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- 第1回 荀諶・袁譚が、汝南の平定に赴く
石井仁『魏の武帝 曹操』を読んでいました。カゲの主人公は袁紹だと思います。「曹操の庇護者を自認」する袁紹は、「曹操の十歳くらい年長」という設定を付与され「光武帝の戦略」を分析された。多数の戦争で、官渡だけが詳説され、官渡が終われば残ページ数は僅か。消化試合。
熟読した者が、袁紹の話を書きたくなるのは不可避です。そこで……、
小説の同人誌『官渡城陥落』(略称「官渡」)のあらすじです。
イフを書くには、入念な史料の読み込みが必要で、2015年冬休みには、以下を準備しました。
『三国志』袁紹伝と、『後漢書』袁紹伝を照合する
袁紹の軍師8名を3つに分類し、対立構造を分析する
袁紹が勝つイフは、情況が史実と変わったとき、軍師がどんな動きをするかを、いかにリアルに描けるかで、成否が決まるはず。史実で官渡のあとに生き残る、審配・逢紀・辛評・郭図だけでなく、沮授・田豊にも生き残ってもらって、徹底的な口げんかをしてもらいたい。
史実なみに、官渡が膠着する
官渡の戦いに赴く袁紹。
石井仁『魏の武王 曹操』を熟読したものも参考にします。
沮授「3年の持久戦で河南を制圧せよ」、田豊「曹操が徐州に行った隙を撃て」、沮授「全軍で黄河を渡るな」といった良策をすべて退けた袁紹。白馬で顔良、延津で文醜を失って、犠牲を出しながらも黄河を渡り、官渡の北・陽武に軍を進める。
建安五年八月、官渡城を遠巻きにして、攻城戦を始める。兵器・戦法の応酬をおこなうが、決着が着かない。戦いは、第二ラウンド。補給の妨害、後方の撹乱といった、心理戦に突入する。
◆史実なみの汝南の攻防
豫州南部、汝南郡の一体は、袁氏の本拠地。袁氏の門生・賓客が兵をあつめて、塢壁(要害に築かれた防御施設、とりで)をつくり、曹操の支配に抵抗。この地域で、数少ない曹操の拠点が、陽安都尉の李通がおさめる陽安郡。汝南郡から、陽安・朗陵の2県を独立させた郡。土豪の李通(江夏のひと、167-208)が曹操の支持を表明。のちに袁紹は、李通の内応をうながし、「征南将軍」という破格の待遇を約束。
本格的な軍事衝突が始まる前に、曹操は、はえぬきの幕僚・満寵を汝南太守として、五百の兵で二十の塢壁をおとす。有力な土豪十余人をだましうち。
官渡が膠着すると、袁紹は「汝南・潁川黄巾」と連携し、後方を撹乱させる作戦。劉備は、黄巾を直接の指揮下に置きつつ、インキョウ県を本拠地にゲリラ戦。豫州はほとんどが袁紹につき、許都のある潁川郡にしか、曹操の威令が及ばない。
黄初二年、曹丕の詔によると、潁川は、丁壮(成人)は武器をとり、老弱(老人や少年)が兵糧を運んだ。劉邦の秦中、劉秀の河内と同じような本拠地。イフ設定で、やがて曹操は、ここを拠点にして抵抗を試みる。
曹操は、陳群を沛国のサン県の令に、賈逵を汝南の城父県の令にした。豫州の諸県に、名望ある士大夫を起用。
陽安都尉の李通は、内応の嫌疑がかかるが、期日どおり徴税。朗陵の県長の趙𠑊(潁川のひと、171-243)は、民衆に戸調の綿・絹を返還。
曹操は、曹仁を派遣して、劉備を討つ。郡県を味方に引き戻す。劉備は、劉表に働きかけるという口実で、汝南にもどる。本能的に、袁紹の敗北を嗅ぎとったか。劉備は、黄巾の龔都(共都)と連合して、曹操の将・蔡陽を敗死させる。
建安六年九月、劉備は荊州におちた。
石井仁先生のイフ設定をもらってくる。
汝南の奪還を真剣に考えるのなら、息子のだれかに、汝南・潁川の士大夫を参謀としてつけ、投入すべきではなかったか。袁氏の貴公子が出馬すれば、戦況はちがったはず。汝南をめぐる攻防は、じつは官渡の重要な山場。袁紹陣営は、だれも気づかなかったか。(『曹操』p234)
イフへの分岐:荀諶の進言
許攸が、「許都を急襲せよ」を言う。
『范書』袁紹伝:許攸進曰:「曹操兵少而悉師拒我, 許下餘守埶必空弱。若分遣輕軍,星行掩襲,許拔則操(為)成禽。如其未潰,可令首尾奔 命,破之必也。」紹又不能用。ところが袁紹が、「潁川・汝南方面に劉備を送ったが、戦果がめざましくない。そもそも官渡の戦いは(石井氏が分析するような)第二ラウンドではない。補給・後方を攻撃するのは、姑息な弱者・曹操のやり口であって、わが軍がやることではない」と退ける。
許攸の提案と、袁紹の却下は、まだ史実なみ。袁紹のセリフは推測。
このとき、張郃も南方の襲撃を主張する。『陳志』巻十七 張郃伝にひく『漢晋春秋』:郃說紹曰「公雖連勝、然勿與曹公戰也、密遣輕騎鈔絕其南、則兵自敗矣。」紹不從之。
沮授・張郃といった、河北の名族を退ける袁紹さん。正面から官渡を突破することに拘る。漢の天命の有無はともかく、せっかく庇護してやった曹操が、天子を振りかざして抵抗するのを、懲らしめねばならない。
ここで、史書から抹消された、荀彧の兄・荀諶が登場。史実では、曹操でなく袁紹に従ったため、行方がわからない。荀諶の子・荀閎は、曹魏に仕えているが、荀諶の事績はタブーだったようだ。
(史料にないが)荀諶の政治目標は、弟の荀彧と同じく、天子奉戴・天下統一であろう。幼いころ、荀彧と抱負を語りあって、価値観が揃っている。天子が河東にきて、沮授・郭図が奉戴を進言したとき、荀諶も居合わせた。
郭図は『献帝伝』では奉戴に反対するが、ぼくは賛成派ではなかったかと、上の軍師の分類で論じました。荀諶 「官渡の城攻めは、長期化。やはり優れた策ではありません」
袁紹 「沮授・田豊のように、荀諶まで戦意を削ぐようなことを言うか」
荀諶 「この戦いの目的は、曹操の討伐ですか。天子の奉戴ですか」
袁紹 「天子を私物化する曹操を懲らしめ、天子を奉戴するのだ」
荀諶 「答えになっておりません。もしや主公は、曹操との私闘にこだわって?」
袁紹 「バカにするな(図星やがな)」
荀諶 「言うまでもなく汝南は、主公の本籍地。潁川は隣接し、私の本籍地でもある。散在する城・勢力を、袁術は組織化に失敗して、曹操に居座られてしまいました。しかし、天下の中心である豫州を、確実に掌握することが、勝利への王道です」
袁紹 「話は分かる」
荀諶 「曹操が官渡城に籠もりたいなら、かってに籠もらせたら宜しい。むしろ打って出られぬように、完全に包囲しなさい。潁川・汝南は、素性の知れぬ劉備に、任せて良い土地ではありません。ましてや龔都なんて。私が赴いて、説得して参りましょう。われらの本籍地ですから、簡単な交渉です」
袁紹 「ひとりでか(荀諶の功績が突出するのは避けたいな)」
荀諶 「ご子息をひとり、つけて下さい」
長子の袁譚は、官渡にいたという史料の記述あり。次子の袁熙は、幽州で異民族を守っている。三子の袁尚は、きっと袁紹の手許にいる。末子の袁買は、鄴城に残してきたか。
袁紹 「敵地に、かわいい袁尚は行かせないぞ」
荀諶 「主公は袁譚を、亡兄の後嗣として、家から出してしまいました。しかし、潁川・汝南の良識ある士大夫に説くなら、やはり主公の代理は、袁譚でないと務まりません」
潁川名士の郭図・辛評は、史実で袁譚を推す。同じ派閥に属する荀諶も、きっとこの判断をしたでしょう。
荀諶・袁譚が、汝南の平定に赴く
◆夏侯惇の米倉を叩く
荀諶は、袁譚の青州軍の数千とともに、曹操が手薄になった陳留を破る。
夏侯惇は、呂布と戦ったあと、陳留太守・済陰太守となり、みずからも土を背負って、勧農をする。そのあと、夏侯惇伝に、「轉領河南尹。太祖平河北、爲大將軍後拒。鄴、破。遷伏波將軍、領尹如故」とあるから、袁譚・荀諶の進行を妨害してもよい。この陳留・済陰を破壊することは、曹操の兵糧の供給源を絶つことに繋がる。袁譚は、青州の農地が荒廃して、ちっとも徴税できずに苦労した経験がある。夏侯惇のつくった堤防や、整然とした兵糧の運送を見て、おおいに学んでもいいかも知れない。もちろん後半への伏線。
袁紹が「能」を試そうと、子供たちに一州を任せるが、その統治の様子が、史料で読めるのは、きっと袁譚だけ。まあ、荒廃した地に「寛治」では刃が立たず、苦労したという批判的な記述でしたが。
◆名士の陳群を説得する
石井先生は、このとき陳群が沛国のサン県令とするが、陳群伝をみると、「除蕭、贊、長平令」とあり、時期が決まらない。陳群は、汝南の長平県にいてくれたほうが、物語がスムーズか。
陳群も潁川名士。陳群は説得されてしまった。曹操は、陳群の名望に期待して、登用したのだが、陳群が降ってしまうと、沛国・梁国・陳国などが、のきなみ袁紹になびく。
陳群は、直前の陳群伝で、「時有薦樂安王模下邳周逵者、太祖辟之。羣封還教以爲、模逵穢德終必敗。太祖不聽。後模逵皆坐姦宄誅、太祖以謝羣。羣薦廣陵陳矯、丹陽戴乾、太祖皆用之。後吳人叛、乾忠義死難、矯遂爲名臣。世以羣、爲知人」と、人材登用について陳群が、曹操に受け入れられてゆく。
荀諶の説得は、「袁氏のほうが、よく人材を用いる」となろう。袁紹は、初期から人士にへりくだり、天下に門生故吏の人脈をもつ。にわかに君主となり、なりふり構わぬ才能主義の曹操よりも、すじの通った人事施策をできるよと。陳群は、のちの九品官人法の原型を、すでに思いついており、荀諶とともに「やろう!」と意気投合。
陳群の移籍は、ビッグ・ニュース。袁譚は、ほとんど戦わずに豫州がなびく。数少ない曹操の拠点が、なくなる。李通・趙儼・満寵を、袁譚軍が撃破してゆく。曹操は、許都から官渡への輸送路はガチガチに固めてあったが、周囲からの供給が止まって、さらに苦しくなる。
◆曹操が荀彧に手紙を書く
史実で曹操が、荀彧に「兵糧がなくてつらい。許都に撤退したい」という。史実を踏襲しつつ、ちょっと悲壮に。
『陳志』武帝紀だと、時公糧少,與荀彧書,議欲還許。彧以為「紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至強,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之。至弱をもって至強に当たる!
『陳志』荀彧伝だと、「今軍食雖少,未若楚、漢在滎陽、成皋閒也.是時劉、項莫肯先退,先退者勢屈也.已半年矣.必將有變,此用奇之時, 不可失也.」と。「食糧が少ないと言っても、楚漢戦争の滎陽や成皋ほどではありません。楚漢戦争のとき、劉邦と項羽は、先に撤退することを拒みました。先に撤退すれば、敵に屈することになるからです。曹操公が官渡で滞陣して、半年です。今にも形勢が動くでしょう。奇策を用いるタイミングを、逃してはいけません」荀彧 「食糧が少ないのは、楚漢戦争のときの滎陽・成皋と同じぐらい(原典を改変)です。先に退いたら、袁紹に屈することになりますが、軍が瓦解したら、勢力は滅亡し、天子を守ることができません。撤退のタイミングを見逃さないでください」
このとき荀彧は、陳群から手紙をもらっていて、
陳群 「袁譚の青州軍が、済陰・陳留を攻め、夏侯惇のつくった堤防は壊れ、兵糧は河北に運びこませました。……私は、あなたの兄・荀諶に説得され、袁紹に味方したのです。思慮ぶかり荀諶は、あなたが許都で立場を失うことを恐れて、書簡を送りません。しかし本当は、まっさきに誘いたいのは、弟であるあなたなのです。だから私が、荀諶のかわりに、投降を呼びかけております」
荀彧は、陳群を通じて、青州軍の快進撃を知っているから、曹操への返書が悲観的にならざるを得ない。官渡で粘って、曹操が死んでしまえば、献帝を守ることもできない。本末転倒なのです。
◆劉備と合流して、曹仁を討伐する
袁譚軍と劉備軍が、インキョウで合流する。劉備は、袁譚の挙主なので、ふたりは協力しやすい。このペアが、この作品の主導権を握るはず。
武帝紀:汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。曹仁軍は壊滅する。曹仁は再登場するが、またあとで考える。
劉備・袁譚は、許都をめざす!
潁川は、老弱も兵糧を背負って、抵抗に参加していたのだが、陳群・荀諶が帰ってきて、説得するから、抵抗がにぶる。いくつかの県は、袁譚軍に明け渡してしまう。許都に対して、攻撃を掛けるばかりになったとき、
荀諶 「天子に弓を引くわけにはいかない。あくまで、曹操から天子を奪い返すのが目的。袁紹・曹操の戦いを、李傕・郭汜の戦いと同質にしてはいけない」
心ないひとは、「荀諶は荀彧を救いたいから、攻撃を辞めたのだ」と勘ぐるけれど、袁譚が黙らせてくれる。そんなゲスな感情はとっくに克服している。城壁をにらんで、荀彧に語りかける荀諶。
数年前、劉備のもとから去った陳群は、気まずそう。
次回、官渡の戦いが決着します。151231閉じる
- 第2回 烏巣を救援し、官渡を陥落させる
汝南の情勢は、イフによって変動してますが、官渡にも波及。
補給ラインを切断しあう
官渡はまだ史実のまま。
曹操の補給は、万全の体制。後方支援をする任峻は、数千のユニットを十組つくり、いっせいに出発させて、危険を分散させた。道路に二重の防護柵を築き、厳重に警戒。
『陳志』巻十六 任峻伝:官渡之戰、太祖使峻典、軍器糧運。賊數寇鈔絕糧道。乃使千乘爲一部、十道方行、爲複陳以營衞之、賊不敢近。軍國之饒、起於棗祗而成於峻。
「複陳以營衞之」というのが、二重の防護柵と訳されている。曹操は故市で、車数千両の補給部隊を撃滅。荀攸が立案し、徐晃が実行。
武帝紀:袁紹運谷車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然眾少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「卻十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」
武帝紀にひく『曹瞞伝』:攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀 已盡,此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚, 不過三日,袁氏自敗也。」
『陳志』巻十 荀攸伝:軍食方盡,攸言於太祖曰:「紹運車旦暮至,其將韓猛大銳而輕敵,擊可破也。」太祖曰:「誰可使?」攸曰:「徐晃可。」乃遣晃及史渙邀擊破走之,燒其輜重。
『陳志』巻十七 徐晃伝:與曹洪擊イン彊賊祝臂,破之,又與史渙擊袁紹運車於故市,功最多,封都亭侯。督軍糧の韓猛は、任務の大切さを自覚せず、軽々しく応戦。荀攸は、人選の欠陥を見破った。袁紹は、督軍糧に適任者を起用していないのでは、がヒント。烏巣襲撃の布石。
◆許攸の投降、烏巣の襲撃
兵糧があと1ヶ月分を切った、十月。袁紹は、河北の総力をあげて補給。淳于瓊など5人と、兵1万をつける。故市で喪失して、兵糧が不足が深刻化。本営の北四十里の烏巣に集結。充分な防御施設もない。任峻の運搬と好対照をなす、あぶない方法。
沮授は官渡にいて、「支援部隊に烏巣を警戒せよ」
淳于瓊は、西園八校尉のとき、曹操・袁紹と同格だったこともあるから、官渡の戦い自体をナメている。天下分け目というより、旧友同士のケンカだと、馴れて見ている。沮授はそれを戒めたのだが……。袁紹陣営には、根底に「奔走の仲間たち」が醸し出す、甘えのようなものがあり、沮授はそれを危ぶんでいる。袁紹の君主権力が確立しにくいし、軍では命令の不徹底を招くかも知れないから。
さて、おもしろくないのは許攸。きますよ分岐!
許攸は、「許都を襲撃せよ」と進言したのに退けられた。しかしその後、荀諶が採用されて、許都に袁譚・劉備軍が逼っている。「やはりオレの考えは正しかった。なぜ袁紹は、オレを退けて荀諶を持ちあげたのか」
袁紹にも事情があり、許攸は奔走の友(淳于瓊と同質)であり、荀諶は冀州で迎えた名士。「許攸なら分かってくれる、我慢してくれる。しかし荀諶には気を使わねばならない」という配慮がある。寄せ集めの陣営を運営していくための知恵。当否はさておいて、袁紹の組織論である。
おもしろくない許攸は、曹操に投降する。しかも一族が鄴城で法を犯して、審配に捕らわれてる。『范書』袁紹伝:。會攸家犯法,審配收繫之,攸不得志,遂奔曹操。
許攸は、袁紹の旧知である。審配は河北の豪族。許攸は、袁紹との個人的関係にものを言わせて横暴をやり、河北の財物を奪ったりしたのだろう。袁紹軍の内輪モメは史実どおりで。
曹操は、裸足で許攸を迎える。許攸が、「烏巣を襲撃せよ」とリークする。荀攸・賈詡だけが合意。とくに(石井先生のいうとおり)賈詡は、トザマの気持ちが分かる。もっとも重要な時期に、もっとも恩を売れるかたちで投降して、戦局を動かす。自分と同じにおいを感じて、賈詡・許攸は意気投合。
許攸が飛び出した理由は、イフになってます(荀諶への不満)。しかし、許攸のリークは史実だし、賈詡との意気投合は「史料に残りにくい事実」に属する。曹洪を官渡城に残して、曹操は烏巣を襲撃。淳于瓊は、愚かにも応戦。兵糧が積み上げられた陣地に逃げこむ。曹操軍は、物資に火をつける。これは史実。
武帝紀:冬十月,紹遣車運穀,使淳於瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十裏。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。
◆烏巣の救援 or 官渡の攻撃
袁紹は後手にまわった。烏巣を救うべきか。曹操が不在の官渡を襲撃するか。
武帝紀:紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。
袁紹は淳于瓊が撃たれたと聞いて、袁譚に「官渡を抜けば、曹操は帰る場所がなくなる」という。こうして袁紹は、張郃・高覧に曹洪を攻めさせた。史実では袁譚に話しかけるが(袁譚が戦場にいた証拠)本作では袁譚がいない。袁譚に相談する代わりに、一瞬だけ内省した。すると、袁譚からの連想で、荀諶の言葉を思い出す。
(この戦いの目的は、曹操の討伐ですか。天子の奉戴ですか)
烏巣で淳于瓊が斬られたが鼻をそがれて(『曹瞞伝』)帰ってきたが、そういえば許攸の姿が見当たらない。烏巣の最高機密を知り、かつ行方が分からないのは、許攸ぐらい。淳于瓊・許攸とも旧友である。曹操も旧友である。漢王朝の高官としての自負を、荀諶をきっかけに呼び起こされ、袁紹は再考する。
袁紹は袁紹に謂ひて曰く、
(この戦いの目的は、天子の奉戴である。官渡城を攻めれば、旧友の曹操が帰還する場所を失い、彼を痛めつけることができる。しかし、曹操を倒して、この戦いが終わるのではない。これから本格化すべき、天下統一の戦いまで見据えよ、袁本初。官渡の物資は、河北からの預かりもの。これを失っては、統一戦争ができない)
◆張郃と郭図の対立
内省する袁紹の前に、寧国中郎将の張郃が現れる。河間張氏の名家。
『陳志』巻十七 張郃伝:張郃字儁乂、河間鄚人也。漢末應募討黃巾、爲軍司馬、屬韓馥。馥敗、以兵歸袁紹。紹以郃爲校尉、使拒公孫瓚。瓚破、郃功多、遷寧國中郎將。張郃 「曹操軍は強いから、淳于瓊は必ず敗れる。淳于瓊が敗れたら、将軍の事業は終わってしまいます。烏巣を救いましょう」
郭図 「曹操の本営を撃つほうがよい。本営が落ちれば、曹操軍はおのずと解体する」
張郃 「官渡城の守備は堅くて抜けない。もし淳于瓊が捕らわれたら、われらは曹操の捕虜となってしまう」
河北の名族である張郃が、袁紹の友である淳于瓊を救えという。袁紹集団は、きちんと機能している。史実ベースなのに、すでに泣かせる展開。まあ、張郃は魏将になるので、補正されているのでしょうが。張郃伝:紹遣將淳于瓊等督運屯烏巢、太祖自將急擊之。郃說紹曰「曹公兵精、往必破瓊等。瓊等破、則將軍事去矣。宜急引兵救之」郭圖曰「郃計非也。不如攻其本營。勢、必還。此爲不救而自解也」郃曰「曹公營固、攻之必不拔。若瓊等見禽、吾屬盡爲虜矣」紹但遣輕騎救瓊、而以重兵攻太祖營、不能下。太祖果破瓊等、紹軍潰。郭図は、突き詰めれば、兵糧のことは、どうでもいい。それよりも、堂々と曹操を正面突破して、天命が袁氏にあることを示したい。理念が先行すれば、兵糧のことなど眼中になくなる。
郭図は、袁氏の王朝を推進するキャラにしよう。
史実で郭図が讒言しまくるのは、組織の維持、袁紹の君主権力を確立のため。袁紹のなかには、「漢の復興」「王朝の創立」など、複数の政治目標が同居しているが、郭図は「王朝の創立」担当。
兵糧を心配する郭図は愚かに見えるが、組織には一人ぐらい、「飯の心配なんかせず、理念を立案する」という人間が必要。郭図は、上げ膳据え膳の待遇を確保して、ひたすら思索にふければよい。そういう生き様って、羨ましいw
「人格に問題があるが、頭脳はすこぶる切れる」という、「純粋軍師」郭嘉の同族。郭図をカッコよく描けたら、本作は成功だなー。
張郃 「烏巣を救援せよ」
郭図 「官渡を攻撃せよ」
史実の袁紹は、烏巣を主張した張郃に、官渡を攻めさせるというネジレを起こして失敗する。きっと、張郃・郭図のどちらかに、手柄を独占させないという配慮・組織論ゆえだろう。
本作の袁紹は、烏巣の救援に、意見が傾いている。そこで、
袁紹 「郭図を中軍、張郃・高覧を左右の両翼として、軽騎をひきいて烏巣を救援せよ」
と、張郃だけに手柄を与えないかたちで、烏巣への兵力の集中を命じる。
郭図 「官渡城を攻めなさい。チャンスなのに!」
チャンスには変わりない。曹操が不在で、曹洪しかいない。
袁紹 「では官渡城は、重兵に攻めさせよう」
張郃 「兵力の分割は、いけません」
袁紹 「(希望どおり烏巣に行かせるのだから、でしゃばるな)」
けっきょく(史実なみに)兵力を分割する。また、「官渡を攻めたい郭図に、烏巣を攻めさせる」という、史実とは異なるネジレが生じた。
このイフ展開でも、目の前でケンカを始めた郭図・張郃を丸く収めるために、なりゆきでネジレを生んでしまった。だってそれが袁紹の組織論なんだもの。
背景を確認する。
冀州派の沮授の軍権は、冀州派の沮授・潁川派の郭図・旧友の淳于瓊に三分割している。袁紹には、主力が3つあり、沮授・郭図・淳于瓊である。
淳于瓊が、三分の一をもって、重要拠点を守った。ここに、郭図を投入する。三分の二が烏巣に集まることになる。本作で郭図を主将にするのは、理由のないことではない。指揮にすぐれて戦果をあげるのは、どうせ張郃だけど。
沮授は、史実でも本作でも進言が退けられているが、軍の三分の一は持っている。史実で、曹操軍に敗れて逃亡を図るなど、袁紹軍の重鎮である。沮授の三分の一をつかって、袁紹の本陣を守っていたと思われ、本作でも同じ。
折衷的でネジレているのは、袁紹は自覚的。むしろ、わざとそうしている。だれかに権力が集中しないように、バランスを取るのが得意(本人の感想です)
戦場の極限状況のなかで、わずかな刺激の違いにより、ボタンの掛け違いのように、袁紹の判断が史実から変わる(しかし袁紹のキャラは史実と変わっていない)のは、リアリティがあることだと思います。
官渡の結末
ボタンの掛け違いを整理すると(史実/本作)
張郃:意見が却下・重兵で官渡に / 意見が採用・軽騎で烏巣
郭図:意見が採用・戦いに行かず / 意見が却下・戦いに行く
◆烏巣の救援が成功する
淳于瓊は鼻が削がれて(『曹瞞伝』)晒される。
しかし兵糧の延焼を食い止め、袁紹軍の勝利。
張郃の戦いがめざましかったが、郭図の部隊が中央突破され、曹操軍に逃げられてしまう。郭図は、指揮がうまくないから。
曹操が逃げたという連絡を受けて、張郃が郭図をにらむ。
郭図は慚じて、「淳于瓊を失い、曹操を逃がしたのは、張郃のせいです。不遜なことを言ってましたし」と讒言する。そもそも郭図は、官渡を攻めたかったのであり、烏巣に行かされて、失敗したとあっては、おもしろくない。
張郃は懼れて、曹操に投降する。
張郃伝:圖慚、又更譖郃曰「郃快軍敗、出言不遜」郃懼、乃歸太祖。張郃は、戦勝の功績を郭図に献上する。敗戦の将軍として、袁紹に謝りにゆく。張郃には、転籍する先がないから、現状の組織に耐えるしかない。
袁紹は、郭図と張郃を等しく賞した。公平に功績を評価するなら、張郃のほうが重い。しかし、郭図を罰したくない。また郭図の讒言を、真に受けるつもりもない。だから、ナカを取って、均等に褒めた。
張郃の抱いた違和感は、どこかで爆発させないと。
◆官渡城の陥落
烏巣で、曹操軍が壊滅したと聞いて、留守をする曹洪・荀攸は、城を保てなくなる。史実では、烏巣が落ちたと聞いて、官渡を攻める張郃軍の士気が下がる。それの逆転。めぼしい将がいない重兵でも、官渡を落とせそう。曹操の逃げる時間を稼ぐため、最後の抵抗をして、曹洪は討ち死に、荀攸は捕虜になる。
荀攸は大声でわめいた。「私は降ったのではない。捕らわれたのだ。わが知・力は、ともに尽きて捕らわれた」
袁紹 「曹操は謀がなく、荀攸の計略を用いないから、敗れたのではないか。喪乱は十二年におよび、国家は定まらない。私に協力しないか」
荀攸 「曹公は私の計略を、存分に用いてくれた。烏巣の襲撃を提案したのも、私である。家族の命は、曹氏に預けた。年下のおじは、許都にいる。もし私に配慮してくれるなら、速やかに死なせてほしい」
袁紹 「もっと早く、きみを迎えておれば、天下のことは心配が要らなかったのに」
荀攸は(董卓から脱獄したノウハウを使って)脱獄を試みたが、殺された。
これは、史実の沮授の反転である。
袁紹伝の裴注『献帝伝』:沮授為操軍所執,乃大呼曰:「授不降也,為所執耳。」操見授謂曰:「分野殊異,遂用圮 絕,不圖今日乃相得也。」授對曰:「冀州失策,自取奔北。授知力俱困,宜其見禽。」操 曰:「本初無謀,不相用計。今喪亂過紀,國家未定,方當與君圖之。」授曰:「叔父、母、 弟懸命袁氏,若蒙公靈,速死為福。」操歎曰:「孤早相得,天下不足慮也。」遂赦而厚遇焉。授尋謀歸袁氏,乃誅之。
烏巣で主力が壊滅した曹操は、許都をめざす。どさくさに紛れて、生き残ってしまった許攸も、曹操とともに駆けている。次回に続く。160101閉じる
- 第3回 曹操が魯陽に逃れ、袁譚が東征
曹操が許都を放棄する
大幅に兵数を減らして、曹操は、許都に逃げこむ。許都のそばには、袁譚・劉備がいるが、遠くに軍を置いていたし、まさか曹操が飛びこんでくるとは思わない。さすが曹操。度肝をぬく。
曹操と荀彧が感動の再会をしつつ……、
許都は、輸送に優れて兵糧を集めやすい反面、守備には向かない。
@fushunia さんはいう。春秋時代の許は、民族の十字路みたいなところで、許国はふらふらと国の場所を変えることを繰り返したので、あんまり良い印象無いですね。献帝の場合は、食料を確実に運び込めるからでしょうか? 文帝紀に、当塗高とは魏であり、許昌の気は当塗高に見える、「道に当たって高い」とは『周礼』の「象魏」(門の両側の望楼)のこと、魏は許昌を基礎としているとありますが、その道は許昌に集まる交通の路のことでしょうか?(史実なみに)潁川だけは曹操に味方していたが、袁譚・劉備だけでなく、袁紹の堂々たる十万が押し寄せるのは、時間の問題。
低湿地にあり(袁紹伝)守備力の高くない許都に籠もっても、勝ち目がない。
◆許都の死守をいう荀彧
荀攸を失って、冷静さを失った荀彧は、許都の物資をたのみにして籠もろうという。史実で荀彧は、曹操が徐州に転戦するとき、「劉邦・劉秀とも本拠地を確保したから勝てた」と主張した。本拠地に敏感なひと。いま許都を捨てたら、勢力は滅亡する。こちらには天子がいるのだから、きっと勝てると。
やや柔軟性を欠くところも、荀彧らしいかな。
荀彧 「許都の周囲には、屯田の部隊がおり、生産と戦闘をどちらもできます。それを活用すべきときが、来たのだと考えましょう。現状維持がベスト」
曹操は、はじめに袁紹の先兵として兗州を本拠地としたが、もう袁紹の勢力圏。かつて曹操は鄄城にいたが、袁紹が「天子を鄄城に移せ」と要求するほどには、袁紹が有利なところ。黄河沿いの兗州は、官渡のとき(史実でも元からそうであったが)袁紹になびく。
むしろ曹操は、袁紹から自立するために、兗州から出て、潁川に来たのだ。曹操を潁川に連れてきた張本人として、荀彧は潁川に残ることを主張。
◆魯陽にいけと賈詡が唱える
荀彧に、賈詡が反対する。賈詡は、官渡の直前に曹操に降った。袁紹の誘いを張繍に蹴らせた以上、すぐに袁紹軍に降ることができない。むしろ賈詡は、ベストな寝返りのタイミングを探っている。「曹操に賭ける」というバクチは外れたのだが、本性と自信は変わることがない。
賈詡 「三方が山に囲まれた要塞、魯陽に行きましょう」
荀彧 「脱出は危険だ。袁譚・劉備がいる」
賈詡 「袁紹軍の本隊が来たら、絶望的になるよ。早く決断を!」
『陳志』巻十四 董昭伝:太祖曰「此孤本志也。楊奉近在梁耳、聞其兵精、得無為孤累乎?」/昭曰「奉少黨援、將獨委質。鎮東・費亭之事、皆奉所定、又聞書命申束、足以見信。宜時遣使厚遺答謝、以安其意。説『京都無糧、欲車駕暫幸魯陽、魯陽近許、轉運稍易、可無縣乏之憂』。奉為人勇而寡慮、必不見疑、比使往來、足以定計。奉何能為累!」
まだ献帝が許都にくる前。楊奉から献帝を奪いたい曹操に、董昭がいう。「魯陽にいくと楊奉に告げて(楊奉をだまし)許県に行きましょう」
魯陽は、もと袁術・劉表の勢力圏であり、張繍・曹操が連戦した地域だから、曹操・賈詡にとって土地勘がある。
きっと、董卓軍の流れをくむ張繍軍は、曹操を烏巣から生還させるために尽力した。賈詡の発言力は高くなった。荀攸はもういない。「肩身のせまい新参者」から、一瞬にして脱した賈詡さん。史実以上に、急に偉そうになったかも。張繍軍を有効活用するためにも、魯陽はいい。
史実では三公になったが、ほかの高官と付き合わないなど、「形見のせまい新参者」の境遇は、死ぬまで続いた。本作では、賈詡は力をもつ。
◆董昭が賈詡に賛同する
縦横家・董昭も賛成する。董昭は、かつて袁紹の軍師として働いたこともある。袁紹の檄文を偽作して、賊を動揺させた。魏郡の反乱を平定して、魏郡太守になった。張邈との関係を疑われ、袁紹に殺されかかったことがある。袁紹にぶつけるために、冀州牧の肩書きを持った。魯陽が「ウソからでたマコト」になったことに驚きつつ、やはり地勢が悪くないと考える。頴川郡に散らかした食糧も、魯陽になら運べる。当然、守備隊をつけるし、相応の犠牲が出るだろうが。
曹操が献帝を連れて魯陽にゆく
◆動座に抵抗する献帝
曹操が、献帝を劫略して、外に連れて行こうとする。しかし、献帝が五年の時を経て成長しており、曹操に抵抗する。
献帝 「幼いころ、董卓・李傕におどされ、関中を連れ回されたが、もうマッピラである。まして曹操は、長安から付き従った忠臣・董承を殺したではないか。朕は、許都に残って袁紹軍を待つぞ」
曹操 「どうして抵抗するのですか。私は忠臣としてあなたを奉戴しました。あなたを廃する気はない。袁紹がどうするか保証はない。袁紹は、劉虞に帝位を勧進した男ですから、廃立も辞しません(半分はデマ)。そのとき後悔しても遅いぞ」
楊彪・耿紀 「正体を表して、陛下を威したな、曹操」
耿紀は、漢王朝の最後のクーデターを、金禕とともに起こすひと。董承らが死んだので、代わりに献帝を守る役目。弘農楊氏・扶風耿氏は、後漢の名族。
曹洪・荀攸が、官渡城を死守して時間を稼いだおかげで、曹操・荀彧・賈詡・董昭は、献帝・伏皇后・楊彪・耿紀を連れて、許都を脱出できた。劉備・袁譚との戦闘になるが、張遼・于禁・楽進が奮戦する。突破する。
魯陽にゆく。守りを固める。
袁紹が許都に入り、沮授が停止を主張
袁紹軍は、官渡を抜く。陽武-官渡-許県あたりに、袁紹軍が散らばる。大軍すぎて、城ひとつに入らない。また、烏巣で兵糧を半分くらい焼かれたので、すぐに身動きが取れない。
曹操が脱出するとき、許都を徹底的に破壊する。せっかく、帝王の都として建設したはずなのに、わずか5年で放棄することになるとは……。
◆沮授が撤退を主張する
沮授 「曹操からの投降兵が、一万ほどいます。河北の備蓄を吐き出して輸送した、烏巣の兵糧は、半分ほど曹操に焼かれてしまった。進軍は不可能。洛陽の宗廟を修復して、天下に号令しなさい」『陳志』袁紹伝で、冀州を得たばかりの袁紹に、沮授がいう。
合四州之地。收英雄之才、擁百萬之衆、迎大駕於西京、復宗廟於洛邑、號令天下、以討未復、以此爭鋒、誰能敵之?比及數年、此功不難。
河北四州を得るまでは、軍事行動が必要。しかし四州を得たら、軍事行動は不要。つぎに必要なのは、軍事ではない。天子を迎えて、宗廟を直せば、おのずと対抗者が消滅して、数年で天下が定まると言っている。発言に一貫性がある。
袁紹 「快進撃をしているのに?」
沮授としては、官渡で勝ったから良いものの、この戦役は、そもそも蛇足だったと思う。だから一貫して、反対してきた。戦いが終わった以上、もう蒸し返すまい。しかし、これ以上の戦いは、ヘビの絵をムカデの絵に変ずる愚行。
沮授 「さすが曹操というべきで、わが軍の犠牲は大きいのです。(私が一人で軍を任せるなと忠告した)顔良・文醜は討たれました。官渡に釘付けにされて、国富を損ないました。洛陽を修復して、正義がこちらにあることを示せば、二年のうちに、おのずと天下が定まるでしょう」
心ある朝臣が、曹操のクビを届けるかも知れないし。
沮授は、官渡の戦いが蛇足だと思っている。沮授は、清潔な直言の士だから、言うべきことは言う。
それに、沮授の言い分は本当。臆病な慎重論ではない。兵糧はカツカツ。兵が飢え始めている。曹操が備蓄を、破棄・持ち逃げしたから、現地調達もできていない。
沮授は、官渡の前は「三年のうち」といったが、1年を縮めた。
沮授 「経済基盤のない河南に、大軍を留めていると、戦いに勝ったのに、軍が自壊し、負けになってしまう。初平二年、主公が董卓軍を攻めあぐねたとき、大軍で滞陣して飢えたことを忘れましたか。当時、主公には根拠地がなかった。しかし冀州という基地が、主公の領土です(私たちが献上したんだけど)。河南は、曹操・呂布が荒らし回って、とても補給ができる状態ではない。いま冬だし、今年の収穫は全て曹操が刈り取ってしまいました」
曹操は撃つべき。しかし、もう大軍は不要。かっこ悪くても、合理的な兵の運用をせよと、沮授はいいたい。袁紹は、信念に照らし、納得できない。
建安六年春、袁紹は沮授の言うとおり、洛陽の修復に一万を出した。
このあたりで、年をまたがせましょう。
袁紹がすぐには曹操を攻めない
◆田豊が釈放される
袁紹 「洛陽の修復は、地道に進めるとしても、曹操・天子を捕らえたい。天子のいない洛陽なんて、画竜点睛を欠くよね」
逢紀 「曹操攻め、私にやらせてください」
官渡に行く前、審配・逢紀が「軍事を統べ」る大権をもらった。審配は留守を守った。逢紀は手柄がほしい。最後のツメをやりたい。
袁紹 「いいや、田豊に任せよう。軍師として、いちばん信頼できる」
公孫瓚を滅ぼすことができたのは、田豊の知略のおかげ(史実)。公孫瓚を易京でツメたように、曹操を魯陽でツメてもらいたい。
袁紹 「逢紀が鄴県に赴き、礼を尽くして田豊を獄から出し、許県に連れてきてもらいたい(私の代理として、賢者に礼を尽くせるのは、旧知の逢紀くらいだ。逢紀のことを信頼しているから、この役割を任せるのだ)」
逢紀 「(こんな屈辱はないぜ)」
すれ違い続ける、可哀想な袁紹の軍師たち。
官渡の戦勝により、みな罪が減じられた。田豊が許されて、獄から出された。袁紹の旧知・逢紀が、鄴県から「護送」してきた。その道すがら、
役人 「田豊さん、主公に許されてよかったですね」
足の不自由な田豊は、杖が手放せない。公孫瓚と戦ったとき、矢の豪雨がそそぎ、袁紹を身を挺してかばった。田豊がじいさんというイメージの由来は、袁紹が徐州を攻めないとき「杖を叩きつけた」という描写からか。戦場で足を負傷にしたから、と設定したら、おもしろくないか。公孫瓚軍の矢から、袁紹とともに逃げ回る描写があるのだし、現場系の軍師。じいさんじゃなく描ける。「宦官が朝廷をほしいままにしているから、官職を捨てた」という記述もあるので、若いというより、じじいとは限らない、という程度かも。田豊 「しかし曹操・天子を取り逃がしたのだろう」
戦術に秀でた自分が呼ばれたのは、曹操・天子を捕らえるためだと、田豊は心得ている。誇らしいし、久しぶりに活躍できるので、気が逸っている。
役人 「もしも前線に田豊さんがいれば、とっくに曹操・天子を捕らえたのに。兵士たちは、ウワサしあっているそうですよ」
史実では、『范書』袁紹伝にひく『先賢行状』で、「紹軍之敗也,土崩奔走,徒眾略盡,軍將皆撫膝啼泣曰:『向使田豐在此,不至於是。』」田豊がいたら、袁紹軍は敗れなかっただろう」と。田豊 「はっはっは(いかにも、そうだ。これから頑張るぞ)」
◆田豊が速戦を主張する
田豊の様子を見た逢紀は、袁紹にいち早く合流して、
逢紀 「主公にチクらせて頂きます。田豊は、主公が曹操・天子を取り逃がしたことを、手を打って笑っています」
裴注『先賢行状』:紹謂逢紀曰「冀州人聞吾軍敗、皆當念吾、惟田別駕前諫止吾、與衆不同、吾亦慚見之。」紀復曰「豐聞將軍之退、拊手大笑、喜其言之中也。」紹於是有害豐之意。初、太祖聞豐不從戎、喜曰「紹必敗矣。」及紹奔遁、復曰「向使紹用田別駕計、尚未可知也。」袁紹 「なんだって」
正攻法の圧倒的な勝利は、曹操・天子を、一撃で手に入れて、完成するはずだった。完成のために田豊を呼んだものの、田豊に侮られていると感じて、穏やかでいられない袁紹。
袁紹の不機嫌も知らず、田豊は提案する。
田豊 「曹操は魯陽に籠もったそうですが、彼が守りの体制を整える前に、すぐに撃破すべきです。私に指揮を取らせてくれたら、来月には、曹操のクビをお目に掛けましょう」
許都は五年間も天子がいて、曲がりなりにも宮城であった。許都を攻めることは、大逆を連想させた。しかし魯陽は、幸い、ただの逃亡先である。フラットに戦える。
袁紹 「袁尚が、この戦いで負傷してな……」
田豊 「は?」
袁紹にも思惑がある。袁譚は、豫州の平定という功績があった。しかし袁尚は、結果を出せなかった。曹操を撃ち取るならば、袁尚を総大将にしたいのだが、袁尚が出られない。袁譚に亡兄の家を嗣がせ、ゆくゆくは袁尚を後嗣にしたいから、袁尚に手柄がほしい。
きっと『蒼天航路』のように片腕の手首から先を切り落とされた。張遼あたりに。田豊 「またまたチャンスを逃がすんですか?」
袁紹 「『またまた』とは、なんの物言いか。私がいつ、チャンスを逃したか。今回、沮授が、持久戦に切り替えよと言っていた。私は少々、沮授のことを虐げすぎた。彼の言い分を聞いてやるべきだと思っている」
田豊 「沮授が述べているのは、おおきな戦さ、戦略のことです。関中・荊州などの強敵と、ことを構えるなと言ったに違いない。目と鼻の先に、敗残の曹操がいる。大軍はいらないし、短期決戦をするから、私にやらせて下さい」
袁紹 「ダメだ(逢紀によると、田豊は私をバカにしておるから、気が変わったもんね。田豊の世話になってたまるか)」
ワガコトサレリ! 田豊は、杖を叩き折った。
『陳志』袁紹伝:建安五年太祖自東、征備。田豐說紹、襲太祖後。紹辭以子疾、不許。豐舉杖擊地曰「夫遭難遇之機、而以嬰兒之病失其會、惜哉!」
その夜、袁紹は逢紀と話す。
田豊の憤りをよそに、袁紹は少し安心していた。沮授・田豊は、どちらも冀州出身で、名声が高い。「ふたりの言うことを聞いていれば、つねに正しい」という、ふたりの知恵に対する信仰のようなものがある。
袁紹は、「そんなことが、あってたまるか」と思っている。自分がバカ君主で、ふたりが不遇の賢者というステレオタイプは、許すことができない。沮授・田豊に、意見の上で対立をさせ、それよりも、いち段階たかい所で、自分が君臨する。
よく耳を傾ければ、沮授と田豊は、同じことを言っているのだが。それほど多くない兵で、曹操を撃ちましょうと。沮授は戦略の観点から話すのに比べ、田豊は戦術の観点から話すから、バラバラのことを言っているように聞こえる。この袁紹の本心に、逢紀が寄り添っている。旧友の許攸が、曹操のもとに走ってしまい、袁紹は、なんでも逢紀に相談するようになっていた。
そのころ……、
曹操は、田豊が呼び寄せられたと聞いて絶望したが、田豊が退けられたと聞いて安心した。「もし田別駕の計略を用いられていたら、どうなったか分からん」
裴注『先賢行状』:初、太祖聞豐不從戎、喜曰「紹必敗矣。」及紹奔遁、復曰「向使紹用田別駕計、尚未可知也。魯陽の要塞化を、急ピッチで行った。なんで袁紹が攻めて来ないのか、頭からクエスチョンマークを飛ばしながら。建安六年、夏のことだった。
河南:劉備・袁譚が、徐州・青州に
曹操が魯陽の一帯だけの小勢力となり、天子を囲いこんだ。袁紹は、曹操の将才を知っているから、攻め手を探る一方で、袁譚を外に出した。
官渡で勝ってから、半年も経ってしまった。史実より、わずかに長生きさせるにしても、袁紹の寿命、大切に使わないといけないのにw
袁紹 「譚よ。豫州・兗州をめぐって、太守・令長を任命する権限を与える。曹操に近しい者は殺せ。そうでなければ、袁氏の名のもとに再任を許せ」
袁譚 「はい。劉備を連れていって宜しいですか」
袁紹 「よろしい(劉備の存在感が、ちょっとジャマだしな)」
袁紹 「曹操の任命した長官から、徐州を奪え。泰山の諸将は、曹操とゆるい同盟関係にあった。彼らを、現任の太守に任命しなおせ。抵抗するなら、滅ぼしても構わん。理想をいえば、半独立の勢力は要らぬから、殺したいところだ」
袁譚 「はい。青州刺史として、曹操が兗州に住まわせている、青州兵の家族の戸籍を整えたいと思います」
袁紹 「その意気だ。使持節都督青、徐諸軍事、治下邳てな感じで、頼むよ。下邳を攻めるなら、劉備の経験が役立つだろうな」
上の肩書きは『陳志』巻九 曹爽伝 裴注『魏略』の桓範のもの。袁紹は『能』を見るために、子供たちに一州を預けた。袁譚は、劉備とともに戦功を立てたことにより、ほかの子よりも、一歩、前に出た。もしくは、厄介払いされた。どちらとも決まらない人事。
袁紹 「二万を与える。兵糧は自分でなんとかしろ」
袁譚 「ムチャぶり!」
袁紹 「沮授の言うとおり、兵糧が足りないんだもの。きみに与えた領地・青州から、補給を繋いでみるとか、工夫しろ」
袁譚 「(青州は荒れて、税収がほぼゼロなのに。あ、別駕の王脩をもっと活躍させればいいのか。希望が見えてきた)」
袁紹のもとに荀諶を残せば、荀彧と戦わねばならない。袁譚の誘いで、荀諶も東征する。荀攸を失った悲しみを乗り越え、荀諶は軍師を務める。
そんなこんなで、袁譚・劉備が「割拠」勢力として、隠然たる存在感を持つようになるのは、数年後のことです。
河北:監軍の審配を更迭する
袁紹が最優先にしたのは、「外征を停止して内政」。ツイッターのアンケート結果より。本人が優柔不断であり、兵の人数が多いから、どうも動きがにぶい。董卓と戦ったときも、1年以上、ダラダラしてしまい、戦争の目標を見失った。
とりあえず河南は、袁譚・劉備に任せたからよし。
河北について、トラブルが発生する。
官渡では勝ったものの、袁紹軍は無傷ではなく(本作で、袁尚が負傷したという設定だし)、審配の二子が死んだ。
審配と仲がわるい孟岱というひとは、袁紹にチクる。「審配は、位にあって(鄴を守る監軍の任務にあり)政を専らにし、一族は大きく、兵が強い。二子を失って、袁氏に反感を持っています。鄴をあげて、袁氏に叛くかも知れません」
『范書』袁紹伝:官度之敗,審配二子為曹操所禽。孟岱與配有隙,因蔣奇言於紹曰:「配在位專政,族大兵強,且二子在南,必懷反畔。」郭圖、辛評亦為然。
史実では、審配の二子は、曹操軍に捕らわれる。本作では、曹操にその余裕がないから、戦死してもらう。審配は、袁紹がおそれるほどの大豪族。袁紹は、許都に出張っているから、心細い。もし審配が叛けば、帰る場所がなくなる。審配と同じく冀州派に属する沮授が、撤退を主張したのは、やはり理由のあることである。冀州豪族から、「袁紹に付き合い切れない」オーラが出ている。
袁紹 「冀州がこの袁本初を見捨てるというのか?!」
正直なところ、故郷の汝南も制圧して、馴染みある黄河の南に帰ってこれて、ホッとひと息、ついたところ。それゆえに、冷や汗が止まらない。
潁川出身の郭図・辛評も、「審配のことが心配だ」という。
理由は違うが、史実でもふたりは同調する。袁紹は、審配を更迭して、孟岱を監軍とし、鄴を守らせた。
建安六年の秋、審配は、罪をわび、宗族をひきいて移動。故郷である鄴県を出て、黎陽の守備を願い出た。黎陽は、鄴都と河南のあいだにあって、兵糧を集積する要所である。官渡に行く前、袁紹が駐屯したことがある。
ここを審配に抑えられ、叛かれたら、袁紹軍は飢えるしかない。
史実では、袁紹の死後、袁尚・心配に鄴県を取られて、行き場をなくした袁譚が、黎陽に入る。審配の真意はどこにあるか? 袁紹の周囲は震え上がる。
しかし、袁紹軍の主力は、黄河の南にきており、留守の軍では、力ワザによって、大姓の審配を抑えることができない。むしろ留守の軍は、審配の言うことを聞くのではないか。袁紹は、審配の黎陽ゆきを追認するしかない。
沮授 「審配は忠烈なひとです。黎陽の守備を強化したいと言っているのだから、へんな疑いを持ってはいけません。むしろ疑ったら、ほんとうに審配が裏切りますよ」
袁紹 「(沮授も審配と同じ、冀州豪族だったな)冀州豪族の出身者が、どいつもこいつも、不気味になってきた」
沮授 「主公の胸中は、よく分かります。やはり、主力の数万をひきいて、鄴城に戻りなさい。他人を貶めるつもりはありませんが、主公の属僚である孟岱では、鄴県は治まりませんよ。孟岱は、私情によって、審配を告発したのですから」
袁紹 「(沮授の目が、怪しく光っておる!)」
無名の孟岱では心配である。審配の軍権を代行できるとも思えない。
袁紹は、辛評(審配の疑惑に同調した)を鄴にゆかせた。審配の軍権を二分割して、辛評に与えた。(皮肉なことに)審配の手腕により、郡県の網羅的な支配が進み、冀州の徴兵が進んでいる。二分割しても、数万を動員できる。
辛評は、弟の辛毗とともに鄴県に入って、黎陽の審配とにらみ合った。孟岱は、辛評の指揮下に入った。辛評・審配の対立は、いまだ表面化しない。
辛評・審配の対立とは、史実における、袁譚・袁尚の対立です。史実の辛評は、審配と厳しく対立したという印象しかない。史料にないから。辛毗を参考にして、キャラづけが必要。辛評から袁紹に提案して、審配の一子を鄴県に置かせた。審配は、辛評と対立こそすれ、袁紹に逆らう気持ちはないから、しぶしぶ承諾した。辛評が、審配の子をいじめるフラグが立った。
次回、劉表が動き始めます
表向き、袁紹は許都に乗りこみ、各方面に平定軍を出しているから、勝者に見える。しかし、曹操の去ったあとの空隙を埋め、どっちつかずの小勢力を整理しているだけ。本格的な軍事行動は起こさない(起こせない)。
大軍を持て余して、ウロウロしているあいだに、唯一といってもいい、袁紹のライバルが動きだす。劉表である。史実なみに、張羨の残党を平定して、荊州の南部四郡を取りまとめた。各地から学者を招き、もっとも国力が充実した時期を迎えつつある。つづく。160101閉じる
- メモ:最終回までの見通し
ここで小休止。話の全体像のイメージをつかんでおきます。そんなに長い話ではないので、この時点で着地が見えていないと、収拾がつかなくなる。
◆年末年始の雑感
2016年の正月から、シナリオを考えて遊んでおります。年末年始のツイート。
『袁紹大躍進』は、史実の曹操の小説づくりの派生。原稿用紙500枚、印刷したら1000円のお手軽な作品にする予定です。
お手軽というのは、おもに書き手にとって。史料整理・あらすじ・プロットが完成した後、平日が通常操業なら、1ヶ月もあれば本文を書ききることができる。去年の今ごろ(2014年末、山梨に旅行してたころ)は、三国志フェスに向けて、初めての同人誌『曹丕八十歳』を書き上げられるのか?と、焦っていた。前進できた1年でした。ありがとうございました。(2015年12月31日21時31分)
2016年1月1日に、上のシナリオをアップして、初詣に向かいながら、下にあるような最終回までの見通しをつけた。
最終回までの見通し
◆劉表のもとに飛びこむ曹操
つぎ(上記 第3回の続き)は、縦横家の董昭が、劉表に「魯陽の曹操を討ち、天子を手に入れるチャンスです。勤王家なら、もちろん来ますよね」と吹き込む。北上した劉表は、袁紹軍とつぶしあい、曹操にチャンスが生まれる。
許攸は、魯陽で劣勢の曹操に付き合いきれず、劉表北上の情報を手みやげに袁紹に飛びこむ。袁紹は許攸をゆるす。許攸は、ふたたび袁紹集団を掻き乱す。
許攸は、「許攸に知られたくないが、劉表軍が北上して、天子を狙うそうだ」という密談を、うっかり聞いてしまう。しかしそれは、曹操がわざと許攸に聞かせたこと。許攸には、極秘情報を得たと思わせながら、それは極秘ではないが、情報としては正しい。だから袁紹からの信頼を取り戻すことができる。分かりにくいですねー、おいおい書きます。
曹操は、袁紹・劉表の衝突の隙を見て、鍾繇を頼って関中に行こうとしたが、道程も情勢も不可能。アンケート結果では、曹操は関中にゆくと出たので、じっさいに関中に行こうとするが、失敗する。そこで、史実の袁術のルートで揚州にゆくか。婚姻関係を頼りに孫権と連合できる。
関中は先進地域だが、荒廃した都市で、羌族や軍閥が不穏。曹操は関中に行ったことがない。それなら、開拓の余地のある空白地帯の揚州で、孫権を「息子」として自立を目指す。揚州なら行ったことがある。
曹操が独立勢力でなくなってしまったので、鍾繇は袁紹に降るし、融和策で韓遂・馬騰や羌族はなんなく袁紹が平定しそう。
ところが、曹操は行き詰まる。
揚州に行こうと思ったが、「袁譚・劉備が、豫州に軍を配備しているようで、寿春方面も難しいぞ」となる。そこで、イチかバチか。窮鳥の曹操が、献帝ごと劉表の懐に飛び込み、先祖返りして廷臣となる。劉表をけしかけて袁紹と戦わせる。群雄として戦力を失った曹操だが、廷臣として権力を持つ。
◆北の袁紹と、南の劉表が天下を二分
荊州に入った曹操は、蔡瑁と結んで荊州で勢力を伸張。
蔡瑁の縁戚の孔明と、苦労して和解。孔明と曹操は、じつは同類。孔明は「曹操は徐州のカタキ」と念じながら、三回の訪問を受け、徐々に心を引かれてしまうという、変則的な三顧の礼。
曹操は、黄祖を援助して揚州征伐して、「黄祖を代償に、劉表のために揚州を併合できる」と、劉表に約束する。孫権との縁戚を軸に、袁術・孫策なき空白地の揚州を平定しましょうと。
黄祖と協力するパターンを考えましたが、それよりも、孫策の遺産をひきつげる、孫氏のほうを選ぶだろう。もちろん、劉表軍のなかには「黄祖は荊州の功臣である。黄祖を斬ることはできない」と抵抗が起きる。
これは、のちの劉表の二子が、分裂するための伏線だろう。
そのころ袁紹は、献帝が劉表に囲いこまれ、仕方なく劉和を擁立。「廃立するなんて、董卓とやっていることが同じだ」という批判を受ける。しかし、政敵の手に天子がいて、どうにもならんのは、かつて劉虞を担ごうとしたときと同じ。
劉和は、父と自分の素質・実力の違いに苦悶して、しぶしぶ承諾。
袁紹は順調に領土を広げる。高幹・郭援・鍾繇を使い関中を平定。劉備・袁譚をつかい兗・徐州を平定。
曹操が孫氏と結んで揚州を制圧すると、周瑜・魯粛が反発して江北(寿春周辺)で自立し、徐州の袁譚・劉備に呼応。周瑜らが南征の注意点を伝授。水軍の使い方とか、疫病の防ぎ方とか、船をクサリで繋ぐのは良くないとか。袁紹が「赤壁」を再演したいための伏線。
最大版図を築いた袁紹集団(劉備・周瑜がいる)であるが、劉表を征伐する直前、史実補正がきいて、袁紹の寿命が尽き、後継問題で分裂する。劉表を攻める派と、攻めない派に分かれるのだろう。
そのころ、劉表集団(曹操・孫権がいる)も後継問題で分裂しそう。曹操・蔡瑁は劉琮派。「黄祖を殺すな」と唱えた人々が、劉琦派となる。互いに敵を利用して覇権を握ろうとする。その結末は……。
まだ結末の詳細を思いついていませんが、
『袁紹大躍進』の最終回は、いさかいのある8人の軍師が、病没した袁紹のあとを埋めて、適材適所で相乗効果で、天下を統一する話に違いない!(こういう話形で直感することは、たいてい正しいのです)
先々まで見通したところで(忘れないようにメモして、気が済んだ)通常のストーリーに戻ります。160102
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- 第4回 関羽・趙雲の合流、曹操が荊州へ
最終回まで見えたところで、通常のあらすじに戻ります。
関羽・趙雲の合流
袁譚・劉備が、徐州を攻めていると、関羽が現れた。曹操の将として、顔良を斬ったあと、劉備をもとめて姿をくらましていた。
劉備 「関羽!!この下邳は、関羽が曹操の捕虜になった地だな」
関羽 「ここで再会できて嬉しいのですが、問題があります。顔良を斬った私は、袁紹軍の重鎮となられた劉備さまのもとで、働けるのでしょうか」
劉備 「袁譚どのは、話のわかるひと。頼んでみよう」
袁譚 「天下を平定するとは、旧来の敵を、味方として取り込むということである。顔良をなくしたのは惜しいが、関羽が袁氏に味方するなら、補って余りある」
関羽 「やむを得ず曹操に降りました。いちどは曹操に見所があると思いました。正直に告白すれば、曹操と劉備さまを、心のなかで天秤にかけて、比較したことがなかったかと言えば、こぶしで自分の胸をえぐりたくなります。曹操は天子を劫略して、魯陽に逃げました。李傕・郭汜と、なんら変わらない不義のヤカラでした」
劉備 「(あの曹操が負けるなんて信じられない。逆境に立つと、ひとは短所が前面に出てしまう。曹操が、李傕・郭汜とは思えない。きっとこれでは終わらないな)」
下邳を囲んでいると、趙雲が現れる。
趙雲 「公孫瓚が袁紹に滅ぼされてから、放浪していました」
劉備 「ここに来てくれたということは……」
趙雲 「劉備さまに仕えたくて、参りました。しかし、公孫瓚の将として働いた私は、袁紹軍の重鎮となられた劉備さまのもとで、働けるのでしょうか」
劉備 「袁譚どのは、話のわかるひと。頼んでみよう」
袁譚 「天下を平定するとは……(略)」
劉備 「徐州は私にとって、別れの地だった。官渡の直前、曹操に襲撃され、関羽とも妻子とも、バラバラになった。しかしこうして、一年半ほどで、みんなと再会できるなんて……。しかも趙雲が増えた」
袁譚が下邳を確保し、劉備が沛国に鎮する
◆下邳を得て、袁譚が鎮する
下邳は、劉備が勝手を知っている城である。3回、経験がある。かつて劉備は、ここを陶謙から譲られて居城とし、曹操とともに呂布を殺し、曹操の派遣した車冑を斬ったところ。攻略は難しくない。
劉備が徐州刺史の車冑を斬ったあと、董昭が徐州牧となるのだが、官渡の戦いに向けて魏郡太守に転任する。
『陳志』巻十四 董昭伝:備到下邳、殺徐州刺史車冑、反。太祖自征備、徙昭爲徐州牧。袁紹遣將顏良攻東郡、又徙昭爲魏郡太守、從討良。
このとき、曹操の徐州刺史が誰だったのか分からない。しかし、車冑のような小者を置いたり、車冑を殺した劉備に、劉岱・王忠をぶつけて失敗するなど、曹操が徐州に充分な人材を配していないことが窺われる。それだけ袁紹との決戦に必死だったから。いま、攻略は難しくないだろう。
袁譚は、袁紹に指示されたとおりに、下邳に鎮して、青州・徐州を収める。隣接する兗州の沈静化も、あわせて継続する。
魏晋のころ、青州・徐州の軍事権をまとめて任命されるひとが表れるように、セットにして収めるのは、非現実的ではない。別駕の王脩が、在野に埋もれた人材を、役人として供給してくれる。荀諶が人物を見極めて、適切な任務を与える。
泰山の諸将には、現在の官職を保証した。
『陳志』巻十 荀彧伝の裴注『荀氏家伝』では、荀羨が、「年二十八為北中郎將,徐、兗二州刺史,假節 都督徐、兗、青三州諸軍事」となる。きっと本作の袁譚は、青州刺史から、徐・青二州刺史になって、「都督徐、兗、青三州諸軍事」に進化するのだ。豫州は、劉備がいるから、手が出ない。
◆豫州牧の劉備が、下邳に鎮する
劉備は、豫州牧として沛国に鎮する。史実でも、呂布が下邳にいて劉備が沛国にいたり、関羽が下邳にいて劉備が沛国にいたりした。劉備は、呂布・曹操にこの地域を荒らされてブランクを置いたが、けっきょく袁紹の将として、もとの任地に戻ったことになる。豪族・兵民たちから歓迎された。
沛国の譙県が、漢代、豫州刺史が滞在するところ。曹操とつながりのあった豪族たちは、曹操の敗北を知っているから、劉備になびく。
劉備の目は、袁術が廃墟にした寿春。そこから先に広がる揚州を、どのように処理をするか。孫策が死んだばかりで、空白地帯(に見える)。
劉備は、なるべく袁譚に手柄を取らせるかたちで、揚州に手を伸ばしたいが、まだ、兗州・徐州・青州のことで、手がいっぱいである。徐州から攻め下り、袁術に戦いを挑んだが、兵糧が尽きただけで、その隙に呂布に城を奪われた経験しかない。のちに曹丕も失敗するが、徐州から揚州を真南に攻めるのは、うまくいかない。
孫策なき揚州の情勢
孫策の末期は、落ち目の袁術を見捨てて、曹操・献帝と結び、婚姻・官職をつうじて威信を高めた。しかし、曹操が敗れ、献帝が魯陽に監禁されていると、孫氏の立場が弱くなるだろう。
もしも孫策が、周瑜に「孫権を頼む」と言ったとしても、それは、曹操・献帝が健在のとき、はじめて意味を持つこと。周瑜の身の振り方も、史実から代わってくる。
張昭あたりが、はじめに動揺するかも。孫氏に、献帝から賦与された権威がないのならば、支える理由がない。それを見て周瑜が、オヤ?と思う。あんがい、張昭が「孫氏を切りましょう」と提案してくるかも。
気の早いひと(魯粛?)は、「周瑜が自ら立つべし」と性急なことをいう。やはり漢王朝はダメだった。曹操は、袁術よりもひどい俗物だったし、袁紹は先がないだろう。劉表が進出してくる前に、周瑜が揚州をまとめよ。新興の孫氏は、曹操との関係が切れたら、急速にしぼむしかないが、周瑜には、三公を出した家柄・豪族としての経済力がある。
周瑜 「……」孫策の遺言のこともあり、すぐには動かない。
曹操が南陽=宛城に根拠地を移す
袁紹軍の本隊は、許都まで進んだが、1年間、動きが止まった。
沮授が撤退を唱え、田豊の速戦が採用されなかった。審配を鄴県から黎陽に移し、代わりに辛評を鄴県に入れるなど、後方がゴタゴタした。建安六年の秋、収穫を終えたころ、賈詡が主張する。
賈詡 「南陽=宛城は、大きな城です。かつて私が張繍とともに、劉表の支援を受けて留まったところです」
曹操 「お前が、曹昂を殺した地でもある」
曹昂が死んだために、丁夫人・劉夫人といった、故郷で姻戚してきた豪族との関係が悪化した。官渡で敗れるに及んで、劉備に故郷を支配され、曹操は根無し草になってしまった。
賈詡 「魯陽は、一時的に避難したに過ぎません。この収穫によって、兵糧を補充した袁紹軍が到来したら、絶対に維持できません。天子を連れて、南陽に移るのがよいでしょうな」
曹操 「劉表との関係が良くない」
張繍・劉表の連合軍と、曹操は戦ってきたのだ。
賈詡 「劉表にとっての一番の敵は、袁紹です。乱世の当初、袁術・公孫瓚がいたから、袁紹と劉表は接近しました。ライバルが減った今日、劉表は、頼りになる将軍を、外藩として南陽に置きたいはず」
史実ではこのタイミングで、劉備を迎える。曹操 「そういう打算は、あるかも知れないな」
同じころ、董昭も南陽ゆきを言うが、ちょっと観点が違う。
董昭 「袁紹と劉表が、天下の二強となりました。しかし、袁紹も劉表も、平時の三公ならば務まるかも知れませんが、天下統一をする英雄ではない。その証拠に、この1年、なぜ袁紹は、こちらを攻撃してこない」
沮授の言い分はミクロでは必ずしも正しくなかった。田豊を退けたのは袁紹のミス。
曹操 「(私なら治世の能臣に留まらないものを)」
董昭 「袁紹と劉表が戦うように、扇動しましょう」
曹操 「ふたりが傷つけば、私にもチャンスがあるな」
董昭 「そのとおり。曹操さんが南陽にいれば、自分のために拠点を確保できるだけでなく、袁紹・劉表を、戦いに巻きこむための爆薬になれます」
曹操は天子を伴い、魯陽を放棄して、南陽=宛城を奇襲したい。劉表は、たいした守将を置いていない。経済が活発な地域だから、攻めやすく守りにくい。しかし、城攻めに失敗して、袁紹に追いつかれたら、滅亡は必至。
困っていると、董昭が「私が劉表と話してきましょう」と進み出た。
董昭が劉表を説得する
董昭は、まるで中立者のような、涼しげで、あっけらかんとした調子で、襄陽の劉表を訪問した。
董昭 「劉表さん。いま袁氏と曹氏は、敵対関係にありますが、いつまでも敵でありましょうか。ふたりは旧知であり、袁紹は、曹操の庇護者を自認しておるのです。その証拠に、袁紹は、死にかけの曹操に、とどめを刺さなかった」
董昭は張楊に「袁紹と曹操はいずれ対立する」と説いた。それの焼き直し。
董昭伝:「袁、曹雖為一家,勢不久群。曹今雖弱,然實天下之英雄也,當故結之。況今有緣,宜通其上事,並表薦之;若事有成,永為深分。」劉表 「袁紹軍が、停止した理由はそれか」
董昭 「おそらく(本当は違うだろうけど)。忘れてはいけません。袁氏と曹氏は、親族を殺し合った仇敵ではありません」
劉表 「たしかに」
董昭 「曹操が、天子を得て、出来ゴコロによって袁紹に対抗したかも知れませんが、その反抗はすでに失敗しておるのです。袁紹は、冀州・幽州・并州・青州に加えて、兗州・豫州・青州・徐州を得ました。曹操は、わずかに城ひとつ。この情況で、袁氏と曹氏が、対抗関係にあると見なせましょうか」
劉表 「曹操の反抗は、もう終わっておるなら、なぜ袁紹に合流しない」
董昭 「曹操は自信家ですから、最後の最後まで、諦めたくないのでしょう。天子さえ握っておれば、逆転できると思っているフシがある。宦官の孫ですから、天子のそばに居たがるのでしょう」
董昭は、陳琳の檄文を暗唱して聞かせた。ゼーエンのイシュー。
劉表 「きみは曹操の臣ではないのか。悪口を言っているが」
董昭 「侮辱したら困ります。天子の臣です。五年前、私は、袁紹・張楊・楊奉などの間を渡り歩き、天子を奉戴して、漢を復興できる勢力を探しました。曹操に希望を託しましたが、残念ながら、見誤ったようです」
劉表 「(話が変わってきたぞ。計略を警戒しよう)」
董昭 「劉表どのは宗室の一員で、洛陽の修築にも兵を出された。まさか、天子が魯陽に監禁された現状を、ヨシとは思いませんよね。つぎに天子を託するべきは、劉表どのだと思い、五年ぶりに、ウロウロしているのです」
劉表 「私に天子を奉戴せよと?」
董昭 「そうです。曹操はもうダメです。司空・車騎将軍を名乗っておりますが、官位が高いだけで、かつての韓暹・楊奉と同類まで堕落しました」
劉表 「どうしたらいい」
董昭 「曹操は味方が少なく、袁紹以外の誰かを頼りたいと足掻いています。正式な文書で約束し、然るべき使者(蒯越とか)を送り、贈りものをしてから、こう説きなさい。『魯陽には食糧がないだろう。しばらく南陽を貸す。南陽と襄陽のあいだは、補給のパイプが太い。天子の身が心配だから、援助させてほしい』と」
董昭伝で、楊奉をだます。
昭曰:「奉少黨援,將獨委質。鎮東、費亭之事,皆奉所定,又聞書命申束,足以見信。宜時遣使厚遺答謝,以安其意。說'京都無糧,欲車駕暫幸魯陽,魯陽近許,轉運稍易,可無縣乏之憂'。奉為人勇而寡慮,必不見疑,比使往來,足以定計。奉何能為累!」実際に楊奉をだまして、曹操のところに天子を届けたのが董昭。とても迫力がある。というか、作者も読者も、董昭の本心がどこにあるのか分からん。
劉表 「曹操を魯陽から誘い出し、南陽に入ったのを見計らい、天子を奪って、ここ襄陽に移すのだな」
董昭 「そうです(楊奉をだましたように)」
史実では、劉表は一州支配を確立すると、郊祀を独自にやるなど、献帝を認めない立場を取り始める。消極的なのは、史実にあること。しかし、それは曹操の覇権が確立したのを受けた後である。まだ、献帝を無視することはない。衆人の目もある。
蔡瑁 「やりましょう!やっと前年、荊州の平定が完了したところです。内にこもるか、外に出ていくか、つぎの方針が未決でしたよね。
史実でも、200年ぐらいが分岐点で、曹操が圧倒的に強いのを見て、劉表は内にこもっていく。本作は、それと違うほうの劉表である。天子が飛びこんでくるのはチャンス。もしも、曹操が天子をひきつれ、袁紹と和解したら、われらは終了です。官渡のとき、袁紹に協力しなかったから、目のカタキにされます。それがなくても、袁紹は天下統一のため、イチャモンを付けてくるでしょう。袁紹に対抗するには、曹操・天子を受け入れるしかありません」
曹操の旧友・蔡瑁は、曹操が助かる道があって嬉しい。
曹操が袁紹と和解したら……、というのは、劉表を急かすためのトリック。曹操の人となりを知る蔡瑁は、曹操が袁紹に降伏するはずがないと思っているが、隠している。劉表 「よし、蒯越を使者にして、曹操と交渉する。わが軍を魯陽に出して、曹操・天子を袁紹軍から守りながら、彼らを荊州に迎えいれる」
劉表軍は、曹操・天子を守ると見せかけて、曹操から天子を奪うための軍である。
董昭が説明して、劉表にイメージさせたのは、「曹操から天子を奪う」であるが、、果たして曹操は、天子を奪われて、ほんとうに残念なのか。このあたりの心の動きは、丁寧に追わねばならない。
しかし、「曹操が天子を連れて、降伏してくるわ」といっても、劉表は猜疑心が強いから、きっと曹操を受け入れてくれないだろう。「劉表軍が、曹操・天子を守る」という現象そのものは、確かに存在しているし、、難しいな。
このあたり、「史実の楊奉がどうであったか」という宿題につながる。
許攸が、袁紹に情報をリークする
董昭が劉表のところに残り(自分が口にした策謀の責任を取る/という印象を与えるため)、いちばん名声がありそうな蒯越が、曹操のところにゆく。蔡瑁がいくと、旧友同士の馴れあいになるから、やはり蒯越がいい。
蒯越が魯陽に入った。許攸は、曹操と対等を気取って、密談のときも席を外さない。曹操は、許攸に席を外してくれと、初めて!懇願するが、許攸は退席しない。ならば仕方ないと、曹操は許攸とともに、蒯越の話を聞く。
曹操が、賈詡・董昭と話すときは、コッソリできた。しかし蒯越は、他国からの使者である。だから許攸が嗅ぎつけて、同席したがった。蒯越 「曹操どのが南陽に駐屯することを、劉表は承知しました。ただちに軍を出して、あなたと天子を迎えに来るでしょう。もう少しの辛抱です」
曹操 「お待ちしています」
……許攸は、曹操が落ち目だが、「いまさら手ぶらで袁紹のところに帰れない」と悩んでいたところに、この話を聞いた。
許攸 (袁紹にこれをリークすれば、袁紹軍が劉表軍を奇襲できる。天子を迎えるのだから、きっと劉表がみずから来るだろう。これほどの情報なら、価値がある)
許攸はこっそり抜け出して、許県にいえる袁紹に駆けこむ。袁紹は、はだしで許攸を歓迎して、劉表軍を奇襲する計画を立てる。
袁紹は、情勢が動くキッカケを待っていた。
袁紹 「進軍だ」
田豊 「しばらく、しばらく」
袁紹 「また反対するのか?」
田豊 「今回は、機が熟していると思います。どこを攻めるつもりで?」
袁紹 「(曹操がいる)魯陽に決まっておろう」
田豊 「いけませんね。まず南陽、つぎに襄陽。劉表が留守にした隙に、彼の本拠地を攻め取ってしまうのです。」
袁紹 「なんだか、歯車が合ってきた気がする!」
沮授 「しばらく、しばらく」
袁紹 「時期が来たんだ。河北に撤退なんてしないぞ」
沮授 「黎陽の審配から、大量の兵糧が、陸続と運び込まれております。その分量について、報告にきました。荊州まで長駆するのに、必要でしょう。兵糧の管理には、慎重な人物を用いなさい(韓猛とか淳于瓊とかでは困ります)」
袁紹 「誰がよい」
沮授 「曹操のところから降伏した、楊沛・棗祗・韓浩などを取りそろえております。彼らは、曹操という人物ではなく、土地に紐付いており、兗州・豫州がわが領土になって、任用を約束したら、こちらに転籍してきました」
袁紹 「なんだか、歯車が合ってきた気がする!」
このとき、建安六年の年末。
次回、関中と遼東の平定
建安六年、袁紹は曹操を攻めきらなかったが、何もしなかったのではない。沮授に言われて洛陽を修復すれば、当然、関中の軍閥と接点が生じる。
史実の建安七年、鍾繇・馬超・郭援・高幹・袁尚が関与する事件を、別の方法で解決して、いっきに関中平定まで終えてしまいたい。
「曹操が掻き乱すから、戦乱が長期化したが、袁紹が既定路線として勝ち進めば、史実ほど分裂時代は長引かなかったんだよ」という、圧倒的な袁紹の大躍進を見せつける話にしたい。
郭援が、都督雍涼二州諸軍事・征西将軍とかに。西だけでなく北も。袁熙・鮮于輔のいる幽州も、決着をつける。こちらの戦いは本題ではないので、長々とは書かない。並行して、遼東を平定した袁熙が、発言力を持つというのも良さそう。
袁熙は「都督幽平二州諸軍事、幽州刺史」となる。この言葉は、『晋書』明帝紀から引いてますが、気にしない。幽州牧でもいいな。劉虞の方針をついで、寛治する。
北を袁熙が平定、西を高幹が平定して、袁紹の子供たちは、順調に手腕を発揮していきました、というお話。曹操の奮闘ばかりではなく、袁紹の子供たちも活躍してほしい。そして後継者争いの伏線に。つづく。160102閉じる
- 第5回 郭図が関中を、辛評が遼東を平定
前回、劉表・曹操の話をしました。それ以外の地域でも、ストーリーも進めます。
郭図・郭援による関中の平定
◆鍾繇が助けを求める
建安七年正月、長安にいる鍾繇から、袁紹に使者がきた。
鍾繇 「侍中・守司隸校尉、持節・督関中諸軍の鍾繇ですけど、韓遂・馬騰の子を入侍させ、つまり人質に取っているんですが、長安のまわりで涼州の諸軍閥が暴れ回って、もう治安を維持することができません。助けてください」
鍾繇は、曹操・献帝と結合することで、関中に小康状態を築いていた。曹操が献帝を奪って、魯陽に籠もったことにより、威令が行き届かなくなった。孤立無援となり、袁紹に救いを求めてきた。
これを聞いて、
郭図 「鍾繇は、官渡のときに、二千余匹の馬を、曹操に送りました。蕭何を気取って、関中を鎮守したのです。彼を更迭しましょう」
『范書』鍾繇伝:時關中諸將馬騰、韓遂等,各擁強兵相與爭。太祖方有事山東,以關右為憂。乃表繇以侍中守司隸校尉,持節督關中諸軍,委之以後事,特使不拘科制。繇至長安,移書騰、遂等,為陳禍福,騰、遂各遣子入侍。太祖在官渡,與袁紹相持,繇送馬二千餘匹給軍。太祖與繇書曰:「得所送馬,甚應其急。關右平定,朝廷無西顧之憂,足下之勳也。昔蕭何鎮守關中,足食成軍,亦適當爾。」袁紹 「なるほど(郭図は鍾繇伝に従って、彼の功績を説明し、殊勝である)。有能な人物ではないか。しかも潁川の出身。郭図、きみの同郷なのに、どうして陥れるようなことを言うのだ」
郭図 「(曹操の旧臣をこれ以上、吸収すると『和』が乱れる。狭量と言われるかも知れないが、いまでも充分に混乱しているのだ)あ……ええと……」
袁紹 「郭図が長安にゆき、鍾繇と協力せよ」
郭図 「えっ」
袁紹 「天下は平定の段階に入った。郭図に一方面を委ねたいと思う」
郭図 「おいの郭援を、河東太守にしてください。郭援は、わが一族であるだけでなく、鍾繇のおいでもあります。潁川の名士がつくっている婚姻のネットワークで、関中を安定させてみせます」
袁紹 「よろしい」
郭援と郭図の関係は不明だが、同じ潁川の鍾繇と血縁があるのだし、郭図の一族でいいだろう。
◆郭図が長安に赴く
郭図は、袁紹から侍中・守雍州刺史、持節・都督関中諸軍事の資格を与えられ、長安に赴く。
鍾繇 「韓遂・馬騰を、いかにして治めたら宜しいか」
郭図 「并州刺史の高幹と、わがおいの郭援を動員する。高幹・郭援に数万人をひきいさせ、匈奴の南単于とともに河東太守の王邑を攻める」
王邑は、興平二年(195) 献帝を河東に迎えたこともある群雄。7年前のこと。献帝が曹操に同調してから、曹操と友好的だったが、袁紹が官渡で勝ってから、また独立勢力のようになっていた(と設定する)。鍾繇 「河東の件、関中のことと、どう繋がるのか」
郭図 「韓遂・馬騰に、王邑の討伐を協力させる。ともに戦えば関係が強化されるし、彼らの兵力を把握でき、かつ削ぐことにも繋がる。やがて、われらが兵力を再編成してしまえば完璧だ」
鍾繇伝の裴注:司馬彪戰略曰:袁尚遣高幹、郭援將兵數萬人,與匈奴單于寇河東,遣使與馬騰、韓遂等連和,騰等陰許之。傅幹說騰曰:「(抜粋)曹公奉天子誅暴亂。袁氏背王命,驅胡虜以陵中國。」於是騰懼。幹曰:「(抜粋)今曹公與袁氏相持,而高幹、郭援獨制河東,曹公雖有萬全之計,不能禁河東之不危也。」騰曰:「敬從教。」於是遣子超將精兵萬餘人,並將遂等兵,與繇會擊援等,大破之。
史実では作中と同じ年(袁紹の死後)、袁尚が高幹・郭援に数万をひきいさせ、匈奴の単于とともに河東(太守の王邑)を寇する。使者を馬騰・韓遂に送る。
馬騰は高幹同調しようとするが、傅幹というひとが馬騰に、曹操につけと説得して、馬超が郭援を斬る。本作では、馬騰に傅幹を斬らせよう。後述。
鍾繇・郭図は長安から、韓遂・馬騰に使者を出した。
鍾繇が使者に選んだのは、新豊の県令をつとめる、馮翊のひと張既。三輔で第一の治績をほこる。曹操の司空府に辟されたが断ったことがある。張既は、韓遂・馬騰に利害を説いた。
『陳志』巻十五 張既伝:太祖為司空,辟,未至,舉茂才,除新豐令,治為三輔第一。袁尚拒太祖於黎陽,遣所置河東太守郭援、并州刺史高幹及匈奴單于取平陽,發使西與關中諸將合從。司隸校尉鍾繇遣既說將軍馬騰等,既為言利害,騰等從之。騰遣子超將兵萬餘人,與繇會擊幹、援,大破之,斬援首。幹及單于皆降。
『三国志』巻15・張既伝、献帝がぬけた西方を、曹丕のとき収束する
馬騰の配下の傅幹が、「弱体化したとはいえ、曹操・天子に従うべき。袁紹は、自尊の賊です。鍾繇が変節して袁氏にくみするなら、鍾繇を斬って、長安を奪うべきです」と史実に沿って、馬騰に説得する。
かつて馬騰は、劉焉の子と結んで、李傕から長安を奪おうとして、失敗したことがある。馬騰の野心に照らせば、うまい誘いではある。しかし馬騰は、袁氏に逆らうことを『愚』として、傅方を斬る!
馬騰が史実から分岐することを、印象づけるできごと。「説明するな、描写せよ」という小説の原則を、傅方を使って達成する。
韓遂・馬騰は、鍾繇・郭図に味方して、馬超に万余人を率いてよこした。馬超を得た郭援軍は、王邑を撃破した。高幹の将である、夏昭・鄧升も活躍した。史実では、馬超が郭援を斬り、高幹・南単于が鍾繇(曹操)に降る。馬超の活躍シーンを、ちょっとだけ描こう。
『陳志』袁紹伝:十一年太祖征幹。幹、乃留其將夏昭鄧升守城、自詣匈奴單于求救。不得。獨與數騎亡、欲南奔荊州。上洛都尉、捕斬之。
史実で、夏昭・鄧升は、高幹の将として、曹操に抵抗するこうして、関中は定まった。
この方面は、いち早く、めでたしめでたし。史実の曹操が、二転三転しすぎなのだ。史実では、曹操は関中に不安を残して、荊州の平定に向かう。これが、孫権の陣営から、曹操の不安要素としてカウントされる。孫権に開戦を決断させる、要因のひとつになる。案の定、周瑜に足もとをすくわれ、涼州・揚州の仮想的な同盟に怯えねばならない。潼関の戦いを起こさねばならない。それらは、一切が不要!袁紹のおいの高幹は、并州刺史から并州牧に格上げされた。
鍾繇・郭図の共通のおいである郭援は、この戦いで戦死した。郭援とともに戦った馬超の将・龐徳が、鍾繇・郭図に「おいを殺してしまい、申し訳ない」というと、鍾繇が機先を制して、「国家のために戦ったのだから、あなたが謝る必要はありません」といった。郭図は、龐徳を責めようとしたが、言葉を失った。
郭援・郭図の愛情を描いておく必要あり。
『陳志』巻十八 龐徳伝にひく『魏略』:悳手斬一級、不知是援。戰罷之後、衆人皆言援死而不得其首。援、鍾繇之甥。悳晚後於鞬中出一頭、繇見之而哭。悳謝繇、繇曰「援雖我甥、乃國賊也。卿何謝之?」并州に高幹、長安に鍾繇・郭図がおり、韓遂・馬超が協力的になることで、この方面は盤石となった。
袁紹の基本政策は、異民族のゆるい統治。南匈奴・烏桓と、友好的な関係にあることは、その証拠である。
霊帝末から、二十年にわたって反乱をくり返してきた漢族の軍閥が、袁紹に従った。それを見ると、羌族・氐族も鎮まった。
郭図は、史実の郭援からの連想で、関中に「嫁入り」が決まり、片付きました。離れて活躍する場を得たので、讒言でジャマすることは、なくなった。
審配が復帰して、辛評が幽州に逃げる
袁紹の子供世代の活躍を、いっきに考えておく。劉表が曹操を迎え、劉表・袁紹が衝突するのと、時期は前後する。構成は、また考える。
審配は黎陽に移動して、袁紹軍の兵站を維持するのだが、審配は、袁紹に叛逆していない証として、一子を鄴県に送っている(既述)
審配・辛評はいがみあっており、辛評が罪を着せて、審配の子を捕らえた。
史実では、袁譚派の辛評の家族が鄴県から逃げ遅れ、袁尚派の審配に殺される。居場所とやり口を、反転している。審配は、子が捕らえられた件に怒るが、そのことには触れず、袁紹に、「辛評が鄴県で専断している」と報告する。その通りで、辛評は袁紹のために、冀州豪族を解体して、袁紹政権の収入を増やしている。
袁紹集団では、審配が許攸の家族を捕らえるなど、鄴県を専断して、政敵の家族をいじめることがおおい。辛評だって、同じことをやる。
史実では、審配が辛評の家族を殺したので、辛毗から復讐される。
豪族の解体は、審配にとって許せない。冀州豪族は、充分に袁紹に協力しているじゃないかと。
もちろん、潁川派である辛評のやや強引な措置は、袁紹の君主権力の強化という大目的のほかに、審配の与党に対するイジメという小目的も兼ねている。
冀州派の沮授は、「審配の訴えを聞くべき」と袁紹に主張。
しかし袁紹は、どうしたものかと悩んだ。辛評のやり方に問題があるにせよ、冀州豪族の掣肘は、袁紹にとって嬉しいことなので。迷っていると、袁紹の旧知である逢紀が意見した。
逢紀 「審配を復権させるべきです」
いまや、河南四州・関中が平定され、安定的に人員・糧秣を供給できるとはいえ、やはり本拠地は冀州である。冀州豪族が審配をかついで、反乱をしようものなら、勢力が危機を迎える。豊かな劉表と戦うため、河北を失うわけにはいかない。
袁紹 「きみは(きみも)審配がキライではなかったか」
この言葉は、個人的なジョークではない。逢紀は、冀州派ではなく、君主権力を確立したい派のはず。どうして沮授・審配の肩を持つのか、と問いただしている。
逢紀 「私情で対立はしましたが、これは国家のことです」
『范書』袁紹伝:護軍 逢紀與配不睦,紹以問之,紀對曰:「配天性烈直,每所言行,慕古人之節,不以二子在南 為不義也,公勿疑之。」紹曰:「君不惡之邪?」紀曰:「先所爭者私情,今所陳者國事。」紹 曰「善」。乃不廢配,配、〔紀〕由是更協。袁紹 「沮授の言の如くせよ(冀州派をいじめすぎた)」
こうして審配が、鄴県の守備に復帰した。
焦ったのは辛評。冀州にいたら審配に復讐されるので、幽州で袁熙を輔佐することを願い出た。審配は、家族ぐるみで政敵を弾圧する。弟の辛毗も、兄と一蓮托生である。幽州に随行したい。
史実では、辛評は、袁譚につく。しかし袁譚には、荀諶・劉備がいて、いく必要がない。だから、もうひとりの兄弟を助けてもらう。袁紹は承諾した。
袁熙・辛評が遼東を制圧する
時系列は前後しますが、辛評のその後を片づけておく。
◆辛評が袁熙に、遼東攻めを進言
建安九年(204)、公孫度が死んだ(史実どおりの時期)のを見て、辛評が袁熙に「いまこそ遼東を平定しましょう」と進言する。
袁熙 「私にできるだろうか」
辛評 「主公の政策により、烏桓と協調しています。蹋頓は、軍を出すのを惜しまないでしょう。別駕する代郡の韓珩は、袁氏の忠臣。幽州の将である焦触・張南は、独立の気概すら帯びた名将。キラ星のごとき人材を、袁熙どのは集めている。自信を持ちなさい。彼らを動員すれば、遼東は定まったも同然」
焦触・張南は、袁尚が袁熙のところに逃げこむと、袁氏を攻撃する。袁尚・袁熙は、遼東に落ちのびるしかない。焦触は幽州刺史を自称して、太守・令長を集めて「曹操に味方する」と、白馬を殺して誓った。
熙尚、爲其將焦觸張南所攻。奔遼西烏丸。觸、自號幽州刺史、驅率諸郡太守令長。背袁向曹。
韓珩は、焦触に同調を強要されたが、あくまで袁氏に味方した。
至別駕韓珩、曰「吾受袁公父子厚恩。今其破亡。智不能救、勇不能死、於義闕矣。若乃北面於曹氏、所弗能爲也」一坐爲珩、失色。觸曰「夫興大事、當立大義。事之濟否、不待一人。可卒珩志、以勵事君。」
外征を唱える辛評だが、袁熙は決心できない。
袁熙 「父が中原を制し、袁氏は盛ん。しかし遼東は、あまりに遠隔地。力攻めをすると、犠牲が大きくなりそうで、心配である」
辛評 「わたしも軍師。策略があります。もと河内太守の李敏は、遼東の郡中で名を知られたため、公孫度に悪まれ、殺害されかかりました。公孫度は、李氏の父の墓を掘り返し、棺をあばいて遺体を焼き、宗族を誅しました。李敏を味方にすべし」
『陳志』巻八 公孫度伝:故河內太守李敏、郡中知名、惡度所爲。恐爲所害、乃將家屬入于海。度大怒、掘其父冢、剖棺焚屍、誅其宗族。袁熙 「李敏はどこに」
辛評 「海中に逃れたとも言われておりますが、青州を支配する袁譚どのに依頼して捜索し、平原で保護しております」
史実の辛評は、長子の袁譚派。また平原は、袁譚が青州刺史になったときの最初の本拠地である。袁尚との戦いのときも、南皮から平原に逃げる。
遼東から海中に逃れると、青州にたどり着く。
袁熙 「李敏の公孫氏に対する憎しみは、確かか」
辛評 「李敏の子は、李敏を探し求め、子をつくらぬ覚悟をした。広陽(幽州)の徐邈に、『子をつくらないのは不孝だ』と叱られると、一時的に妻をめとり、子を産んだら妻と別れたそうです。こりゃ、もう、一族の骨髄まで、公孫氏に対する恨みが浸透しています」
公孫度伝の裴注:晉陽秋曰。敏子追求敏、出塞、越二十餘年不娶。州里徐邈責之曰「不孝莫大於無後、何可終身不娶乎!」乃娶妻、生子胤而遣妻、常如居喪之禮、不勝憂、數年而卒。胤生不識父母、及有識、蔬食哀戚亦如三年之喪。以祖父不知存亡、設主奉之。由是知名、仕至司徒。 臣松之案。本傳云敏將家入海、而復與子相失、未詳其故。袁熙 「郡中の声望、もと太守という官歴、公孫氏への怨恨。パーフェクトだ。李敏に遼東で反乱を起こさせよう」
辛評 「弟の辛毗を、使者に送りましょう」
◆辛毗が李敏を説得する
辛評の弟・辛毗は、平原にゆき、「公孫康の討伐に協力してほしい」と李敏に交渉した。李敏は悦んだが、安請け合いはしない。
李敏 「袁熙は信じられるか。公孫氏に必ず勝てるのか」
袁氏と公孫氏は、これまで衝突したことがない。袁熙が、本腰を入れて遼東を攻める気がないと、協力できない。公孫氏の遼東支配は、もう二代・二十年弱に及び、強固である。もし袁熙が、腰砕けになり、和睦でもしたら、起兵した李敏は、生きる場所がない。袁氏・公孫氏が和睦したら、李敏は、心情的に無念がやり切れない。「謀反」を起こした遼東には二度と入れないが、袁氏を頼る気にもならない。もう絶望して隠棲しているのだから、放置してくれと。
辛毗 「袁熙の内面に踏みこみ、本気度を確かめようとしても、仕方のないことです。情勢に目を向けなさい。袁熙は幽州を支配し、遼東と隣接している。両者が衝突するのは必須です。袁氏は中原を制圧して、最大勢力。遅かれ早かれ、遼東を平定しなければならない」
李敏 「むぅ……」
辛毗 「袁紹は、子たちに『能』を試そうといって、一州を任せた。袁譚は河南四州、高幹は関中を平定した。袁尚は袁紹の手許にいるから、功がなくとも許される。残るは袁熙。袁熙が、所与の幽州だけに甘んじて、領土を拡大せずに、身を保てるはずがない。死力を尽くすはずです」
李敏 「袁熙の意志と関係なく、遼東攻めは、やりきる他ないと」
辛毗 「袁紹の天下統一は間近。そのとき、遼東だけ敵対勢力が残っていたなんてことになったら、袁熙は面目を失います。父の鉄槌がくだります」
李敏 「むぅ……」
辛毗 「そもそも、下野しているあなたを見つけ出し、こうして共闘を頼んでいることに、本気度が表れていると思いませんか。『追い詰められた』袁熙の立場を利用して、おのれの志(公孫氏への復讐)を遂げる。それぐらいの気持ちでいなさい」
李敏 「よく分かった。協力しよう!」
袁譚・袁尚が対立したとき、袁譚の使者となった辛毗が、曹操に共闘を申し入れる。「袁譚を信頼せよ」と言わず、情勢を分析して、「一時的にではあるが、袁譚は曹操と協調せざるを得ないし、曹操だってそれを利用したらいいじゃん」と説く。
李賢注『魏志』辛毗伝:辛毗,潁川陽翟人也。譚使毗詣太祖求和,毗見太祖致譚意。太祖悅,謂毗曰:『譚可信,尚必可克不?』毗對曰:『明公無問信與詐也,直(言)當論其埶耳。袁氏本兄弟相伐,非謂他人能閒其閒,乃謂天下可定於己也。一旦求救於明公,此可知也。』」こうして李敏は、友の徐邈とともに(ふたりとも幽州の出身)、青州から船で遼東に渡って、郡内に反乱を呼びかけた。軍師は辛毗。
◆公孫康のクビが届く
海路の李敏が進発するのと同時に、辛評は、袁熙とともに幽州軍をひきいて、陸路から遼東に向かった。
辛評 「郡の境界で待ちましょう」
攻撃すると犠牲が出るし、威信を示すには、戦わずして勝ったほうがいい。
十二年太祖至遼西擊烏丸。尚熙、與烏丸逆軍戰、敗走奔遼東。公孫康、誘斬之、送其首。
史実で袁熙は、公孫康にクビを取られ、曹操に届けられる。反転!
袁熙 「せっかく大軍を動員したのに、なぜ」
辛評 「いまに、公孫康のクビが届くでしょう」
公孫度を失ったばかりで、公孫康の支配は浸透していない。袁熙が郡の境界を越えたころ、公孫恭(康の弟)が、公孫康のクビをひっさげて投降してきた。
公孫恭は、「初、恭病陰消、爲閹人。劣弱不能治國」とあるように、子供がつくれず、劣弱で国を治める器量がない。だから弱気になって、兄を裏切って、国を献上した。袁熙は公孫恭を許して、襄平侯・左将軍としたが、「将御する所なし」とした。
公孫康伝:十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。袁尚等奔遼東、康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯、拜左將軍。
「将御する所なし」は、袁紹が韓馥に与えた待遇。
戦後処理をして、幽州に兵をもどす。
李敏を遼東太守にした。李敏は、父の墓を修復した。李敏の信頼を得た辛毗は、李敏の参謀として、遼東に残ることになった。
史実の辛毗は、同盟の交渉にいった曹操のもとに留められる。それと同じことが起きた。登場人物を「嫁入り」させて片づけ、話をシンプルにする。辛評は、主役「8名の軍師」のひとりだが、辛毗は主役ではないので、もう出番は充分。公孫度は、平州牧を自称していた。この州の区画は残した。兄弟に対抗し、袁熙が「二州」を治めているという体裁がほしいから。
公孫度伝:分遼東郡爲遼西中遼郡、置太守。越海、收東萊諸縣、置營州刺史。自立爲遼東侯、平州牧。
「袁叡」の誕生
袁熙は、妻の甄氏を幽州(薊城)に呼び寄せており、身籠もっていた。父の袁紹から、「都督幽平二州諸軍事、幽州刺史」の肩書きを送られ、祝っているところ、「袁叡」が誕生した。おめでとう!
すでにつくった同人誌ふたつ『曹丕八十歳』『反反三国志』で、袁叡=曹叡は、つねに不遇だった。本作では、どうなるんだろう。袁熙の活躍により、辺境の守備を、簡素化できるようになった。袁紹は、烏桓突騎を本格的に導入することができる。
史実の曹操が、荊州の討伐に使ったやつです。
今回は、高幹・郭図の関中平定と、袁熙・辛評の遼東平定をまとめてやりました。時系列をもどして、次回、魯陽から曹操が脱出します。160102閉じる
- 第6回 袁紹が博望で敗れ、劉和を皇帝に
劉表・曹操・天子の話のつづき。
建安七年夏四月、博望坡の戦い
建安七年三月、劉表軍の三万が、本拠の襄陽を出発して、北のかた南陽に集まる。劉表は、前年冬に、曹操・天子を魯陽に迎える約束をしたのだが、兵の動員に数ヶ月がかかった。
夏四月、劉表軍が南陽に守備を残して、魯陽に曹操・天子を救いにゆく。
曹操は、蒯越との約束(許攸に盗み聞きされた)の計画では、劉表軍と魯陽で合流してから、南陽に移る予定。しかし、急遽 予定を変更して、劉表軍と合流する前に魯陽を脱出する。南陽に向かわず、博望坡に伏兵をした。曹仁には別働隊をあずけ、天子だけは先に南陽に移した。
劉表軍が南陽に集まっていると察知した袁紹軍は、七万で許県を出発。
袁紹 「魯陽を包囲して、救援にきた劉表軍を迎撃しよう」
田豊 「それは凡手です。魯陽を捨ておき、大軍が出撃したあとの南陽を攻め、襄陽を狙うべき(既述)」
袁紹 「田豊に従い、七万を南陽に向けよ」
これに古参の淳于瓊(鼻を削がれて顔面に包帯)が反対。
淳于瓊 「魯陽は小さく、南陽は大きい。南陽を攻めるよりも、魯陽を攻めるほうが易しい。田豊の奇策を採用して、曹操を取り逃がしたら、元も子もない。さいわい魯陽は、三方を山に囲まれており、守りやすいが、逃げにくい。私が確実に曹操・天子を捕らえてみせる」
袁紹 「(田豊は凡手と言ったが、淳于瓊の言うことも合理的だから)では七万のうち、二万を与える」
曹操は博望坡で、袁紹軍を奇襲する
軍の移動を図にしてみました。
図を見ながら整理しますと、劉表は、三万の軍をひきいて、襄陽・新野・南陽から魯陽をめざす。約束どおりの行動。つまり許攸を通じて、袁紹に筒抜けになっていた行動である。この劉表軍は、淳于瓊と魯陽で鉢合わせして、引き分ける。
袁紹は、許攸を通じて劉表の動きを知っている。この情報を活かし、田豊が奇策を立てた。主力の五万が魯陽を無視して、宛県に向かう。
曹操は、田豊の奇策をさらに上回っており、劉表軍を待たずに魯陽を脱出。宛県にむかう袁紹軍を、博望坡で待ち伏せする。地図が必要な説明はここまで。
曹操軍の伏兵にあった袁紹軍は混乱し、数千を失う。すがたを表した曹操軍は、案の定、数が少ない。袁紹軍が油断して一気に攻めきろうとすると、曹操が自陣に火を放つ(史実の劉備を参照)。いよいよ曹操が撤退したと思って、袁紹が追撃に移ると、また曹操の伏兵にあう。
曹操の伏兵により、袁紹のそばまで矢が降り注ぎ、田豊が身を挺して防ぎ、作戦の失敗の責任を取る。
『范書』袁紹伝:瓚散兵二千餘騎卒至,圍紹數重,射矢雨下。田豐扶紹,使却入空垣。紹脫兜鍪抵地, 曰:「大丈夫當前鬬死,而反逃垣牆閒邪?」促使諸弩競發,多傷瓚騎。眾不知是紹,頗稍引 却。
公孫瓚との戦いで、袁紹が休息していると、公孫瓚軍の二千余騎に囲まれる。田豊が袁紹を空垣に隠そうとすると、袁紹が「隠れられるかよ」といって、身を隠すのを拒否する。ふたたび。
この戦いで田豊は、歩行不能になるキズを追うのだろう。危機をさとった張郃(史実では亡き麹義の役割)が合流したので、曹操は攻撃を停止した。
袁紹は、敗北条件「天子を取り逃がす」を満たして撤退。
曹操は、悠々と南陽に入ったのでした。ところが、南陽のどこを探しても、天子の姿がない。劉表が、天子を襄陽に移してしまった後でした。
博望坡の戦いの戦果
曹操のプラスは、①孤立した魯陽から脱出して、南陽という大きな居城を得たこと、②袁紹軍に伏兵でダメージを与えたこと、③劉表と淳于瓊(袁紹軍)を開戦させたこと。とくに両雄を開戦させたことで、漁夫の利を狙える立場になった。曹操のマイナスは、①天子を奉戴しているという特権。天子の身柄は、なかば諦めていたものの、劉表に「してやられた」。
曹操が袁紹軍の奇襲をめざし、曹仁が天子を護送する。荀彧がどちらに着いていくか問われ、天子に付いていくかと思いきや、曹操を選ぶ。「漢の尚書令であることは、私の誇りですが、曹操さまと離れたら、この官職になんの意味もありません」とか言って。劉表のプラスは、①天子を奉戴しているという特権、②曹操という同盟者。マイナスは、①南陽の支配権。しかし「北藩」を置くのは、劉表の得意技であり、損失とまでは言えないか。
袁紹のプラスは、、ない。マイナスは、①いつでも曹操・天子を捕獲できるよう優位性、②博望坡で撃たれた一万余の兵、③淳于瓊のメンツなど。
劉表に降伏し、策を献ずる曹操
曹操は、南陽の守将として蒯越に任せた上で、単身で(←かつて劉表がやったように)劉表を訪問する。劉表は、「天子を返せ」と、曹操が攻めてくることを警戒していたので、拍子抜けする。
曹操 「大将軍の曹操を、劉表どのの配下に加えてください。貴公に、天子をお任せします。今日まで、天子に不自由な思いをさせた罪により、みずからを罷免します」
劉表 「この劉表、来たる者を拒まぬ。いつ、いかなる場、いかなる者でもだ」
曹操 「ありがとう」
劉表 「曹操、礼には及びません。窮鳥を懐に入れるのは、天下を動かす者の常にすぎません」
『蒼天航路』その百五十八(劉備を受け入れる袁紹)よりw劉表 「曹操を司空・車騎将軍に戻す。南陽を任せる」
車騎将軍は、曹操→董承と受け継がれた。官渡の戦いのとき、曹操は大将軍だったと、石井先生は推測する。曹操が廷臣として、劉表を掣肘するのなら、車騎将軍でも充分である。たまたま詔が降り(笑)劉表が大将軍となる。
曹操 「劉表どのが強盛となれば、漢王朝の中興が近づきます。2つの提案をしますので、聞いてもらえませんか」
劉表 「言ってみよ」
曹操 「コウ郷侯(史実の建安四年)袁紹に、四県・三万戸の食邑を与えなさい。漢王朝の中興の功臣として、賞賛してやるのです。これにより、こちらを攻める大義がなくなります」
曹操 「つぎに、揚州の孫氏に使者を送り、和睦をしなさい」
劉表 「孫堅を殺したのは私だ。孫氏と和解などできない」
曹操 「揚州は、袁術・孫策という支配者を立て続けに失い、まだ混乱しています。私は孫氏と婚姻をむすび、官職を斡旋して、関係を結びました。荊州・揚州が連合すれば、袁紹に勝るとも劣りません。孫策は、江夏太守の黄祖を、執拗に攻めておりましたし……」
劉表にことわって、耳打ちする曹操。
曹操 「黄祖のクビひとつで、揚州をあがなうと考えれば安いもの。孫権は若すぎるため、権限の強化を欲しています。袁紹が強すぎる、権威の源泉である天子が荊州にいる、姻戚の曹氏が荊州にいる、という(史実と異なる)情況があるから、旧怨を忘れて、こちらに味方する可能性がおおいにあります」
劉表 「……わかった」 かなりモヤモヤしてから決断する。
劉表は、外発的に天下を目指すことになる。いかにも劉表らしい。しかし曹操も、いずれは台頭するつもりである。劉表に心から屈服したのではない。きっと、蔡瑁と組んで、荊州を奪うのだ。
荊州から袁紹には、太常の趙岐が使者として発つ。
趙岐は、袁紹・公孫瓚を停戦させた、袁紹にとっての恩人。袁紹が「洛陽を修復する」という約束を破ったから、劉表を頼った。この趙岐が使者であれば、まさか斬るわけにはいかない。史実の趙岐は、馬日磾とセットで動く。馬日磾が、袁術に詰めよられて殺されたように、趙岐が袁紹に(心理的に逼られて)殺されてもいい。史実の趙岐は、建安六年(作中の前年)に、九十余歳で死ぬ。死に場所を与えるのも、ちょうどいい。
袁紹に違約され、劉表に洛陽を修理させる趙岐
孫権には、曹操の旧友・蔡瑁が使者として発つ。
長江を降り、「劉表の代理として、江夏太守の黄祖を慰問する」と、荊州の大姓らしい大役を帯びて、黄祖に会う。突如、「劉表さまの命令である」と罪状を示して(確信犯的な冤罪)、黄祖を斬る。江夏が動揺するが、蔡瑁の名声・水軍の指揮力により、混乱を鎮圧する。
黄祖のクビを手みやげにして、蔡瑁は孫権を訪れる。
袁紹が、劉和を皇帝に即位させる
建安七年秋、許県に撤退を終えた袁紹は、悩んでいる。
「天子が劉表のもとに渡った。曹操と劉表は連合しており、困ったことだ。これからどうしよう、荊州に大攻勢をかけても、圧勝は難しいか」
郭図・淳于瓊が、
「献帝が劉表に握られていると、主導権を得ることができません。元来、献帝とは、董卓がかってに立てた皇帝であり、正当なものではありません。もし彼に天命があるなら、洛陽-長安-洛陽-許県-魯陽-襄陽などと、ウロウロするものでしょうか。天子が二転三転するたび、おおくの兵が死に、民が飢えております。有徳の劉氏を立てて、漢王朝をきちんと立て直すべきです」
『献帝伝』で興平期に天子奉戴を反対したメンバーに言わせる。
ツイッターのアンケート結果を思い出してみましょうー。
傀儡の有徳の劉和を擁立することになった。
沮授は反対する。
しかし、袁紹は必死である。「政敵に天子を囲いこまれ、しかも政敵をすぐに撃破できない」というのは、むかし袁紹が、劉虞を立てようとしたときと同じ、非常・緊急の事態。袁紹は、賊軍となることを嫌って、劉和を立てた。
折悪しく、太常の趙岐が、袁紹のところに訪れて、「劉和を皇帝にすることに、同意署名してくれ」と強要される。袁紹としては、後漢の名臣がサインしてくれたら、「かってなことをやった」という汚名を着なくて済むから。
趙岐 「袁紹のやってくることは、董卓と同じである」と罵った。
袁紹がさらに「署名をお願いしまあーーーす」と詰めよると、病を発して死んだ(史実では病死、馬日磾を参照)
建安八年春正月、劉和が皇帝に即位した。160103閉じる
- 最終回 袁紹の死、三子による天下統一
原稿用紙500枚の予定なので、そろそろ話を畳みましょう。
揚州の孫氏の反応
建安八年二月、黄祖のクビを、蔡瑁から渡されて、拍子抜けする孫権。「打倒 黄祖」というのは、孫氏に求心力を持たせるための「物語」だったので、嬉しいような、迷惑なような。
荊州の献帝から、孫権の官職を追認され、ひと安心。
◆張昭は、劉表に同調
孫策から、後事を託されたのは、張昭と周瑜。
張昭は、劉表と結ぶことに賛成する。史実の赤壁で、曹操に付こうと言ったひとである。荊州にいる献帝の権威と繋がれるのは、願ったり叶ったり。張昭は徐州のひとだが、曹操に焼き出されたわけじゃない。曹操が劉表のもとにいても、それだけで嫌ったりしない。
◆周瑜は、劉表に反発
周瑜は、劉表と結ぶことに反対する。
周瑜 「荊州は、揚州の上流にあります。同盟といって門戸を開いたが最後、ほどなく制圧されてしまうでしょう。地勢からして、対等の同盟はムリ。そもそも、曹操・献帝というペアがおり(史実から変わっておらず)、孫氏にとって仇敵の曹操と結ぶなんて、ワケが分かりません。荊州は、攻撃の対象です。荊州に天子がいるなら、遠征の過程で、ついでに保護することができ、一石二鳥。荊州と結ぶことは反対です」
史実でも、蔡瑁と周瑜は、敵対関係になるし。周瑜は宗族を連れて、黄河を北に渡ろうか迷っている。
周瑜の親友であり、曹操にアレルギーのある魯粛も、周瑜に従いたい。
◆孫氏は、劉表に同調
孫氏の主要メンバーは、劉表・曹操に結ぼうという。
そもそも、袁術の権威を否定して、曹操・献帝と結合することで、揚州を支配しようとしたのが、孫策である。劉表に味方するのが、既定路線である。孫賁(娘が曹彰と結婚)、孫匡(曹操の弟の娘と結婚)が中心となり、曹操になびく。
孫権に対するクーデターが起きる。
孫輔(孫羌の子、孫賁の弟)は、孫権では国が治まらないと考え、劉表・曹操の部将を招いて、揚州を治めてもらおうと考えた。『陳志』巻五十一 孫輔伝:遣使與曹公相聞、事覺、權幽繫之。
その裴注:典略曰。輔恐權不能保守江東、因權出行東冶、乃遣人齎書呼曹公。行人以告、權乃還、偽若不知、與張昭共見輔、權謂輔曰「兄厭樂邪、何爲呼他人?」輔云無是。權因投書與昭、昭示輔、輔慚無辭。乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置東。
孫権が東冶にいっているうちに、曹操を迎えようとした。孫権はそれに気づかぬふりをして、「どうして他人を呼ぶのか」と。孫権は、孫輔が曹操に送った手紙を、張昭を介して孫輔に示した。孫権は、家長としての立場を確立できないことを懼れている。
周瑜に、袁譚からのラブコールがある。
袁譚 「ともに三公の子弟、同世代の人間として、協力しましょう」
ものすごく悩む周瑜。
周瑜 「かつて袁術がみずから天子になったから、関係を絶った。袁紹は、天子の廃立をやった。袁紹が天子になるのも、時間の問題であろう。……しかし、袁術は戦争が弱かったが、袁紹は強い。故郷と一族の保全のためには、袁譚に降るのは仕方がないのか……。曹操・劉表の同盟だって、どうせすぐに崩れる。ひるがえって袁氏は、中原を制圧して至強。もう覆らないか……」
魯粛 「つまらない世の中になったものだぜ。だが現実的な判断をするしか……」
魏末~西晋、呉将たちが、仕方なく中原に降ってゆく。袁紹が勝つことは「既定路線」に見えるため、周瑜がこれ以上、あばれる理由がないのかも。
魯粛の口を借りて、史実のほうが、いかに逆転と奇跡の連続で、ドラマチックだったか、語らせればいいと思う。三国志の魅力は、ここなんですよと。
周瑜・魯粛・孫権は、このあと最終決戦で、「孫氏を裏切る」はずです。
曹操による三顧の礼
南陽に駐屯した曹操は、蔡瑁の縁者である諸葛亮が、このあたりにいると聞き、勧誘にいく。荀攸を官渡城で失ったので、もっと人材がほしい。
董昭は劉表に寄り添ってしまった。曹操から献帝を奪うのは、董昭が劉表に提案したこと。結果的に、曹操が大損をしないような計略ではあるが、劉表に接近するが自然。「天子がいなくなると、急に淋しくなるなー」と、曹操は複雑な気持ちになったり。
賈詡は、だんだん態度がデカくなってきたが、張繍軍の存在感は大きいから、掣肘を加えることができない。諸葛亮 「誰かさんのせいで、故郷に住めなくなったんですけど」
曹操 「そこを何とか」
きっと、三顧を経ても、頷いてもらえない。また考える。というか、孔明の登場シーンは、要らないのかも。
曹操は蔡瑁と結ぶ。袁紹軍の侵攻がきたとき、蔡瑁と結んで、劉表から国を奪おうとする。成功するかどうかは、また考える。
天下を平定するための大動員
劉和を皇帝にした以上、その正当性を主張しなけばならない。つまり、官渡よりも「勝つべくして勝った」圧勝をつくり、献帝を否定しなければならない。献帝に天命がないことは、劉和を即位させるときの、勧進文のなかに含まれるから。
その陣容とは……、
◆袁熙軍:長安から成都を目指す(vs張魯・劉璋)
軍師:郭図(本作で関中平定に功)・辛評(本作で遼東平定に功)
郭図・辛評は、史実でともに袁譚を推戴し、関係は良好
軍容:涼州の羌族・北方の烏桓がいて、山岳に強い
◆袁紹・袁尚軍:許都から襄陽を目指す(vs曹操・劉表)
軍師:審配(史実より)・逢紀(史実より)
逢紀は、審配が魏郡を治めるのに賛同し、関係は良好
軍容:袁紹の中央軍だから人数が多く、道が一番ラク
◆袁譚軍:
軍師:荀諶(本作の展開より)・沮授(史実で長子を支持)
軍容:劉備・関羽・張飛・趙雲がいる
沮授は、揚州のひとびとを説得して、分裂時代を終わらせてくれそう
軍師はあと2名、行き場がひとつに決まらないのは、許攸と田豊である。許攸は、秘密情報を漏洩する担当、田豊は史実で最後に逢紀と対立する。いずれも袁紹軍に残ってもらおう。
遠征の直前に、袁紹が死す
建安八年夏六月、袁紹が薨じた。 三方面から同時に進発するとき(史実補正がきいて)袁紹が死んでしまう。官渡の敗戦を経験せず、寿命が延びたものの、限界があった。史実の1年おくれ。
荊州攻めの袁尚軍は、袁紹の喪を伏せる。審配のアイディアで、敵だけではなく、袁譚・袁熙にすら伏せる。袁紹が死んだ以上、ふたりは潜在的なライバルである。「天下を縦に三分」しかねない情勢である。
袁紹が死ぬことで、立場が浮いてしまうのが、田豊と許攸である。さっき、配置が、ひと通り(物語の流れから必然として)決まらなかった2名である。
田豊は、袁紹から戦術家として、手腕を買われていた。しかし史実では、逢紀が田豊をはばかり、「手を打って袁紹を笑った」というインネンを付けられて殺される。きっと軍内で分裂があるのだろう。
理想としては、田豊が後方の許県に繋がれて、「死刑になるのも時間の問題」となったとき、田豊の知恵がないと乗り切れないピンチが訪れて、三方面の勝利をバックアップするという位置にしたい。結果、逢紀は田豊を責めきれなくなり、釈放してハッピーエンド。許攸は、袁紹の死という極秘情報を、曹操・劉表にモラすのではなく、袁譚・袁熙を動揺させるために、悪用するのだと思う。具体的な方法は、これから考える。しかし、許攸の悪意がウラメに出て、統一戦争がうまく進むと。
大枠は考えたので、各方面の戦況の詳細は、ぼちぼち考えます。
結末:袁氏三子の誰かが皇帝になる
統一戦争のなかで、袁紹の三子が競い合い、「こいつが後継者になったら、だれも文句が言えないよね」という合意形成がされる。意見がバラバラになる軍師たちも、納得せざるを得ないような。というか、そういう戦争になるように、筋を考える。
傀儡の劉和から、袁紹の子が禅譲を受けて、めでたしめでたし。
◆おわりに
このままでは小説になりません。もう一段階くわしいプロットを作ってから、小説づくりに着手しないと、手戻りの連続になり、吐きそうになる。
つぎの作業、「三国志義兄弟の宴」の準備?がしたくて、おのずと頭が切り替わってきた。15年12月31日から4日かけ、だいたいの骨格は作れた。ひとくぎり。ともあれ「あらすじ」として、ウェブに公開するのは、これぐらいの工程までだと思います。ここでは、登場していないキャラ・伏線を回収していないキャラは、
郭嘉(郭図の対決は?)、于禁(泰山の諸将が袁譚に懐柔されるとき、どう動くか)、賈詡(最終決戦でトリッキーな動きをするはず)、献帝のそばにいる劉表・金禕・耿紀と劉表との関係は?、最終決戦で周瑜はどうするのか?、淳于瓊は役に立つのか?、張郃は?、官渡で曹操から袁紹に寝返るひとが出たほうが面白いような?、袁叡の未来は? など。 160103閉じる