふつうに、洛陽が恐慌してもおかしくない。パニックのなかで、黄巾の犯人捜しとか、反対者への攻撃とかが、ドサクサに行われたんだろう。つぎの記事は、そういう混乱を反映しているのだと思う。後漢が、軍事的な危機にさらされているから、ふつうにマズい。侍中の向栩と張鈞は、宦官について言及したので、獄死させられた。
李賢はいう。張釣は「宦官のクビを南郊にひっかけて天下に謝れば、黄巾の兵乱は自然とやむだろう」と。
ぼくは思う。黄巾については、その政治的&歴史的な意義が、複雑にコネまわされる前から、リアルタイムで、脊髄反射的に「黄巾とは、宦官に対する民衆の抗議」と認識されていたことが分かる。張釣は、あまりにホントウのことを言い過ぎた。ホントウのことを言いたくなるほど、南陽の陥落と、頴川の敗北は、差し迫った。もう大人しく建前を述べている場合ではない!という状況。
汝南黃巾敗太守趙謙於邵陵。廣陽黃巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衞。汝南の黄巾は、汝南太守の趙謙を、邵陵でやぶる。広陽の黄巾は、幽州刺史の郭勲と、広陽太守の劉衛を殺した。
ぼくは思う。南陽、汝南が抜かれて、もし次に、頴川でふたたび敗れたら、後漢は滅亡だな。滅亡しないまでも、少なくとも洛陽は失う。黄巾は、張角がすぐに死ぬから、あまく見ていたけど。じつは、洛陽はかなり軍事的に、きわどい。
五月,皇甫嵩、朱儁復與波才等戰於長社,大破之。
六月,南陽太守秦頡擊張曼成,斬之。交阯屯兵執刺史及合浦太守來達,自稱「柱天將軍」,遣交阯刺史賈琮討平之。皇甫嵩、朱儁大破汝南黃巾於西華。詔嵩討東郡,朱儁討南陽。盧植破黃巾,圍張角於廣宗。宦官誣奏植,抵罪。遣中郎將董卓攻張角,不尅。(…) 冬十月癸巳,朱儁拔宛城,斬黃巾別帥孫夏。5月、皇甫嵩と朱儁が、ふたたび波才と頴川の長社で戦い、波才を破砕した。
6月、南陽太守の秦頡が、張曼成を斬った。皇甫嵩と朱儁は、汝南の黄巾を、西華で破った。皇甫嵩は東郡をうち、朱儁は南陽を討つ。
ぼくは思う。頴川で官軍が勝った。南陽で、本日の主役の秦頡が勝った。しかし、南陽の黄巾はまだ片づいておらず、朱儁に手伝ってもらう。とりあえず、頴川と汝南で押し戻したので、洛陽が陥落する、当面の危機は去ったのだろう。あとは皇甫嵩が北上して、冀州のなかで、太守が敗れたところを、官軍が取り返す。盧植は、張角を広宗でかこむ。董卓にかわるが、張角に勝てず。
冬10月、朱儁が宛城をぬき、黄巾の別帥の孫夏を斬る。
ぼくは思う。秦頡も、朱儁の宛城ぜめに、加わっていたのだろう。
秦頡から見れば。まず3月、南陽太守が殺されたので、秦頡が後任にあてられる。太守が殺されるのは珍しく、南陽は重要な拠点(帝都だしな)である。この後任者になるということは、秦頡は、わりに実力を認められていたことになる。4月、いざ官軍が出発するが、朱儁が頴川で負けてしまう。しかし、南陽を取られっぱなしにはできない。秦頡は、郡治の宛城を占拠した黄巾に、外から戦いをいどむ。まったく不利。城郭は、黄巾に味方するしね。5月、幸先の悪かった朱儁が、頴川の長社で勝ってくれたので、6月、秦頡は張曼成を斬ることができた。足かけ3ヶ月、秦頡は野戦?を強いられて、戦闘らしい戦闘を強いられた。しかし、秦頡だけでは、宛城を奪還するには到らず。朱儁の協力をえて、さらに半年をかけて、郡治を取り返しましたとさ。
この戦闘の経過は、朱儁伝にある。前回は省いたから、今日やろう。
『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む
朱儁はこのあと、『後漢書』朱儁伝にて、明年春,遣使者持節拜俊右車騎將軍,振旅還京師,以為光祿大夫,增邑五千,更封錢塘侯,加位特進。以母喪去官,起家,複為將作大匠,轉少府、太僕。となる。
つまり朱儁は、中平元年のうちに南陽が片づいたので、右車騎将軍となり、洛陽に帰った。光禄大夫となり、母の喪で去官。將作大匠、少府、太僕から、河内太守になる。なぜこんな話をしているかというと。朱儁が洛陽にもどり、栄達しているうちに、秦頡が死ぬ。秦頡は、朱儁に助けてもらうことなく、死ぬ。明暗が分かれるなあ。
三年春二月,江夏兵趙慈反,殺南陽太守秦頡。(…)
六月,荊州刺史王敏討趙慈,斬之。中平3年春2月、江夏の兵・趙慈がそむき、南陽太守の秦頡を殺した。
ぼくは思う。皇甫嵩は張角を斬ったあと、中平2年、涼州の戦場にゆく。在外三公の張温にバトンタッチする。つまり後漢の主要な心配事は、涼州に移っている。荊州は、とりあえず小康状態ということになっている。ところが、秦頡があっさり殺された。6月、荊州刺史の王敏が、趙慈を斬った。
ぼくは思う。王敏の活躍によって、秦頡伝はおわり!
『後漢書』羊続伝:羊祜の祖父と同型の働き
羊續字興祖,太山平陽人也。其先七世二千石卿校。祖父侵,安帝時司隸校尉。父儒,桓帝時為太常。羊続は、泰山の平陽のひと。7世が2千石・卿校を輩出した。祖父は安帝の司隷校尉、父は桓帝の太常。
ぼくは思う。秦頡が「どういう役割を期待されていたか」を理解するために、秦頡の後任者の列伝をひく。羊続は、あの羊祜の祖父。7世のあいだ、太守、九卿、校尉などを輩出した。そういう家柄のひとが、出入りするような出世コースのなかに、秦頡も属していたのね。もし秦頡が、南陽太守として趙慈の殺されなければ、秦頡の子孫が、魏晋の貴族になったかも知れない。
續以忠臣子孫拜郎中,去官後,辟大將軍竇武府。及武敗,坐黨事,禁錮十餘年,幽居 守靜。及黨禁解,復辟太尉府,四遷為廬江太守。後揚州黃巾賊攻舒,焚燒城郭,續發縣中男子二十以上,皆持兵勒陳,其小弱者,悉使負水灌火,會集數萬人,并埶力戰,大破之,郡 界平。後安風賊戴風等作亂,續復擊破之,斬首三千餘級,生獲渠帥,其餘黨輩原為平民,賦與佃器,使就農業。羊続は、忠臣の子孫だから、郎中となる。大将軍の竇武に辟される。党錮で、禁錮10年。太尉に辟される。廬江太守となり、黄巾を平定して、民政をうまくやる。黄巾の首謀をいけどり、他をゆるし、農業に就かせた。
ぼくは思う。忠臣の子孫というのは、任子の制度だ。
この時代の有能な地方官は、羊続のように、黄巾の平定をやった記事が『後漢書』にあるのかも。ふつうに気づいてなかった。ここでイキイキと描かれる、司令官としての羊続は、兵に水を背負わせて火を消させたり、「実戦むき」な太守だったようです。何でもできないと、務まらない。これは、秦頡にも言えること。
羊続がすばらしければ、すばらしいほど。張曼成に殺された南陽太守の後任として任命された、秦頡への評価の高さがわかる。もしも秦頡が、殺されずに太守を勤めあげたら、羊続みたいに、美談だらけの列伝をつくってもらえたのだ。結果が少し違うだけで、活躍の領域は重複しているし、おそらく能力も近かった。
中平三年,江夏兵趙慈反叛,殺南陽太守秦頡,攻沒六縣,拜續為南陽太守。當入郡 界,乃羸服閒行,侍童子一人,觀歷縣邑,採問風謠,然後乃進。其令長貪絜,吏民良猾,悉 逆知其狀,郡內驚竦,莫不震懾。乃發兵與荊州刺史王敏共擊慈,斬之,獲首五千餘級。屬縣餘賊並詣續降,續為上言,宥其枝附。賊既清平,乃班宣政令,候民病利,百姓歡服。(…) 六年,靈帝欲以續為太尉。中平3年、江夏の趙慈が、南陽太守の秦頡を殺した。6県が攻めおとされた。羊続は、廬江太守から、南陽太守にうつる。
南陽の境界に入った羊続は、県邑をめぐった。令長な吏民について、情報収集した。羊続がきちんと調査したので、郡内はおどろいた。
ぼくは思う。間接的に、趙慈が挙兵した理由が示される。6県の令長や、その属官たちが、キタナイことをしたから、民衆が反乱したという構図である。裁判、賞罰、任免がデタラメだったのだろう。羊続は、すぐに軍事行動に移るのでなくて、実態を把握してから、最小限の首謀者だけを斬るという方法をとった。
ぼくは思う。もしも、史家による脚色ばかりでなく、実際に羊続がこのとおりの調査をしたのなら。黄巾の乱をはじめとする、後漢末の反乱は、ひとえに後漢の為政者の責任であることが、明らかになる。きちんと道理をわきまえた太守が赴任して、正しい政治をやれば、まだまだ後漢は生き延びたということになる。天命の所在をゴチャゴチャ理論にするよりも、羊続の成果そのものが、後漢のダメさを物語る。
まさか人民を全殺するわけにはいかないから、首謀者だけを斬る。こうしてケジメをつける。公式声明は出ないだろうが、「悪いのは為政者であり、反乱者ではありません」と言っているようなものだ。
羊続の成果は、間接的には、南陽の令長にムチャさせて、趙慈に暴発させてしまった、南陽太守の秦頡の責任を物語るのかな。太守の人選ひとつで、治乱が決まるのだから、太守の権限の大きさはすごいな!と感心する反面、秦頡がとても失敗したことを暴露する。いや、おそらく、羊続の統治のうまさが異常なんだ。秦頡は、まあ平均以上に、よくやっていたのだろう。だから、足かけ3年は南陽を治めることができたのだし。
ところで、献帝が曹氏に禅譲をするとき、かならず董卓から語り始める。中平のときの黄巾の乱について、言及されない。為政者たちの責任で、発生してしまった民衆反乱は、漢魏の両方から「なかったこと」になったのね。漢魏が共犯関係になって、包み隠したことが、『後漢書』羊続伝で、チラ見してしまうのだ。羊続は、荊州刺史の王敏とともに、趙慈を斬った。属県の余賊がくだった。羊続がゆるした。中平6年、霊帝は、羊続を太尉にしようとした。
まだ続きますが、後日。
ぼくは思う。南陽太守として、足かけ4年を治めた羊続は、三公になる資格を手に入れた。南陽での治績という点では、そりゃ秦頡より羊続が優れているが、秦頡も惜しいところまできている。
『後漢書』朱儁伝:韓忠を斬って、人民を緊張させる
及黃巾起,公卿多薦儁有才略,拜為右中郎將,持節,與左中郎將皇甫嵩討潁川、汝南、 陳國諸賊,悉破平之。嵩乃上言其狀,而以功歸儁,於是進封西鄉侯,遷鎮賊中郎將。黄巾が起こると、朱儁は右中郎将となる。持節して、頴川、汝南、陳国を平らげた。ともに戦った、左中郎将の皇甫嵩が、朱儁の功績を報告してくれたので、西鄕郷、鎮賊中郎將にうつる。
ぼくは思う。南陽にきて、秦頡にであう直前の朱儁。じっさいには、黄巾の討伐で、功績が最大であるとされる皇甫嵩から、「朱儁はすごいよ」と言ってもらっている。そのわりには、へんな雑号の中郎将だけど。いらんよ!
時南陽黃巾張曼成起兵,稱「神上使」,眾數萬,殺郡守褚貢,屯宛下百餘日。後太守秦 頡 擊殺曼成,賊更以趙弘為帥,眾浸盛,遂十餘萬,據宛城。儁與荊州刺史徐璆及 秦頡 合兵 萬八千人圍弘,自六月至八月不拔。有司奏欲徵儁。司空張溫上疏曰:「昔秦用白起,燕任樂毅,皆曠年歷載,乃能克敵。儁討潁川,以有功效,引師南指,方略已設,臨軍易將,兵家所忌,宜假日月,責其成功。」靈帝乃止。儁因急擊弘,斬之。南陽の黄巾・張曼成は「神上使」と自称して、南陽太守の褚貢を殺した。後任の太守・秦頡が、張曼成を斬った。黄巾は、趙弘をトップにして、宛城による。朱儁と、荊州刺史の徐璆は、秦頡と兵を合わせて、宛城をかこむ。
ぼくは思う。昨日にやった、上記の徐璆伝では確定できなかったが。黄巾の戦いのとき、徐璆は荊州刺史の資格をもって、戦っていたことがわかった。2年後に秦頡が殺されるとき、刺史は王敏に変わっている。張忠と対立した徐璆が免官されたのが、この期間だと、確定できる。6月から8月まで、宛城をぬけず。有司は朱儁を呼びもどそうとしたが、司空の張温がとめた。「戦国秦の白起や、戦国燕の楽毅のように、時間がかかっても、朱儁は勝つでしょう」と。
いちおう、顔ぶれを確認。右中郎将から、鎮賊中郎将に移された朱儁。荊州刺史の徐璆。南陽太守の秦頡。この3人が、宛城の趙弘を囲んでいる。南陽太守の秦頡は、徐璆の配下のような感じかな。完全な上下関係じゃないけど。中央からきた朱儁、地方の責任者の徐璆と秦頡。ただし、荊州刺史の徐璆は、ずっと前から着任しているが、秦頡は黄巾の問題で、赴任したばかり。「黄巾の対策として、中央から赴任した」という経緯では、朱儁と秦頡は近いのかも。
徐璆は、もう死んでしまった南陽太守の褚貢に代わって「うちの管轄で、事件を起こしてしまって、すみません」という心持ちだろうか。心理的に負い目があるのは徐璆で、秦頡は助っ人のように、ちょっと強気な感じかなあ。
朱儁がきびしく攻めて、趙弘を斬った。
賊餘帥韓忠復據宛拒儁。 儁兵少不敵,乃張圍結壘,起土山以臨城內,因鳴鼓攻其西南,賊悉眾赴之。儁自將精卒五 千,掩其東北,乘城而入。忠乃退保小城,惶懼乞降。司馬張超及徐璆、 秦頡 皆欲聽之。儁 曰:「兵有形同而埶異者。昔秦項之際,民無定主,故賞附以勸來耳。今海內一統,唯黃巾造 寇,納降無以勸善,討之足以懲惡。今若受之,更開逆意,賊利則進戰,鈍則乞降,縱敵長寇,非良計也。」因急攻,連戰不剋。儁登土山望之,顧謂張超曰:「吾知之矣。賊今外圍周固,內營逼急,乞降不受,欲出不得,所以死戰也。萬人一心,猶不可當,況十萬乎!其害甚矣。不如徹圍,并兵入城。忠見圍解,埶必自出,出則意散,易破之道也。」黄巾の韓忠が、宛城によって、朱儁をこばむ。朱儁の兵が少ないから、韓忠にかわなず。朱儁は、囲みをくずし、自ら城内にはいる。韓忠はおそれて、朱儁に降伏したい。中郎将_司馬の張超、徐璆、秦頡は、韓忠を許してあげたい。
張超、やっと出てきた!だが朱儁は、降伏を許さなかった。「いまは秦末と違って、海内は一統されている。反逆した黄巾を許すのは、正しくない」と。
「一統」は、儒教のたいせつな概念!さすが朱儁!朱儁は、いっそう攻めたが、勝てない。朱儁は土山にのぼり、張超を顧みた。「包囲された黄巾は、降伏できないとすれば、死戦してくる。死戦する黄巾と戦えば、こちらの損害がおおきい。包囲をゆるめ、黄巾の緊張をはぐらかそう」と。
ぼくは思う。文化資本が長所の張超は、いい相談相手だったのか。もしくは、張超ばかりが、筆まめに記録を残したのか。朱儁は、わりと誰にでも相談していたが、張超に話したことだけが選択的に保存されたのかも。ゆえに朱儁にとって、あたかも張超がよき相談相手かのような印象を与えるのかも知れない。
既而解圍,忠 果出戰,儁因擊,大破之。乘勝逐北數十里,斬首萬餘級。忠等遂降。而 秦頡積忿忠,遂殺 之。餘眾懼不自安,復以孫夏為帥,還屯宛中。儁急攻之。夏走,追至西鄂精山,又破 之。復斬萬餘級,賊遂解散。朱儁が宛城の包囲をゆるめると、韓忠が出てきた。朱儁は韓忠をくだした。秦頡は、韓忠に怒りがたまっていたため、韓忠を殺した。ゆえに、黄巾の余衆は不安になって、孫夏をトップにたてて、宛城にもどった。
ぼくは思う。中央研究院にヒットさせただけなのに。なぜか行論がうまくいく。いざなわれているなあ。
羊続が成功したのは、黄巾のトップだけ斬って、その他をゆるし、帰農させたからだ。寛大だった。しかし秦頡は、怒りにまかせて、黄巾の降伏者にきびしい。ゆえに、南陽のような難しい場所を、最後まで治めることができなかった。
いやね、ほんとうに秦頡が、私憤にまかせて判断を誤るような人なのかは、分からない。結果的に秦頡が、南陽の統治に失敗するから、「彼は私憤すらコントロールできないような、小人物だったんだよ」と、かってに史家が理由づけして、読者に納得を促しているのかも知れない。注意したい。
この『後漢書』朱儁伝では、朱儁と秦頡が対照的。朱儁は韓忠の降伏を許さないが、張超にグチりつつも、平定に成功した。秦頡も韓忠の降伏を許さなくて、業績にケチがついた。韓忠を許さないという点では同じなのに、なぜ朱儁はプラスで、秦頡はマイナスなのか。ぼくが思うに、朱儁は戦闘のなかで降伏を認めず、秦頡は戦闘の終わったあとでも降伏を認めなかった。
史料の続きにあるように、このときの宛城の帰属は、あいまい。もし黄巾が「正規軍を編成した敵国」であれば、戦闘のあと、宛城は朱儁によって、ガチガチに管理されただろう。黄巾が、孫夏を推戴するスキがなかったはずだ。しかし、なんだか宛城の防御が、だらだらしている。おそらく、韓忠というトップを失った黄巾は、呪いが解けたように、ただの人民に戻ったのだろう。だから朱儁は「宛城の住民たち」に寛大だったのだ。しかし、秦頡が韓忠を斬って緊張状態をつくりだし、かってに戦闘を再開させたので、住民たちは黄巾に逆戻りした。時機を見極めない秦頡は、祭りの翌日になっても、祭りのときの服装で、昼間っから酒をのんで、街中を練り歩いているおじさんのようだ。
(「いつまで経っても喪服を脱がない孝子」でもいい)
ところで、もし黄巾が正規軍なら、こんなにトップがコロコロ変わったら、戦闘能力を維持できるはずがない。黄巾のトップというのは、作戦や指揮がうまいのでなく、「いまは平時ではない、戦時だ。人民よ、立ち上がれ」と煽動するだけの者なのかも。だから、わりと南陽の黄巾は、トップの交代にめげない。官軍の役割とは、黄巾の兵を殺しまくって戦力を削ぐことではなく(そんなことをしたら、人口が減るだけだ)、煽動者だけを斬って、「いまは平時だ、落ち着け」と諭すことだ。羊続のように。
あわてて朱儁が孫夏を追いかけて斬り、黄巾が宛城の手にもどるのを防止した。黄巾は解散した。
ぼくは思う。原文に「解散」とあるけど、これは日本語の「解散」のイメージで、黄巾の運動を中止したのではなかろう。 軍事的な紐帯を「解」いて、当面のところ、それぞれの故郷に「散」った、のだろう。だから、新たな黄巾のトップが立てば(趙慈とか)すぐに集合するのだ。
史料に現れるように、二元論的に「賊が起兵した」「賊が平定された」という、オンとオフじゃないのだ。だから、ねっとりと黄巾は残って、漢末まで史料に現れ続ける。ぼくらは、史料を二元論で読んではいけない。もしかすると秦頡は、黄巾の性質を、二元論的に捉えていたのかも。「蜂起に参加した者は斬る」「蜂起に参加しない者は斬らない」という、安定した統一権力の内部でしか通用しない、融通のきかない感じ。だから失敗した。羊続のような成功はできなかった。
しかしねえ。いままで二元論的に単純化して捉えていた概念を、シームレスに、各段階のグレーゾーンを許して理解せよ!というのは、かなり知的負荷が高いことだ。羊続のように、うまく対応できなかったとしても、秦頡は仕方ないなあ。
朱儁のもとにいた人たち、これで完了かなあ。京都の三国志学会で、そば屋でもらってきた宿題は、これで一時的にコンプリート。120913閉じる