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巻首-延康元年の春、曹丕が魏王となる open

曹丕が、丞相_魏王_冀州牧となる

文皇帝諱丕,字子桓,武帝太子也。中平四年冬,生于譙。

文皇帝は、いみなを丕という。あざなを子桓。武帝の太子である。

潘眉はいう。カン沢は「不+十=丕」という。「不+一」だから、カン沢は誤りである。
胡玉シンはいう。潘眉はまちがっている。「丕」は大きいという意味だが、この文字は隷書では「不+十」と書く。
銭大昭はいう。文帝の曹丕は「高祖」、明帝の曹叡は「烈祖」という。景初のときの詔書にある。史家が、曹氏に功績が足りないから、「○祖」という書かない。

中平4年冬、曹丕は譙県で生まれた。

趙一清はいう。『寰宇記』巻12はいう。曹丕のほこらが、譙県の東5里にある。議郎の曹操が帰郷したとき、室をつくった。ここで曹丕をつくった。盧弼はいう。曹操の故宅は、武帝紀の巻首と、建安15年の注にある。


魏書曰:帝生時,有雲氣青色而圜如車蓋當其上,終日,望氣者以為至貴之證,非人臣之氣。年八歲,能屬文。有 逸才,遂博貫古今經傳諸子百家之書。善騎射,好擊劍。舉茂才,不行。
獻帝起居注曰:建安十五年,為司徒趙溫所辟。太祖表「溫辟臣子弟,選舉故不以實」。使侍中守光祿勳 郗慮持節奉策免溫官。

『魏書』はいう。曹丕が生まれたとき、青色の雲気がたつ。

『水経』陰溝水の注釈にもある。『魏志』卞皇后伝にひく『魏書』では、室内に黄気がみちた。盧弼はいう。讖緯は、ウソばっかである。
ぼくは思う。盧弼は、讖緯にきびしい。さすが20世紀の人!
ぼくは思う。室内は黄色くて、建物の上には青色の気。矛盾ではないのかなあ。おなじ『魏書』のなかで、矛盾していたら、お粗末である。讖緯の信憑性をどうこう言うのとは、べつの次元でお粗末である。混ざりあって、ミドリになるのだ。

8歳で文書をかき、古典にくわしい。騎射も撃剣もやる。茂才に挙げられるが行かず。

曹丕『典論』自序はいう。5歳のとき、世が乱れたので、射撃を学んだ。6歳で騎馬を学んだ。8歳で、騎射ができるようになった。
ぼくは思う。茂才に挙げられたのは、いつだろう。だれに挙げられたのだろう。分からない。もし曹丕を挙げていたら、「恩を売る」ことができて、名前が残っただろう。挙げさせてもらえず、名前が残らなかった。曹丕もまた「腐った漢室になんか、仕えないぞ」という言い方で、志をもったのか。曹操の意向は、どこまで働いたのだろう。袁紹の子が、うっかり劉備に挙げてもらい、面倒なことになった。デビューに慎重な曹丕は、正しい判断だったのかも。

『献帝起居注』はいう。建安15年、司徒の趙温に辟された。曹操は「趙温の選挙は不実である」という。侍中守光祿勳の郗慮に持節させ、趙温を免官した。

盧文ショウはいう。郗慮は、晋の大夫の子孫である。郗鑑は、郗慮の子孫である。郗慮は、武帝紀の建安18年の注釈にある。
『後漢書』趙典伝はいう。趙典の兄子は、趙謙である。趙謙の弟は、趙温である。あいついで三公になる。趙温は、建安13年に、曹丕を辟したので曹操に「忠臣の子弟を挙げやがって」と怒られ、免官された。
ぼくは思う。曹操は「忠臣」と自称した。
恵棟はいう。忠臣とは、中臣、中朝の臣である。『後漢書』李固伝はいう。詔書は「中臣の子弟を辟することを禁じる」と。ゆえに曹操は、趙温を怒ったのだ。周寿昌はいう。ときに曹操は武平侯だから、漢制で「中臣」にカウントされる。曹操は「忠実な臣下」という自称したのでない。
鮑昱伝に「忠臣」という用法がある。こは忠功ある臣下で、爵位を持つ者をさす。羊続伝、吳芮伝にもある。
盧弼はいう。周寿昌がただしく、恵棟はコジツケである。もし忠臣の子弟が吏になれず、孝廉にあげられないなら、なぜ曹操は孝廉にあげられたか。けだし曹操は、趙温を免じてから、権限を自分に集中させるため、三公を廃止した。
ぼくは思う。趙温にどいてもらい、三公をなくすために、趙温を免じる口実をつくったのか。ひどいなあ。趙温も「曹丕をあげて、ウッカリ 曹操に怒られた」はずがない。趙温は、曹操が怒ることを知っていて、明らかなる「ヘツライ」に見えることを知っていて、曹丕を辟した。曹丕に恩を売って、自分が優位に立とうとしたのだろう。それを曹操は「不実」という口実で退けた。負債はおわないぞ!と。趙温が曹丕を辟したのは、曹操に対する「戦闘」である。曹操が趙温の官位をとりあげたのも、趙温に対する「戦闘」である。せめぎあい。怖いなあ。
曹丕は、曹操から見ると「政争の道具」である。曹操と敵対する者から見ても「政争の道具」である。敵陣の弱いところを、ミサイルで撃つ! という発想である。どんな権力者も、生命が永遠でなく、子をもつ。子は不可避の弱点である。曹操がボケッとしてると、曹操の子にむけて「辟してあげよう攻撃」が飛んでくる。


建安十六年,為五官中郎 將、副丞相。二十二年,立為魏太子。

魏略曰:太祖不時立太子,太子自疑。是時有高元呂者,善相人,乃呼問之,對曰:「其貴乃不可言。」問:「壽幾 何?」元呂曰:「其壽,至四十當有小苦,過是無憂也。」後無幾而立為王太子,至年四十而薨。

建安16年、五官中郎将、副丞相となる。建安22年、魏の太子となる。

『魏志』高堂隆伝はいう。曹丕が太子のとき、遊びあるいた。高堂隆が諫めたが、喜ばなかった。ザツでヤンチャなエピソード! 皇帝につきもの。

『魏略』はいう。曹操は太子を立てない。

『魏志』曹植伝で、丁儀、丁廙、楊脩らが曹植をたすける。後継あらそいは、崔琰伝、毛玠伝、邢顒伝、賈詡伝にもある。

曹丕は不安になって、高元呂に見てもらった。「太子になれる。寿命は40歳だが、小苦をこえれば心配ない」と。曹丕は40歳で死んだ。

何焯はいう。寿命の占いは、『魏志』方技伝にある朱建平。


太祖崩,嗣位為丞相、魏王。

袁宏漢紀載漢帝詔曰:「魏太子丕:昔皇天授乃顯考以翼我皇家,遂攘除羣凶,拓定九州,弘功茂績,光於宇宙,朕 用垂拱負扆二十有餘載。天不憖遺一老,永保余一人,早世潛神,哀悼傷切。丕奕世宣明,宜秉文武,紹熙前緒。 今使使持節御史大夫華歆奉策詔授丕丞相印綬、魏王璽紱,領冀州牧。方今外有遺虜,遐夷未賓,旗鼓猶在邊 境,干戈不得韜刃,斯乃播揚洪烈,立功垂名之秋也。豈得脩諒闇之禮,究曾、閔之志哉?其敬服朕命,抑弭憂懷, 旁祗厥緒,時亮庶功,以稱朕意。於戲,可不勉與!」

曹操が崩じると、曹丕が、丞相、魏王をつぐ。

『魏志』賈逵伝はいう。賈逵が葬儀をやる。曹彰が「魏王の印綬はどこ」という。賈逵が「曹丕が鄴県にいる」と曹彰をしかった。陳嶠伝はいう。曹丕が死ぬと、陳矯は時間をあけずに、曹丕を魏王に即位させた。
ぼくは思う。曹操の死後の混乱をおさえて、手続を円滑にしたのは、賈逵と陳矯なのか。2人がどういうポジションで、2人がどういう関係なのか、列伝で詳しく見る。

袁宏『漢紀』は、献帝の詔書を載せる。

『晋書』袁宏伝、『漢紀』の袁宏による自序、『隋書』『唐書』経籍志、『史通』のコメントなどが、ここにあり。上海古籍228頁。ぼくは思う。なんで今さら、袁宏の説明なんだ? 武帝紀に出てきてなかったっけ。自信がない。

献帝はいう。曹操が25年戦ってくれたので、私は何もしなくても天下が鎮まった。使持節_御史大夫_華歆に、丞相、魏王、冀州牧の璽綬をもたせる。服喪しないで働け。

『晋書』礼志はいう。尚書の杜預は、古代の天子や諸侯の服喪について論じた。曹操が死んだとき、きちんと服喪しないから譏られた。周寿昌はいう。曹丕は、単なる1漢臣ではないから、皇帝のために働かされた。のちに司馬炎が山濤を喪中に働かせたのと同じである。
ぼくは思う。むずかしいので、礼制はパス。論文も読んでない。ここで、服喪の方式や期間に関して、イシューが発生しましたよ、ということだけ分かっておこう。


尊王后曰王太后。 改建安二十五年為延康元年。

卞王后を、王太后とした。建安25年を、延康元年とした。

『後漢書』献帝紀はいう。3月、延康と改元する。胡三省はいう。これは漢の改元を、魏が記録したものだ。
@bb_sabure さんはいう。康の意味は安んじて楽しむ、安楽の意。字形は庚と米である。何をもって安楽とするか?曹操は庚子の年の庚子の日に死んだ。これは安楽。安楽と庚子のダブルミーニングか?延康「この庚子の安楽が続けばいいのに」。これは露骨な呪詛。献帝最後の反撃。文字による呪詛、祈願はバカに出来ない。
(勉強になったので、引用させていただきました)
ぼくは思う。曹操の死期について、疑問があったけど。公式見解としての曹操の死日に意味があるのだろうか。踰年改元か即年改元かという問題と、曹操の死の公式発表と、延康への改元は、なにか関連するのか。論じる準備なし。


春、即位した直後の諸政策

◆2月

元年二月

魏書載庚戌令曰:「關津所以通商旅,池苑所以禦災荒,設禁重稅,非所以便民;其除池籞之禁,輕關津之稅,皆 復什一。」辛亥,賜諸侯王將相已下將粟萬斛,帛千匹,金銀各有差等。遣使者循行郡國,有違理掊克暴虐者, 舉其罪。

延康元年2月、

沈家本はいう。『後漢書』献帝紀では、建安25年3月、延康と改元する。だが「2月」とするのは、あとから遡って書いたのである。曹操は正月に死んだから、2月は曹丕による政策である。延康は漢の年号だが、曹丕が改めた。
ぼくは思う。沈家本は、状況や時期から推測して、「曹丕が決めたのだろう」と言っているだけ。献帝による呪詛が籠められている説のほうが、ぼくは好きです。

『魏書』は「庚戌令」を載せる。関所と渡し場の税金を、10分の1とせよ。

『漢書』宣帝紀の地節3年の詔はいう。国家がつかっていない池籞は、貧民に与えよと。蘇林はいう。通行禁止や禁漁を解除したのだ。
@bb_sabure さんはいう。延康元年、曹丕は関税の減免を施行。それ以前は関税が1/10以上であり関や津を通るたびに資産が盛大に目減りしていた。過酷な関税の狙いは商業の阻害よりはむしろ、移住者の制限だったのではなかろうか。曹丕はこれを解除して移住よりも商業振興策を採る。魏は逃げられる側でなく受け入れ側宣言。
@bb_sabure さんはいう。魏に遅れること30年余り、諸葛恪が太傅となると呉でも関税を撤廃。大いに支持される。一方、蜀では税金の減免措置は一切見られない。記録に残るのは増税。3つの可能性。(1) 税が元々破格の安さ。塩と鉄が美味い。(2) 人気取り減税のいらぬ愛され国家。(3) 人気取りする余裕のない貧乏国家。呉の関税撤廃が喜ばれたのって北部出身者が全財産抱えて関所で奪われることもなく堂々と帰郷できるようになるからではないのか?
(勉強になったので、引用させていただきました)


2月辛亥、諸侯王の將相より以下に、穀物、布、金銀をまいた。使者に郡国をめぐらせ、暴虐な者を罪とした。

ぼくは思う。「刺史」が機能してないのかな。後漢の順帝が諸国をめぐらせた「使者」が、刺史や州牧のルーツのはず。州牧は、ミイラとりがミイラ方式で、地方で暴虐になったのだろう。
地方にバラ撒きをするのがアメで、地方を取り締まるのがムチである。アメをまき、ムチで奪うという、中央と地方の「往復運動」を、わざわざ作り出して、曹丕の新政権の誕生を認識させた。中央と地方が途絶えたままだと、曹丕は「いないこと」になってしまう。いくら、曹操の死骸、献帝とのあいだで、継承を宣言してもダメである。


壬戌,以大中大夫賈詡為太尉,御史大夫華歆為相國,大理王朗為御史大 夫。置散騎常侍、侍郎各四人,其宦人為官者不得過諸署令;為金策著令,藏之石室。

2月壬戌、大中大夫の賈詡を太尉とした。御史大夫の華歆を相國とした。大理の王朗を御史大夫とした。

『漢書』百官公卿表、『続漢書』から、太中大夫と太尉について注釈あり。はぶく。上海古籍229頁。
盧弼はいう。『魏志』黄初2年、賈詡は日食のために、太尉を免じられた。曹丕は詔して「天地の異変で、もう三公を弾劾しない」とした。曹操が権限を集中するために、後漢の三公をやめたが、葬儀は三公をもどした。曹操は、禅譲のために三公をやめたのだ。ぼくは思う。ロコツな説だなあ。
盧弼はいう。華歆は、鍾繇から相国をついだ。

散騎常侍、侍郎をおく。それぞれ4人ずつ。

胡三省はいう。散騎常侍は、秦官である。盧弼はいう。胡三省は『宋書』百官志をひいている。
●散騎常侍,四人。掌侍左右。秦置散騎,又置中常侍散騎,並乘輿車後。中常侍得入 禁中。皆無員,並為加官。漢東京初省散騎,而中常侍因用宦者。魏文帝黃初初,置散騎, 合於中常侍,謂之散騎常侍,始以孟達補之。久次者為祭酒散騎常侍,秩比二千石。●通直散騎常侍,四人。魏末散騎常侍又有在員外者,晉武帝使二人與散騎常侍通直, 故謂之通直散騎常侍。晉江左置五人。● 員外散騎常侍,魏末置,無員。● 散騎侍郎,四人。魏初與散騎常侍同置。魏、晉散騎常侍、侍郎,與侍中、黃門侍郎共 平尚書奏事,江左乃罷。● 通直散騎侍郎,四人。初晉武帝置員外散騎侍郎四人,元帝使二人與散騎侍郎通直, 故謂之通直散騎侍郎,後增為四人。●員外散騎侍郎,晉武帝置,無員。
(黒丸は段落の変わり目に、ぼくがかってに入れた)
盧弼はいう。散騎常侍は、典事をしない。『魏略』にある。『初学記』にひく『斉職儀』はいう。曹丕は、散騎の職をもどした。中常侍とあわせて1官とした。「中」の字を除いた。正式名称が散騎常侍となった。4人。章表、詔命、手筆のことをつかさどる。
盧弼はいう。このとき尚書の陳羣が、九品官人の法を定めたが、文帝紀に書いてない。!ぼくは思う。なぜ書いてないんだろう。「列伝を見ればわかるから、はぶく」のか。もしくは、明確に「こんな制度を定めるからね」という宣言があるのでなく、徐々に固まっていったのか。「有給休暇の取得促進制度」みたいに、臣下の要望で整備され、実効的な運用はされてゆくが、なしくずし、、とか。

宦官は、諸署令より上位にのぼれない。金策に著令して、石室にしまう。

盧弼はいう。胡三省が、「諸」諸をすべて列記する。はぶく。上海古籍230頁。
盧弼はいう。宦官の5侯と10常侍の禍いがあったから、曹丕が善政した。ぼくは補う。5侯は桓帝を即位させ、10常侍は霊帝を補佐した。


◆3月、譙国に黄龍、夏侯惇が大将軍

初,漢熹平五年,黃龍見譙,光祿大夫橋玄問太史令單颺:「此何祥也?」颺曰:「其國 後當有王者興,不及五十年,亦當復見。天事恆象,此其應也。」內黃殷登默而記之。至四 十五年,登尚在。三月,黃龍見譙,登聞之曰:「單颺之言,其驗茲乎!」

魏書曰:王召見登,謂之曰:「昔成風聞楚丘之繇而敬事季友,鄧晨信少公之言而自納光武。登以篤老,服膺占 術,記識天道,豈有是乎!」賜登穀三百斛,遣歸家。

後漢の熹平5年(176)、黃龍が譙県にあらわれた。光祿大夫の橋玄が、太史令の單颺にきくと、「王者の前兆で、50年以内に再見する」という。

姚範はいう。桓帝の建和元年(147)にも、沛国の譙県に黄龍がいた。
ぼくは思う。曹操の祖父が、桓帝を立てたばかりである。曹騰にとっては「不吉な黄龍」だった。皇帝になる曾孫より、自分の政治生命のほうが、気になったに違いない。
橋玄は、武帝紀の巻首にある。熹平のとき、光禄大夫だった。光禄大夫と光禄勲について、上海古籍231頁に注釈あり。『漢官儀』いわく、光禄大夫は、光禄勲に属する(光禄勲の部下)である。
ぼくは思う。橋玄は、曹操の将来を明るくほのめかす役割。なんで、こんな役割を担わされたのだろう。橋玄の子孫とかに関係あり? もしくは、袁術のところの橋蕤が関係あり? ないかー。ないよなあ。
太史令は、武帝紀の建安元年の注釈にあり。單颺は、『後漢書』方術伝にあり。山陽の人、孝廉にあげられ、太史令となる。單颺は『後漢書』蔡邕伝にもある。光和元年(178)7月、太史令の單颺を金商門に来させ、崇徳殿に入れて、災異を問うた。
趙一清はいう。熹平のときは「譙県」であり「譙国」はない。しかし單颺の予言は「譙国」という。占いはウソくさく、この誤記がウソの証拠だと。ぼくは思う。予言は「正確」だったが、筆写する過程で誤られたのだ。よくあること。

内黃の殷登は、黙って單颺の予言を記した。45年後、殷登が生きていた。3月、譙国に黄龍がでた。殷登が「單颺の予言が、ほんとうになった」と言った。

内黄は、武帝紀の初平3年にある。
趙一清はいう。『宋書』符瑞志がこれを載せる。漢魏革命の符瑞である。譙県を「龍譙国」と改めた。龍譙国は、『水経』獲水注にもある。
周寿昌はいう。「龍譙国」への改名を、なぜ陳寿が載せないか。
盧弼はいう。『宋書』符瑞志は、黄龍、白龍、青龍、黒龍を数十回も載せる。怪しむことはない。しかし趙一清らは、『水経』の読み方がちがう。「龍譙国」に改めたのではない。「龍譙固」となら書いてある。
姜シン英はいう。殷登が黙って記しただけなら、なぜ漢魏革命の根拠づけに利用されたか。
盧弼はいう。武帝紀の建安5年、曹操が官渡に勝つ予言があった。桓帝のとき、黄星が宋楚の分野にでた。遼東の殷馗が「50年後、梁沛のあたりに皇帝がでる」とか言った。漢魏革命は、桓帝のときから50年目である。このような予言は、ウソばっかりである。
ぼくは思う。「なぜこんな予言が記されたか」を考えないと、ラチが明かない。面白くならない。桓帝のとき、予言が出まくっていたのか。もしくは、曹丕のとき、さかのぼって予言が「あったことにされた」のか。きっと両方なのだろう。針に糸を通すときは、「糸を通し終わった完成形」をイメージしないと、うまくいかない。針の手前から、完璧に照準をあわせるだけでは、うまくいかない。針の裏側から、引き寄せられる感覚を持つべきらしい。同じことが、予言にも起きているなあ。「事後的に予知する」とか「事前に振り返る」みたいな、時間の観念をいじくった表現で捉えるべきことだろう。

『魏書』はいう。曹丕は殷登に3百石をあたえた。「鄧晨が蔡少公の予言を信じて、光武帝に従ったようなものだ」と。

『後漢書』図讖をわらわない鄧晨伝
蔡少公は「劉秀が天子になる」と予言した。国師公の劉秀でなく、光武帝になる南陽の劉秀のことだと、鄧晨は見ぬいた。


已卯,以前將軍夏侯惇為大將軍。濊貊、扶餘單于、焉耆、于闐王皆各遣使奉獻。

3月已卯、前將軍の夏侯惇を大将軍とした。東西の異民族が奉献した。

大将軍、前将軍は、武帝紀の建安元年にある。
『魏志』烏丸鮮卑東夷伝、それにひく裴注『魏略』西戎伝をみよ。


魏書曰:丙戌,令史官奏修重、黎、羲、和之職,欽若昊天,歷象日月星辰以奉天時。
臣松之案:魏書有是言而不聞其職也。

『魏書』はいう。3月丙戌、史官を整備させ、暦を検討させた。裴松之はいう。曹魏の史官は、記述がない。

曹丕が令した言葉は『尚書』堯典からの引用である。
ぼくは思う。蜀漢に史官はなく、曹魏でも機能してないのか。陳寿が蜀漢の見栄をはって曹魏の史官の記述を省き、裴松之が読める史料にも残らなかった? 陳寿が、曹魏の史官を「抹殺」するのは政治的動機が分からないでもない。だが、裴松之が参照した諸史料に、ひとつも残っていないというのはおかしい。司馬氏に従い魏晋革命をのりきった人々が、曹魏の史官の活動記録を抹殺した。そのせいで、裴松之が利用できる史料のなかに、曹魏の史官の痕跡がなかった。まさかねー。


丁亥令曰:「故尚書僕射毛玠、奉常王脩、涼茂、郎中令袁渙、少府謝奐、 萬潛、中尉徐奕、國淵等,皆忠直在朝,履蹈仁義,並早即世,而子孫陵遲,惻然愍之,其皆拜子男為郎中。」

3月丁亥、曹丕が令した。毛玠、王脩、涼茂、袁渙、謝奐、 萬潛、徐奕、國淵らの後継者が絶えている。彼らの子孫を、男爵、郎中とした。

武帝紀の建安18年に「長史の萬潛、謝奐」がでてくる。
ここにある官位と注釈ははぶいた。上海古籍232頁。
『続百官志』はいう。五官郎中は、比3百石。諸門を宿衛して、車騎をつかう。李祖楙はいう。郎官になれるのは、公卿、校尉、尚書の子弟だけである。
盧弼はいう。『魏志』徐奕伝にひく『魏書』で、族子が「郎」となるが、これは「郎中」にしてもらったのである。臧洪伝もある。
ぼくは思う。ここまで、曹操が死んでから3ヶ月。記事が散らかっているが、曹丕が諸政策をすばやく出している。また、陳寿が重要な政策を記さないから、裴注『魏書』にランクダウンしてしまい、散らかった印象になる。

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延康元年の夏、禅譲にそなえ、治兵して南征 open

◆4月、夏侯惇が死ぬ

夏四月丁巳,饒安縣言白雉見。

魏書曰:賜饒安田租,勃海郡百戶牛酒,大酺三日;太常以太牢祠宗廟。

夏4月丁巳、饒安県に白雉がでたという。

洪亮吉はいう。饒安県は、漢代の旧県である。霊帝が、千童県に、饒安県をおいた。前漢にあった饒安を、後漢がはぶいたが、霊帝がもどしたのだ。渤海に属する。渤海は、武帝紀の初平元年にある。
盧弼はいう。曹賛を饒安王に封じた。『魏志』武文世王公伝、曹蕤伝にある。

『魏書』はいう。饒安と渤海を優遇した。3日、大酺した。

『漢書』文帝紀では「5日、酺した」とある。漢律では、理由なく3人以上で酒をのむと、罰金である。いま曹丕が、3日も飲食することを許した。

太常が大牢を宗廟にまつった。

武帝紀の建安21年にひく『魏書』に、はじめて奉常をおくという。文帝紀の黄初元年11月、奉常を太常と改める。まだこの時点では、奉常である。


庚午,大將軍夏侯惇薨。

魏書曰:王素服幸鄴東城門發哀。孫盛曰:在禮,天子哭同姓於宗廟門之外。哭於城門,失其所也。

4月庚午、大將軍の夏侯惇が薨じた。
『魏書』はいう。曹丕は素服で、鄴の東城門にゆき、泣いた。孫盛はいう。天子は、同姓が死んだら宗廟の門外で泣く。宗廟でなく、城の門外で泣いた曹丕は、ミスっている。

何焯はいう。曹氏は夏侯氏を同姓としない。ゆえに曹氏と夏侯氏は婚姻とした。孫盛の批判は、はずれている。彭孫タイはいう。このとき献帝がいるのに、曹丕は天子の哀しみかたをした。誤りである。
ぼくは思う。2つの疑惑がでてる。「曹丕は夏侯氏と同姓じゃない」「天子なら、泣く場所がちがう」と。これは、ワザと間違えているんじゃないのか。つまり、曹氏と夏侯氏のビミョウな関係を物語っている。重婚しているから、異姓だけど同姓のような感じ。夏侯淵と夏侯惇は、曹操の影武者のような役割。だが裏返しに、重婚しているからこそ「同姓だよね」とは言えない。また、曹丕の魏王は、献帝を圧倒しているが、まだ名目において天子でない。だから、泣く場所がちがった。


◆5月、馮翊と胡族がくだる

五月戊寅,天子命王追尊皇祖太尉曰太王,夫人丁氏曰太王后,封王子叡為武德侯。

魏略曰:以侍中鄭稱為武德侯傅,令曰:「龍淵、太阿出昆吾之金,和氏之璧由井里之田;礱之以砥礪,錯之以他 山,故能致連城之價,為命世之寶。學亦人之砥礪也。稱篤學大儒,勉以經學輔侯,宜旦夕入侍,曜明其志。」

5月戊寅、献帝は、曹嵩を「太王」、曹操の母の丁氏を「太王后」とした。曹叡を武德侯とした。

『通典』巻72はいう。曹丕が即位したとき、尚書令の桓階が上奏した。曹丕の祖先を敬いなさい。上海古籍234頁に、桓階の文書がくわしく載っている。はぶく。
盧弼はいう。『通典』で桓階は、曹操の父だけでなく、曹操の祖父にまで諡号せよという。このとき祖父の曹騰までは、諡号されない。あとから桓階が書いたものを、『通典』がくっつけたか。
ぼくは補う。曹騰が諡号されるのは、つぎの明帝のとき。
『三国志』文帝紀で、曹丕が魏王の時代に「皇祖太尉」と曹嵩を記す。司馬光『資治通鑑』は「王祖」に修正するし、盧弼も「王祖にすべき」という。ぼくは疑問です。当時、曹丕が皇帝でないのは百も承知。曹丕に直接話法で「皇祖」と言わせるのは誤りだが、史書が地の文で書くのは誤りではないのでは。同じことを言うなら、文帝紀の冒頭で「文皇帝は…」と書き始めることだって、おかしい!と指摘しなければならない。 史書は「実況中継」ではない。結末を知ったひとが、後知恵によって意味を付与しつつ、過去(進行)形で書くもの(というか、それ以外に書き得ない)。

『魏略』はいう。侍中の鄭称を、武徳侯の曹叡の「傅」とした。曹丕は令した。「曹叡の育成をよろしく」と。

吉茂は、曹叡の「庶子」となった。『魏志』常林伝にひく『魏略』。ぼくは思う。吉茂も、曹叡のオモリを任されたのだろう。
姚振宗はいう。『続漢書』輿服志はいう。侍中の鄭称は、曹操の金輅にかんする問いにこたえた。鄭称は『孝経』に注釈した。徐彦が『公羊伝』昭15年につけた疏に、鄭称からの引用がある。
ぼくは思う。曹叡のおもりは、古典とか儀礼に詳しい人がついた。曹操の時代から活躍しているから、ジジイかな。
ところで。ぼくは思う。『魏志』文帝紀は、陳寿の本文だけでは、読めたものではない。わりと大事な記事が、どんどん抜けている。裴注にある王沈『魏書』、魚豢『魏略』が、交互に補ってくれて、やっと成立する。このページでは、緑字と青字が交互に現れているとおり。陳寿『魏志』を見て、おのれの歴史書を破った魏の文章家は、どれだけ下手だったんだろう。もしくは自己嫌悪か。
陳寿の曹魏に対する悪意、つまり蜀漢びいき、のせいか。または、陳寿が細かく書かなくても、曹魏に関する歴史書は、充分に整備されていた。だから陳寿は、ダイジェストを作るとき、省略をおおめにやったか。ぼくは後者だと思う。「亡国の名誉」を守るよりも、「編者の美学」を振るったんじゃなかろうか。


是月,馮翊山賊鄭甘、王照率眾降,皆封列侯。

魏書曰:初,鄭甘、王照及盧水胡率其屬來降,王得降書以示朝曰:「前欲有令吾討鮮卑者,吾不從而降;又有欲 使吾及今秋討盧水胡者,吾不聽,今又降。昔魏武侯一謀而當,有自得之色,見譏李悝。吾今說此,非自是也,徒 以為坐而降之,其功大於動兵革也。」

この5月、馮翊の山賊がくだり、列侯に封じられた。

馮翊は、武帝紀の建安16年にある。趙一清はいう。『晋書』地理志によると、曹丕が即位したとき、京兆尹を「京兆太守」に改めた。「左」馮翊、「右」扶風から、左右の文字をとった。

『魏書』はいう。曹丕は、盧水胡らの降伏文書を見せびらかした。「戦わずに降らせた。李悝にたしなめられた、魏文侯よりすごいだろ」と。

『後漢書』西羌伝、竇固伝に、降った胡族の記述がある。
『荀子』堯問篇に、魏文侯が李悝に「おごるな」と叱られた記事がある。
ぼくは思う。曹丕は、けっこう「子供っぽい」と。ピュアに、呉蜀が降ってくれることを願っていたんじゃないかな。劉備と孫権の降伏文書を2つ並べて、「どうだ、これで天下が統一したよ」と、はしゃぐ曹丕。どこかに需要があるのか、ないのか。


酒泉黃華、張掖張進等各執太守以叛。金城太守蘇則討進,斬之。華降。

華後為兗州刺史,見王淩傳。

酒泉の黄華、張掖の張進らが、太守をとらえて叛いた。金城太守の蘇則が、張進を斬り、黄華をくだした。裴注はいう。黄華はのちに兗州刺史となる。王淩伝にある。

『郡国志』はいう。涼州の酒泉は、郡治が福禄。邾追え貴郡は、郡治が[角楽]得である。[角楽]は、ロクと発音する。福禄は、龐淯伝にある。
金城は、武帝紀の巻首にある。曹真伝はいう。張進らは、酒泉でそむく。曹真は、費耀らをつかわし、張進を斬った。
張既伝はいう。このとき涼州を置かない。三輔は、雍州に属する。曹丕が魏王となり、はじめて涼州をおく。安定太守の鄒岐を涼州刺史とした。張進が太守をとらえて、鄒岐と戦う。黄華、麹演も、太守を追いだして、張進に呼応した。張既は進軍し、蘇則に「曹丕に従え」と呼びかけさせた。
盧弼はいう。これは蘇則の功績である。『魏志』蘇則伝にくわしい。曹真、張既は、とおくから声援を送っただけ。本紀で、堂々と「金城太守の蘇則が、張進を討った」と書いてあるが、これが実態である。
ぼくは補う。この戦いについて、まとめたことがあった。
小説『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を、史料と照合する


◆6月、南征をいさめる霍性を殺す

六月辛亥,治兵于東郊,

魏書曰:公卿相儀,王御華蓋,視金鼓之節。

6月辛亥、曹丕は東郊で治兵した。
『魏書』はいう。公卿が曹丕をたすけ、曹丕は、華蓋(天子の様式)で閲兵した。

銭儀吉はいう。武帝紀の建安22年冬10月、曹操が治兵した。『魏書』をひく。曹操は、みずから金鼓をたたき、兵を進退させた。
ぼくは思う。肩書は「王」だが、実態の儀礼などは「天子」のもの。これは曹操のときも同じ。曹丕が、少なくとも曹操のときから、後退していないことを確認できる。現代日本の会社だと、子が社長を嗣いだとき、嗣いだ直後から、まったく先代と同じことをすると反発がある。社長の子は、少し後退して見せなければならない。
曹丕の社会では、後退を強いられないだろう。だがそれは建前であろう。「なんだよ若造、曹操とまったく同じ形式で閲兵するのかよ」という官女があったのではないか。知らん。ぼくの勘ぐりかな。自分の感情を投影しすぎか。


庚午,遂南征。

魏略曰:王將出征,度支中郎將新平霍性上疏諫曰:「臣聞文王與紂之事,是時天下括囊咎,凡百君子,莫肯用 訊。今大王體則乾坤,廣開四聰,使賢愚各建所規。伏惟先王功無與比,而今能言之類,不稱為德。故聖人曰 『得百姓之歡心』。兵書曰『戰,危事也』是以六國力戰,彊秦承弊,豳王不爭,周道用興。

6月庚午、曹丕はついに南征した。

盧弼はいう。このとき孫権は、関羽を斬って荊州を定めた。曹操は上表して、孫権に荊州牧を表させた。孫権は、校尉の梁寓に奉貢させた。曹操と孫権がむつまじいのに、なぜ南征したか。
何焯はいう。曹丕は、禅譲しようとしている。南征を口実にして、治兵(閲兵)して、非常時にそなえた。盧弼はいう。きっとその通りだ!
ぼくは思う。もし何焯の言うとおりなら、曹丕は孫権を攻める意図がない。もし曹丕が、ろくに戦果なく帰ってきても、失敗ではない。曹丕の呉攻めについて、注意ぶかく見ないと。「何回も失敗して、ダメだなあ」ではない。同じ目的の戦いを、複数回間違ったのではないはずだ。

『魏略』はいう。曹丕が出征するとき、度支中郎將する新平の霍性が、上疏して諫めた。

洪飴孫はいう。度支中郎将は、1名、2千石。諸軍の兵田をつかさどる。『書鈔』『御覧』にひく『魏略』はいう。司農度支校尉は、諸軍の兵田をつかさどる。すなわち、司農度支校尉と、度支中郎将とは、職掌が同じである。
趙一清はいう。『晋書』地理志によると、新平は、漢代に置かれた。『続郡国志』にひく袁山松はいう。興平元年、安定と右扶風をわけて、新平郡をつくる。治所は漆県。
ぼくは思う。興平元年は、194年。献帝が長安にいるとき、ちょうど献帝がいる周辺をいじった。だれかを太守にするために、肩書を増やすために、こんな操作をしたのか。
さらに思う。残念ながら三輔は「最前線」である。最前線の出身者で、しかも諸軍の兵田をつかさどる「前線の指揮官」霍性が、曹丕の出兵を諫めた。軍事的にも経済的にも厳しい戦いである。上位者を諫めたらバカを見そうなのに、それでも諫めるほど、南征は不合理だったのだ。
ぼくは思う。三輔に住んでいる霍氏って、霍光の同族? ちがうかー。

戦国の6国は、戦ったせいで疲弊した。周室は、戦いを避けたかた興隆した。戦いはいけない。

ぼくは思う。そりゃそうだ。次からが本論。


愚謂大王且當委重本 朝而守其雌,抗威虎臥,功業可成。而今剏基,便復起兵,兵者凶器,必有凶擾,擾則思亂,亂出不意。臣謂此危, 危于累卵。昔夏啟隱神三年,易有『不遠而復』,論有『不憚改』。誠願大王揆古察今,深謀遠慮,與三事大夫算其 長短。臣沐浴先王之遇,又初改政,復受重任,雖知言觸龍鱗,阿諛近福,竊感所誦,危而不持。」奏通,帝怒,遣 刺奸就考,竟殺之。既而悔之,追原不及。

霍性はいう。曹丕は、献帝に重大なことを預けなさい。おのずと、孫権が従うでしょう。夏の啓王は、父の禹王が死んでから、3年動かなかった。曹丕も、3年は動かないほうがよい。三公と相談しなさい。
曹丕は怒り、刺奸をさしむけて、霍性を殺した。悔いたが、間に合わず。

『続漢書』はいう「外刺」とは「刺奸」のことで、罪法をつかさどる。
何焯はいう。霍性は危機をあおり「曹魏は累卵」と言ったが、言い過ぎである。前例をひくとき、好例をほめず、悪例をひいた。早生が殺されたのも、自業自得なところがある。また曹丕は、禅譲するにあたり、非常時にそなえた。実績を飾ろうとして「南征する」といった。だから、霍性の大げさな言葉を許せなかったのである。
ぼくは思う。曹丕が「無知の暗君」なら、霍性は「悲劇の忠臣」である。しかし何焯は、ステレオタイプの二項対立をヨシとしない。もし曹丕が、純粋に「孫権を殺すぞ」という作戦を立てているなら、こんなすれ違いを起こさなかった。「禅譲にそなえた口実づくり」という、危うい政治判断をしているから、霍性に撹乱されるのを嫌った。霍性の諫言もまた、曹丕の脚本に入っているなら、それで良かっただが。どうやら霍性は、曹丕の「孫権を攻める」を真に受けて、反論してしまった。曹丕のことを、分かってないなあ。また、霍性と曹丕の対立を見て、孫権が「マジで警戒しよう」と防御を固めたなら、曹丕の政治は、霍性のせいで台無しである。「やらなくて良かった戦さ」を、曹丕がいかに戦うか。秋以降につづく。
霍性を殺してしまったせいで、曹丕は「戦う義務」が生じたし、もちろん戦うからには「勝つ義務」も生じた。霍性を殺したことで、孫権の討伐がマジであることを示したのだから。思ってもいなかった計画外のことに、翻弄されるなあ。大国が秩序と求心力を保つには、メンツとツジツマが必要なので、ほんとうに苦労する。曹丕の個人の感情とは関係なく、ただ大国であるという状況によって、翻弄される。
つぎに、すぐ孫権は「奉献」する。曹丕の南征がポーズに過ぎないことは、いちおう分かっていたのかな。曹操と孫権は、関羽を倒すときに同盟勢力だったのだから。同盟の以降、まだ半年くらいしか経っていないのだから。「予定外」の戦いがどう展開するか、読んでいこう。指が痛いなあ。

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延康元年の秋、孟達が降り、譙県で饗宴 open

7月、譙県で饗宴をやる

秋七月庚辰,令曰:「軒轅有明臺之議,放勛有衢室之問,皆所以廣詢於下也。百官 有司,其務以職盡規諫,將率陳軍法,朝士明制度,牧守申政事,縉紳考六藝,吾將兼覽焉。」

[一]管子曰:黃帝立明臺之議者,上觀於兵也;堯有衢室之問者,下聽於民也;舜有告善之旌,而主不蔽也;禹立建 鼓於朝,而備訴訟也;湯有總街之廷,以觀民非也;武王有靈臺之囿,而賢者進也:此古聖帝明王所以有而勿 失,得而勿忘也。

秋7月庚辰、曹丕は令した。「むかし軒轅は明臺で議論させ、放勛は衢室で問答した。ひろく意見を集めるためである。將率は軍法、朝士は制度、牧守は政事、縉紳は六藝をのべよ。見てやる」

みずからを「名君」と自認する人は、こうして意見あつめをやるのだろう。着任してから意見あつめをやるまでのタイムラグ、意見あつめをする回数の統計をとったら、何か言えるのかなあ。


孫權遣使奉獻。蜀將孟達率眾降。武都氐王楊僕率種人內附,居漢陽郡。

孫権が使者をやって奉献した。蜀将の孟達がくだる。武都にいる氐王の楊僕がしたがうので、漢陽にすまわす。

孟達は、副将の劉封と仲が悪いので、部曲4千家を従えてくだった。明帝紀の太和元年にひく『魏略』にある。
武都は武帝紀の建安20年にある。漢陽は、武帝紀の建安18年にある。ぼくは思う。蜀漢の周辺がくずれて、曹魏に入ってきた。
ぼくは思う。曹丕は禅譲にそなえるために閲兵し、孫権も心得たもので、奉献の使者をだす。曹丕と孫権の「共犯関係」によって、漢室は見事に終わるでしょう。まったく円滑だなあ。蜀漢は、夷陵で叩かれたばかりだから、曹丕と孫権の共犯を阻止することができない。失敗する要素が見えない。


魏略載王自手筆令曰:「(吾) 〔日〕日 從何焯說前遣使宣國威靈,而達即來。吾惟春秋褒儀父,即封拜達,使還領新城太守。 近復有扶老攜幼首向王化者。吾聞夙沙之民自縛其君以歸神農,豳國之眾襁負其子而入豐、鎬,斯豈驅略迫脅 之所致哉?乃風化動其情而仁義感其衷,歡心內發使之然也。以此而推,西南將萬里無外,權、備將與誰守死 乎?」

『魏略』は曹丕が自筆した令をのせる。「孟達がくだったので、孟達を封じて、新城太守のままとした。孫権や劉備の臣下も、曹魏になびくはずである。孫権や劉備は、誰とともに死守するのか」と。

『蜀志』劉封伝はいう。曹丕は孟達の姿才を愛して、散騎常侍、建武将軍、陽平亭侯とした。ぼくは思う。ホモらしい。ともあれ、爵位と官位をプレゼントすることが、孟達を曹魏の一員とする具体的な方法である。
『郡国志』はいう。孟達がいたのは、益州の漢中郡の房陵である。建安13年、房陵は漢中郡から分かれて、新城郡に属した。
謝鍾英はいう。劉封伝によると、建安24年、劉備は孟達に命じて、秭歸からでて房陵を攻めさせた。孟達は、房陵太守の蒯キを殺した。陸遜伝はいう。建安24年、房陵太守の劉輔を攻めた。劉封伝では、孟達がくだり、曹丕は、房陵、上庸、西城の3郡をあわせて新城郡をつくり、孟達を太守とした。
『晋書』宣帝紀で、孟達がそむいたときい、西城にむかった。太守の孟達は、西城にいた。ゆえに呉兵は、房陵をこえて、上庸から北上した。
呉増僅はいう。曹丕が、上庸、西城、房陵を合わせて3郡をつくったとき、まだ3郡は蜀漢に属した。曹丕は、孟達を名前だけ新城のトップとした。この年の冬、夏侯尚が劉封をやぶり、3郡9県を平らげた。ここにおいて、申儀を魏興太守として、孟達を新城太守とした。ゆえに、もと西城には魏興郡をおき、上庸と房陵を新城郡とした。すべて黄初元年の冬のことである。
盧弼はいう。新城、魏興、上庸は、いずれも武帝紀の建安20年の注釈にある。ぼくは思う。地図にしないと、まったく分からん。


甲午,軍次於譙,大饗六軍及譙父老百姓於邑東。

魏書曰:設伎樂百戲,令曰:「先王皆樂其所生,禮不忘其本。譙,霸王之邦,真人本出,其復譙租稅二年。」三老 吏民上壽,日夕而罷。丙申,親祠譙陵。

7月甲午、曹丕は譙郡に進軍した。6軍と譙郡の父老や百姓を、大饗した。

『水経』陰溝水はいう。曹丕は、延康元年に譙県にきて、故宅に碑を建てた。碑文をきざんで、その碑のために大饗した。『隷釈』巻19は、碑文を載せる。延康元年8月8日辛未である。上海古籍241頁に原文が引用されている。はぶく。
ぼくは思う。孫権を攻めることよりも、帰郷することのほうが目的に見える。孫権は奉献をすませており、曹丕に攻撃される道理がない。もしほんとうに攻撃するなら、このなハデに動いてはならない。孫権にむけ、「防御をかためる時間をあげましょう。軍容を調査する時間をあたえましょう」と言っているようなものだ。「戦さ下手」とは別次元の問題である。もしほんとうに戦う気があるのなら、曹丕はバカである。曹丕は頭がいいので(自称)、戦うつもりがないことが分かる。


孫盛曰:昔者先王之以孝治天下也,內節天性,外施四海,存盡其敬,亡極其哀,思慕諒闇,寄政冢宰,故曰「三年 之喪,自天子達於庶人」;夫然,故在三之義惇,臣子之恩篤,雍熙之化隆,經國之道固,聖人之所以通天地,厚人 倫,顯至教,敦風俗,斯萬世不易之典,百王服膺之制也。是故喪禮素冠,鄶人著庶見之譏,宰予降朞,仲尼發不仁 之歎,子頹忘戚,君子以為樂禍,魯侯易服,春秋知其不終,豈不以墜至痛之誠心,喪哀樂之大節者哉?故雖三季 之末,七雄之弊,猶未有廢縗斬於旬朔之間,釋麻杖於反哭之日者也。逮於漢文,變易古制,人道之紀,一旦而 廢,縗素奪於至尊,四海散其遏密,義感闕於羣后,大化墜於君親;雖心存貶約,慮在經綸,至於樹德垂聲,崇化 變俗,固以道薄於當年,風頹於百代矣。且武王載主而牧野不陳,晉襄墨縗而三帥為俘,應務濟功,服其焉害? 魏王既追漢制,替其大禮,處莫重之哀而設饗宴之樂,居貽厥之始而墜王化之基,及至受禪,顯納二女,忘其至 恤以誣先聖之典,天心喪矣,將何以終!是以知王齡之不遐,卜世之期促也。

孫盛はいう。曹操が死んだ直後に、饗宴するなよ。曹丕は禅譲ののち、献帝の娘2人をめとる。献帝に対する思いやりがない。だから曹魏は、天命が短かったのだ。

服喪の期間について、盧弼が『宋書』礼志などを引いているが、はぶく。曹操が死んで、まだ1年たっていない。それなのに、帰郷して饗宴して、「オレすごい! 曹魏もすごい!」という碑文を立てるのは、礼制にあっていないと。去年の日本の言葉でいうなら、「花見は不謹慎だから、自粛せよ」というやつである。
ぼくは思う。曹操が死んだからこそ、盛大にやって、国力がさかんなことを孫権や劉備に誇示する必要もあるだろう。これが「葬儀」という名目ならば、曹丕は後世の人から、批判されなかったのであろうか。
曹丕が献帝の娘をもらうのは、献帝の禅譲の詔書にある。盧弼はいう。曹操が死ぬと、曹丕は、曹操の宮人をすべて入手した。武帝紀の建安25年にひく『世説新語』にある。曹丕は思いやりがないので、献帝の2娘をもらうくらい、普通にやるだろう。
ぼくは思う。ちがうよ!!
どうして「奪った」「奪われた」という論理でしか考えないのだろう。曹操は3娘を、献帝にあげたでしょ。だから献帝が、曹丕に2娘を返したのだ。曹丕は、娘をもらってあげることで、献帝の威信が低下しないように配慮したのだ。献帝が「もらいっぱなし」だったら、献帝はただのミジメな中年である。女(というか男も)、自分の親の手許から巣立って、異なる血縁集団と結びつかないと、人類学的な「価値」を発現することができない。「価値」とは、すなわち子孫を残すことを意味するのだけど。
孫盛がどこまで、曹丕の思いやりのなさと、曹魏の王朝の短さの因果関係を「本気で」論じているのか分からないが。曹魏が短かった理由を考えるとき、曹操の死後に饗宴して、献帝の娘をもらったことは関係ないと思う。ただ孫盛が意識を高ぶらせ、「だから曹魏はダメなんだ」くらいの全体的な印象で語っているのかな。


8月、鳳凰がでる

八月,石邑縣言鳳皇集。

石邑県から、鳳凰が集まっていると報告あり。

『漢書』地理志はいう。常山の石邑である。王先謙はいう。戦国時代に、趙があった土地である。
ぼくは思う。鳳凰って、1匹で出てくるイメージがあった。複数いるのかー。

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延康元年の冬、頴川で受禅する

曹丕が頴川にくる

冬十月癸卯, 令曰:「諸將征伐,士卒死亡者或未收斂,吾甚哀之;其告郡國給槥櫝 殯斂,槥音衞。送致其家,官為設祭。

漢書高祖八月令曰:「士卒從軍死,為槥。」應劭曰:「槥,小棺也,今謂之櫝。」應璩百一詩曰:「槥車在道路,征夫 不得休。」陸機大墓賦曰:「觀細木而悶遲,覩洪櫝而念槥。」

冬10月(もしくは11月) 癸卯、

『集古録』はいう。受禅の碑は、梁鵠が書いたという。書いたのは、顔真卿とも、鍾繇とも言われる。分からない。
『漢献帝紀』はいう。10月乙卯、皇帝は禅譲した。『三国志』文帝紀はいう。11月に士卒の使者をとむらう令がでた。つぎにある。この月の丙午、張音が璽綬をもつ。庚午、登壇して受禅する。癸酉、献帝は山陽公となる。碑文は10月という。日付があわない。
裴注を見ると、禅譲の催促と辞退を押しつけあう。記事を検討すると、碑文の10月乙卯が正しいことがわかる。『後漢書』『三国志』とも誤っている。禅譲のような重大事なのに、月を間違っている。
ぼくは思う。上海古籍244頁に詳細な検討がある。必要なら、あとで見る。
ぼくは補う。禅代衆事(曹丕が皇帝即位についてゴネる期間)は、日付が混乱し、『後漢書』『魏志』や碑文などで異なる。曹丕は大軍をひきい、献帝から帝位をもらいにきている。戒厳令のもとの秘事だから、情報が混乱しても仕方ない。漢魏革命それ自体に対し、クーデターや挙兵が起きてないから、ぼくらはリスクを忘れがちですが。曹丕が禅代衆事を演じるときは、漢の宮廷・魏の版図の州郡で、兵乱のリスクがあった。曹操が事前に排除したし、曹丕が(征呉!とうそぶいて)大軍を率いて未然に防がれたが。歴史は、原則は「起きたこと」の分析ですが、「起きなかったこと」から踏み込めたら楽しい。シャーロックホームズの「鳴かなかった犬」と同じ。通常なら発生しそうなことが、なぜ発生しなかったか、という問いの立て方。曹丕が禅代衆事を演じた期間、なぜ天下は静謐だったか。

曹丕は令した。放置された死体を、ひつぎに入れて、家に送って祭れ。 『漢書』は高祖の8月令をのせる。「従軍して死んだ士卒を、ひつぎに入れよ」と。

裴松之と盧弼は、ひつぎについて注釈する。はぶく。


丙午,行至曲蠡。

丙午、曲蠡に、

『郡国志』はいう。曲蠡は、頴川の頴陰である。
劉昭はいう。『左伝』文9年、楚が鄭を討ったとき、狼淵にいた。ここである。
杜預はいう。頴陰の県西に、狼坡がある。献帝は、御史大夫の張音に皇帝の璽綬と策書をもたせ、曹魏に禅譲した。曹丕は、頴陰に壇を築いた。庚午、曹丕は登壇した。魏の相国する華歆が、張音からもらう。華歆ひざまずき、璽綬を曹丕にすすめた。曹丕は壇からおりた。
『帝王世紀』はいう。曹丕が登壇して受禅したのは、曲蠡の繁陽亭である。繁昌県に改められた。禹貢が定めた、豫州のエリアである。『水経』頴水注はいう。曹丕は受禅して台から降り、「禹舜のことを知っている」と。ゆえに曹丕は、石に銘文を刻み、繁昌に霊台を築いた。
ぼくは思う。
曹丕の禅譲は、洛陽で行われたのでない。「孫権を南征する」という名目のものと、6軍を連れている。故郷によって、つぎに曹操が献帝を飼っていた頴川にきて、そこで献帝から策文などを受けとった。おなじ洛陽にいて、面着で禅譲を受けたのでない。おなじ洛陽にいて、形式的に使者を媒介にしたのでもない。ほんとうに遠くにいた。曹丕は軍中にポツンと守られていて、どう間違っても献帝と接触できない状況を用意した。王莽のときは、じかに璽綬をやりとりして、孺子嬰が王莽にひきずりおろされたのに。王莽のときとは、明らかにちがう。正統性の量的な大小が違うのでなく、質的にまったく違うことをやっているように見える。
軍勢がいるのは物理的な安全のためである。そこまでは分かるが、いったい「誰と戦うための軍」なんだろう。また、わざわざ離れているのは、なにか象徴的な意味をもつのかも知れない。ちょっと考えてみたい。また後日。
「軍中で璽綬と策文を受けとる者」という位置に、曹丕は自らを位置づけた。これが意味するのは、なんだろう。璽綬と策文は、それを受け取った瞬間に時限爆弾が炸裂するから、その「危険物」への防壁が必要だったのだろう。!
いくら理論において禅譲の正統性を用意しても、曹丕はそれだけで安心できなかった。もちろん禅譲は、4百年の漢室を否定することだから、理論的な瑕疵をゼロにできない。しかし曹丕は「人間」がやれるレベルでは、正統化をきっちり検討した。つぎの裴注『献帝伝』にあるとおり。それでもなお、曹丕は、まったく想定不可能な、なんらかのダメージを予期している。曹丕がこれほど受納を恐れたのは、袁術を見ているから。だと思うなあ。どうかなあ。
まるで「核ミサイル」のスイッチを押すような感じ。押すような権限をもらって(例えば大統領とかになり)、スイッチを押すことで良き世界が生まれることが、厳密な検討の結果、理論上は保証されている。しかし、それを本当に押しても良いのだろうかと。スイッチを華歆が差し出し、曹丕が片目をつぶって、ポチッと押す。そんな画像が浮かぶ。核兵器が暴発するかも。予想とは全く違う事態が起きるかも。
比喩をやめて漢末にもどせば、曹丕が璽綬を受け取った瞬間に、天下で反乱が起こりまくる。それどころか、曹丕の禅譲を守るべき6軍まで、曹丕のクビと取ろうと殺到する。張音も華歆も踏みつぶされる。これが、あり得ないとも言い切れない。みんな魏王としての曹丕を認め、曹丕の禅譲を勧めたのだが、いざ禅譲が実現してみると「イメージと違った」と反乱がおきる。こればかりは、4百年間だれも体験していないのだから、ほんとうに何が起こるか分からない。
張音は漢官で、華歆は魏官。華歆の手に遷った時点で、実質的な革命は完了しているようにも見える。核ミサイルのスイッチを、2段階で押すようにしたのかな。華歆が受納した時点で、早くも世界がひっくり返っていれば、曹丕は「禅譲? 知らないよ」と言えばよい。華歆は、逆臣の汚名を被せられて、曹丕から誅殺されただろう。袁紹のところで前例あり。もしくは、献帝-漢官-魏官-曹丕という対称性をつくるために、華歆が挟まれたのだろうか。漢官から曹丕が手渡されるのは、あまりにもグロい。もしくは、あまりに「エロティック」である。
もしも、
曹操がこの禅譲の儀礼をやるなら、「わたしは漢室のために働いてきたから」という自負がある。実績と自負があることと「禅譲を受けて良い」のあいだには、じつは何の必然性もない。だが少なくとも、気休めになる。自分をだますことができる。しかし曹丕は、曹操の子供というだけで、曹操と同等の待遇である。「父子のあいだで爵位が嗣がれる」というルールがあり、曹丕は文句なく魏王なのだが、曹丕その人の心の中を覗いたとき、曹操のような気休めを自分に施すこともできず、精神が安定しないだろう。

進軍する。

曹丕は洛陽に寄りつかず、豫州や揚州をウロウロしている。ここは、袁術が皇帝を称して、皇帝として頴川に出兵していた地域である。袁術は、献帝を物理的に拘束しなくても、曹丕のように文書を受け取っていれば、寿春にいながらにして、正統性に瑕疵のない皇帝になっていたんだなあ。
三国にあたえた袁術の影響を、ぼくは「過大評価」し続けていきたい。その理由は、袁術が好きだから出ない。いちおう袁術のことが好きだし、影響を見出そうとした動機は、袁術を目立たせたかったからだ。しかし、それとはべつの仕方で、袁術を過大評価したい。また、袁術が実際に影響を与えたと、ぼくが確信しているからでもない。「史料にないことは指摘できない」という鉄の掟によって、袁術の影響をこれ以上は、言うことができない。曹操は戦績を振り返るときに、袁紹と袁術の話をよく持ちだした。武帝紀の後半で、忘れず触れられる。だが曹丕がデビューしたのは、二袁との戦いが、だいたい決したときだった。曹丕の口からは「二袁がね、二袁がね」という台詞を聞けない。
それでもぼくが袁術を「過大評価」するのは、なぜか。袁術を触媒にして考えることで、三国に対する思考が広がるからだ。事実を掘り起こしたいのでなく、思考の道筋を増やしたいだけなのだ。


献帝の冊書を、張音が届ける

漢帝以眾望在魏,乃召羣公卿士,

漢帝は、衆望が曹魏にあるので、公卿らを召した。

袁宏漢紀載漢帝詔曰:「朕在位三十有二載,遭天下蕩覆,幸賴祖宗之靈,危而復存。然仰瞻天文,俯察民心,炎 精之數既終,行運在乎曹氏。是以前王既樹神武之績,今王又光曜明德以應其期,是曆數昭明,信可知矣。夫大 道之行,天下為公,選賢與能,故唐堯不私於厥子,而名播於無窮。朕羨而慕焉,今其追踵堯典,禪位于魏王。

袁宏『漢紀』は、漢帝の詔を載せる。

『漢紀』の冬10月、乙卯に出された詔である。厳可均はいう。『魏志』衛覬伝はいう。献帝の詔を書いたのは、衛覬である。

私は32年の在位。天下が転覆したが、祖宗の礼のおかげで、持ちこたえた。天文をみると、炎精の命数がおわった。 曹操は神武の実績があり、曹丕は時期に応じている。天下は「公」のものだから、唐堯は子供に嗣がせなかった。魏王に禅位する。

ぼくは思う。衛覬が代筆している。ここ一番の、もっとも重要な詔書である。「誰が書いても同じ」であることが重要。最低限の知性を持った人であれば、同じものを書きそうだからこそ、そこに「天の意思」とか、官人たちの合意が形成されるのだ。というわけで、とくに目新しい内容がなくて、おもしろくないなあ。
ぼくは思う。裴注『献帝伝』が長いので、べつにやります。


告祠高廟。使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位, 冊曰:「咨爾魏王:昔者帝堯禪位於虞舜,舜亦以命禹,天命不于常,惟歸有德。漢道陵遲, 世失其序,降及朕躬,大亂茲昏,羣兇肆逆,宇內顛覆。賴武王神武,拯茲難於四方,惟清區 夏,以保綏我宗廟,豈予一人獲乂,俾九服實受其賜。今王欽承前緒,光于乃德,恢文武之 大業,昭爾考之弘烈。皇靈降瑞,人神告徵,誕惟亮采,師錫朕命,僉曰爾度克協于虞舜,用 率我唐典,敬遜爾位。於戲!天之曆數在爾躬,允執其中,天祿永終;君其祗順大禮,饗茲 萬國,以肅承天命。」

献帝は、高祖の廟に告げた。
御史大夫の張音に持節させ、璽綬を奉じさせた。冊書にいう。「魏王よ。堯は舜に禅位し、舜は禹に禅位した。漢室は秩序を失ったが、曹操が四方を平定してくれた。天の曆數は、すでに曹丕にある。天命を受け容れよ」

袁宏はいう。献帝は幼かったから、献帝に天下が乱れた責任はない。成長したあとにも、献帝に過失はない。もし漢室が衰えても、魏室が天下をもらえるというロジックはない。堯舜のマネをして、あざむいている。
ぼくは思う。袁宏の指摘の内容を、検討する必要はない。漢室が傾いたのがだれのせいだとか、曹魏が誠実なのか欺瞞なのか、どちらとも言える。重要なのは、「どちらとも言えること」それ自体だろう。禅譲を、理詰めで成功させることができない。むしろ、禅譲しない派のほうが、理論の構築においては有利である。現状維持を唱えるには、いくらでも理由を用意できる。
「正統性」の有無について議論することは、無意味である。「正統性」がいかに形成されるかを、議論するかには意味があると思う。みんなが、どういうネタと文法で正統性の有無を論じているか、を考えるのは面白いだろう。
ちょっと語弊があるかな。「正統性」の有無について議論することに、意味がある人たちがいる。当事者である。たいてい、1700年前までには死に絶えているから、やっぱり意味がないと断言してもいいのかなあ。


乃為壇於繁陽。庚午,王升壇即阼,百官陪位。事訖,降壇,視燎成 禮而反。改延康為黃初,大赦。

繁陽に壇をつくった。10月庚午、曹丕は壇で即阼した。百官は陪位した。禅位がおわり、曹丕は降壇した。視燎した。延康を黄初と改元して、大赦した。

「10月庚午」ではなく「10月癸卯」が正しい。
『宋書』礼志はいう。曹丕は儀礼を終えたが、まだ祖配をしてない。『通鑑考異』はいう。『後漢書』では、曹皇后が璽綬を渡したくないとゴネる。これは『漢書』元后伝の故事である。献帝が自分で璽綬をもっているのだから、曹皇后はゴネるチャンスがない。張音に持たせたのが本当である。
曹皇后のことは、武帝紀の建安18年、20年にある。


魏氏春秋曰:帝升壇禮畢,顧謂羣臣曰:「舜、禹之事,吾知之矣。」

『魏氏春秋』はいう。儀礼を終えた曹丕は、群臣にいう。「堯禹のことを、私は知った」と。

どんな意味なんだろう。「これほど私はすばらしい」と言いたいのか、「堯禹は、こんな気持ちだったのかあ。冷や汗がでるなあ」だったかも知れない。曹魏を批判しようという、漢側のバイアスから見なければ、この発言は、けっこうピュアで人間らしくていい。いろんな意味が込められているのだろう。


干竇搜神記曰:宋大夫邢史子臣明於天道,周敬王之三十七年,景公問曰:「天道其何祥?」對曰:「後五(十)十 盧文弨據宋書刪年五 月丁亥,臣將死;死後五年五月丁卯,吳將亡;亡後五年,君將終;終後四百年,邾王天下。」俄而皆如其言。 所云邾王天下者,謂魏之興也。邾,曹姓,魏亦曹姓,皆邾之後。其年數則錯,未知邢史失其數邪,將年代久遠, 注記者傳而有謬也?

干宝『捜神記』はいう。春秋時代の宋人が、邾王が天下をとると予言した。邾王は、曹氏である。裴松之はいう。年数がデタラメであるが、予言がちがうのか、記録がちがうのか、事実がちがうのか。

『晋書』干宝伝にある。著作郎である。はぶく。
ぼくは思う。こういう予言のたぐいは、もっと多かったのだろう。「もっと不合理なもの」を読みたいが、わりに裴松之の採用基準が厳しいみたいだ。現代日本の都市伝説のほうが、ぶっとんだ内容だけど、ツジツマがあっている話がある気がする。こういった予言への接し方に注意しないと、19世紀の理性万歳になってしまう。

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黄初元年、頴川から洛陽に入る open

11月、爵位をととのえる

黃初元年十一月癸酉,以河內之山陽邑萬戶奉漢帝為山陽公,行漢正朔,以天子之禮 郊祭,上書不稱臣,京都有事于太廟,致胙;封公之四子為列侯。追尊皇祖太王曰太皇帝, 考武王曰武皇帝,尊王太后曰皇太后。賜男子爵人一級,為父後及孝悌力田人二級。以漢 諸侯王為崇德侯,列侯為關中侯。以潁陰之繁陽亭為繁昌縣。封爵增位各有差。

黃初元年11月癸酉、河內の山陽邑1萬戶に、漢帝を山陽公として封じた。

『後漢書』献帝紀にもある。山陽の濁鹿城に都した。章懐はいう。濁鹿城は、清陽城ともいう。
彭孫タイはいう。むかし舜禹が禅譲を終えたとき、帝号を削ったあと、諸侯の国に降格して封じなかったぞ。朱葵之はいう。王莽は周公をまねて、曹丕は舜禹をまねた。古代の前例をまちがって引用して、簒奪をしたのである。

山陽公に許したのは、漢正朔,天子之禮による郊祭、上書のとき不稱臣、京都で太廟を祭るときの致胙である。

『御覧』560は、曹丕の詔書を載せる。舜が堯を尊んだように、私は山陽公を尊ぼう。ほんとうは魏制で統一したいのだが、それでは意が自ら安らがないので、山陽公の国内だけは漢制を許そう。
銭大昕はいう。司馬師を忌んで、京師を「京都」と書いている。京邑と書くこともある。盧弼はいう。 『続漢書』でも京都と書いてある。尹1人、2千石。
ぼくは思う。避諱をしていることにより、中国の記録者たちのスタンスがわかる。コピーライト、原文に忠実、直接話法、が最優先ではない。コピーレフト、原文は二の次、間接話法である。同じニュアンスのことが伝わるなら、漢字を同音で置き換えたり、古名に置き換えたりする。筆写する人の腕の見せ所とすら、思われているのではないか。だから陳寿と『文選』が、ひどく違ったりする。盧弼が1字ずつ突合すると、細かい差異がゴロゴロ出てくる。

献帝の4子を列侯とした。

『後漢書』献帝紀はいう。4皇子は、王から列侯に降格された。『魏志』衛臻伝はいう。ときに群臣は、みな魏の徳をほめた。衛臻だけは、「禅受の儀」に明るく、漢の徳をほめた。曹丕は、しばしば衛臻に言った。天下の珍め、山陽公とともにいろ。
ぼくは思う。「禅受の儀」という言葉があるのか。授受を表すボキャブラリとして、覚えておきたい。
ぼくは思う。『魏志』だけ読むと、曹丕が温情によって、献帝の皇子を列侯にしたように見える。しかし『後漢書』では、隠さずに「王から降格された」と書いてある。実際はそうだよなあ。

祖父を太皇帝、曹操を武皇帝とし、卞氏を皇太后とした。男子に1爵をたまい、父後および孝悌や力田には2爵をたまう。

ぼくは思う。禅譲のあとに、まずは爵位を整備しているのね。
爵20級は、武帝紀の建安20年の注釈にある。ぼくは思う。そのときも、長くてしんどいから、はぶいたんだった。
『漢書』文帝紀に「民爵1級をたまう」という記述がある。顔師古はいう。爵を賜るのは、1家の長だけである。いま、文帝紀で「父後」に爵位をあたえた。正嫡、家長でなくても爵位を与えたのだ。何焯はい。「父後」とは正嫡を意味する。顔師古は誤りである。やはり爵位は、家長だけが受けられる。
銭大昭はいう。公士から公乗まで、民の爵位である。生まれて禄位をもらい、死んだら号諡をもらう。五大夫から徹侯まで、官の爵位である。ぼくは思う。西嶋氏をもういちど読まねばなあ。とりあえず、顔師古がびっくりさせたような、「これまで爵位をもらえなかった次男にも、爵位を与える」という大盤振舞を、曹丕がしたのではない。

漢の諸侯王を、崇德侯とした。列侯を関中侯とした。禅譲をやった、潁陰の繁陽亭を「繁昌縣」とした。封爵をそれぞれ増やした。

崇徳侯は、名号侯である。武帝紀の建安20年にある。『後漢書』劉良伝はいう。建安18年、趙王の劉珪は、博陵王にうつされた。魏初に崇徳公になった。
ぼくは思う。劉珪の列伝によって、曹氏の政策が裏づけられている。けっきょく封地を剥奪されたのだ。


11月、官位をととのえる

改相國為 司徒,御史大夫為司空,奉常為太常,郎中令為光祿勳,大理為廷尉,大農為大司農。

改相國為司徒,御史大夫為司空,奉常為太常,郎中令為光祿勳,大理為廷尉,大農為大司農。

ぼくは思う。見たら分かるので、原文をいじらず。
胡三省はいう。建安13年にやめた三公を、いま再設置した。趙一清はいう。太尉、司徒、司空は、古官である。漢魏のとき、三公になった。建安13年の注釈にある。
奉常、大理は、武帝紀の建安21年の注釈。郎中令は、建安19年の注釈。
近年発掘された、敦煌に埋もれた『三国志』の、虞翻伝、陸績伝、張温伝によると。張温伝で、大司徒の劉基を、大農の劉基とする。孫呉は漢制をついだ。大農は漢制で、大司農は魏制であるとする。
盧弼はいう。『漢書』百官公卿表によると、前漢の景帝のとき、秦官の治粟内史を、大農令とする。武帝のとき、大司農とする。王莽のとき、羲和、のちに納言とする。『続百官志』でも、後漢に大司農があったとする。盧弼が『魏都賦』注を見るに。建安18年、魏国がはじめて大農をおく。黄初元年、大司農とする。以上から、敦煌で出土した『三国志』は、言っていることがおかしい。


郡國 縣邑,多所改易。更授匈奴南單于呼廚泉魏璽綬,賜青蓋車、乘輿、寶劍、玉玦。

郡国を改変した。匈奴の南単于する呼廚泉に、魏の璽綬をさずけた。青蓋車、乘輿、寶劍、玉玦をあげた。

『続輿服志』はいう。青蓋車は、皇子が王になったときに乗るもの。『魏志』董卓伝で、董卓は青蓋車にのる。董卓伝にひく『献帝紀』はいう。蔡邕は董卓に「青蓋にのるな」と言ったので、董卓は金華阜蓋車にあらためた。
趙一清はいう。曹丕が呼廚泉に青蓋を与えたのは、諸侯王として扱ったから。乘輿、寶劍、玉玦は、天子の制にちかい。即位した直後に、異民族を招くために、厚遇したのだろう。
『寰宇記』巻42はいう。離石県は、後漢末に荒れたので、南単于は左国城にいた。黄初3年、再設置された。


12月、頴川から洛陽にもどる

十二月,初 營洛陽宮,戊午幸洛陽。

12月、はじめて洛陽宮を営する。戊午、洛陽にゆく。

けだし頴川の繁陽から、洛陽にもどったのだ。ぼくは思う。禅譲にともない、爵位と官位を整備する作業は、すべて洛陽のそとで行った。よほど警戒したのだろう。かわいそうに。
『魏志』辛毗伝はいう。曹丕は、冀州の士家10万戸を、洛陽のある河南にうつしたい。辛毗がつよく諫めたので、曹丕は半分でガマンした。
ぼくは思う。「寄生官僚制」を連れていきたかったのだ。前漢の皇帝が、官僚を三輔に移住させて、根無し草にさせたとの同じ発想である。2つのことに気づく。曹丕にとって河南は、そこまでもアウェイだったこと。曹丕にとって冀州は、そこまでも安心できるホームだったこと。もともと袁紹から盗んだ冀州だけど、曹丕が河南に連れていきたくなるほど、曹氏に優しい勢力になった。
『郡国志』はいう。司隷の河南の洛陽である。周のとき「成周」とした。『晋書』地理志はいう。光武帝が洛陽に都した。司隷に部させた。前漢異なる。曹魏が受禅すると、漢宮をそのまま使い、司州とした。尉5部をおく。あと、門の説明など。はぶく。
ぼくは思う。もし曹丕が、天下を統一する気持ちがなければ、鄴県を都とすればよい。そのほうが安全である。漢の都に乗りこむというリスクが要らないし、呉蜀に近いというリスクを受容しなくてもよい。なぜ曹丕が洛陽に都するか。これは、曹丕の禅譲に対する考え方と、大きく関係すると思う。
もし曹丕が、後漢のなかで育った「プライベートな軍閥」であれば。力によって後漢を滅ぼしてよい。もっとも戦略的に有利な行動だけ選び、鄴県を都とすればよい。しかし、天下に唯一の全体を治める王朝としての後漢から、その強みも弱みも引き継いだ。荒廃して再建コストを要する洛陽、曹丕を快く思わない勢力のいる洛陽、荊州から容易に攻め込まれる洛陽。1つもメリットがない。このデメリットを享受したのは、オフィシャルな天子として、自分を苛酷にも位置づけたからだ。
「禅譲を受けずに、外部から成り上がったほうがラク」というのは、わりにいいアイディアだなあ。自画自賛だけど。外部から成り上がるなら、経済的、軍事的、政治的に、すべて合理的にゆけばよい。
ところで、「漢室の天命がおわり、私に天命がある」という宣言と、漢室の天子から策書を受け取ることを、同じに考えてはいかんのかも。たとえば秦末の陳勝たちは、「秦室の天命がおわり、私に天命がある」と言ったのだっけ。天命のような概念がなかったっけ。陳勝は、秦室の皇帝から、バトンタッチを受けるつもりはなかったはず。 天命の移動と、禅譲をするか否かは、べつの論件なんだな。独立に考えるべきなんだ。天命が移動したと思っても、前任の天子からバトンを受ける必要がない。天命が移動したと思ってなくても、バトンタッチが行われることがあるかも。あー。


臣松之案:諸書記是時帝居北宮,以建始殿朝羣臣,門曰承明,陳思王植詩曰「謁帝承明廬」是也。至明帝時,始 於漢南宮崇德殿處起太極、昭陽諸殿。

裴松之は考える。諸書はこのとき、曹丕が北宮にいたという。建始殿で群臣を朝した。門を、承明門という。曹植の詩に「承明盧で曹丕に謁した」とあるのが、これである。

恵棟が洛陽の建物や門をいう。上海古籍288頁。
盧弼はいう。洛陽の宮殿は、董卓に焼かれた。だが旧址は残っていた。曹魏は、まず建始殿をつくった。曹丕は、そこで群臣と会った。
承明盧についても、上海古籍288頁。建始殿は北宮にあり、承明門は後宮の出入の門になった。裴注は誤っていない。ぼくは思う。いろいろ諸書が検討されているが、盧弼が裴注が誤りでないという結論を出したので、安心してはぶく。

明帝のとき、後漢の南宮にある崇徳殿に、大極殿や昭陽伝をつくる。

明帝の話じゃないが、「再建が必要な洛陽」つながりで。
ぼくは思う。曹丕は、鄴県で安穏としていたかったが、そうも言っていられず、頴川で禅譲を受けた。いちばん理論上はキレイなのに、現実にやりたくないのが「献帝と曹丕で2人とも出張して、洛陽で禅譲の儀礼をやる」かな。頴川は、曹丕にとって鄴県ほどは安心できないが、洛陽は完全なるアウェイ。建物も城壁も壊れて、まるで「原野」である。また、いつ孫権が荊州から上がってくるかも分からない。また、洛陽は見かけは荒廃しているが、光武帝より以来の後漢の皇帝の呪いがかかっているから、璽綬を受け取った瞬間に、ほんとに大爆発が起きるかも知れない。
というわけで、禅譲が終わり、爵位と官位を整えて、軍事的にも反乱が起きまくらないことを確認してから、事後的に洛陽に入った。
ぼくは思う。曹操は、わざわざ洛陽で「客死」した。洛陽なんて、荒廃しまくっている上に、関羽の脅威にさらされている。関羽を殺しても、孫権軍がウロウロしているから、安全でない。それなのに、なぜ洛陽だったか。もしぼくが曹操なら、鄴県でタタミの上で死にたい。許県で死んだら、漢臣たちに死体をなぶられそうだ。譙県で死ねたら、気分は安らぐが、引退しない限りは難しい。
などと考えると、きっと曹操は、西への外征で死んだ。悪くて漢中、良くて長安で死んだ。死体を抱えて、許県をスルーして、鄴県にいくのは難しい。そこで、「許県を通らなくてすみ、辛うじて格好がつく場所」が選ばれたのか。
曹操の死とか、えらく昔の話をしているようで、年号も2回変わった。建安、延康、黄初。でもまだ曹操が死んでから、ちょうど1年くらいである。曹丕の禅譲革命は、喪中であることも無視して、電光石火だった。喪中であろうが、遠征して、饗宴して、という動きを作り出さねば、禅譲を受けられなかった。
@Golden_hamster さんはいう。董卓の最後を見た者も生きている時代ですし(というか献帝自身がそうか)、董卓の時のような暗殺、吉本の乱のような武力蜂起という可能性を考えると、許県には居たくないというのはあったかもしれないですね。というか、献帝やその直臣に対面するだけでも危険視したのかも。


魏書曰:以夏數為得天,故即用夏正,而服色尚黃。
魏略曰:詔以漢火行也,火忌水,故「洛」去「水」而加「佳」。魏於行次為土,土,水之牡也,水得土而乃流,土得水 而柔,故除「佳」加「水」,變「雒」為「洛」。

『魏書』はいう。曹丕は、夏のコヨミをつかい、服は黄色をとうとぶ。

『魏志』辛毗伝はいう。正朔を議論した。辛毗は、曹魏が舜禹、湯武を踏まえることから、正朔を改めた。孔子が「行夏のとき」と言い、、はぶく。
盧弼はいう。明帝の景初元年、正朔を改めた。明帝紀に詳しい。斉王芳の正始元年、ふたたび夏制の正朔をつかい、寅を年初とした。三少帝紀にくわしい。

『魏略』はいう。漢室は火徳なので、洛陽でなく雒陽といった。魏室は土徳である。土徳は、水と相性がよいから、洛陽にもどした。

胡玉シンはいう。漢代より古い文書に「雒」の表記もある。漢室がオリジナルに「洛」を排除したのでもない。曹丕が、魏室の土徳をいうために、漢室が「洛」を排除したと強調したのかも知れない。
ぼくは思う。ポケモンでは、水タイプの攻撃は、炎タイプに大ダメージを食らわせるが、地面タイプにも大ダメージを食らわせる。これに照らせば「洛陽」に改めてはならない。


是歲,長水校尉戴陵諫不宜數行弋獵,帝大怒;陵減死罪一等。

この年、長水校尉の戴陵が、曹丕の狩猟をいさめた。死罪1等を減じられた。

『漢書』百官公卿表より、長水校尉について。上海古籍290頁。
『宋書』五行志はいう。曹丕は諒闇のあいだでも、しばしば狩猟した。ちっとも落ち込んでいる様子がなく、楽しそうに狩りをした。ゆえに戴陵と鮑勛が諫めて、極刑をうけた。『魏志』鮑勛伝にある。ちゃんと服喪できない曹丕は、ながい王朝を始めることができない。
『魏志』辛毗伝にある。曹丕はキジ撃ちを楽しんだ。辛毗に「あなたは楽しいかも知れないが、群下は、ひどくツライんだ」と叱られた。曹丕は黙然として、たまにしか狩猟しなくなった。
ぼくは思う。それでも、たまには狩猟するのね。好きだなあ。曹操の死去、曹丕の禅譲という、天下がもっとも緊張した1年に、曹丕が軽快に狩猟をしているのがおもしろい。三国鼎立が、隋唐の統一までのながい分裂の時代のキッカケだとしても。曹丕は、気楽に狩猟をしている。天下の重大事、数百年のスパンでの時代の区切かも知れないから、それを予感して、曹丕はあえて狩猟をしていたのかなあ。「漢帝の忠臣」に殺されるリスクに怯えながら、つくらなくてもいい名目だけの遠征軍をつくり、禅譲の勧めを断りまくっていたとき、狩りに行きまくる。「喪中には、狩りを慎め」という、あまりに正しい指摘をした人々を殺す。
曹丕は、自分が間違っていることを、理論上は分かっていたはずだ。それでもなお、狩猟に行かねばならなかった。そういう種類の切迫した狩猟なのだ。諫めた人たちは喪中であることを口実にしており、たしかに喪中の遊びは良くないが。もっとも言いたかったことは「禅譲の失敗がないように、慎重に行動してくれ」だろう。しかし曹丕は、禅譲のプレッシャーによって、狩りまくっているのだから、救われることがない。「海水を飲んではいけない」と言われながら、海水を飲まずには、気が済まないような地獄。
そういえば、後漢の桓帝も、校猟しまくって諫められていたっけ。桓帝と曹丕は、そっくりの心持ちだったら面白い。「私は皇帝であるが、周囲に服さない勢力あり、葛藤を抱えねばならない」という点では同じである。王朝の長い歴史のなかでは、位置どりが違うけれど(曹丕は初期、桓帝は後期)、個人の感覚としては近いかも知れない。

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黄初2年、洛陽を再建し、孫権を呉王とする

春、5都と「中都の地」を設定する

二年春正月,郊祀天地、明堂。甲戌,校獵至原陵,遣使者以太牢祠漢世祖。乙亥,朝 日于東郊。

臣松之以為禮天子以春分朝日,秋分夕月;尋此年正月郊祀,有月無日,乙亥朝日,則有日無月,蓋文之脫也。 案明帝朝日夕月,皆如禮文,故知此紀為誤者也。

黄初2年春正月、天地を郊祀して、明堂をつくる。

『後漢書』光武帝紀はいう。中元元年、はじめて明堂、霊台をたてた。漢代の故事をまねたのだ。上海古籍291頁に、明堂について、たっぷり注釈あり。明堂については、何も知らないが、ぼくが容易に検討できないことは知っているので、はぶく。

正月甲戌、校獵して原陵にいたる。使者に、大牢を光武帝に供えさせた。

『後漢書』明帝紀はいう。光武帝を原陵にほうむり、世祖とした。盧弼はいう。董卓が諸陵を盗掘した。光武帝の原陵が、盗掘されずに現存しているのは、薄葬したおかげか。
『御覧』560はいう。曹丕が、漢帝のために、陵墓を守るように詔した。武帝、昭帝、宣帝、明帝の陵墓には、3百家のハカモリをおけ。
ぼくは思う。董卓が洛陽を焼き、董卓が漢帝の陵墓をほった。董卓がつくった「漢魏の断絶」は、すごく大きいなあ。董卓は、破壊することによってのみ、名前を遺した。利害関係のないぼくらが「第三者的に」董卓の意義を再評価することはできるだろう。董卓だって、単なるバカと邪悪のカタマリではなかろうから、見るべきところは多いはずだ。だが、魏晋の当事者から見れば、董卓は単なる破壊者である。悪まれても当然である。むしろ、悪まねばならない。ぼくは、自分が当事者として関わっていることに、単なる破壊者が訪れたら、きっと怒るなあ。
神話の場合、董卓のような破壊者がいたら、すべてにおいて反対の要素をもつ、ツイを持った創造者が現れねばならない。それが、曹操と曹丕である。しかし、神話が期待するような創造者には、足りなかった。だから、曹操や曹丕は、わりと秩序の回復において手柄が大きいのに、評価が高くない。「私たちが登場を待っていたのは、そんな清濁あわせもち、でも少し"清"が多いような人間ではない。もっと清くて清くて、"清"のカタマリのような人なのよ」となる。
董卓のツイになるのは、袁紹だったのかなあ。袁紹なら、曹操が倒しちゃったけど。まあいいや。董卓に対して、袁紹、袁術、曹操、曹丕と、勢力交代や世代交代をくり返しているうちに、役割が弱まってしまったのだ。確かに「壊すより作るほうが大変」なのは、分かっているけど。曹丕、神話的にはパッとしない。

正月乙亥、東郊で朝日を祭った。
裴松之は考える。天子は、春分に朝日をまつり、秋分に夕月をまつる。いまは正月である。陳寿の記載ミスか。曹叡は、ルールどおりに春分と秋分にまつる。

潘眉はいう。裴松之も誤っている。はぶく。上海古籍292頁。盧弼の引用する意味がとれなくもないが、それによって何かを考えるほどの準備がない。


初令郡國口滿十萬者,歲察孝廉一人;其有秀異,無拘戶口。 辛巳,分三公戶邑,封子弟各一人為列侯。 壬午,復潁川郡一年田租。

魏書載詔曰:「潁川,先帝所由起兵征伐也。官渡之役,四方瓦解,遠近顧望,而此郡守義,丁壯荷戈,老弱負糧。 昔漢祖以秦中為國本,光武恃河內為王基,今朕復於此登壇受禪,天以此郡翼成大魏。」

人口が10万未満の郡国も、いい人材がいれば、2人以上の孝廉を挙げられることにした。

『続百官志』はいう。郡国から中央に吏が報告し、あわせて孝廉をあげた。郡国で20万人なら、孝廉を1人しか挙げられない。盧弼はいう。いま曹丕は、漢室の2倍の孝廉を挙げて良いことにした。恩を示したのだろう。これもまた、バラまきの1つである。

正月辛巳、三公の戶邑を分割し、子弟1人ずつを列侯に封じた。

『御覧』181にひく魏公の奏事はいう。列侯といえども、1万戸未満の者は、第(やしき)を作らせてもらえない。里中に住んだが、住居を「宅」と呼ばなかった。
ぼくは思う。曹操が三公を廃したが、曹丕が三公をもどした。しかし三公に権限が集中するのを防いだのだろう。このとき、太尉は賈詡、相国は華歆、御史大夫が王朗である。曹丕は、限られた老人だけでなく、次世代の人材に恩を売りたかったのかな。

正月壬午、頴川に1年の田租を返却してあげた。
『魏書』はいう。頴川は、曹操が起兵の根拠地とした。官渡のとき、四方が瓦解したが、頴川が曹操に協力してくれた。高帝と光武帝のように、根拠地を大切にしよう。また私は、頴川で受禅した。頴川は曹魏の大切な土地だ。

改許縣為許昌縣。以魏郡東部 為陽平郡,西部為廣平郡。

魏略曰:改長安、譙、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界郯,為中都 之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。

許県を許昌県とあらためた。魏郡を分割して、東を陽平郡、西を広平郡とした。

許県は、武帝紀の建安元年の注。『元和志』はいう。曹魏が洛陽に遷都しても、宮室や武庫は許昌にのこった。
魏郡のあたりの変遷は、上海古籍292頁。ぼくは思う。曹操に権限を持たせるため、魏郡を「不当に」大きくした。曹丕が魏帝になってので、その必要がなくなり、魏郡を解除した。曹操のために用意した特権を、曹丕が解除していくのだが、、この曹魏が、司馬氏にどのような仕方で権限を与えていくのか楽しみ。司馬炎が、どのような仕方で、晋帝として、もと晋王の特権を解除していくのかも楽しみ。

『魏略』はいう。長安、譙、許昌、鄴、洛陽を、5都とした。

王鳴盛はいう。長安は長らく都でないし、譙県は曹丕の故郷にすぎず、都でない。ほんとうに都なのは、許昌、鄴県、洛陽のみである。
ぼくは思う。長安は蜀漢への防御となるし、譙県も孫呉に水軍を出すときの拠点である。都が多すぎて気持ち悪いが、これは呉蜀がいることと関係するだろう。ほんらいは、都のなんて1つのほうが、スッキリする。地方分権なんて、思想そのものがない。

4隅に石碑を建てて、「中都の地」を区切った。西は宜陽でくぎり、北は太行をめぐり、東北は陽平をさかいに、南は魯陽をめぐり、東は郯まで。「中都の地」への移住を許した。許す期間を、5年だけ延長し、さらに延長した。

趙一清はいう。『続漢書』はいう。宜陽は弘農郡。野王は河内郡で、太行山脈がある。魯陽は南陽。郯県は東海郡。陽平亭は、袁紹伝にあり、鄴から17里である。
謝鍾英はいう。『水経』洛水注はいう。宜陽は、もとは洛陽の典農都尉がいたが、のちに郡に改めた。
郯県は、武帝紀の初平4年、徐州牧の注釈にあり。陽平は、武帝紀の建安8年の注釈にあり、趙一清が言うような、袁紹伝の陽平亭のことではない。
ぼくは思う。内地への移住を促進するというのは、ロコツに呉蜀への当てつけである。わざわざ決めなくてもいい、つまり後漢の制度ではないのに、5都を定め、「中都の地」を定めた。これが、呉蜀の瓦解をさそうのか、曹魏の縮小をさそうのか、興味ぶかい。どうやら後者だったようだ。失敗した政策を、何度も延長するなよな。
ぼくが思うに曹丕は、呉蜀が残ることを、ほんとうに予想していなかったんじゃないか。もちろん政治的な声明としては「呉蜀は残ってはならない」と言うだろう。だが、本心でも「呉蜀が残るまい。私が受禅に成功したことをキッカケに、天下は治まるだろう」と思ったに違いない。
ところで、曹丕が受禅する可否を検討するとき、呉蜀の存在は、どのように見なされ、またどのように動きを予想されていたのだろうか。もしぼくが曹丕になら、禅譲というのは、孫権と劉備をくだらせるための解決策にも、同時になっていなければ、わざわざ敢行する価値がない。いま読み飛ばしたままになっている、裴注『献帝伝』を読むときに、気に留めよう。
5都や「中都の地」の設定は、禅譲のときに考えられていた、呉蜀を取りこむための政策の一環だろう。まず曹丕が打ち出して、あとから様子を見る。まだ、その政策を打ち出している段階。まだ受禅して、3ヶ月めぐらいだから。時間が長く感じられるなあ。
長安を都としたのは、宮殿があるからでなく、また成都を攻める基地でもなく、成都からの投降を処理するための出張場では。譙県で、建業からの投降を処理しなかろうが、さっさと寿春に移動できるスタッフが、スタンバイしていたのかも知れない。


詔曰:「昔仲尼資大聖之才,懷帝王之器,當衰周之末,無受命之運,在魯、衞之朝,教化 乎洙、泗之上,悽悽焉,遑遑焉,欲屈己以存道,貶身以救世。于時王公終莫能用之,乃退考 五代之禮,脩素王之事,因魯史而制春秋,就太師而正雅頌,俾千載之後,莫不宗其文以述 作,仰其聖以成謀,咨!可謂命世之大聖,億載之師表者也。遭天下大亂,百祀墮壞,舊居 之廟,毀而不脩,褒成之後,絕而莫繼,闕里不聞講頌之聲,四時不覩蒸嘗之位,斯豈所謂崇禮報功,盛德百世必祀者哉!其以議郎孔羨為宗聖侯,邑百戶,奉孔子祀。」令魯郡脩起舊 廟,置百戶吏卒以守衞之,又於其外廣為室屋以居學者。

曹丕は詔した。「孔子は立派な人物だから、議郎の孔羨を宗聖侯とせよ。邑百戶あげるから、孔子をまつれ」と。魯郡に、孔子の旧廟を修繕させた。百戸の吏卒に護衛させ、外に学者を住まわせた。

ぼくは思う。儒教を「思想か学問か宗教か」と分類することは、意味がないなあ。それは、外部から振ってきた分類である。儒教は、これらを全て含んでおり、ムリに分ける必要がないと思う。分けたほうが、誤解するだろう。
曹丕は、孔子の人生、著作、思想などをすべて含めて「大聖」とした。子孫を優遇して、祭りを担当させる。おおげさに衛兵をたてる。そもそもこの衛兵は、何から孔子の廟を守っているんだろうか。たしかに黄巾以後、わずかな金目のものを狙って、荒らされたのだろう。詔書にある。しかし、いまは曹魏の秩序があるのだから、そんな泥棒はあるはずがない。外敵のいない衛兵。なんだか呪術的で「異様な光景」に見える。そして、近辺に研究所まで研究した。ほんとうに、経済的合理性からは、圧倒的に乖離した、「不可解な」場所ができあがった。
『隷釈』は曹魏が孔子廟を修繕したときの碑文を載せる。上海古籍296頁。
ぼくは思う。今回だけに限らないが、こうした石碑をつくるのは、「誰に読ませるため」なんだろう。哲学的におもしろ問題! こうして、後世にちゃんと伝わっているところから、いろいろ膨らませることができそう。


春三月,加遼東太守公孫恭為車騎將軍。初復五銖錢。

春3月、遼東太守の公孫恭に、車騎將軍を加えた。

車騎将軍は、武帝紀の建安元年の大将軍の注釈あり。

初めて、五銖銭を再鋳造した。

胡三省はいう。献帝の初平元年、董卓が五銖銭を壊した。いま戻した。
潘眉はいう。漢代は五銖銭が使われたが、董卓が五銖銭を壊して、さらに小さな銭にした。曹丕がサイズを戻したのである。しかしこの年、穀物が高くなったので、五銖銭は辞められた。明帝の太和元年、また五銖銭をつくった。


夏、甄夫人が死に、曹操を祭る

夏四月,以車騎將軍曹仁為 大將軍。五月,鄭甘復叛,遣曹仁討斬之。六月庚子,初祀五嶽四瀆,咸秩羣祀。

魏書:甲辰,以京師宗廟未成,帝親祠武皇帝于建始殿,躬執饋奠,如家人之禮。

夏4月、車騎将軍の曹仁を大将軍とした。
5月、鄭甘がふたたび叛く。曹仁が斬った。

曹仁は、夏侯惇のあとを継いだのである。
鄭甘は前年に曹丕に降った者だ。
ぼくは思う。禅譲ののち、公孫恭にも官位をくばって、味方を増やした。公孫恭は、外部勢力として、忘れずにカウントされていたということだ。そして、禅譲のあとの初めての反乱がこれ。曹丕が漠然と予想していたもの? より、はるかに小規模で良かったなあ。夏侯惇なきあとも、曹仁という、父世代の将軍が責任を取ってくれる。鄭甘のような小さい反乱によって、禅譲が成功したことが知れる。1つも反乱がない状態だと、「何か大きな陰謀があって、曹魏が転覆したらどうしよう」と思うものだが、せいぜい鄭甘だったことで、正体不明の敵? の正体がわかった。

6月庚子、はじめて5嶽4瀆を祭る。

5嶽、4瀆は、延康元年から黄初元年に改元するときの注釈にある。

6月甲辰、洛陽の宗廟はできていないが、曹丕はみずから建始殿で曹操を祭った。家人之禮で祭った。

『宋書』礼志3はいう。黄初2年6月、武帝を建始殿で祭る。何承天はいう。さきに宗廟をつくり、あとで宮室を作るべきだ。だが曹丕は、廟をまだ完成させていない。いちじるしく非礼である。
胡三省はいう。建始殿は、曹丕が建国の始めに建てたので、建始殿という。父は天子でなく士人だったが、子が天子ならば、父の祭りは天子の礼で行うべきだ。どうして家人の礼で行うのか。
ぼくは思う。曹丕はダブルの非礼をしていたのだ。宗廟なし、家人の礼。
盧弼はいう。武帝紀の建安25年にひく『世語』で、曹操は洛陽に帰ると、建始殿を建てたという。胡三省は誤りである。周寿昌はいう。曹魏が簒奪してから、まだ1年である。まだ宮廟が整備できていなくても、責められない。
ぼくは思う。曹丕も、これが非礼だと分かっていたのだろう。曹丕が、2つのことを余りに性急にやったから、この齟齬が起きている。禅譲と洛陽遷都である。べつにこの時期に禅譲がなくても良かったのに、敢行した。また、鄴県もしくは許県に都すれば、こんなバタバタはなかっただろうに、洛陽遷都を敢行したから、「宗廟がまだできてない」なんてことが起きる。
なぜ曹丕は急いだか。恐らく「洛陽に都する実力もない、許県にいる地方政権の漢室」を乗り越えるためには、「洛陽に都できちゃう、全国政権としての魏室」をアピールする必要があった。もし、中原だけの地方政権とか、鄴県もしくは許県の流寓政権でありつづけるなら、漢魏革命をやるカイがない。べつに漢室のままで良い。董卓に破壊されたのは残念だったが、それを迅速に復興させる財力を持たないなら、その財力を得られるほどの支持を受けられないなら、やはりそんな王朝は、天命がないに等しい。事後的に、天命がなかったことになるとも言える。
曹操は献帝を許県においた。袁紹がいる時代は、仕方がなく許県に置いたのだと思う。曹操自身の勢力も、不安定だったから。でもある時期から、丞相としての曹操は、洛陽を修復することができた。しかし曹操は、献帝に洛陽を修復させてあげなかった。曹操は自分が死ぬ歳に建始殿をつくるなど、やたら遅らせてる。まるでワザとだ。曹操は、洛陽を放置することで、献帝を許県で飼うことで、漢室の天命をみずからの手で削っていたのかも知れない。
その反動で、曹丕は、何が何でも洛陽に行かねばならず、今回のようなイレギュラーが生じた。不可避的な負の遺産。
宗廟がないことのほかに、家人の礼が批判されている。このあたりも、「士人のくせに天子のふり」という魏王の倒錯と、「天子のくせに士人のふり」という魏帝の倒錯をしめす。この倒錯が、どういう理論的な運動を誘発するのか、気になるところ。「非礼だ」と切り捨ててしまったら、仕方ない。曹丕は、なぜわざと非礼をしたのか。そう立問せねばならない。
ぼくは思う。もし『三国志集解』がなければ、曹丕が非礼をしていることに気づかないから、「ふーん」で終わってしまうところだった。


丁卯, 夫人甄氏卒。戊辰晦,日有食之,有司奏免太尉,詔曰:「災異之作,以譴元首,而歸過股肱, 豈禹、湯罪己之義乎?其令百官各虔厥職,後有天地之眚,勿復劾三公。」

6月丁卯、夫人の甄氏が卒した。

『通鑑』はいう。中山の甄氏である。曹叡を生んだ。曹丕が即位すると、安平の郭妃嬪を寵愛した。甄夫人は鄴県にのこされ、曹丕に会えない。郭氏がそしったので、甄婦人は殺された。胡三省はいう。死を賜っから、「崩」じると書いてもらえない。以下、曹丕と甄夫人の不仲、曹叡との親子仲について。上海古籍298頁。

6月戊辰みそか、日食した。有司が「太尉を免ぜよ」と上奏した。曹丕は「天変地異は天子の責任だから、三公を免じるのを辞める。これが禹湯の君主としてのあり方だから」という。

胡三省はいう。三公を免じるのは、後漢の中期からの制度。
何焯はいう。これより、水害、日照により、三公を免じることがなくなった。盧弼はいう。日食と月食は、天文で計算できる。政治とは関係がない。曹丕が、天変地異を自分の責任として引き受け、天を懼れたのはよいが。
ぼくは思う。曹丕は、せっかく三公に分散していた「天命の重さ」を、すべて自分に引き受けた。だから早死にするのである。日食の重さとか、三公が分担してくれる軽さとか、どちらも計量できない。しかし、曹丕が「そういう性格」であることは明らかである。呉蜀の扱いに失敗したことの責任を背負って、寿命を縮めてしまった。曹丕の寿命が40歳までだという方術士がいたが。方術士の逸話がないと納得できないほど、曹丕の早死には不可解だった。とくに病弱ではない。むしろ、自称では体力が万能である。そういう曹丕が早死にするのは、「タイプA」という病名をつけるのか、方術士の予言をつけるのか、まあどちらも同じことである。


秋、孫権を大将軍、呉王、九錫とする

秋八月,孫權遣使奉章,并遣于禁等還。丁巳,使太常邢貞持節拜權為大將軍,封吳 王,加九錫。

秋8月、孫権は使者に文書を持たせ、于禁を送り届けた。

『魏志』劉曄伝はいう。孫呉が称藩した。劉曄は曹丕に「孫権は内外で困っているから、曹丕に従っただけ。孫権が困っているうちに、襲いなさい」と述べた。『呉志』虞翻伝にひく『呉書』はいう。虞翻はいう。于禁は降伏した死にぞこないだから、于禁を斬って三軍に示せと。孫権は従わず。
ぼくは思う。劉曄と虞翻は、どちらも「魏呉の君臣関係なんて、現実的でない」と言っている。結果から遡れば、リアリストである。しかしこの段階で、孫権と曹丕が対立する材料が1つもない。曹丕が禅譲にあたって、孫権に仮託して遠征軍をつくったことも、孫権は諒解している状態である。劉曄は、いたずらに反乱を起こすものだ。虞翻も、いたずらに孫権を不利にするものだ。劉曄と虞翻が却下されたのは、まあ順当だと思う。それにしても、境界線にいる士人が国策の決定に活躍するなあ。袁術がらみで揚州に詳しい劉曄とか、中央にも学問を認められる虞翻とか。
この段階では、どのようにして魏呉が対立するのか、さっぱり予想がつかない。結末を知っているぼくでも、「予想」できないのだから、曹丕さんは、もっとでしょうか。

8月丁巳、太常の邢貞に持節させ、孫権に、大將軍、吳王、九錫をくわえる。

曹仁の官位は、どうなったんだっけ。大将軍になったばかりなのに。曹丕は、あんまり考えることなく、曹仁をいちど大将軍にして、孫権をつぎに大将軍にしたなあ。
あなどれない外部者に大将軍を送るのは、曹操が袁紹に大将軍を送った前例に似ている。せっかく官位を与えるなら、たっぷり高位で、ゴテゴテにデコって、リボンをつけて送るべきなのだ。リボンとは、呉王と九錫ね。


冬10月、楊彪を光禄大夫とし、五銖銭をやめる

冬十月,授楊彪光祿大夫。

冬10月、楊彪に光禄大夫をさずけた。

光禄大夫は、延康元年にある。
『晋書』職官志はいう。光禄大夫は、漢代におく。定員なし。曹魏では、とくに職務はなく、諸侯や告老の者にバラまいた。すでに朝廷で高官にある者に加官した。ぼくは思う。贈与するためだけの官位である。返報の義務がないという点では、「純粋な贈与」である。もらったほうが、こまってしまう。ふっふっふ、でも曹丕が楊彪を困らせるために贈与したのだから、それで良いのだ。楊彪は、おおいに困れば良いのだ。


魏書曰:己亥,公卿朝朔旦,并引故漢太尉楊彪,待以客禮,詔曰:「夫先王制几杖之賜,所以賓禮黃耇褒崇元老 也。昔孔光、卓茂皆以淑德高年,受茲嘉錫。公故漢宰臣,乃祖已來,世著名節,年過七十,行不踰矩,可謂老成 人矣,所宜寵異以章舊德。其賜公延年杖及馮几;謁請之日,便使杖入,又可使著鹿皮冠。」彪辭讓不聽,竟著 布單衣、皮弁以見。

『魏書』はいう。10月己亥、公卿をついたちで集まった。もと後漢の太尉した楊彪を、客礼で待遇した。詔はいう。先王は客礼で老人を尊重した。孔光、卓茂は、特権をもらった。私もイス、ツエ、鹿皮の冠をあげたい」と。楊彪は辞退したが、ゆるされず、鹿皮の冠をかぶって曹丕に会見した。

戦闘的な贈与が行われている! おもしろい。楊彪は、すべて辞退することは許されなかったが。辞退するという行為と、贈与された全てを受納せず、ちょっとハンパに遂行したあたりが良い。楊彪も、この「戦闘」に敗れたのでない。
『続輿服志』はいう。皮弁は、鹿皮の冠である。 盧弼は言わないが、『後漢書』卓茂伝に、孔光が前例として出てくる。卓茂は、70余歳で光武の太傅として迎えられた人。こういう、前代からの賢臣を取りこむことで、自分にハクをつけたいのは、光武帝も曹丕も同じである。
『後漢書』卓茂、魯恭、魯丕


續漢書曰:彪見漢祚將終,自以累世為三公,恥為魏臣,遂稱足攣,不復行。積十餘年,帝即王位,欲以為太尉, 令近臣宣旨。彪辭曰:「嘗以漢朝為三公,值世衰亂,不能立尺寸之益,若復為魏臣,於國之選,亦不為榮也。」帝 不奪其意。黃初四年,詔拜光祿大夫,秩中二千石,朝見位次三公,如孔光故事。彪上章固讓,帝不聽,又為門施 行馬,致吏卒,以優崇之。年八十四,以六年薨。子脩,事見陳思王傳。

『続漢書』はいう。楊彪は魏臣になることを恥じて、出仕しない。曹丕が受禅して、楊彪を太尉にしたいが、「漢室の傾きを回復するのに、私は役に立たなかった。魏臣になる権利がない」と断られた。曹丕は辞退を認めたあげた。

『後漢書』楊彪伝はいう。曹丕が受禅するとき、楊彪を太尉にしたいなあと思った。先に吏人をつかわし、曹丕の意図を文書で示した。

黄初4年、光禄大夫、中2千石、三公の次席で朝見させた。後漢の孔光の故事である。門に行馬をつけ、吏卒に迎えにゆかせた。

胡三省はいう。魏晋の制では、三公もしくはそれに準じる官位になると、公門から馬がくる。

6年後、84歳で死んだ。子の楊脩は、曹植伝にある。

袁宏はいう。楊彪は、後漢のためにがんばった。ほめことば。
胡三省はいう。楊彪は、龔勝よりもハジが多いなあ!
『通鑑集覧』はいう。楊彪は漢の三公であり、魏爵をうけず。だが、なぜ曹丕のような賊を罵り、死んでしまわなかったか。死ねばいいのに。光禄大夫やツエなどを、受けとった。なぜ全てを拒まなかったか。ハンパな態度だから、行き所がなくなったのだ。ぼくは思う。厳しい意見だなあ!
銭大昕はいう。『魏志』本紀は、免官、薨去などを書くのは、太傅、太尉、大司馬、大将軍、司徒、 司空、驃騎大将軍、車騎将軍、衛将軍である。楊彪はこれらに該当しないが、三公に次ぐので、書いてもらった。
ぼくは思う。楊彪を本紀を記すことは、政治的な意図があるのだろう。楊彪は、曹丕が三公に任じて、魏晋革命を補強したかった人だ。楊彪に三公をさせられなかったが、死の記述ぐらいは、曹魏の思いどおりにされたのだ。


以穀貴,罷五銖錢。

穀物がたかいので、五銖銭をやめた。

胡三省はいう。五銖銭を再発行したくせに、すぐにやめた。
ぼくは思う。どうして銭貨の価値をあげたのに、穀物が高くなるんだろう。ふつうは逆なのに。この歳が不作だったのだろうか。曹丕が受禅した歳が不作だとは、さすがに書けない。だから、史書にない。しかし、「価値をあげた五銖銭により、デフレが起こるはずが、インフレになった」という記事により、間接的に飢饉を言っているのかも知れない。さらに間接的に、曹魏に天命がないことを言っているのかも知れない。心にくい! 『春秋』の筆法としても、ひねりが利いている。
曹丕が日食のとき、「日食はすべて私の責任だ」と引き受けた。受禅の直後の日食だから、三公になすりつけている場合ではなく、曹丕の天命を賭けなければならなかったのだろう。ほかに、曹丕の天命を賭けるべき、水害や日照が、リアルな心配ごとして、すでにカウントされていたのではないか。つまり黄初2年は、全国的に不作で、漢魏革命の失敗を、あとから報されたのでしたと。寿命がちぢみそう!


11月、曹真が河西を平らげ、曹仁が大司馬

魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命眾將及州郡兵討破叛胡治元多、盧水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十 萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。帝初聞胡決水灌顯美,謂左右諸將曰:「昔隗囂灌略陽,而光武因其 疲弊,進兵滅之。今胡決水灌顯美,其事正相似,破胡事今至不久。」旬日,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷 幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符節。前後戰克獲虜,未有如此也。」

『魏書』はいう。11月辛未、鎮西將軍の曹真は、胡族の治元多、盧水の封賞らをうつ。河西が平らいだ。

『宋書』百官志はいう。鎮西将軍は1名。初平3年におかれ、韓遂がつく。
盧水胡は、延康元年の注釈にあり。『魏志』張既伝はいう。涼州の盧水で、胡族がそむいた。河西がさわいだ。張既が斬った。これは張既の功績である。

はじめ曹丕は、胡族が顕美に水をひいたと聞いた。「まずい治水だ。隗囂が略陽に水をひいたので、光武帝は隗囂の自滅をまった。それと同じだ」と。曹丕は、言うとおりになったので大笑した。

胡族が水びたしにした顕美とは、涼州の武威郡である。
略陽は、涼州の漢陽郡である。夏侯淵伝にある。
『後漢書』来歙伝で、隗囂は来歙をおそれて水をひいた。
『後漢書』隗囂への使者、刺殺された来歙伝
『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる
ぼくは思う。わりと重要なことなのに、陳寿は書きおとした。諸葛亮が南征しているとき? に、曹魏は西方をきちんと固めていた。むしろ攻め進んでいた。蜀漢のファンは、目を背けたいこと。だから書き忘れた。


己卯,以大將軍曹仁為大司馬。

11月己卯、大将軍の曹仁を、大司馬とした。

『続漢書』はいう。光武帝が即位するとき、大司馬だった。建安27年、太尉に改めた。『晋書』職官志はいう。大司馬は、大将軍、驃騎、車騎よりも上である。大司馬は、太尉の職務を代わる。ゆえに太尉と大司馬を、つねには並置しない。曹魏では太尉があるが、大司馬と大将軍もある。みな三公の上である。
『宋書』百官志はいう。劉虞を大司馬としたが、太尉であることはもとのまま。ぼくは思う。太尉は董卓がもらったんじゃなかったか。
李祖楙はいう。光武帝は「大」司馬をやめて、太尉とした。献帝のとき、李傕がみずから大司馬となった。太尉と並置した。みな三公の上だった。張楊は大司馬となる。太尉の楊彪が辞めさせられて、もう置かれなくなった。
趙一清はいう。曹仁は大司馬となったが、太尉はもとのままである。ぼくは思う。曹仁は太尉でなくて、大将軍じゃないのか。あー、やっぱり分からん。というか「分からん」ことを分かればいいのだ。もう悩まない。


12月、曹丕が東へ巡る

十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。

12月、曹丕は東へめぐる。

『魏志』楊俊伝はいう。車駕が宛城にゆく。市場が豊楽でないので、怒って楊俊をとらえた。楊俊伝にくわしい。
ぼくは思う。曹丕は、まるで洛陽いたくないかのようだ。まる1年いなかったよ。魏室の域内をめぐることで、支配を固めようとしたのかなあ。宛県で行政をチェックしているように。しかし、落ち着きのない人だ。まだ、中央の官制がいまいち整備されてないのでは。ぼくの経験からいっても、「部署異動」ですら、1年で慣れたかどうかビミョウである。まして、漢魏革命をやったのだ。まだ洛陽で執務しろよ。

この歳、陵雲臺をつくる。

『水経』穀水注にひく『洛陽記』はいう。洛陽の城中にある。
建物の説明について、上海古籍302頁。孟津が見えるとか、妻妾をかこったとか、曹叡がさらにデコレーションして、高堂隆に叱られたとか。曹叡が建築したという史料があるが、曹丕が建築したのが正しい。
ぼくは思う。曹叡は「建築しそう」な君主だし、また曹叡のとき、大幅にバージョンアップしたのだろう。だが築いたのは曹丕である。曹丕は洛陽を補修するついでに、曹魏の権威をたかめるような建築をしたのだ。

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黄初3年、夷陵の戦い、曹丕が孫権を親征 open

春正月、孫権から劉備が進軍した報告

三年春正月丙寅朔,日有蝕之。庚午,行幸許昌宮。詔曰:「今之計、(考) 〔孝〕,計孝 據資治通鑑六九胡注改古之貢 士也;十室之邑,必有忠信,若限年然後取士,是呂尚、周晉不顯於前世也。其令郡國所 選,勿拘老幼;儒通經術,吏達文法,到皆試用。有司糾故不以實者。」

黄初3年、春正月丙寅ついたち、日食あり。

『宋書』礼志1はいう。魏国を始めたとき、儀礼に欠陥がおおかった。ゆえに黄初3年、はじめて朝賀した。何承天はいう。曹魏の『元会儀』は残っていない。
ぼくは思う。前年に「日食は天子の責任です」と言っておきながら、曹魏が採用した夏制の正朔において、正月ついたちに日食。もはや天命がないと言っているに等しい。だから曹丕は、許県に逃げこんでいるのだ。
何焯はいう。劉備が夷陵で負けそうだから、日食したのだ。盧弼はいう。群雄が鼎立しているのに、誰あての日食なのか分からない。
ぼくは思う。何焯は蜀漢ファンかなあ。太陽といえば、ひとり曹丕のみでしょ。なぜ日食が、わざわざ劉備の運命を示すものか。しかし盧弼は「そもそも日食と人間の活動は結びつかない」という。つまらない読み手だなあ!

正月庚午、許昌宮にくる。詔した。「孝廉の年齢制限をやめて、儒通經術、吏達文法な人材をあげよ」

胡三省はいう。「計孝」とは、上計吏及孝廉のことである。
『後漢書』順帝紀はいう。陽嘉元年、孝廉を40才以上に限定した。盧弼はいう。曹操は20歳で孝廉に挙げられた。40歳という年齢制限は、それほど拘られない。
ぼくは思う。曹丕は、人口あたりの推挙できる人数を増やしたり、年齢制限を辞めたりしている。人材がふつうに足りないのだ。中央官のトップ周辺は、わりに魏王のころから固めていた。しかし、地方の末端までは人材がない。人材がないから、中央の儀礼すら、ままならない。これはトバッチリか。
何焯はいう。後漢の順帝のとき、左雄が決めた「限年の法」は、また変更された。鋭進な人材を欲しがったからである。


魏書曰:癸亥,孫權上書,說:「劉備支黨四萬人,馬二三千匹,出秭歸,請往掃撲,以克捷為效。」帝報曰:「昔隗囂 之弊,禍發栒邑,子陽之禽,變起扞關,將軍其亢厲威武,勉蹈奇功,以稱吾意。」

『魏書』はいう。正月癸亥、孫権が上書した。「劉備が秭歸にきた。がんばって追い払います」と。

『郡国志』はいう。荊州の南郡の秭歸である。『水経』江水注はいう。屈原には賢い姉がいた。この姉が、秭歸の語源である。
ぼくは思う。孫権の上書のメタメッセージは、「だから援軍くれよ」だろう。それに対して、曹丕は、口先だけで返答してしまう。このあたりが、曹丕の浅はかなところ。どうせ間に合わないのだけど、宛城から南下すれば、さっさと三国時代なんか訪れずに天下統一されたのに。孫権は呉王として、奉献しているんでしょ。だったら曹丕は、援軍する「義務」があるのだよ。それが分からないのかなあ。
曹丕は、さっき曹真が河西で戦ったときも、「帷幄のなかにいて、戦局を見ぬいたぜ」と誇っていた。夷陵の戦いでも、同じことをいう。劉備の布陣を見て、劉備の敗北を見ぬいたりね。いかんなー。いちおう天子なんだから、そんなことで自分の賢さをチェックしてちゃダメ。自分の賢さを証明するために、自分の賢さのリソースの大部分を使ってしまうパタン。そうじゃないでしょ。孫権を助けてあげなくちゃ。
もし孫権が劉備に勝てば(勝つんだけど)、これは孫権ひとりの手柄となる。すると孫権は、曹丕を抜きにして、独自の正統性を言い始めるだろう。曹丕のもとから独立する。いかんなー、曹丕。全国統一するなら、ここが最初のチャンスだったよ。どうせ、これ以後の魏呉の戦いで、「おおきな援軍を派遣したが、到着する前に決着がついた」形式のことが、数限りなく起こる。戦わないまでも、援軍を動かすくらいのコストは、いくらでも負担する準備があったのだ。だったら、ねえ!

曹丕はいう。「隗囂は栒邑から、公孫述は扞關から崩れた。劉備も同じように崩れるだろう。がんばれ」と。

隗囂を、右扶風の栒邑で破ったのは、光武帝の臣の馮異である。公孫述を破ったのは、光武帝の臣の岑彭である。以下、タイトルは分かりにくいが、直接にリンクしてます。
馮異;『後漢書』列伝7・方面司令官たる馮異、延岑、賈復伝
岑彭;『後漢書』列伝7・方面司令官たる馮異、延岑、賈復伝
隗囂;『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる
公孫述;『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる
曹丕は、戦場の経験が少ないから、光武帝の故事に頼るんだなあ。そして自ら戦うわけじゃない。曹操は、戦場の経験が豊富だから、わざわざ光武帝の故事をつかう必要がなかった。だから、あんまり引用しているのを見たことがない。


春2月、戊己校尉をおく

二月,鄯善、龜茲、于闐王各遣使奉獻,詔曰:「西戎即敍,氐、羌來王,詩、書美之。頃者 西域外夷並款塞內附,皆叩塞門來服從。其遣使者撫勞之。」是後西域遂通,置戊己校尉。

應劭漢書注曰:款,叩也;

2月、西域から奉献があった。鄯善、龜茲、于闐である。

『魏志』30巻にひく裴注『魏略』西戎伝をみよ。

曹丕は詔した。西域の王が、塞門をたたいてやってきた。『詩経』『書経』がほめることだ。使者の労をねぎらえと。

裴注では、応劭『漢書』注から、めずらしく語釈している。上海古籍305頁に、書籍としてのデータあり。盧弼はいう。応劭は、武帝紀の興平元年に注する『世語』にある。応劭の書物は、『魏志』王粲伝にひく『続漢書』にある。

これよりのち、西域に通交ができたので、戊己校尉をおく。

戊己校尉は、高昌を治所とする。『魏略』西戎伝にある。『漢書』百官公卿表はいう。戊己校尉は、元帝の初元元年におかれた。顔師古はいう。戊と己は、十干のラスト2つである。常設でない。戊校尉と己校尉がいた。中略。上海古籍306頁。
『晋書』地理志はいう。献帝のとき、涼州が乱れた。河西5郡が遠いから、雍州とした。曹魏のとき、また分けて涼州刺史とし、戊己校尉に領させ、西域を護させた。漢制と同じである。
胡三省はいう。後漢の安帝のときから、西域とは通交がない。いま戊己校尉をおいたが、通交がない。漢代に車師で屯田したようなことはできない。
ぼくは思う。世界史の地図帳で、ユーラシア大陸の中央まで、がっつり曹魏の色で塗ってはいけない。せいぜい、涼州とか雍州とか呼ぶあたりで、軍屯しているだけである。前漢の武帝のときの地図を思い浮かべてしまうが、ちがう。そもそも曹丕が『詩経』『書経』に仮託して喜んでいることから、レトリックを駆使して、政治的な効果をねらった、戊己校尉の設置なのである。実態はあまり後漢と変わらないが、曹魏すごいだろ! と。まあ、後漢のときすでに縮小していたのだから、曹丕の版図が小さかったとしても、べつに責めるにはあたらない。


春3月、皇族を王侯に封じる

三月乙丑,立齊公叡為平原王,帝弟鄢陵公彰等十一人皆為王。初制封王之庶子為鄉公,嗣王之庶子為亭侯,公之庶子為亭伯。甲戌,立皇子霖為河東王。甲午,行幸襄邑。

3月乙丑、齊公の曹叡を平原王とする。弟の曹彰ら11人を王とする。魏初の制度では、封王の庶子は鄉公とする。嗣王の庶子は亭侯とする。公(侯)の庶子は亭伯とする。3月甲戌、皇子の霖を河東王とした。

曹叡は、黄初2年に斉公となった。斉国は、武帝紀の建安4年にある。平原は、武帝紀の初平3年にある。
『魏志』曹彰伝にある。『通鑑』は、黄初2年に封じられた曹氏の名をあげる。上海古籍306頁。はぶく。銭大昕はいう。曹丕の弟で封じられたのは、『通鑑』のなかで9人である。本紀では11人とある。誤りか。鄄城王の曹植は、4月戊申に封じられた。任城諸王らと同日でない。県王であって、郡王でない。任城諸王はみな公爵から進んだが、曹植だけは罪により侯爵だったから、郡王に進めなかった。ゆえに数が合わない。
また曹丕の子は、黄初3年に王に封じられたのは、6人である。平原王の曹叡、河東王の曹霖、京兆王の曹礼、淮南王の曹邕、清河王の曹貢、広平王の曹𠑊である。本紀には、はじめの2人しか載っていない。
@AkaNisin さんはいう。曹魏の諸侯王というと武帝諸王ばかりが注目されますけど、文帝諸子も気になるところはたくさんあります。西晋封建体制の前夜として参考にできる部分があるのでは・・・と曹魏皇族には期待するところもあるのですが。

3月甲午、曹丕は襄邑へゆく。

河東は興平2年の安邑の注。襄邑は初平4年の注。


夏、孫権が夷陵で劉備に勝つ

夏 四月戊申,立鄄城侯植為鄄城王。癸亥,行還許昌宮。

夏4月戊申、鄄城侯の曹植を、鄄城王とした。

鄄城は、武帝紀の初平4年にある。
『通鑑』はいう。このとき諸侯王は、みな実地にゆかず、名前を借りるだけ。王国には、老兵1百人がいて、守衛するだけ。王侯という爵位を持っても、匹夫に等しく、法律が厳しいので、なにもできない。
盧弼はいう。曹丕は性格が残忍なので、曹魏の王侯は待遇がわるい。だから、曹彰は殺されて、曹植も死んだ。

4月癸亥、許昌の宮にかえる。

ぼくは思う。洛陽に帰らないの? いいのか? 鄴県はさすがに遠いけど。孫呉と故郷をメンテするには、頴川は実利的なんだろう。曹操が、ここを拠点にして中原を平定したのだから、使い勝手はダテではない。でも、あまりにも洛陽を放置する皇帝って、どうなんだろう。これじゃあ「鼎立の1本足の形成する君主」と言われても、仕方がない。洛陽を都とすることは、政治的には意味があったが、どうしてもムリがあったのだ。見た目はいいけど、実用的でないのは、ハイヒールである。


五月,以荊、揚、江表八郡為荊州,孫 權領牧故也;荊州江北諸郡為郢州。
閏月,孫權破劉備于夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂羣臣 曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌 也。孫權上事今至矣。」後七日,破備書到。

5月、荊州、揚州、江表の8郡を、荊州とした。孫権を、もとのまま荊州牧とした。 もとの荊州のうち、長江の北にある諸郡を、郢州とした。

『通鑑』はいう。長江の南8郡を荊州として、北を郢州とした。胡三省はいう。孫権は長江の南の荊州牧となり、8郡を統べた。孫呉が独立したとき、郢州を廃した。
ぼくは思う。郢州をつくったとき、実質的に、孫権の州牧としての範囲がせばまった。孫権の荊州牧は、たしか曹操が与えたものだから、孫権から剥奪できない。むしろいまは、孫権に贈与につぐ贈与をすべきときだ。だから孫権の権限を減らさない。だが曹丕は、孫権の肩書をそのままに、統御する範囲をせばめた。逆贈与というか、剥奪である。天下統一の唯一の手段は孫権に贈与することなのに。劉備と孫権が戦っている、いま孫権にもっとも恩を売れるタイミングで、なにをやっているんだ!

閏月、孫権が劉備を夷陵でやぶった。

これは5月の記事の直後だが、閏6月のことである。
『郡国志』はいう。荊州南郡の夷陵である。荊門、虎牙山がある。孫呉の黄武元年、西陵と改め、また夷陵にもどる。『呉志』陸遜伝にある。胡三省はいう。三峡から夷陵までは、地形がけわしい。だから孫呉と蜀漢は、夷陵から三峡の入口が国境である。ぼくは思う。国境がクッキリで、うれしいなあ。

曹丕は劉備の布陣を聞いて「劉備は負ける。孫権から勝利の報告がくる」と群臣にいった。7日して、孫権から報告がきた。

ぼくは思う。そうやって、孫権を助けるでもなく、「オレかしこい」と言っているから、天下統一に失敗するのだ。曹丕が天下を失った理由は、軍事でも政治でも思想でもなく、贈与論を理解していなかったことだなあ。
もし援軍を出しており、援軍が到着前に「勝ちました」の報告を受けていれば、コストゼロで、孫権に負債をうっすら背負わせることができた。ほんとうに孫権がすぐに勝つと思っているなら、さっさと援軍を出せよ! ああ! ヤキモキするなあ。しかし、ここで曹丕が贈与論的に過失を侵さなければ、魏晋南北朝は始まらないのだから、日本列島に国家が形成されるのが、遅れるのか。それは、ちょっと困る。
ぼくは思う。曹丕に「孫権をつぶせ」という臣下はいる。劉曄みたいに。しかし曹丕に「もっと孫権に優しくしろ」という臣下は出てこない。ぼくが見落としているだけか。


秋8月、黄権が降ってくる

秋七月,冀州大蝗,民饑,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。八月,蜀大將黃權率眾 降。

秋7月、冀州でイナゴ。民が飢えた。尚書の杜畿に持節させ、穀物の倉庫を開いて、配分させた。
8月、蜀漢の大将する黄権がくだった。

『蜀志』黄権伝はいう。劉備が東征すると、黄権は先駆をねがった。劉備はゆるさず、黄権を鎮北譙郡と市、長江の北軍を督させ、曹魏を防がせた。劉備が撤退すると、黄権は帰れなくなり、曹魏にくだった。
ぼくは思う。黄権があたったのは、「曹魏の郢州牧」だなあ。もしかして曹丕が荊州を分けて、江南を荊州、江北を郢州としたのは、「長江の北の黄権軍は、曹魏が面倒をみる」という暗黙の宣言だったのか。そういう意味なら、曹丕は孫権を助けているなあ。黄権が曹魏に降ったのは、黄権が「自分が誰と戦うべき軍か」を認識していた証拠だ。
盧弼はいう。夏侯尚伝で、夏侯尚は荊州刺史である。夏侯尚が奏した。「劉備の別軍が上庸にいて、山道がけわしい。奇兵で奇襲せよ」と。ついに夏侯尚は、上庸をやぶり、3郡9県を平らげた。夏侯尚が上庸をふさいだので、黄権は西に帰れなくなり、また水路は呉軍が塞いでおり、陸路は魏軍が塞いでいるので、くだったのか。劉備と諸葛亮は、黄権を信じていたのに、戦わずに降ったのはなぜだ。
ぼくは思う。盧弼は、曹操がきらいだったが、蜀漢は好きだなあ。黄権に「孫呉でもいいし、曹魏でもいいから、とにかく戦えよ」と、あおっている。曹丕が黄権と信頼関係を築いた話とか、眼中にないらしい。
ぼくは思う。夏侯尚は「荊州刺史」なのね。郢州刺史だったら、文帝紀の記述とピッタリなのに。もしくは、郢州が置かれたのは、ほんの一瞬だったから、列伝がひろい損ねた? っていうか曹丕は孫権に譲歩して、「孫呉の荊州刺史」は名前を変えなくてもいいから、「曹魏の荊州刺史(夏侯尚)」を郢州刺史に変えたのだろうか。だったら、妥協していて宜しいなあ。


魏書曰:權及領南郡太守史郃等三百一十八人,詣荊州刺史奉上所假印綬、棨戟、幢麾、牙門、鼓車。權等詣行在 所,帝置酒設樂,引見于承光殿。權、郃等人人前自陳,帝為論說軍旅成敗去就之分,諸將無不喜悅。賜權金帛、 車馬、衣裘、帷帳、妻妾,下及偏裨皆有差。拜權為侍中鎮南將軍,封列侯,即日召使驂乘;及封史郃等四十二人 皆為列侯,為將軍郎將百餘人。

『魏書』はいう。孫権と、南郡太守の史郃ら318人は、荊州刺史の夏侯尚をたずねて、戦利品を献上する。孫権らは、許昌にいる曹丕をたずね、饗宴をしてもらう。孫権は曹丕と、承光殿であう。

夏侯尚とか、許昌という情報は、盧弼にて補って訳した。
ぼくは思う。孫権と曹丕、会ったことがないと思ってた。っていうか孫権って、頴川の許昌なんて行くんだ。人生でもっとも北にいるんじゃないか?

孫権と史郃は、曹丕の前で、戦争について語った。曹丕から孫権に、金帛や車馬、妻妾が下賜された。孫権は、侍中・鎮南将軍とし、列侯に封じた。馬車に同乗させた。史郃ら42人は列侯に封じられた。将軍や郎将にしてもらった者は100余人。

ぼくは思う。曹丕は孫権に、妻妾などを贈与した。いちばん、いい贈与である。これで孫権は、夷陵において「曹丕のために働いた」ことになった。
しかし孫権は、大将軍で呉王だった。だが、侍中・鎮南将軍、列侯にもどってしまった。戦功をちっとも褒めていない。せっかく会いきてくれて、一緒に飲み食いしたのに、甲斐がない。盧弼は何も言っていないが、この『魏書』の記述は、まちがっているか? 注釈が挿入される時期が誤っているというより、そもそも架空の物語になっている? 主語がもし時期の誤りだったら、曹丕と孫権の面会シーンを、確信して設定できるのだが、、ちょっと怪しい。
盧弼はいう。孫権伝では、このとき淯陽侯に封じられたという。ぼくは思う。いったい、呉王の爵位はどこにいってしまったんだ。あー。
ちがう!『魏書』の「権」は、孫権でなくて、黄権だ。ぼくのばか。この枠内のコメント、全部なし。いい夢をみたなあ。ああ、ぼくのばか。直すのはカンタンだけど、ちぐはぐな勘違いは、わりに面白かったので、残しておこう。これでまた「誤訳だらけ」と言われても、まあいいじゃないか。誤読することから、思考がどのように転がるか、という自分用のサンプル。メモ。12年の夏期連休のあやまち。


秋9月、郭氏を皇后とする

九月甲午,詔曰:「夫婦人與政,亂之本也。自今以後,羣臣不得奏事太后,后族之家不 得當輔政之任,又不得橫受茅土之爵;以此詔傳後世,若有背違,天下共誅之。」庚子,立皇后郭氏。賜天下男子爵人二級;鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀。

9月甲午、詔した。「婦人が政治に参加するな。群臣は太后に奏上するな。皇后の一族は、政治に参加するな。領土をもらうな。後世まで絶対だぞ」と。

近代の普通選挙の運動家とか、フェミニズムの人たちが怒りそう。『趙雲別伝』だかの、「女なんて、他にいくらでもいる」よりも、火に油を注ぐなあ。
盧弼はいう。曹丕は、後漢の外戚があばれたから、この詔を出した。しかし、曹芳と曹髦は、皇太后の令に仮されて殺された。曹魏は、そもそも簒奪した王朝だから、簒奪によって終わるのだ。ぼくは思う。盧弼は、曹魏がほんとうにキライだなあ!

9月庚子、郭氏を皇后に立てた。天下の男子に爵2等級。鰥寡、篤癃、貧者に穀物を賜った。

ぼくは思う。甄氏は、外戚として害悪を及ぼしたのでないのに、曹丕に殺された。だからこの詔は、曹丕自身ではなくて、やはり外戚の一般を警戒したものだろう。
これから皇后になろうという郭氏は、ちょっとつまらなかっただろう。いま直接的にこの規制の対象になっているのは、この郭氏だから。でも、皇后になれる喜びのほうが大きいのかな。


孫盛曰:夫經國營治,必憑俊喆之輔,賢達令德,必居參亂之任,故雖周室之盛,有婦人與焉。然則坤道承天,南 面罔二,三從之禮,謂之至順,至於號令自天子出,奏事專行,非古義也。昔在申、呂,實匡有周。苟以天下為心, 惟德是杖,則親疎之授,至公一也,何至后族而必斥遠之哉?二漢之季世,王道陵遲,故令外戚憑寵,職為亂階。 (於)於 從何焯說刪此自時昏道喪,運祚將移,縱無王、呂之難,豈乏田、趙之禍乎?而後世觀其若此,深懷酖毒之戒也。至于魏 文,遂發一概之詔,可謂有識之爽言,非帝者之宏議。

孫盛はいう。曹丕はまちがってる。婦人がすべて害悪を及ぼすのでない。また婦人でない者が、害悪を及ぼすこともある。

ぼくは思う。いるよなー、こういう、例外ばかりを持ちだして、けっきょくは「何も言っていないに等しい」「何も方針を示すことができない」状態に持っていくやつが。各論では、孫盛に聞くべきところがあるだろうが、孫盛のように論じる態度が、ぼくは好きではない。なんか感情的になってしまった。
『三国志集解』は、諸論者の意見をのせる。前漢の呂后、王莽、後漢の梁氏と竇氏、何進のこと。曹丕がきちんと服喪しないこと。宦官の官位を規制したこと。西晋の賈南風のこと。さらには拓跋氏のことまで。素材は揃ってるけど、結論をどちらに持っていくかは任意だな。ぼくは、曹丕の発言の信憑性や、その正しさを論評するような史家ではない。どっちでもいいなあ。上海古籍310頁。


冬、曹丕が生前墓をつくり、孫権がそむく

冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:
「禮,國君即位為椑,存不忘亡 也。
臣松之按:禮,天子諸侯之棺,各有重數;棺之親身者曰椑。
昔堯葬穀林,通樹之,禹葬會稽,農不易畝,
呂氏春秋:堯葬于穀林,通樹之;舜葬于紀,市廛不變其肆;禹葬會稽,不變人徒。
故葬於山林,則合乎山林。封樹之 制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寢殿,造園邑,通神道。夫葬也 者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,禮不墓祭,欲存亡之不黷也,為 棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。無 施葦炭,無藏金銀銅鐵,一以瓦器,合古塗車、芻靈之義。棺但漆際會三過,飯含無以珠玉, 無施珠襦玉匣,諸愚俗所為也。季孫以璵璠斂,孔子歷級而救之,譬之暴骸中原。宋公厚 葬,君子謂華元、樂莒不臣,以為棄君於惡。漢文帝之不發,霸陵無求也;光武之掘,原陵 封樹也。霸陵之完,功在釋之;原陵之掘,罪在明帝。是釋之忠以利君,明帝愛以害親也。 忠臣孝子,宜思仲尼、丘明、釋之之言,鑒華元、樂莒、明帝之戒,存於所以安君定親,使魂靈萬載無危,斯則賢聖之忠孝矣。自古及今,未有不亡之國,亦無不掘之墓也。喪亂以來,漢 氏諸陵無不發掘,至乃燒取玉匣金縷,骸骨并盡,是焚如之刑,豈不重痛哉!禍由乎厚葬封 樹。『桑、霍為我戒』,不亦明乎?其皇后及貴人以下,不隨王之國者,有終沒皆葬澗西,前 又以表其處矣。蓋舜葬蒼梧,二妃不從,延陵葬子,遠在嬴、博,魂而有靈,無不之也,一澗之 閒,不足為遠。若違今詔,妄有所變改造施,吾為戮尸地下,戮而重戮,死而重死。臣子為 蔑死君父,不忠不孝,使死者有知,將不福汝。其以此詔藏之宗廟,副在尚書、祕書、三府。」

冬10月甲子、首陽山の東に、生前墓をつくる。生前墓をつくってから、葬制について曹丕が命じた。「あんまりちゃんと埋めるな」と。この文書を、宗廟にしまい、副書を詔書、秘府、三府にしまえと。

胡三省はいう。首陽山の東とは、洛陽の東北である。
『晋書』礼志はまとめている。曹丕は生前墓をつくり、寝殿、園邑を作らせなかった。寝殿は、これきりなくなった。『宋書』礼志3も同じ。ぼくは思う。読むのが大変だから、はぶいた。あんまりキッチリと棺を作りこむな、薄葬しろ、という話でした。曹操も薄葬を命じたことだしな、と。


是月,孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南征,諸軍兵並進,權臨江拒守。十一月 辛丑,行幸宛。庚申晦,日有食之。是歲,穿靈芝池。

黄初3年10月、孫権がそむいた。郢州を荊州にもどす。

盧弼はいう。この歳の5月に郢州をおき、いま辞めた。この月の9月、曹丕は孫権に文書を出した。呉主伝にある。孫権を責める詔が、呉主伝にひく『魏略』にある。ぼくは思う。読まねば! つぎは呉主伝に決定だなあ。
ぼくは思う。黄権と孫権を勘違いしたから、曹丕から孫権への贈与や返報が充分に行われていると思ったが。詔して責めているようじゃ、まるきりダメである。ふたたび「孫呉の荊州刺史」と「曹魏の荊州刺史」が並置されるようになった。

曹丕は許昌から南征する。諸軍が並進する。

『文館詞林』662は、魏文帝が伐呉する詔を載せる。上海古籍315頁。光武帝が、隗囂と公孫述を討った故事も出てくる。光武帝のときの彭寵も出てくる。孫権は「小醜」である。江陵を囲んで船をうばえ。とか。
このとき曹丕は、3道の兵をだした。呉主伝の黄武元年にある。
ぼくは思う。江陵を囲んで船を得るのは、曹操の赤壁と同じルートである。曹操と同じ失敗をしない準備は、どのようになされていたのかなあ。

孫権は長江で、魏軍をふせぐ。

ぼくは思う。開戦にいたる経緯と、戦闘の経緯が、すべて分からないようになっている。呉主伝を読めという意味だな。陳寿は、韋昭『呉書』などが手に入る前、この部分をどのようにしてあったのか。文帝紀ほどの簡潔な文章でヨシとしていたのか。蜀漢に関係ないしな。

11月辛丑、曹丕は宛城にゆく。11月庚申みそか、日食あり。
この歳、靈芝池をうがつ。

『水経』穀水注はいう。渠水は、東はもと金市の南をとおり、まっすぐ千秋門の右をぬけ、宮門にゆく。以下、はぶく。
盧弼はいう。黄初2年、陵雲台をつくる。黄初3年、霊芝池をうがつ。黄初5年、天淵池をうがつ。黄初7年3月、九華台をきずく。すでに、曹叡のような建築ラッシュが、曹丕のときから始まっている。
ぼくは思う。王朝にとっての「建築」の意味を考えねばなあ。経済的には赤字でも、建築せずにはいられないのだ。「権威を見せつけるため」なんて説明で、分かったふうではいられない。

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黄初4年、孫権に江陵で敗れ、洛陽で洪水

春、疫病なので江陵から撤退する

四年春正月,詔曰:「喪亂以來,兵革未戢,天下之人,互相殘殺。今海內初定,敢有私 復讎者皆族之。」築南巡臺于宛。三月丙申,行自宛還洛陽宮。癸卯,月犯心中央大星。

黄初4年春正月、曹丕は詔した。「天下では殺し合いがおおい。私的な復讐を禁ずる」

『芸文類集』33、『御覧』481は、曹丕が指摘な復讐を禁じた詔を載せる。むかし田横は酈商の兄を殺し、張歩は伏湛の子を殺した。高帝と光武帝は、復讐を禁じた。光武帝の臣・賈復と寇恂は仲なおりした。もし私的に復讐したら、族殺する。
ぼくは思う。この詔がでるということは、私的な復讐が、とても盛んだったのだ。天下が乱れているので、3人くらい媒介すれば、誰かが誰かのカタキという状況だったのではないか。乱世のひとだんらくを感じさせる詔。
『後漢書』伏湛伝『後漢書』賈復伝『後漢書』寇恂伝

南巡臺を宛城に築く。

『水経』淯水注はいう。戦国秦の白起が楚を討って、郢をとる。これが南陽であり、宛県と改める。荊州刺史の治所。治所の城西3里に、古台がある。これが曹丕のつくった南巡台である。
ぼくは思う。なぜ5都にもカウントされていない宛城に、みずから曹丕サマがいて、宮殿を増強までしたか。孫権を討つためには、荊州の強化が重要である。そのためのシンボルとして、立派にしたのか。曹丕は、合肥方面でなく、まず荊州から孫権を討つ作戦なのだ。

3月丙申、宛城から洛陽宮にもどる。3月癸卯、月が心中央大星を犯した。

何焯はいう。4月癸巳、劉備が崩じた。この月の異変のために、劉備が死んだのだ。盧弼はいう。『晋書』天文志下はいう。この歳の12月丙子にも、月が心大星を犯したが、曹丕と孫権はつつがないし。月の異変と吉凶は、対応しないのだ。
ぼくは思う。また盧弼は、つまらんことをいう。


魏書載丙午詔曰:「孫權殘害民物,朕以寇不可長,故分命猛將三道並征。今征東諸軍與權黨呂範等水戰,則斬 首四萬,獲船萬艘。大司馬據守濡須,其所禽獲亦以萬數。中軍、征南,攻圍江陵,左將軍張郃等舳艫直渡,擊其 南渚,賊赴水溺死者數千人,又為地道攻城,城中外雀鼠不得出入,此几上肉耳!而賊中癘氣疾病,夾江塗地,恐 相染污。昔周武伐殷,旋師孟津,漢祖征隗囂,還軍高平,皆知天時而度賊情也。且成湯解三面之網,天下歸仁。 今開江陵之圍,以緩成死之禽。且休力役,罷省繇戍,畜養士民,咸使安息。」

『魏書』は3月丙午、曹丕は詔して、3道による孫権の攻撃をやめた。
征東大将軍の曹休は、呂範と水戦して、首と船をとった。大司馬の曹仁は、濡須を防御した。中軍大将軍の曹真、征南大将軍の夏侯尚は、江陵をかこんだ。

ぼくは、ちくま訳にもとづいて、将軍号と氏名をおぎなってる。ちがったら、あとから補います。と思ったら、つぎに銭大昭が教えてくれた。
銭大昭はいう。3道というのは、(1) 曹休、張遼、臧覇が洞口をでる。(2) 曹仁は濡須にでる。(3) 曹真、夏侯尚、長江、徐晃は南郡をかこむ。征東とは、征東大将軍の曹休、大司馬として濡須を守るのは曹仁。江陵をかこむのは、中軍大将軍の曹真、征南大将軍の夏侯尚である。

左将軍の張郃は、長江を渡り、南渚をうつ。

曹真伝はいう。曹真と夏侯尚は、牛渚の屯所をやぶる。夏侯尚伝はいう。諸葛瑾が長江の中渚にいる。夏侯尚はひそかに長江をわたり、諸葛瑾を討つ。
ぼくは思う。諸葛瑾のついでに。
『三国志』武帝紀に諸葛亮が出てこない。これは意識されるが。明帝紀には、ふつうに諸葛亮も諸葛瑾もでてくる。曹操が諸葛亮を無視ったのでなく、武帝期に諸葛亮の官位が低かったから。「武帝紀に諸葛亮伝の記述がない」と騒ぐのと、劉備期における諸葛亮の役割を過大評価するのは、同根の誤認識かな。

曹丕はいう。光武帝は隗囂を征したが、高平で撤退した。時期をみて、江陵から撤退せよ。

『後漢書』光武帝紀はいう。建武8年、光武帝は自ら隗囂を征した。河西太守の竇融が、5郡太守とともに高平にくる。頴川の盗賊が出たので、洛陽がさわがしい。光武帝は上邽から、京師にもどった。『郡国志』はいう。安平郡の高平である。
『資治通鑑』032年、略陽の陥落、隗囂をかこむ
ぼくは思う。曹丕は実戦の経験が乏しいからか、「直近の成功事例」である光武帝をさかんに引用する。皮肉なことに、光武帝をもっとも参考にすべき、初代の曹操は、あんまり参考にしてない。「隴をえて蜀をのぞむ」くらいか。ぼくが伝説的な故事をはぶき、光武帝の故事をはぶいてない。そのために偏って見えるところもあるでしょうが。曹丕は光武帝が好きだなあ。天下統一する君主、初代皇帝としての自負だろうか。その点では曹操は、「有能な後漢の将軍」ぐらいにしか、自分のイメージを持っていなかったのかも。曹操が天子にならなかったのは、究極的には曹操の意思のせいだよなあ。なんの実績もない曹丕ですら、すぐに天子になれたぐらいだから。


丁未,大司馬曹仁薨。是月大疫。

3月丁未、大司馬の曹仁が薨じた。この歳、大疫あり。

『宋書』五行志5はいう。黄初4年3月、宛県、許昌で大疫。死者は1万を数える。
ぼくは思う。五行志に載るほどの、おおきな疫病だったのか。きっと孫権を攻めて、疫病をもらってきたのだ。曹操とまったく同じパタンで失敗している。まして、江陵を抜けなかったから、曹操よりも後退している。だいじょうぶかよ。光武帝などの故事で、自分の明察をアピールしている場合ではない。
曹仁は老齢だから、この孫権攻めで死んだとは言い切れないが。いちおう大司馬としての責任を感じて、死なされたような気がする。曹丕のプレッシャーを肩代わりしたのだ。


夏、曹彰と賈詡が死に、洛陽で洪水

夏五月,有鵜鶘鳥集靈芝池,詔曰:「此詩人所謂污澤也。曹詩『刺恭公遠君子而近小 人』,今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁德茂才、獨行君子, 以答曹人之刺。」

夏5月、鵜鶘鳥が靈芝池にあつまる。曹丕は詔した。「『曹経』に照らすと、君子を遠ざけて、小人を近づけるサインだ。人材をあげよ」と。

『曹詩』の典拠について、上海古籍318頁。はぶく。
趙一清はいう。『困学紀』によると、漢代の文章には、『詩経』を根拠にしたものがない。黄初4年の詔がはじめだ。全祖望はいう。このとき、学官を立てたから、『詩経』からの引用があるのだ。『詩経』の学官は、『後漢書』儒林伝の衛宏伝にある。衛宏は『毛詩序』を記した。
『晋書』五行志中はいう。黄初4年5月、トリがイケにきた。曹丕は、楊彪や管寧のように俊徳茂才な人材をあげさせた。
ぼくは思う。曹丕は、人材が足りないことに、焦っているなあ。曹操のように、「おれが見極めてやる」みたいな余裕がない。強迫的に「人材が足りない! 足りない! もっとちょうだい!」と、渇望感にもとづいて、人材を求めている感じがする。漢代に前例がなかった『詩経』の解釈まで持ちだして、人材を募集した。
曹丕がサドっぽいのは、贈与すること、返報することを知らず、受納することばかりを望むことだ。孫権への対策に顕著だが「呉王にしたのだから、もう充分でしょ。そろそろ、お前がお返ししろよ」という態度をとる。ゆえに天下を逃した。なぜか。曹操が能動の「GIVE」だったが、曹丕は受動の「GIVEN」だからである。曹操のほうが、贈与交換が活発に機能していたなあ。


魏書曰:辛酉,有司奏造二廟,立太皇帝廟,大長秋特進侯與高祖合祭,親盡以次毀;特立武皇帝廟,四時享祀, 為魏太祖,萬載不毀也。

『魏書』はいう。5月辛酉、有司が2廟をつくれという。曹操の廟をたてろ。曽祖父の曹騰と、高祖父の曹節をまとめよ。代数がくだれば、古いものから壊せ。曹操だけは、永久に壊さない廟とせよ。

『宋書』礼志3はいう。鄴県の廟には、曹節、曹騰、曹嵩、曹操がまとめて祭ってあった。曹操だけを壊さないことにして、他は壊せるようにした。明帝の太和3年、洛陽に廟が完成した。処士であった、曹嵩以前をまとめた。


六月甲戌,任城王彰薨於京都。甲申,太尉賈詡薨。太白晝見。是月大雨,伊、洛溢 流,殺人民,壞廬宅。

6月甲戌、曹彰が洛陽で薨じた。6月甲申、太尉の賈詡が薨じた。

曹彰伝にひく『魏氏春秋』はいう。曹彰は、魏王の璽綬のありかを聞いた。曹植伝にひく『魏氏春秋』はいう。このとき諸国は、法規がきびしい。曹彰がへんな死に方をしたので、諸王は痛んだ。曹彰伝にひく『世説新語』もある。曹彰は、曹丕に殺された。曹植も殺害をまぬがれない。曹丕は涼薄なので、魏室はながくない。

太白が晝見した。
この6月、大雨あり。伊水と洛水はあふれて、人民を殺し、廬宅を壊した。

趙一清はいう。『水経』伊水注はいう。黄初4年6月24日辛巳、大水がでた。高さ4.5尺である。『晋書』五行志はいう。曹丕は鄴県から洛陽にきた。宮室をつくるが、宗廟をつくらない。曹操の神主は、まだ鄴県にいた。建始殿で、天子の礼でなく、家人の礼で祭ってしまった。曹丕は即位してから、いちども鄴県にもどらない。曹操を墓参りしない。天地が、曹操をきちんと祭らない曹丕を罰したのだ。
盧弼はいう。洪水は、祭祀ではなく、治水の問題である。あっそう。
『晋書』傅祇伝はいう。傅祇は榮陽太守となった。黄初のときから、洪水がおおい。黄河、済水があふれる。かつて鄧艾は『済河論』を書いた。傅祇のとき、鄧艾の治水も壊れていた。傅祇は治水しなおした。
『晋書』傅玄伝はいう。傅玄は上疏した。魏初、まだ治水ができなかった。堤防を4つ追加し、もとの堤防とあわせて5つとせよ。などと。
ぼくは思う。曹操は「非常時だから、葬制にこだわるな」と言って死んだ。曹操が許しても、天地が葬制の省略を許さないんだなあ。それにしても曹丕、まったく曹操を墓参りしてないじゃん。「未整備の洛陽に、1日も早く入らねばならない」という、政治的なプレッシャーがとても強かったのだろう。注目すべきは、そっちだと思う。
べつに「曹丕が親不孝ものだから、魏室の天命が短くなった」のではないと思う。曹丕の親不孝と、魏室の短命は事実なのだが、それに因果関係を見出しても仕方がない。現代日本では、たまたま受容されない意見だし、すでに先人が議論しつくして、残り物がない領域である。


魏書曰:七月乙未,大軍當出,使太常以特牛一告祠于郊。
臣松之按:魏郊祀奏中,尚書盧毓議祀厲殃事云:「具犧牲祭器,如前後師出告郊之禮。」如此,則魏氏出師,皆 告郊也。

『魏書』はいう。7月乙未、大軍を出すにあたり、太常が特牛を郊外で祭り、出兵を報告した。

『晋書』礼志上はいう。皇帝が東巡するとき、太常に1頭の特牛を南郊に祭らせた。曹丕が死ぬと、太尉の鍾繇が南郊で特牛を祭った。東晋のとき廃された。

裴松之はいう。尚書の盧毓のアドバイスで、曹魏が出兵するとき、いつも南郊で祭祀するようになった。

秋、滎陽で校猟し、許昌へゆく

秋八月丁卯,以廷尉鍾繇為太尉。

秋8月丁卯、廷尉の鍾繇を、太尉とした。

高柔伝はいう。黄初4年、高柔は廷尉にうつる。けだし高柔は、鍾繇のあとを継いだ。ぼくは補う。鍾繇は、賈詡のあとをついだ。


魏書曰:有司奏改漢氏宗廟安世樂曰正世樂,嘉至樂曰迎靈樂,武德樂曰武頌樂,昭容樂曰昭業樂,雲(翻) 〔翹〕雲翹 從潘眉說 舞曰鳳翔舞,育命舞曰靈應舞,武德舞曰武頌舞,文(昭) 〔始〕文始 從潘眉說舞曰大(昭) 〔韶〕大韶 從潘眉說舞,五行舞曰大武舞。

『魏書』はいう。有司が上奏し、漢氏の宗廟などの名をかえた。

盧弼はいう。『宋書』楽志はいう。曹操が荊州を平らげたとき、杜畿をえた。杜畿は音楽に詳しかった。杜畿が、よりよいオトにアレンジしたのだ。


辛未,校獵于滎陽,遂東巡。 論征孫權功,諸將已下進爵增戶各有差。九月甲辰,行幸許昌宮。

8月辛未、曹丕は滎陽で校猟した。

滎陽は、武帝紀の初平元年にある。『魏志』蘇則伝はいう。蘇則は校猟にしたがうが、シカを逃がしてしまった。皇帝が蘇則を斬ろうとした。蘇則がいう。「陛下は、校猟でおおくの群吏を殺そうとするが、私はいけないと思う。私が死にましょう」と。曹丕は、みなを殺すのを辞めた。
ぼくは思う。ただの暴君じゃないか! 曹叡は、鹿を殺すのを拒んだ。このとき、曹叡が殺されてもおかしくなかったなあ。曹丕は「鹿を逃がす」ことを、天下を逃すことに連想させ、きらっていたのか。孫権を取り逃がしたら、そりゃ死刑だもんな。

孫権を討伐した功績を論じて、爵位や戸数をそれぞれ進めた。
9月甲辰、許昌宮にゆく。

ぼくは思う。第1次の孫権攻めで、撤退が完了したのだろう。曹丕が洛陽にいたのは、3月から9月、たったの6ヶ月。このあいだに洛陽でやったのは、曹彰を殺すことだけ。しかも途中、8月には校猟しているから、滞在時間はさらに短くなる。


冬、献帝の妻と娘を封じる

魏書曰:十二月丙寅,賜山陽公夫人湯沐邑,公女曼為長樂郡公主,食邑各五百戶。是冬,甘露降芳林園。
臣松之按:芳林園即今華林園,齊王芳即位,改為華林。

『魏書』はいう。12月丙寅、献帝の夫人に、湯沐邑をたまう。献帝の娘の劉曼を、長樂郡公主とした。食邑はどちらも5百戶。

銭大昭はいう。献帝は郡公だが、その娘も郡公主としたのか。父親と並んでしまう。「長楽」という郡はない。「郷」「亭」とすべきを、誤ったか。 趙一清はいう。長楽郡というのは、虚封である。
盧弼はいう。曹芳紀の嘉平5年、郭修を長楽郷侯にする。銭大昭がただしい。
ぼくは思う。虚封のほうが、面白かったのに。ありもしない郡に、献帝の娘を封じて、献帝とぶつける。漢室に対する、いろいろな悪意を感じとることができたいのに。

この冬、甘露が芳林園に降った。
裴松之はいう。曹芳が即位すると、華林園に改名された。

『御覧』197にひく『魏志』はいう。洛陽には、いろんな園がある。はぶく。盧弼はいう。芳林園は、明帝紀の青龍3年の注釈にある。

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黄初5年、孫権を広陵で見て、青徐州を再平定

春、密告を制限し、国王を県王におとす

五年春正月,初令謀反大逆乃得相告,其餘皆勿聽治;敢妄相告,以其罪罪之。三月, 行自許昌還洛陽宮。

黄初5年春正月、曹丕は令した。謀反や大逆は報告してもよいが、それ未満なら報告するなと。ウソの報告をすれば、同罪をかぶせると。

ぼくは思う。謀反や大逆でもないのに、こまかい報告があふれかえったのか。江戸時代に日本で、相対済令が出て、カネの訴訟はオカミが取り合わないことになった。訴訟をさばくオカミの能力を越えたからだっけ。曹丕は、報告にしばりをかけ、処理の改善を試みた。よほど事件がおおく、よほど人材が質量ともに足りないのだ。
ウソを報告したら同罪にするというのも、ひどい。ウソかどうかを調べるのも、オカミの仕事だろうに。ホントと判明したあとに報告していたら、対策が遅れる。その遅れのリスクを犯してでも、曹丕は報告の数を減らすほうが、メリットが大きいと考えたのだ。建国後、うまくいってないなあ。
盧弼はいう。この歳、諸国王を、みな県王におとした。『魏志』曹據伝にある。これは王朝の地方統治にとって、最重要なことである。なぜ本紀は記さないか。
ぼくは思う。陳寿には、どうでも良かったのかな。これは曹丕なりの「中央集権」だと思う。前漢だって、皇帝から武帝までのあいだに時間をかけて、諸国王の待遇を小さくした。でも、小さくするのは郡王までで、県王にはしなかった。曹丕は、後漢よりも強い中央集権を願っているのだろう。

3月、許昌から洛陽宮にかえる。

ぼくは思う。去年の8月に出て、8ヶ月も洛陽をあけた。つぎ、いつ洛陽を出るのか、楽しみだなあ。くれぐれも、洛陽に長居してくれよ。


夏、太学を立てる

夏四月,立太學,制五經課試之法,置春秋穀梁博士。五月,有司以公 卿朝朔望日,因奏疑事,聽斷大政,論辨得失。

夏4月、太学をたてた。五經課試之法を制定した。『春秋穀梁』博士をおく。

『後漢書』光武紀はいう。建武5年、太学をおく。車駕は太学にゆく。
『後漢書』儒林伝、『続漢書』、『漢官儀』、陸機『洛陽記』、摯虞『決疑要注』、『魏志』王粛伝にひく『儒宗伝序』などに、制度や科目やカリキュラムがある。上海古籍322頁。はぶく。
こここそ、引用したほうが、ネット上の三国志に関する情報として有益だと思うけど、ぼくがあんまり興味がないので、はぶく。もしくは後日。

5月、有司は「新月と満月のとき、月2回のペースで、政治に関する議論をしたい」と曹丕に上奏した。

ぼくは思う。後漢の本紀で、こういう「私たちの意見を聞いてくれ」という上奏は、なかったような気がする。曹丕は、人材をほしいほしいと言いながら、意見を聞いていなかったのだろうか。曹丕は、政策を聞き入れて実行してあげない。臣下は、政策を提案するという贈与をするのに、曹丕はそれを受納せず、さらに受納しないから返報もない。曹丕は、孤立している。コミュニケーションの往復を欠いた、裸の王様である。
「得失を議論したい」と群臣が言ってきた。どうせ曹丕の「失」を論じるためだ。なんだか曹丕は、彼の使える時間、彼の人格的なキャパシティに対して、すごく過剰にツメコミをしているように見える。だから「失」もおおくなる。曹丕が焦っているのは、健康問題でなく、ただ「何をしたら良いか分からないが、何かを高速で片づけねばならない気がする」という切迫感だろう。


秋、広陵の廃城から、対岸の孫権軍をみる

秋七月,行東巡,幸許昌宮。八月,為水軍, 親御龍舟,循蔡、潁,浮淮,幸壽春。揚州界將吏士民,犯五歲刑已下,皆原除之。九月,遂 至廣陵,赦青、徐二州,改易諸將守。

秋7月、曹丕は東へめぐり、許昌にゆく。

5ヶ月しか洛陽に滞在しなかった。そのあいだには、太学をつくったのか。成果を出すことよりも、「忙しい」という自分が好きなビジネスマンを見ているようである。

8月、水軍をつくる。みずから龍舟を御す。蔡水、潁水をめぐり、淮水にういて、壽春にゆく。

胡三省はいう。魏收『地形志』はいう。陳留の扶溝県に、蔡水がある。以降、胡三省と呉熙載の注釈にちがいあり。ほかにも盧弼が検討した結果、いろいろちがう。
ぼくは思う。寿春に到着したんだから、川の流れが各時代で変わり、経路が分からなくても、いいいじゃないか。
寿春は、武帝紀の初平元年の揚州刺史の注釈にある。初平4年の九江郡の注釈にもある。『郡国志』はいう。九江郡の寿春である。『一統志』はいう。いまの安徽省の鳳陽府の寿州の治所である。

揚州の州界では、將吏と士民は、5年未満の刑罰はチャラ。9月、広陵にいたる。青州と徐州で、諸将や太守を交代させた。

広陵は、武帝紀の建安13年の注釈にある。漢末は郡治が広陵。魏呉が分割すると、漢代の広陵は廃された。曹魏の広陵は淮陰である。『通鑑』胡注にある。
『魏志』劉曄伝はいう。黄初5年、曹丕は広陵の泗口にくる。荊州と揚州に、並進せよと命じた。盧弼はいう。曹丕がいるのは、淮陰である。今日の清河である。
だが『呉志』孫権伝の黄武3年9月、曹丕が広陵にでて、長江を見て「孫権には人材がいるから、孫呉を征服できない」と言ったことになっている。注引の干宝『晋紀』によると、曹丕は広陵にくると、呉人は石城から江乗まで疑城をつくった。『呉志』徐盛伝と、それにひく『魏氏春秋』にもある。曹丕は泗口から南に進み、漢代の郡治だった広陵の廃城にきた。ここまで南下しないと、長江が見えないからである。
ぼくは思う。黄武3年と、黄初5年が同じなんだなー。
鮑勛伝はいう。黄初6年秋、曹丕は鮑勛に平呉を相談して「南岸の孫権軍をみた」という。曹丕は、泗口から、広陵の廃城まできたのだ。


冬、許昌にひき、青・徐州の政治を改善

冬十月乙卯,太白晝見。行還許昌宮。

冬10月乙卯、太白が晝見した。許昌宮にかえる。

王朗伝にひく、曹丕から三公への詔はいう。車駕は、今月(10月)の中旬に、譙県にいたる。淮水と漢水の軍も、撤退しなさい。編隊することなく(不臘)、西に帰りなさい。
ぼくは思う。典型的な敗走だなあ!


魏書載癸酉詔曰:「近之不綏,何遠之懷?今事多而民少,上下相弊以文法,百姓無所措其手足。昔太山之哭者, 以為苛政甚于猛虎,吾備儒者之風,服聖人之遺教,豈可以目翫其辭,行違其誡者哉?廣議輕刑,以惠百姓。」

『魏書』は10月癸酉の詔を載せる。「近くが懐かず、遠くが懐かない。孔子の故事で、きびしい政治は、猛虎よりも怖いという。私は厳しくない政治をしたいから、刑罰をゆるめる」と。

ぼくは思う。曹丕は戦いの前に、青州と徐州の長官を変えたり、減刑したりした。つまり漢魏革命の時点で、青州や徐州は、なかば外地として、厳しい刑罰が課されていた。中原よりも厳しかったのかも知れない。そんなこと書いてないが、推論すると、これが言えないか。だから、厳しい統治をやってきた長官を辞めさせて、抑圧を解除した。
いま曹丕は、荊州の江陵から攻めることを諦めて、徐州の広陵から攻めた。徐州からも孫呉を抜けなかった。その理由は、長江が太いからでも、孫権軍が強いからでもない。青州や徐州に、曹魏の統治が行き渡っていないからだ。
曹操のときも、泰山の諸将とかを太守にして、委託して間接の統治みたいになっていた。青州黄巾は、曹操が死んだら撤退した。そういえば徐州は、曹操が「虐殺」したから、曹氏と相性が悪いのだった。徐州の出身者が、孫呉の高官におおく、蜀漢にも徐州人がいた気がする。曹操が「虐殺」したから徐州人が離叛したのか、離叛した徐州人が「虐殺」を誇張・宣伝・記録して、曹魏に敵対する政治的声明に活用したのかも知れない。誰からも負の記憶として登録される殺害事件はなく、選択的に「負の記憶」に登録されるのだ。
曹丕が、わざわざ大げさな水軍をつくって、許昌、淮南、広陵と乗りこんだのは、青州と徐州を「再征服」するためだったのかも。示威の活動。示威しながら、長官や法律を変えてゆけば、見せびらかさんばかりの「再平定」である。
その「再平定」に失敗して、曹丕がいる徐州ですら、支配がアヤフヤなので、癸酉の詔なんかを出したのだ。「青州と徐州がまだだった」と気づいたのだ。孫権とたたかう以前の問題だったのだ。190年代、徐州には、劉備、呂布、陳氏、袁術、などがウロウロして、帰趨が怪しかった。曹操は平定が済んだことにして、フタをしたが。全然だめだった。まるで関中の羌族のように、「原則として曹魏に従うが、じつは独立勢力であり、呉蜀がきたら味方しちゃう」だったのかも知れない。
そういえば曹操、徐州の方面から、孫呉を攻めようとしなかった。曹丕は、曹操が合肥方面から孫呉を抜けないことを反省して、徐州にしたのか。ちがうなあ。曹丕は江陵を囲むほど「曹操を反面教師」にしてはいない。曹丕は、青州と徐州の「再征服」という隠れ目標をもち、南征したのである。ということは、青州と徐州に政策をふりかけてきた今回の遠征は「成功」となる。ただし、これを「成功」とするには、「青州と徐州が、曹魏の版図ではなかった」ことを事前に認める必要があるけど。
ツイッター用に要約。
曹丕が広陵から、対岸の孫権軍を見て撤退した黄初5年の戦い。曹丕が負けた相手は、孫権でなく、青・徐州の不服従勢力か。進軍しつつ、揚州の境界、青・徐州の諸長官を交代させ、刑罰を緩めた。帰還して「遠くより近くを懐けるのが優先だった」と詔した。青・徐州の統治不全は、曹操から曹丕への宿題。


十一月庚寅,以冀州饑,遣使者開倉廩振之。戊申晦,日有食之。

11月庚寅、冀州が飢饉。倉廩をひらき、振るまう。11月戊申みそか、日食あり。

十二月,詔曰:「先王制禮,所以昭孝事祖,大則郊社,其次宗廟,三辰五行,名山大川, 非此族也,不在祀典。叔世衰亂,崇信巫史,至乃宮殿之內,戶牖之閒,無不沃酹,甚矣其惑 也。自今,其敢設非祀之祭,巫祝之言,皆以執左道論,著于令典。」是歲穿天淵池。

12月、詔した。「先王の礼制では、天地や祖先を祭る、郊社と宗廟だけが本来のものである。その他の祭祀は、派生したもので、よぶんな淫祠がおおい。日月星、木火土金水、名山や大川を祭るな。本来にもどれ。左道する者を捉えよ。この詔を令典に書いておけ」と。

ぼくは思う。漢魏革命がおわったので、もう神秘的なことは「政治的に」必要ないのだ。五行を祭っていると、つぎの金徳とかを言い出す人がいるかも知れないから、封殺しておきたい。こういった「本来でない」信仰は、思想的には、今後もずっと意味を持ち続けるだろうけど。
この政策を、左道に惑わされないリアリストと見るのか、祭祀を省いてくれるエコノミストとしてみるのか、いろいろ言えそうだ。曹操論に通じるだろうなあ。
盧弼はいう。明帝の青龍元年、詔した。諸郡国の山川で、祠典がないものは、祭祀をするな。そうだ。

この歳、天淵池をうがつ。

『水経』穀水注にある。穀水は東に流れて、天淵池にそそぐ。池のなかには、曹丕がつくった九華台がある。云々。

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黄初6年、許昌に司馬懿、長江が氷って撤退

春、陳羣が鎮軍大将軍、司馬懿が撫軍大将軍

六年春二月,遣使者循行許昌以東盡沛郡,問民所疾苦,貧者振貸之。

黄初6年春2月、死者を許昌から、東は沛郡まで、 疾苦や貧者に貸し与える。

ぼくは思う。曹丕は、身内への贈与には手あつい。身内のリーダーとしては、頼りになるけど、天下の皇帝としては物足りない。徐州や孫権のために、大盤振舞してくれないと。身内には贈与ができるのだから、その度量の大きさは、認めないとなあ。
沛郡は武帝紀にある。呉増僅はいう。漢末に沛国は沛郡になった。くわしくは『魏志』司馬芝伝にある。
『漢書』武帝紀に「振貸」がある。顔師古はいう。「振」とは「起」ことである。給いて仮し、家を存続させることである。


魏略載詔曰:「昔軒轅建四面之號,周武稱『予有亂臣十人』,斯蓋先聖所以體國君民,亮成天工,多賢為貴也。今 內有公卿以鎮京師,外設牧伯以監四方,至於元戎出征,則軍中宜有柱石之賢帥,輜重所在,又宜有鎮守之重臣, 然後車駕可以周行天下,無內外之慮。吾今當征賊,欲守之積年。其以尚書令潁鄉侯陳羣為鎮軍大將軍,尚書 僕射西鄉侯司馬懿為撫軍大將軍。若吾臨江授諸將方略,則撫軍當留許昌,督後諸軍,錄後臺文書事;鎮軍隨 車駕,當董督眾軍,錄行尚書事;皆假節鼓吹,給中軍兵騎六百人。吾欲去江數里,築宮室,往來其中,見賊可擊 之形,便出奇兵擊之;若或未可,則當舒六軍以遊獵,饗賜軍士。」

『魏略』は詔を載せる。私は賊の征伐に、何年もかかっている。尚書令する潁鄉侯たる陳羣を、 鎮軍大將軍とする。尚書僕射する西鄉侯の司馬懿を、撫軍大將軍とする。もし私が長江にいくなら、司馬懿が許昌にいて、錄後臺文書事しろ。陳羣は従軍して、錄行尚書事しろ。陳羣と司馬懿に、仮節、鼓吹をもたせる」

『宋書』百官志はいう。鎮軍将軍は1名、曹魏の陳羣がなる。撫軍将軍は1名、曹魏の司馬懿がなる。中軍将軍、鎮軍将軍、撫軍将軍は、四鎮将軍にひとしい。洪飴孫はいう。鎮軍大将軍は、2品、黄初6年におく。のちに常設せず。撫軍大将軍は2品。黄初5年におく。
ぼくは思う。置かれたのが1年ずれてる? この疑問は放置される。
『晋書』宣帝紀はいう。黄初5年、天子が南巡し、呉兵が強勢なのを見た。司馬懿は許昌にとどまり、向(西)郷侯に封じられた。撫軍に転じ、仮節、領5千人。加給事中録尚書事。黄初6年、天子が舟師して征呉した。留守を任された。曹丕は詔して、司馬懿にいう。「曹参は戦功がないが、蕭何は曹参を重んじた。私は司馬懿がいるから、心配なく出撃できる」と。
『晋書』職官志はいう。使持節は、2千石以下を殺せる。持節は、無官の官人を殺せる。もし軍事なら、持節は使持節と同じく、2千石以下を殺せる。仮節は、軍事でのみ、軍令の違反者を殺せる。『晋書』楽志などは、鼓吹について載せる。たくさん書いてあるけど、諸論文とかを見たほうが早そうなので、はぶく。上海古籍326頁。
ぼくは補う。陳群 chen2 qun2、鎮軍 zhen4 jun1は、オトが同じでない。


三月,行幸召 陵,通討虜渠。乙巳,還許昌宮。并州刺史梁習討鮮卑軻比能,大破之。辛未,帝為舟師東征。

3月、召陵にゆく。討虜渠をとおる。

『漢書』地理志はいう。汝南の召陵である。顔師古はいう。桓公が楚を討ったとき、召陵に軍営をおいた。
胡三省はいう。討虜渠を通ったのは、伐呉にゆくから。ぼくは思う。縁起をかついだのかなあ。桓公が楚を討ったように、魏文が孫権を討ちたいのだ。

3月乙巳、許昌宮にかえる。
并州刺史の梁習が、鮮卑の軻比能をやぶった。

盧弼はいう。梁習伝にも、鮮卑伝の軻比能にも、この記事がない。ぼくは思う。時期を間違ったのか? 文帝紀は、編集があまいなあ。事実と違ってもいいから、他の史料との整合は取れるようにしておいてほしい。もちろん、事実とあっているほうが、他の史料との整合を取りやすくなるのだが。歴史って、そういうものだよなあ。

3月辛未、舟師をなして東征した。

ときに宮正の鮑勛が、出兵をいさめた。曹丕が怒り、鮑勛を左遷して治書執法とした。『魏志』鮑勛伝にある。


夏、青州の利成郡を、中央兵で平定する

五月戊申,幸譙。壬戌,熒惑入太微。

5月戊申、譙郡にゆく。5月壬戌、熒惑が太微にはいる。

ぼくは思う。また、征呉に失敗しそうな予兆か。


六月,利成郡兵蔡方等以郡反,殺太守徐質。遣屯騎校尉任福、步兵校尉段昭與青州 刺史討平之;其見脅略及亡命者,皆赦其罪。

6月、青州の利成郡で、兵の蔡方らが、太守の徐質を殺してそむいた。

利成は、武帝紀の建安3年の注釈にある。また臧覇伝にもある。諸葛誕伝でも、利成郡がそむき、唐咨をトップにかつぐ。唐咨は孫呉ににげた。
ぼくは思う。青州や徐州は、けっきょく曹操から曹丕への宿題であることが判明した。曹丕は、孫権を平定するといいながら、青州にも課題をかかえていた。利成郡の太守が殺されるなんて、まるで辺境。涼州と同じである。中央-辺境というカーブは、洛陽を中心にして、きちんと円錐を描いているから、中華思想ってすごいと思う。
国境線をムリに引いて軍事的に占拠するような国民国家には、中央-辺境という概念があてはまりにくい。もちろん「国境」というのはあるけど、これは白か黒かの二元論的な差異が生じる場所。
中華文明は、中心から順調にグラデーションを描いて、遠ざかっていく。北側の太行山脈で、ちょっとカーブが急になるかも知れないが。こうやって伝播するように求心力のグラデーションを描くことが、中華文明の性質というよりは、定義の一部なんだろう。
というわけで、曹丕さん、東のはしの青州と徐州も、やばいよ!

屯騎校尉の任福と、步兵校尉の段昭が、青州刺史とともに平定した。脅略された者、亡命した者は、みな罪をゆるされた。

『続百官志』はいう。屯騎校尉も歩兵校尉も、中央官である。趙一清はいう。任福と段昭は、曹丕に従軍するとき、利成郡を平定したのだろう。
ぼくは思う。曹丕の遠征が、ひとり孫権だけでなく、青州と徐州の「再平定」を目的としていることが、いよいよ分かった。当初はそのつもりがなくても、利成郡を平定したのだから、結果的には、ぼくが正解になってしまった。上でこれを指摘したとき、利成郡の事例のことは、頭になかった。ぼくの推論も、あたるなあ。黄権と孫権を混同するけど。
ところで、このときの青州刺史は、名がないが、誰だろう。


秋、譙県から渦水、淮水、徐州へ

秋七月,立皇子鑒為東武陽王。八月,帝遂以舟師自譙循渦入淮,從陸道幸徐。九月, 築東巡臺。

秋7月、皇子の曹鑑を東武陽王とした。

東武陽は、武帝紀の初平2年にある。ぼくは補う。これも、やっぱり郡王でなくて、県王にすぎない。

8月、曹丕は舟師で、譙郡から渦水をとおり、淮水に入る。

曹操が建安14年、赤壁のあとに取ったルートである。盧弼はいう。胡三省は、下邳の淮陵から、淮水に入ったとする。べつの注釈では、淮陰から淮水に入ったとする。どちらも誤りである。いまの懐遠県の北に渦水があり、淮水への入口である。あるいは、淮陰から淮水に入ったか。すでに徐州の境界にきていたか。すると次に「陸路で徐州に」というのが合わない。

陸道から徐州にゆく。9月、東巡臺を築く。

ぼくは思う。東巡台ってどこにあるの?


冬、長江が氷り、広陵、譙郡、梁郡にひく

冬十月,行幸廣陵故城,臨江觀兵,戎卒十餘萬,旌旗數百里。

冬10月、広陵の故城にゆく。長江にのぞみ、閲兵する。10万余、曹魏の軍旗が数百里ならぶ。

ぼくは思う。広陵の「故城」なのは、漢代の郡治だったから。
胡三省はいう。広陵の故城とは、別名を蕪城で、場所は分からない。趙一清はいう。後漢の広陵の郡治は、曹魏のとき淮陰に移された。辺境にあるから、放棄された。のちに孫呉の領域に入った。
盧弼はいう。広陵は、前年に注釈した。胡三省のいうとおり、場所は分からない。
ぼくは思う。あのあたりは、海岸沿いで、わりに広いから、維持が難しかったみたい。後漢の郡治でも、魏呉に放棄されると、場所が分かりにくくなるんだなあ。190年代も、あのあたりの維持が大変だったから、諸勢力が入り組んだのだろう。


魏書載帝於馬上為詩曰:「觀兵臨江水,水流何湯湯!戈矛成山林,玄甲耀日光。猛將懷暴怒,膽氣正從橫。誰 云江水廣,一葦可以航,不戰屈敵虜,戢兵稱賢良。古公宅岐邑,實始翦殷商。孟獻營虎牢,鄭人懼稽顙。充國 務耕植,先零自破亡。興農淮、泗間,築室都徐方。量宜運權略,六軍咸悅康;豈如東山詩,悠悠多憂傷。」

『魏書』は曹丕が馬上で読んだ詩を載せる。「淮水と泗水のあいだに、室を築き、徐方を都?としよう」と。

『呉志』孫権伝にひく『呉録』はいう。曹丕は長江が南北を隔てるので、なげいた。
趙一清はいう。『文選』には、曹丕の雑詩がある。呉郡と会稽は、私の故郷ではない。長居したくない。など。上海古籍328頁。


是歲大寒,水 道冰,舟不得入江,乃引還。十一月,東武陽王鑒薨。十二月,行自譙過梁,遣使以太牢祀 故漢太尉橋玄。

この歳は寒くて、川水も道路を氷った。舟が長江に入れないので帰った。

蒋済伝はいう。車駕は広陵にきた。蒋済は、川水や道路が通りにくいから辞めろと言ったが、曹丕は従わず。戦舟の数千が動けなくなった。
ぼくは思う。合肥のころから揚州にいた、蒋済の言うことは、聞いておいた方が良かったなあ。蒋済が予想できるということは、これまでにも、こんなの氷ることがあった?

11月、東武陽王の曹鑒が薨じた。

ぼくは思う。県王に封じられたばかりである。曹丕に、死ぬように仕向けられたのだろうか。1人だけ異動があり、すぐに死ぬのは、明らかにおかしい。

12月、譙郡から梁郡をすぎる。もと太尉の橋玄に大牢を祭った。

梁国と橋玄は、武帝紀にある。趙一清はいう。曹氏は、曹操だけでなく、代々にわたって橋玄を祭った。ぼくは思う。子供もお腹が痛くなるのかー。橋玄も、呪うなあ。
ぼくは思う。190年代の曹操も、曹丕も、けっきょくは河南のあたりをウロウロしている。揚州までは行かない範囲で、豫州と徐州をウロウロすする。頴川の許昌宮、故郷の譙郡は豫州である。たびたび出張する広陵は、徐州である。このあたりで曹操は、袁術と戦ったなあ。けっきょく親子でやっていることは、豫州と徐州めぐり。同じである。橋玄も、このエリアに祭祀されている。
もう1つ、曹丕と曹操の行動範囲が重なるのは、荊州だ。曹操は赤壁に行き、それ以降は荊州に行かなかった。曹丕も、いちど荊州に南征して、荊州に行かなくなった。
曹操が200年代に河北に行って、鄴県を拠点としたが、曹丕はここに行かない。けっこう不自然である。曹操の後期をマネるなら、関中や漢中という行先もあるけど、ここま自ら出向く必然性はない。
曹丕が「曹操の神主を祭らない」というと、儒教的な不孝だが。曹魏の本拠地の河北に行かないのは、「曹丕が行きたくても行けなかった」と考えるのが自然だろう。いかに百官を洛陽に運んできたとは言え、洛陽にはサッパリ、寄りつかないじゃないか。まして、黄河を渡る時間なんて、とれないじゃないか。
皇帝の曹丕は、都に腰を押しつけて政治をするというより、「長い遠征」をした皇帝だった。禅譲して即位した時点から、遠征の最中であり、死ぬまで遠征を続けた。
孫権をたびたび攻めて、不充分に煮えきらない結果なのも、この方向で理解すべきか。洛陽に本拠があり、そこから「出陣」して孫権と向かい、「撤退」して洛陽に戻るのでない。なんとなく、荊州の宛県、豫州の許昌、徐州の広陵あたりを、ずっと中腰でウロウロしている。どこでも立たないし、どこでも座らない。絶えることのない一連の行動として見るべきだ。そう見なければ、洛陽にいる時間が短すぎる。
たとえば短期間に転職をくり返す人は、「通常は熱心に働いており、ごくたまに非日常的に転職活動をして、1週間で転職先を決める」のではなく、つねに仕事が手に付かず、なんとなく会社でも転職サイトを見続け、年休をとっては採用面接にゆき、なかなか転職をせず、、という感じ。
うだうだ書いたが、曹丕は、戦わない日常と、戦う非日常という二元論的に捉えられない、ということが言いたかった。下手すると、曹操、劉備、孫権よりも落ち着きがない。メリハリがない。ずっと臨戦態勢なら、そりゃ寿命も縮むなあ。まるで、190年代の曹操のようだ。いらん苦労を背負うなあ。

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黄初7年、許昌の南門が崩れ、洛陽で崩ず

春、許昌の南城門がくずれる

七年春正月,將幸許昌,許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入。壬子,行還洛陽宮。 三月,築九華臺。

黄初7年春正月、許昌に入ろうとするとき、城南の門が自崩した。曹丕は許昌に入らず。

『晋書』礼志上はいう。黄初7年正月、中宮に命じて、北郊でカイコを祭らせた。周典にもとづく。『芸文類集』巻15にひく韋端『皇后が親ずから蚕する頌』はいう。上海古籍332頁。はぶく。

正月壬子、洛陽にもどる。

ぼくは思う。許昌に入れないから、仕方なく洛陽にいくのだ。きっと「洛陽に都する天子なら、許昌にいるなよ」という天意である。示しが付かないじゃないか。治まる天下も治まらないぞと。

3月、九華臺を築く。

趙一清はいう。『宋書』后妃伝の賛にいう。漢室の昭陽の輸奐、魏室の九華の照耀。すなわち九華台は、内宮で皇帝が訪問するところである。


夏、曹丕の葬送に、曹叡が参加せず

夏五月丙辰,帝疾篤,召中軍大將軍曹真、鎮軍大將軍陳羣、征東大將軍 曹休、撫軍大將軍司馬宣王,並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛、昭儀已下歸其家。丁巳,帝崩 于嘉福殿,時年四十。

魏書曰:殯於崇華前殿。

夏5月丙辰、曹丕は疾篤。中軍大將軍の曹真、鎮軍大將軍の陳羣、征東大將軍の曹休、撫軍大將軍の司馬懿に、曹叡を宜しくと遺詔した。

『宋書』百官志で、魚豢はいう。四征将軍は、曹操がおいた。2千石。黄初のとき、位は三公に次ぐ。漢代の四征将軍、偏裨将軍とおなじである。趙一清はいう。漢代に四征将軍はいたから、曹操がおかない。魚豢が言いたかったのは、鎮北将軍が黄初や太和に置かれたことである。
また『晋書』宣帝紀を見ると、崇華伝の南堂で遺詔を受けたとき、陳羣と曹真がいるが、曹休はいない。曹叡への詔でも3人しかいない。曹休がいないのは明らかである。曹休伝にも、遺詔を受けたという記述がない。 洪飴孫はいう。中軍大将軍は、1人、2品。黄初3年に置かれた。のちに常設されず。

死後に、後宮の女性を家に帰せと遺詔した。

『魏志』后妃伝はいう。淑媛は、官位でいうと御史大夫、爵位でいうと県公にひとしい。昭儀は、爵位でいうと県侯にひとしい。『世説新語』によると、曹丕は曹操の宮人を全てもらっている。ぼくは補う。曹丕は、曹操から宮人をもらったくせに、曹叡のために残さなかった。まあ、父親の宮人をもらったら「お前は匈奴か」ってことになるから、親心によるフールプルーフだな。

5月、嘉福殿で曹丕が崩じた。40歳。

『魏志』朱建平伝にある。朱建平は、昼と夜をダブルカウントして、曹丕の寿命を予言した。盧弼はいう。高元呂の予言と同じである。文帝紀の初めにあった。ぼくは思う。同じHTMLのファイルにあるので、検索すればヒットします。

『魏書』はいう。崇華前殿に殯した。

六月戊寅,葬首陽陵。自殯及葬,皆以終制從事。

魏氏春秋曰:明帝將送葬,曹真、陳羣、王朗等以暑熱固諫,乃止。
孫盛曰:夫窀穸之事,孝子之極痛也,人倫之道,於斯莫重。故天子七月而葬,同軌畢至。夫以義感之情,猶盡臨 隧之哀,況乎天性發中,敦禮者重之哉!魏氏之德,仍世不基矣。昔華元厚葬,君子以為棄君於惡,羣等之諫,棄孰甚焉!
鄄城侯植為誄曰:「惟黃初七年五月七日,大行皇帝崩,嗚呼哀哉!(後略)」

6月戊寅、首陽陵に葬られた。殯礼から葬礼まで、曹丕の生前の言いつけどおりの制度に従った。

胡三省はいう。洛陽の東北にある首陽山である。
『晋書』礼志中はいう。魏氏の故事で天子が死ねば、群臣は凶服を着る。またいう。漢魏の故事では、葬ろうとしたとき、吉凶のロボをもうけて、鼓吹をやる。またいう。天子や大臣が死んだとき、輓歌をやる。

『魏氏春秋』はいう。曹叡が葬送しようとしたら、曹真、陳羣、王朗が「暑いからやめろ」という。曹叡は葬送せず。孫盛はいう。魏室は、全く儀礼ができてない! 葬送させろよ。だから滅びるんだ。
鄄城侯の曹植は、誄文を書いた。黄初7年5月7日、曹丕が死んだ。ああ!

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評、『典論』、文書家としての曹丕

『皇覧』と、前漢の文帝を論じた『太宗論』

初,帝好文學,以著述為務,自所勒成垂百篇。又使諸儒撰集經傳,隨類相從,凡千餘 篇,號曰皇覽。

はじめ曹丕は文学をこのみ、著述を務めとした。みずから勒成して百篇を垂れた。

『隋書』経籍志にいう。『魏文帝集』10巻、梁代に23巻。『唐書』では10巻、『宋書』では『魏文帝集』1巻、厳可均『全三国文』集本4巻、『典論』1巻、『詩紀』楽府詩42首。上海古籍338頁。

また諸儒に經傳を撰集させた。1千余篇を編纂させ、『皇覽』とよんだ。

『魏志』劉劭伝はいう。黄初のとき、五経を編集して『皇覧』をつくる。楊俊伝にひく『魏略』はいう。王象が『皇覧』を撰した。王象は秘書監を領した。王象は延康元年から作業にかかり、数年で完成し、秘府に収納された。40余部、数十篇、8百余万字。曹爽伝にひく『魏略』はいう。桓範は、延康のとき、王象とともに『皇覧』をつくった。
ぼくは思う。『皇覧』は、曹丕が皇帝に着任してすぐに開始され、皇帝のあいだじゅう、一貫して行われた。ほかのことは、手に付かないのに。
『御覧』巻601は『三国典略』をひく。祖テイらが上言した。むかし曹丕が韋誕らに命じて『皇覧』を作らせた。『史記』索隠注はいう。『皇覧』は、王象や繆襲がつくった。その他、編纂に関わった人がいろいろ記される。上海古籍339頁。


魏書曰:帝初在東宮,疫癘大起,時人彫傷,帝深感歎,與素所敬者大理王朗書曰:「生有七尺之形,死唯一棺之 土,唯立德揚名,可以不朽,其次莫如著篇籍。疫癘數起,士人彫落,余獨何人,能全其壽?」故論撰所著典論、 詩賦,蓋百餘篇,集諸儒於肅城門內,講論大義,侃侃無倦。常嘉漢文帝之為君,寬仁玄默,務欲以德化民,有賢 聖之風。

『魏書』はいう。曹丕が東宮にいるとき、みんな死んだ。大理の王朗に文書をおくる。「人間は死んだら土になる。著述を残すことで不朽となる。みな疫病で死にまくったが、私はいい著述を残せるかな」と。

建安22年冬、曹丕は魏の太子となる。王朗は、鍾繇をついで大理となる。「棺の土」は、出典が『淮南子』である。文帝は呉質への文書で、建安7子の徐、陳、応、劉が死んだことを言った。

ゆえに『典論』、詩賦など100余篇をつくる。儒者と議論する。

儒者と議論して、『皇覧』をつくったのだ。
『御覧』951に、曹丕が王朗に与えた文書がある。『御覧』354にもある。長江や漢水の珠を受けないが、巴蜀の鉤を愛する。得がたき貴宝よりも、手に入る賤物のほうが愛しいなあと。ぼくは思う。曹丕は、もともと度量がひろくないなあ。短期的な視野で、短時間で全てを解決しようとする。だから、孫権への対応がグダグダになったのだ。


時文學諸儒,或以為孝文雖賢,其於聰明,通達國體,不如賈誼。 帝由是著太宗論曰:「昔有苗不賓,重 華舞以干戚,尉佗稱帝,孝文撫以恩德,吳王不朝,錫之几杖以撫其意,而天下賴安;乃弘三章之教,愷悌之化, 欲使曩時累息之民,得闊步高談,無危懼之心。若賈誼之才敏,籌畫國政,特賢臣之器,管、晏之姿,豈若孝文大 人之量哉?」

ときに文学や諸儒は、前漢の文帝よりも賈誼が優れるという。曹丕は文帝を擁護して『太宗論』を記した。文帝は、恩徳によって、遠方の反逆者をなでた。尉佗が称帝したり、呉王が朝廷にこないときも、やさしく懐かせた。賈誼は、管仲や晏子ののように賢いだけで、恩徳がない。文帝がいいと。

趙一清はいう。『水経』渭水注はいう。華山には文帝廟がある。石碑がたち、建安に建てられたもの。漢室の鎮遠将軍の段煨が回収した。給事黄門次郎の張昶がつくった。曹丕が書いた碑文も20余字ある。王昶と曹丕の2書は、海内で重んじられた。
『漢書』景帝紀はいう。丞相の申屠嘉が、文帝の廟を「太宗廟」とした。
盧弼はいう。前漢の文帝は、尉佗を武力制圧できたのに、武力を用いなかった。曹丕は、孫権を武力制圧できないので、言葉により屈服させようとした。狡猾な孫権が、曹丕の言葉なんかで屈服するだろうか。
ぼくは思う。盧弼の議論では、武力の制圧が全てである。前漢の文帝は、武力で屈服させる余裕があるからこそ、恩徳で尉佗を屈服させたという。曹魏の文帝は、武力で屈服させる余裕がないから、恩徳で孫権を屈服させられなかったと。なんかちがうなあ。これじゃあ、前漢の文帝のことも貶すことになるし、曹丕の失敗も見えてこない。
ぼくが思うに、前漢の文帝は、実際の武力は分からないが(おそらく曹丕たちにも前漢の武力は分からないに違いない)、ともあれ恩徳を施したという前例なのだ。前漢の武力を議論に持ちこむ時点で、本質からズレる。単なる記号だよ、前漢の文帝は。
そして曹丕は、恩徳による屈服という前例をほめて、『太宗論』を書き、文帝廟に石碑をつくるほどなのに、恩徳による方法に失敗したのだ。前漢の文帝を、ジョークで褒めていないなら(おそらくジョークではない)、曹丕のつたない政策がジョークだ。
狡猾なる孫権(この評価は盧弼に賛同する)に向けて、一方的に恩を売りまくることで、ぎゃくに孫権を屈服させる。これが恩徳の正体である。曹丕はこれをやらず、「呉王にしてやったんだから、これ以上ねだるな」という、常人の経済感覚を持ちこんでしまった。前漢の文帝になれなかった。図らずも、曹魏に文帝になるのにね。


三年之中,以孫權不服,復頒太宗論于天下,明示不願征伐也。他日又從容言曰:「顧我亦有所不 取于漢文帝者三:殺薄昭;幸鄧通;慎夫人衣不曳地,集上書囊為帳帷。以為漢文儉而無法,舅后之家,但當 養育以恩而不當假借以權,既觸罪法,又不得不害矣。」其欲秉持中道,以為帝王儀表者如此。

3年たっても、孫権が服さない。曹丕は『太宗論』を天下に頒布して、孫権を征伐したくないことを示した。他日、曹丕は前漢の文帝に、3つのケチをつけた。曹丕が中道をたもち、帝王となろうとする態度は、このようだった。

ぼくは思う。たった3年で、孫権とのジラし合戦に負けた。曹丕が『太宗論』をバラまくとは、何を意味するか。「そろそろ我慢の限界だ。そろそろ孫権への贈与は充分なはずなのに、ちっとも孫権が感じ入ってくれない」と。このように、手の内を見せてしまったのだ。
曹丕が、孫権からの返報を過剰に期待していることが、バレてしまったら、まして天下に頒布してしまったら、孫権は負い目を感じにくくなる。3年の贈与もまた、ムダになる。7年しか皇帝でいられない曹丕にとって、3年の努力をムダにするのは、ほんとうに愚かなことでした。曹丕は、痛くもかゆくもない顔で、孫権に莫大なポトラッチをしかけてこそ、孫権の威信を貶めることができたのだ。


胡沖吳曆曰:帝以素書所著典論及詩賦餉孫權,又以紙寫一通與張昭。

胡沖『呉歴』はいう。曹丕は、『典論』や詩賦を、素書して孫権におくり、紙の写しを張昭におくった。

ぼくは思う。こんな小手先の贈与は、孫権は屈服しないよ。曹丕にとっては「単なる趣味」ではなく、人生や国家をかけたのが文章だろうが、、曹丕の遠征という「掠奪行為」が全てを台無しにするのだ。
『呉志』胡綜伝はいう。胡綜の子は、胡沖である。『呉録』にも胡沖がいる。上海古籍341頁。
潘眉はいう。呉主伝にも、この逸話が出てくる。裴松之が2回引用した。2回引用するのは、『蜀志』先主伝で、油江口を公安と改称する『江表伝』。明帝紀と関羽伝で、秦宜禄の妻を関羽が欲しがったことなど。盧弼はいう。秦宜禄のことは、『魏氏春秋』と『蜀記』からの引用だから、重複ではない。潘眉の誤りである。



陳寿評と『典論』

評曰:文帝天資文藻,下筆成章,博聞彊識,才蓺兼該。若加之曠大之度,勵以公平 之誠,邁志存道,克廣德心,則古之賢主,何遠之有哉!

陳寿は評する。曹丕は、天資は文藻、下筆すれば成章となる。博聞にして彊識、才蓺が兼該した。もしさらに、曠大之度、公平之誠があり、邁志存道、克廣德心すれば、古代の賢主にも並んだだろう。

典論帝自敍曰:初平之元,董卓殺主鴆后,蕩覆王室。是時四海既困中平之政,兼惡卓之凶逆,家家思亂,人人自 危。山東牧守,咸以春秋之義,「衞人討州吁于濮」,言人人皆得討賊。於是大興義兵,名豪大俠,富室強族,飄揚 雲會,萬里相赴;兗、豫之師戰于滎陽,河內之甲軍于孟津。卓遂遷大駕,西都長安。而山東大者連郡國,中者 嬰城邑,小者聚阡陌,以還相吞滅。會黃巾盛於海、岱,山寇暴於并、冀,乘勝轉攻,席卷而南,鄉邑望煙而奔,城 郭覩塵而潰,百姓死亡,暴骨如莽。

『典論』自序はいう。初平のとき、董卓が皇帝を殺した。山東の牧守は、『春秋』の義により、挙兵した。

ぼくは思う。曹操が回想するときは、かならず袁紹と袁術の思い出がでてきた。しかし曹丕が回想するときは、「山東の牧守」で一括される。ぎゃくに、光武帝の故事が細かく引用される。近いものが遠くなり、遠いものが近くなる。世代のちがい!
ここまでは「こんな時代に生まれました」という解説である。


余時年五歲,上以世方擾亂,教余學射,六歲而知射,又教余騎馬,八歲而能 騎射矣。以時之多故,每征,余常從。建安初,上南征荊州,至宛,張繡降。旬日而反,亡兄孝廉子修、從兄安民 遇害。時余年十歲,乘馬得脫。夫文武之道,各隨時而用,生于中平之季,長于戎旅之間,是以少好弓馬,于今不 衰;逐禽輒十里,馳射常百步,日多體健,心每不厭。建安十年,始定冀州,濊、貊貢良弓,燕、代獻名馬。時歲之 暮春,勾芒司節,和風扇物,弓燥手柔,草淺獸肥,與族兄子丹獵于鄴西,終日手獲鹿九,雉兔三十。後軍南征 次曲蠡,尚書令荀彧奉使犒軍,見余談論之末,彧言:「聞君善左右射,此實難能。」余言:「執事未覩夫項發口縱, 俯馬蹄而仰月支也。」彧喜笑曰:「乃爾!」余曰:「埒有常徑,的有常所,雖每發輒中,非至妙也。若馳平原,赴豐草,要狡獸,截輕禽,使弓不虛彎,所中必洞,斯則妙矣。」時軍祭酒張京在坐,顧彧拊手曰「善」。

建安初、曹昂と曹安民が殺された。私は10歳だが、乗馬で脱出した。建安10年、冀州を平定したとき、弓馬をもらった。曹真と鄴城の西で狩りをした。尚書令の荀彧に、弓術を自慢した。

ほんとに自慢話。だからどうした、という感じ。自分が有能なことを証明するため、その有能さのリソースを使い果たす、というパターン。


余又學擊劍,閱 師多矣,四方之法各異,唯京師為善。桓、靈之間,有虎賁王越善斯術,稱於京師。河南史阿言昔與越遊,具得其 法,余從阿學之精熟。嘗與平虜將軍劉勳、奮威將軍鄧展等共飲,宿聞展善有手臂,曉五兵,又稱其能空手入白 刃。余與論劍良久,謂言將軍法非也,余顧嘗好之,又得善術,因求與余對。時酒酣耳熱,方食芊蔗,便以為杖, 下殿數交,三中其臂,左右大笑。展意不平,求更為之。余言吾法急屬,難相中面,故齊臂耳。展言願復一交,余 知其欲突以取交中也,因偽深進,展果尋前,余卻腳鄛,正截其顙,坐中驚視。余還坐,笑曰:「昔陽慶使淳于意去 其故方,更授以祕術,今余亦願鄧將軍捐棄故伎,更受要道也。」一坐盡歡。夫事不可自謂己長,余少曉持複,自 謂無對;俗名雙戟為坐鐵室,鑲楯為蔽木戶;後從陳國袁敏學,以單攻複,每為若神,對家不知所出,先日若逢 敏於狹路,直決耳!

撃剣もやった。虎賁の王越に習った。平虜將軍の劉勳、奮威將軍の鄧展と、剣技を語った。酒の席で試合をした。のちに陳國の袁敏に習った。

余於他戲弄之事少所喜,唯彈棊略盡其巧,少為之賦。昔京師先工有馬合鄉侯、東方安世、 張公子,常恨不得與彼數子者對。上雅好詩書文籍,雖在軍旅,手不釋卷,每每定省從容,常言人少好學則思專, 長則善忘,長大而能勤學者,唯吾與袁伯業耳。余是以少誦詩、論,及長而備歷五經、四部,史、漢、諸子百家之 言,靡不畢覽。
博物志曰:帝善彈棊,能用手巾角。時有一書生,又能低頭以所冠著葛巾角撇棊。

ほかには、彈棊をきわめた。父が「大人になっても学び続けるのは、私と袁遺」というから、私も学びつづけ、すべて目を通した。
『博物志』はいう。曹丕は彈棊がうまかった。

お盆休みの前半は、文帝紀だったなあ。120814

ツイッター用にまとめた、セミ曹丕の一生。
中平四生。建安十五辟。十六副丞相。二二太子。二五魏王。延康元6鄴から南征、7譙、10頴陰で受禅、黄初元12洛陽。二8孫権を呉王。三1許昌、閏6夷陵、9立后、10孫権叛、11宛、江陵包囲。四3洛陽、荊州撤退、8滎陽、9許昌。五3洛陽、7許昌、8寿春、9広陵、10許昌へ撤退。六3東征、5譙、8淮水、10広陵で長江凍結、12譙、梁。七1許昌門が自崩、洛陽、5崩御、6埋葬。
漢数字は年号、アラビア数字は月。新聞の求人広告みたいだ。
曹丕が孫権を外交で降せば、天下統一できた(蜀漢は夷陵で瀕死)。なぜ曹丕は孫権を下せなかったか。「不誠実な相手にも、倦むことなく誠実に対応する。どれだけ無駄で無限に思われても、譲歩を続ける」をしなかったから。「不誠実には不誠実を」という常人の発想で南征した時点で、曹丕は「天子」落第。人間として曹丕のイラダチは理解できるが、天下統一する天子は、そんな損得勘定のレートで動いてはいけない。と思うなあ。
孫権の不誠実に怒った時点で、孫権を対等だと認めてしまうことになる。自称「天子」の曹丕が、孫権に怒ってしまったら、孫権は天子から対等に扱われたのだから、天子を名のってよくなる。曹丕の正解は、孫権を子供あつかいして、「反抗して、可愛いでちゅねえ」と言ってあげることだった。

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