雑感 > 『魏の武王 曹操』シナリオ案4

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第16回 屯田制を立て、みたび南陽に出兵

建安元年、天子奉迎とともに重要なのは、屯田制の施行。p191
後漢中期より、災害・飢饉・戦乱で、関東は打撃。小農民は豪族の労働力になるか流亡するしかない。袁紹は桑の実、袁術はどぶ貝を軍糧にあてた。
上洛したとき、曹操の千人は、食糧を携行せず。楊沛は、桑の実を保存食とすることを奨励しており、それを曹操に提供した。

『魏略』楊沛伝

『陳志』巻十五 賈逵伝の裴注によると、『魏略』の列伝は、李孚・楊沛・賈逵で、一巻の列伝とした。裴松之がここに楊沛伝をつなぐ。

魏略列傳以逵及李孚、楊沛三人爲一卷、今列孚、沛二人繼逵後耳。


楊沛 字孔渠,馮翊萬年人也。初平中,為公府令史,以牒除為新鄭長。興平末,人多飢窮,沛課民益畜乾椹,收豆 豆,閱其有餘以補不足,如此積得千餘斛,藏在小倉。
會太祖為兗州刺史,西迎天子,所將千餘人皆無糧。過新 鄭,沛謁見,乃皆進乾椹。太祖甚喜。及太祖輔政,遷沛為長社令。

楊沛は、あざなを孔渠といい、馮翊の萬年のひと。初平期、公府の令史となり、牒除をもって(辞令を受けて)新鄭長となった。

『一統志』はいう。萬年の故城は、陜西の西安府の臨潼県の東北70里。
『郡国志』はいう。司隷の河南尹の新鄭県である。『一統志』はいう。新鄭の故城は、いま河南の開封府の新鄭県の北にある。

興平末、ひとは多くが飢窮する。楊沛は、民に乾椹(乾燥させた桑の実)を、ますます備蓄することを奨励した。ロウ豆(野のマメ)を収穫させた。余裕あるものを調べ、不足するものに回した。こうして千餘斛を備蓄することができ、小倉にしまった。
ちょうど曹操が兗州刺史となり、西にゆき天子を迎えると、ひきいる千人には軍糧がない。新鄭県を通過したとき、楊沛は謁見し、みなに乾燥した桑の実をあげた。曹操は喜んだ。曹操が輔政すると、長社令となった。

長社は、鍾繇伝に見える。


時曹洪賓客在縣界、徵調不肯如法、沛先撾折其腳、遂殺之。由此太祖以爲能。累遷九江、東平、樂安太守、並有治迹。坐與督軍爭鬭、髠刑五歲。

ときに曹洪の賓客が、長社県の境界内におり、法どおりの納税に従わないので、楊沛は賓客の足を折って殺した。

曹洪は、揚州刺史の陳温と交際があり、はじめ曹操と、曹氏の家長を競ったとぼくは考えた。曹洪は、財産がらみのトラブルが多い。
曹洪伝にひく『魏略』に、文帝收洪、時曹真在左右、請之曰「今誅洪、洪必以真爲譖也。」帝曰「我自治之、卿何豫也?」會卞太后責怒帝、言「梁、沛之間、非子廉無有今日」。詔乃釋之。猶尚沒入其財產。太后又以爲言、後乃還之。初、太祖爲司空時、以己率下、每歲發調、使本縣平貲。于時譙令平洪貲財與公家等、太祖曰「我家貲那得如子廉耶!」
曹丕は曹洪に借財を申し出て断られたら、曹洪を殺そうとした。卞氏に取りなされ、財産の没収に留めたが、卞氏に言われてそれも返した。曹操が司空となったとき(天子奉戴したとき)譙県令は、「曹操と曹洪の財産がひとしい」と報告した。曹操は「私の財産が、曹洪と等しいことがあろうか」といった。
独立採算制であり、曹洪の賓客がきちんと納税しないのも、体制内の豪族という側面がありそう。それを楊沛は、君主権力の手先となり、ぐいぐい徴税した。

曹操は有能だと考え、九江・東平・楽安太守に遷ったが、治績があった。督軍と闘争して、5年のコン刑にされた。

揚州の九江郡、兗州の東平郡、青州の楽安郡である。


輸作未竟、會太祖出征在譙、聞鄴下頗不奉科禁、乃發教選鄴令、當得嚴能如楊沛比、故沛從徒中起爲鄴令。已拜、太祖見之、問曰「以何治鄴?」沛曰「竭盡心力、奉宣科法。」太祖曰「善。」顧謂坐席曰「諸君、此可畏也。」賜其生口十人、絹百匹、既欲以勵之、且以報乾椹也。
沛辭去、未到鄴、而軍中豪右曹洪、劉勳等畏沛名、遣家(馳騎)[騎馳]告子弟、使各自檢敕。沛爲令數年、以功能轉爲護羌都尉。

輸作(刑期)が終わる前に、曹操は出征して譙県にゆき、鄴県では禁令が守られていないと聞き、厳格な楊沛を鄴の県令に起用した。拝してから、曹操は楊沛に「どうやって鄴県を治めるか」と聞いた。「心力をつくし、科法を徹底させる」と。曹操「よし」。曹操は座席を顧みて、「諸君(楊沛を)畏れるべし(この男はこわいぞ)」といった。

曹操軍の主要メンバーの縁者や賓客が、鄴県で、法律を破って好き勝手やっていたのか。具体的には、曹洪・劉勲が、対象だったようである。

生口・絹を与えられた。激励と、桑の実の返礼である。

生口とは、軍がつかまえた捕虜。生口の用例は、上海古籍1402p

楊沛が鄴に至る前、軍中の豪右である曹洪・劉勲らは、楊沛の名を畏れ、馬を走らせて子弟に知らせ、(楊沛に罰せられないように)慎ませた。楊沛は、鄴の県令を数年やり、功能があるから護羌校尉となる。

曹操に馬を差し出したはずの曹洪、袁術の後継政権を立て損ねた劉勲。このふたりの名が見えるから、原作を離れて、史料を読んでます。ふたりは、原作できちんと触れられているひとで、曹操のために彼らを掣肘した楊沛は、すごいなと思って。


十六年、馬超反、大軍西討、沛隨軍、都督孟津渡事。太祖已南過、其餘未畢、而中黃門前渡、忘持行軒、私北還取之、從吏求小船、欲獨先渡。吏呵不肯、黃門與吏爭言。沛問黃門「有疏邪?」黃門云「無疏。」沛怒曰「何知汝不欲逃邪?」遂使人捽其頭、與杖欲捶之、而逸得去、衣幘皆裂壞、自訴于太祖。太祖曰「汝不死爲幸矣。」由是聲名益振。及關中破、代張既領京兆尹。

建安十六年(212)、馬超の討伐に随った。孟津を渡る作戦を都督した。

原作で、曹操の戦闘で、細かく描かれているのは、官渡と潼関である。そのエピソードなので、史料を読んでおきます。

曹操はすでに南に渡り、残りが渡り終える前。すでに黄門は渡り終えたが、

盧弼はいう。この時点で、曹操はまだ魏公でない。なぜ配下に「中黄門」がいるのか。
ぼくは思う。袁紹が宦官を全殺したから、官職を士大夫に回収させた。曹操が後宮を持っていなくても、士大夫の「中黄門」がいるのではないか。

行軒(車か)を持ってくるのを忘れたので、ひそかに北に取りに戻るため、吏に小船を求め、ひとりで渡ろうとした。吏が認めず、黄門と言い争った。楊沛が「疏があるか」と聞いた。黄門「ない」。楊沛「どうしてお前が逃げるのではないと分かるか」と。ひとに黄門を頭を抑えさせ、杖で打とうとした。黄門は逃れたが、衣幘はボロボロ。曹操に訴えると、曹操「死ななかっただけでも幸せだ(黄門は楊沛に殺されて当然のことをした)」と。楊沛の声名が高まる。関中を破ると、張既に代わって京兆尹となる。

以降、黄初期(曹丕期)の記事なので、はぶく。


屯田制を施行する

曹操は、急速に膨張した。青州黄巾、献帝の朝廷を受け入れた。食糧に、抜本的な改革が必要。羽林監の棗祗、護軍の韓浩が発案した、屯田制。
ヒントは、呂布との戦い。東阿令の棗祗は、屯田により軍糧を備蓄した。

呂布との戦いは、持久することの苦労を作中で描けばよい。曹操は袁紹を頼ろうとしたり、程昱が人肉を兵糧に混ぜたり。

陳留太守の夏侯惇も、襄陽県ふきんに太寿という場所に屯田をつくり、みずから兵を率いて稲を植えた。

夏侯惇伝:太祖自徐州還、惇從征呂布、爲流矢所中、傷左目。復領陳留濟陰太守、加建武將軍、封高安鄉侯。時大旱、蝗蟲起。惇、乃斷太壽水、作陂。身自負土、率將士勸種稻、民賴其利。轉領河南尹。
夏侯惇が屯田するのは、徐州で呂布と戦ってから。


同じころ、徐州牧の陶謙の部下である陳登は、典農校尉に任ぜられ、農業生産を監督。

『陳志』巻七 陳登伝にひく『先賢行状』に、
登忠亮高爽,沈深有大略,少有扶世濟民之志。博覽載籍,雅有文藝,舊典文章,莫不貫綜。年二十 五,舉孝廉,除東陽長,養耆育孤,視民如傷。是時,世荒民飢,州牧陶謙表登為典農校尉,乃巡土田之宜,盡鑿溉之利,秔稻豐積。奉使到許,太祖以登為廣陵太守,令陰合眾以圖呂布。
潅漑の工事をやって、穀物を備蓄した。

曹操の屯田は、臨時の農業生産の手段だったものを、大規模・組織的におこなうところが新しい。

潁川の棗祗が屯田都尉となるが、すぐに死んだらしく、韓浩が典農中郎将となり、百余斛の収穫をえる。『陳志』巻十六 任峻伝に、

會太祖起關東、入中牟界。衆不知所從。峻獨與同郡張奮議、舉郡以歸太祖。峻又別收宗族及賓客家兵數百人、願從太祖。太祖大悅、表峻爲騎都尉、妻以從妹、甚見親信。太祖每征伐、峻常居守、以給軍。是時歲飢旱、軍食不足。羽林監潁川棗祗、建置屯田。太祖以峻爲典農中郎將、數年中所在積粟、倉廩皆滿。官渡之戰、太祖使峻典、軍器糧運。賊數寇鈔絕糧道。乃使千乘爲一部、十道方行、爲複陳以營衞之、賊不敢近。軍國之饒、起於棗祗而成於峻

任峻は中牟県のひとで、洛陽を脱出した曹操に宗族をあげて随い、曹操の従妹をめとる(既出)。石井先生が、棗祗の死を推測するのは、最初に東阿県で屯田をした棗祗でなく、かわりに任峻が屯田を担当したから。

棗祗伝

棗祗伝にひく『魏武故事』は令を載せ、

「故陳留太守棗祗、天性忠能。始共舉義兵、周旋征討。後袁紹在冀州、亦貪祗、欲得之。祗深附託於孤、使領東阿令。呂布之亂、兗州皆叛、惟范、東阿完在、由祗以兵據城之力也。後大軍糧乏、得東阿以繼、祗之功也。及破黃巾定許、得賊資業。

もと陳留太守の棗祗は、ともに義兵をあげて、(董卓軍を)征伐してまわった。のちに袁紹が冀州を得ると、棗祗をほしがった。しかし棗祗は、私(曹操)に付いてくれた。呂布の乱で、范・東阿だけを守れたのは、棗祗のおかげ。

呂布を兗州から追い出し、張邈を片づけてから、棗祗を陳留太守にしたのだろう。棗祗の死後、夏侯惇が陳留太守。まだ1州か2州しかなく、任命できる太守は10名もいないはずなのに、棗祗は太守となった。頼りになる創業メンバーなんだろう。
曹操の創業に加わったが、栄達を見ずに死んだメンバーは、兗州時代に多い。

のちに黄巾を破り、賊から「資業」を得た(既出)

當興立屯田、時議者皆言當計牛輸穀、佃科以定。施行後、祗白以爲僦牛輸穀、大收不增穀、有水旱災除、大不便。反覆來說、孤猶以爲當如故、大收不可復改易。祗猶執之、孤不知所從、使與荀令君議之。時故軍祭酒侯聲云。『科取官牛、爲官田計。如祗議、於官便、於客不便。』聲懷此云云、以疑令君。祗猶自信、據計畫還白、執分田之術。孤乃然之、使爲屯田都尉、施設田業。其時歲則大收、後遂因此大田、豐足軍用、摧滅羣逆、克定天下、以隆王室。祗興其功、不幸早沒、追贈以郡、猶未副之。今重思之、祗宜受封、稽留至今、孤之過也。祗子處中、宜加封爵、以祀祗爲不朽之事。」

牛を課税の基準とするかどうかで、棗祗・荀彧・侯聲がもめる。棗祗は「分田の術」を主張した。私牛を持つものは、官・民の取り分が五対五。官牛を借りた場合は、六対四という比率で、作物を徴収する方法。当時の小作料とおなじ比率と推定されるが、これが成功した。p193

史料の中身がよく分からないので、石井先生の解説に拠って、棗祗のやったことを説明した。ちくま訳を読むと、逐語的には理解できるが、どういう制度の議論をしてるのか理解できなかった。

曹操の令は、棗祗を屯田都尉として、軍糧を蓄えることができ、逆賊どもを撃って、克って天下を定め、王室を隆めることができたが、不幸にして早くに没したので、棗祗の子に爵位を加えると。

曹操のいう「天下の平定が終わってる」とは、赤壁後に出てきた見解。きっと、石井先生のいう、曹操政権のピンチであった、赤壁後の1~2年間に、今日まで曹操を助けたひとをモレなく褒賞して、政権を立て直した。


屯田の制度について

辺境の守備兵が、軍務のあいまに耕作して自給自足するのは、前漢からやった。「軍屯」という。曹操の屯田は、民間に耕作させる「民屯」である。内地に導入したこと、兵士でなく農民に耕作させたことが、画期的な試み。p194
ただし、屯田民は、官の耕民ではない。戸籍に登録されず、郡県の支配を受けない。いわゆる「田官」である、典農中郎将(太守と同格)・典農校尉(小郡の太守と同格)・典農都尉(県令長と同格)のもとに監督された。ゆえに、曹操の屯田を典農部屯田という。
田官には、中郎将・校尉などの武官があてられたから、軍隊の指揮・命令系統を応用していた。司空・車騎将軍の曹操に直属していたのだろう。革命後、大司農に移管される。
218年、許都のクーデターを、潁川典農中郎将が鎮圧しているから、ある程度の兵力を常備していたこと考えられる。

@sweets_street さんはいう。ちなみに屯田には軍人がやる「軍屯」と民間人がやる「民屯」があるんですけど、曹操が建安年間に始めた有名な屯田は民屯の方です。一種の公営農場ですね。流民に農具を与えて耕作させる代わりに高い税金を取る(5割~6割という税率は後漢よりはるかに高い)んで、逃亡や反乱も起きてます。曹操の屯田ってブラック経営なんですよ。典農官が校尉やら中郎将やらを名乗るのだって、屯田民を軍隊式に管理するためですし。戦乱の時代に「税金を安くしつつ収入を増やす」なんて無理なんで、仕方ないといえば仕方ないんですけど。曹操の政治はあまり民に優しくなかったってのは覚えといてほしいなと。孫権や劉備も民に優しいとはいえません。二人とも増収策に熱心なんですが、戦乱の時代に民力休養による経済振興なんてのはできません。そうなると、新しい税金かけたり、戸籍登録して納税者を増やしたりすることになる。民から多く絞りとらないといけないってことです。
@sweets_street さんはいう。ぶっちゃけ、後漢末から三国時代にかけての政治家の中で、諸葛亮はかなり特異なポジションの人だと僕は思ってます。当時の名宰相の多くが知識人階級のトレンドである減税・民力休養を唱えて名声を博した中、重税・軍事路線を驀進してもなお高い評価を得た諸葛亮の特異性が際立ちます。
@sweets_street さんはいう。曹操が失敗した「住民を強制移住させて空白地帯にする」って策、純軍事的には有効です。当時は兵站を現地調達に頼る度合いが大きいので、住民がいない地域を攻めるとたちまち軍が飢えてしまいます。楽に勝てるので後漢政府は多用したのですけど、民心を失うところまで曹操はなぞってしまいました。


◆潁川典農中郎将

『陳志』武帝紀:二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。
『陳志』巻二十三 裴潜伝:潛出為沛國相,遷兗州刺史。太祖次摩陂,歎其軍陳齊整,特加賞賜。文帝踐阼,入為 散騎常侍。出為魏郡、潁川典農中郎將,奏通貢舉,比之郡國,由是農官進仕路泰。遷荊州刺史,賜爵關內侯。
『陳志』巻二十七 徐邈伝:文帝踐阼,歷譙相,平陽、安平太守,潁川典農中郎將,所在著稱,賜爵關內侯。

曹操期の潁川典農中郎将は、厳匡だけである。裴潜も徐邈も、曹丕の時代。つまり、大司農に移管されたあとのことだろう。そして厳匡は、ほかに見えない。残念。

屯田は、財政の安定化のみならず、荒廃地域の復興、秩序の回復にも寄与した。咸熙元年(264) 魏晋革命の前夜、田官は役割を終え、郡県に再編された。

ここで原作は、節を「群雄との戦い」と改めて、p195

南陽の敗戦

建安二年正月、宛県に兵を進める。張繍が、劉表の支援を受ける。潁川と南陽は、同一の経済・文化圏に属し、地理的にも近い。許都の安全保障のため、宛県(のある南陽)の制圧は、必要不可欠。
降伏した張繍が反旗を。張済の未亡人、張繍麾下の勇士を奪おうとした……と原因が言われるが、最初から騙し討ちにするための、偽りの降伏だったかも知れない。賈詡がいるから。

石井先生は「かも知れない」とするが、それは史料的な根拠が100%ではないからで、しかし本音では「最初から偽りだった」とお考えのはず。

賈詡は、軍を移動させる許可を取って、油断させた。

曹昂が死ぬ。一説に「馬に乗れなかった」といわれるが、そんなことはない。息子を犠牲に生き延びた、曹操への配慮から生まれた反し。十歳の曹丕は馬で脱出。典韋も死ぬ。舞陰県まできて、「人質を取らなかったのが敗因。二度と負けない」と諸将に宣言する(武帝紀)
典韋のために涙を流し、曹昂の死は平静をよそおったがポーズ。「わが子を失って、平気でいられる人があろうか」
曹昂を養育していた丁夫人には、曹操が「冷血な悪魔」に見えたらしい。半狂乱となり責めて、お別れした。

巻五 后妃 卞皇后伝にひく『魏略』に、

太祖始有丁夫人、又劉夫人生子脩及清河長公主。劉早終、丁養子脩。子脩亡於穰、丁常言「將我兒殺之、都不復念!」遂哭泣無節。太祖忿之、遣歸家、欲其意折。後太祖就見之、夫人方織、外人傳云「公至」、夫人踞機如故。太祖到、撫其背曰「顧我共載歸乎!」夫人不顧、又不應。太祖卻行、立于戶外、復云「得無尚可邪!」遂不應、太祖曰「真訣矣。」遂與絕、欲其家嫁之、其家不敢。

お別れのことと、

初、丁夫人既爲嫡、加有子脩、丁視后母子不足。后爲繼室、不念舊惡、因太祖出行、常四時使人饋遺、又私迎之、延以正坐而己下之、迎來送去、有如昔日。丁謝曰「廢放之人、夫人何能常爾邪!」其後丁亡、后請太祖殯葬、許之、乃葬許城南。後太祖病困、自慮不起、歎曰「我前後行意、於心未曾有所負也。假令死而有靈、子脩若問『我母所在』、我將何辭以答!」

臨終の床で曹操が、「わが一生に、なんの後悔もない。ただひとつの心残りは、丁氏のこと。もしあの世で子脩(曹昂)と再会し、「母上はいずこにおられるのですか」と問われたら、なんと答えたらよいだろう。

曹操は、計算高いマキャベリストでも、完全無欠の超人でもない。情に流されやすかった。そうした欠点を強靱な意志の力でカバーしたことに、彼の偉大さがある。現実主義の政治家、縦横自在の戦略家、冷酷無比の権力者。後世のレッテルは、自らが作り上げた、もう一つの人格。『魏の武帝 曹操』198p

原作の有名な一節が、ここで登場します。曹昂・丁夫人のことは、石井先生のなかの曹操像を形づくる上で、とても比重が大きい。南陽の戦いの前、丁氏・曹昂との温かいやりとりを描いておくことで、小説のなかで悲劇性が高まる(という計算をして、小説は書くものでしょう)
ぼくは思う。石井仁『曹操』は、沛国丁氏が強調され、p197で曹昂の死で「わが子を失って平気でいられる人があろうか」とし、后妃伝注引『魏略』をひき、丁夫人・曹昂に対する曹操の後悔を紹介。いっぽう、p349「文庫版へのあとがき」で、執筆中はご長男の「初めての育児」期間だったと述懐。曹昂にダブらされてると思われる(誤読は読者の特権)
曹丕・曹植の後嗣問題は、石井仁『曹操』で詳述されない。なぜか。長男の曹昂が死んで、丁夫人と離縁した時点で、人間・曹操の感情の上での後嗣問題は終焉している。死ぬまで丁夫人との離縁を悔いてる。曹昂がおらねば、後嗣は不在、というのが、曹操の主観的な結論。そのように書いてあるわけじゃないが、『曹操』の記述の分量の偏りによって、明らかになる。
政権維持という目的・爵位制度の要請で、曹丕と曹植のどちらかを選ばざるを得なかっただけ。曹昂がムリなら(死んだからムリ)、正直なところ、曹丕・曹植はどうでもいい。やや曹植のほうが好きだが、儒家官僚に応えるためには、曹丕を選ぶことも可。しかしほんとうに長子相続をさせるなら、曹昂がよかった……という無限の苦しみ。


みたび南陽に出兵する

張繍は穣県に駐屯し、劉表と関係を強化。兵力・物資を支援された。
諌議大夫の曹洪が葉県に駐屯したが、思わしくない。袁術・呂布を封じ込めてから、

武帝紀:197年秋9月、袁術は陳国をせめる。曹操は東へゆく。袁術は、みずから曹操が来たと聞き、にげた。橋蕤、李豐、梁綱、樂就をのこした。曹操はすべて斬る。袁術は淮水をわたって逃げた。曹操は、許都にもどる。
石井先生のいう、曹操がつくった貯金が、効力を発揮した。袁術は、曹操の登場を聞けば、戦わずに逃げたと。もし貯金がなかったらと思うと、ゾッとする。南に張繍、北に袁紹が迫っているから。

十一月、宛県を攻める。劉表の将・鄧済を湖陽県で生け捕り。舞陰を攻略。張繍を孤立させる。

曹操は荊州の県を、ひとつずつ攻めて領土を広げてた。


同じ建安二年三月、将作大匠の交友を鄴につかわし、大将軍・冀州牧・鄴侯を袁紹にあたえ、弓矢・黄鉞・虎賁百人「三賜」の殊礼をくわえた。春秋晋の文公が、周王から拝受した故事にもとづき、武力・刑殺権の行使を保証するもの。「天子に代わって河北を平定せよ」というお墨付き。p199
いかに曹操が、袁紹の実力をおそれ、機嫌を取り結ぶのに苦労したかがわかる。しかし袁紹は曹操を手下と見なし、鄄城への遷都を提案。田豊が許都の進攻を主張。許都は、袁紹軍の来襲におびえていた

建安三年三月、曹操は穣県を包囲。五月、袁紹軍の逃亡兵が、田豊の許都攻撃計画をもたらす。曹操は、撤退。

武帝紀にひく『献帝春秋』:袁紹叛卒詣公雲:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。袁紹を反した兵士が、曹操に言った。「田豊は袁紹に言った。許を襲い、天子をうばえば、天下が定まると」と。 曹操は、穰県のかこみを解く。

曹操は荀彧に手紙を送り、「安衆につけば(袋の鼠になって死の者狂いで戦うから)勝てる」と。トンネルを掘るふりをして、劉表・張繍軍をやぶる。七月、許都に。

三次にわたる南陽遠征は、決定的な勝利はえられないが、張繍・劉表の同盟をゆさぶるには充分。この方面の軍事的脅威は取り除かれた。

劉表軍が、張繍を捨て石にするとか、そういう場面を描く。


建安初期の曹操に関する見通し

今回をぼくなりにまとめると、潁川・汝南の黄巾を制圧したばかりの曹操は、兵糧も持たずに洛陽にゆき、楊沛に恵んでもらった。軍に兵糧を欠いたこと、洛陽にいくのは速度が勝負だったことが分かる。飢えて離散したら、どうするつもりだったんだ。
許都に献帝を迎えると、その周辺に田官を立てて屯田をやり、食糧調達・首都防衛に役立てた。許都のすぐそばには宛城があるから、ここにいる張繍を追い出した。張繍のおじ・張済は、李傕らと献帝を取りあったひと。もし張繍が、董卓の流れをくむ兵で許都を攻めたら、興平期の献帝の流亡が、再会するところだから、曹操はそれを必死に防いだ。
その目的は勤皇というより、袁紹に対抗するための権威として、献帝を重要視したからに見える。だから田豊は、許都を攻めろといった。袁紹と曹操は、初めて緊張関係になった(曹操は緊張関係に持ち込むことに成功した)。
袁紹は、許都を攻めれば、曹操と対抗関係になってしまうから、攻めなかったか。単純に優柔不断だから、攻めなかったのではなく(まだ公孫瓚がいるから軍事的な余裕もないし)曹操と敵対することは、袁紹にとってトクではない。手下として扱い続けるのが有利。
曹操は、当初、本拠地だと思い定めた兗州をかまっているヒマはなくて、許都の維持・防衛が至上命題である。袁紹の先兵として兗州を維持するよりも、戦略を変えて、袁紹から距離を置いて独立を図ることにした。袁紹からすれば、違約。こんなトリッキーな違約が成り立つのは、反則的な権威・献帝を持っているときだけ。みたび南陽に出兵して、とりあえず脅威を除いた。151211

閉じる

第17回 袁術・呂布を滅ぼし、江淮を得る

袁術軍の壊滅

袁術は、興平元年から翌年、勢力を盛り返した。丹陽太守の周昕、九江太守の周昂、廬江太守の陸康を駆逐して、江淮を制圧。建安元年九月、孫策は会稽に進み、太守の王朗をやぶる。王朗を支援した、周昕の一族は全滅。

曹操とゆかりのある周氏である。既出。


建安二年正月、袁術は帝位。呂布と婚姻をはかる。
沛国相の陳珪(下邳のひと、陳登の父)は、呂布・袁術(徐州・揚州)の同盟をおそれ、呂布・曹操の連携をうながす。

『陳志』呂布伝:沛相陳珪恐術、布成婚,則徐、揚合從,將為國難,於是往說布曰;「曹公奉迎天子,輔贊國政,威靈命世,將征四海,將軍宜與協同策謀,圖太山之安。今與術結婚,受天下不義之名,必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也,女已在塗,追還絕婚,械送韓胤,梟首許市。

夏、曹操は呂布を、平東将軍・徐州牧、

平東将軍のことは、『陳志』呂布伝にひく『英雄記』にある。しかし『陳志』呂布伝は、呂布が徐州牧を望み、陳登がその話を曹操に通しに行ったが、徐州牧をもらえなかったから呂布が怒ったとある。石井先生の記述と、矛盾する。

陳登を広陵太守、

『陳志』呂布伝:登見太祖,因陳布勇而無計,輕於去就,宜早圖之。太祖曰:「布,狼子野心,誠難久養,非卿莫能究其情也。」即增珪秩中二千石,拜登廣陵太守。臨別,太祖執登手曰:「東方之事,便以相付。」令登陰合部眾以為內應。
石井先生は、陳登が主体で、曹操と呂布の同盟を演出したとする。そのとおりだろう。下邳陳氏が、呂布・袁術に挟み撃ちにされるから、下邳陳氏の勢力圏を守るために、呂布・曹操を結びつけた。
『陳志』呂布伝で、始,布因登求徐州牧,登還,布怒,拔戟斫幾曰:「卿父勸吾協同曹公,絕婚公路;今吾所求無一獲,而卿父子並顯重,為卿所賣耳!卿為吾言,其說雲何?」とある。呂布からすれば、じぶんを徐州牧にしてもらうために、陳登を曹操に会いに行かせたのに、陳登が昇進して帰ってきただけ。思うに曹操の認識は(そして実態において)陳登は、呂布・袁術のいずれからも独立した勢力である。呂布の臣下のように認識すべきでない。だから曹操は、陳登を太守にした。下邳陳氏は「ダークホース」なので。

孫策を明漢将軍・会稽太守・烏程侯にする。東海郡の海西県に駐屯する陳瑀を、安東将軍・呉郡太守とする。反袁術同盟である。

孫策伝にひく『江表伝』に、

江表傳曰:建安二年夏,漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰:「董卓逆亂,凶國害民。先將軍堅念在平討,雅意未遂, 厥美著聞。策遵善道,求福不回。今以策為騎都尉,襲爵烏程侯,領會稽太守
又詔敕曰:「故左將軍袁術不顧 朝恩,坐創凶逆,造合虛偽,欲因兵亂,詭詐百姓,〔始〕聞其言以為不然。定得使持節平東將軍領徐州牧溫侯布上術所造惑眾妖妄,知術鴟梟之性,遂其無道,修治王宮,署置公卿,郊天祀地,殘民害物,為禍深酷。布前後上策 乃心本朝,欲還討術,為國效節,乞加顯異。夫縣賞俟功,惟勤是與,故便寵授,承襲前邑,重以大郡,榮耀兼至,是 策輸力竭命之秋也。其亟與布及行吳郡太守安東將軍陳瑀戮力一心,同時赴討。」
策自以統領兵馬,但以騎都尉領郡為輕,欲得將軍號,(及) 〔乃〕使人諷誧,誧便承制假策明漢將軍。是時,陳瑀屯海西,策奉詔治嚴,當與 布、瑀參同形勢。行到錢塘,瑀陰圖襲策,遣都尉萬演等密渡江,使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始 安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應,伺策軍發,欲攻取諸郡。策覺之,遣呂範、徐逸攻瑀於海西,大破瑀,獲其吏士妻子四千人。

詔の下線部分によると、呂布は平東将軍・徐州牧となっており、徐州牧をもらうことができた。孫策は、1段落めで烏程侯・会稽太守であり、3段落目で明漢将軍となる。ぼくが思うに、地方長官+将軍号は、都督制にむかう傾向を宿す。陳瑀が海西県にいること、安東将軍・行呉軍太守であることは、2段落めでわかる。

『陳志』呂布伝、同注引『英雄記』、孫策伝注引『江表伝』をつなぎあわせて、官爵のバーゲンセールを、曹操が開催したという記述になっている。
ぼくは、『江表伝』を接続することに違和感がある。たとえば、呂布が徐州牧をもらえたかどうか、呂布伝と『江表伝』で食い違っている。石井先生は『江表伝』を採る。呂布伝では、呂布が徐州牧をもらえなくて不満をためる、というのが筋書きで重要である。慎重に判定したい。きっと曹操は、安請け合いをして、呂布を徐州牧にしたんだと思うけど。袁紹と戦う前に、敵を増やしてはならないという理由で。呂布伝は、呂布の滅亡の必然性を描くために、「陳登にだまされたバカなやつ」という呂布像を提示するため、州牧の任命の有無を操作したか。


袁術は包囲網を切り崩すべく、張勲を徐州にゆかせるが敗退。
九月、陳国(ただひとり封国を守り切った諸王)と連携をはかる。10余万の避難民を受け入れた。陳王の劉寵は、輔漢大将軍(王莽末に使われた称号)をなのり、国相の駱俊(会稽のひと)を輔佐に中立を守る。劉寵・駱俊は、袁術に暗殺された。


まもなく、曹操が出陣。あわてた袁術は、橋蕤(橋玄の一門か)ら四将軍にあとを任せ、淮南ににげる。リーダーが敵に恐れをなしたのでは、士気が上がるはずもない。四将軍も撃たれる。主力軍を喪失して、事実上、覇権あらそいから脱落。p203

ぼくは思う。袁術・袁紹は、どちらも光武帝にかぶれ、「王者」としてゴリ押しで進軍し、曹操に敗れる。建安二年、袁術が橋蕤ら四将軍と北伐。建安五年、袁紹の官渡の戦い。構造は同じである。
原作249pで、官渡の戦いの記述を終え、袁紹の分析がある。持久戦・奇襲・奇計を採用しない。曹操との戦いは、ただ勝つだけでなく、完膚なきまでに叩き、許都の朝廷が天命を失っていることを証明する必要があった。威風堂々と大軍をひきいて黄河をわたる袁紹は、往年の光武帝。ただし、前に立ちはだかるのが、烏合の衆の更始帝や、赤眉集団ではなく、覇気あふれる曹操だった。
これは袁紹の話だが、袁術も同じだろう。完勝して当然。少しでもキズがついたなら、出直し。まるで占いのような戦い方。天子になったからには、手ごわそうな曹操軍といえど、更始帝・赤眉集団のように、自壊することを期待した(リアリティを見出してしまった、それが皇帝病)。ただし曹操は「出直し」を許してくれず、全軍を滅ぼされた。


呂布の滅亡

袁紹との決戦まで、少しでも有利な政治環境をつくりあげておく必要がある。幕下に加わったばかりの郭嘉が、「袁紹が公孫瓚に忙殺されるうちに、呂布を討て。呂布が袁紹の味方にならないとも限らない」という(『陳志』郭嘉伝にひく『傅子』)

嘉又曰:「紹方北擊公孫瓚,可因其遠征,東取呂布。不先取布,若紹為寇,布為之援,此深害也。」太祖曰:「然。」
曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝


呂布は、曹操の外交戦略に振り回され、孤立した。袁術がいるから、曹操は、うかつに手を出せなかった。袁術が大敗して、袁術・曹操・呂布の均衡がくずれた。遅まきながら呂布は、袁術との関係の修復に努める。
建安三年(198) 九月、高順・張遼に、小沛にいる徐州牧の劉備を攻撃させる。曹操は梁国で劉備と合流し、彭城をめざす。陳宮が迎撃を主張するが、呂布は「泗水に蹴落とす」と聴き入れず。十月、彭城をおとした曹操が、下邳に進攻。
曹操の進攻には、不安要素がある。
 ・兵糧が続かない(かつて陶謙の籠城策にはばまれた)
 ・袁術・張楊が臨戦態勢で、曹操を牽制
 (呂布が滅亡すれば、勢力の均衡が破れることを承知)
しかし、荀攸・郭嘉が、曹操に「撤退するな」と説得。『魏志』荀攸伝に「呂布の気力が回復せず、陳宮の計略が決まらないうちに、厳しく攻めれば勝てる。

何顒ら党錮と結びつき、河北と曹操をつないだ荀攸伝02
荀攸伝:「呂布勇而無謀,今三戰皆北,其銳氣衰矣。三軍以將為主,主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲,今及布氣之未複,宮謀之未定,進急攻之,布可拔也。」
張楊の臨戦態勢については、張楊伝に「楊素與呂布善。太祖之圍布,楊欲救之,不能。乃出兵東市,遙為之勢。」に表れている。
呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝02
曹操による河南の制圧は、袁術・曹操を中心とした均衡状態を、どのように自分に有利なように傾けるかという戦いである。袁術は、自分が勝つために戦うので、戦略らしい戦略がないが(王者のゴリ押しは、のちの袁紹も同じ)、張繍・呂布・張楊らは、バランス・ゲームのなかで生き残ることを考える。


呂布の陣営に、欠陥がある。来歴がバラバラ。p205
十二月、呂布が投降。曹操は、陳宮の遺族を手厚く保護し、娘を嫁がせた。義兄弟の関係でも、結んでいたのだろうか。史書は、何も伝えない。p206

もちろん小説では、陳宮と曹操を義兄弟にします。


泰山の諸将に、青州・徐州を委任

ただし呂布を滅亡させても、徐州を制圧できない。大虐殺があった。「泰山の諸将」に、青州・徐州を委任。
『魏志』臧覇伝にひく『魏略』によれば、士大夫ではなく庶民の出。

黄巾のとき、朝廷の募集に応じた義勇兵が、反乱の終結後も武装解除せず、自衛集団を形成したものか。傭兵として最適。
反董卓同盟のとき、王匡・鮑信(どちらも泰山のひと)が動員し、劉備・呂布も味方につけようとした。確実な証拠はないが、黄巾との関係も窺われる。

彼らが委任されたのは、曹操が配下に抱えた、青州黄巾の故郷である。史書では分かりにくいが、青州・徐州を、彼ら自身で統治する権利、租税を安くする権利などを条件に、曹操に味方する(袁紹に味方しない)ことを条件つきで承認した、地下の義勇兵の集団があったのかも。
魏王朝ではなく、曹操という個人との関係。魏王朝が、歴史書において抹殺しなければならなかった人々。

鮑信の配下の兵卒から出世した于禁は、昌豨の旧友。昌豨は、このとき昌豨のために作られた「昌慮」郡の太守となり、のちに反乱を起こして、于禁に斬られる。于禁は、泰山の諸将と関係があったらしい。

のちに「泰山の諸将」は、袁紹・孫権・公孫氏から青州・徐州を守り、曹操の覇権確立に貢献する。ことに臧覇は、鎮東将軍・都督青州諸軍事・領徐州刺史に昇進し、魏の重臣となった。p208

◆于禁の旧友である昌慮伝
臧覇には列伝があるが、なんだか重要人物に見える昌慮について、テキストを検索し、登場箇所を抜粋します。石井先生の本では、昌慮はもう出て来ないけど。

『陳志』武帝紀:太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌豨 各聚眾。布之破劉備 也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附於海以委焉,分瑯邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡
……遂東擊備,破之,生禽其將夏侯博。備走奔紹,獲其妻子。備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降。昌豨叛為備,又攻破之。公還官 渡,紹卒不出。

泰山の諸将である臧覇・昌慮らは(劉備に味方していたが)呂布が劉備を破ると、呂布に従った。呂布が敗れると、曹操が臧覇らをとらえた。厚遇して、徐州・青州を委任した。……のちに劉備が徐州で曹操に叛くと、曹操は関羽を降した。昌慮が劉備の見方をしたので、曹操は昌慮を破った。曹操は官渡に還ったが、この間に袁紹は出て来なかった。

『陳志』巻十七 張遼伝:袁紹破,別遣遼定魯國諸縣。與夏侯淵圍昌豨於東海,數月糧盡,議引軍還,遼謂淵曰:「數 日已來,每行諸圍,豨輒屬目視遼。又其射矢更稀,此必豨計猶豫,故不力戰。遼欲挑與 語,儻可誘也?」乃使謂豨曰:「公有命,使遼傳之。」豨果下與遼語,遼為說「太祖神武,方 以德懷四方,先附者受大賞」。豨乃許降。遼遂單身上三公山,入豨家,拜妻子。豨歡喜, 隨詣太祖。太祖遣豨還,責遼曰:「此非大將法也。」遼謝曰:「以明公威信著於四海,遼奉 聖旨,豨必不敢害故也。」

曹操が官渡で袁紹を破ると、べつに張遼をつかわし、魯国の諸県を平定させた。張遼は、夏侯淵とともに東海に昌豨を囲み、数ヶ月で軍糧が尽きたから、撤退を議論した。張遼は夏侯淵に攻撃の継続を説き、昌豨の降伏を許した。張遼は、単身で三公山にのぼり、昌豨の家に入り、昌豨の妻子に拝した。昌豨は喜び、曹操に会いにゆく。曹操は張遼に「大将のやることではない」と叱った。張遼は「曹操の威信は四海にあらわれ、昌豨が(曹操の将である)私を殺すはずがないと思った」といった。

張遼と昌豨は、顔見知りなのではないか、という気がする。張遼が呂布軍に属していたときに。
というか青州・徐州方面は、曹操が支配しているというより、「曹操の敵にならない」という最低ラインが、統治目標に見える。しかし、その最低ラインをしばしば守れず、張遼・于禁が平定にゆかねばならない。
諸葛亮の目線で、「すでに中原は曹操が制圧し」という現状認識だが、実態はもっと流動的である。その流動性を表現できたら、曹操の小説は成功である。


『陳志』巻十七 于禁伝:紹破,遷偏將軍。冀州平。昌豨復叛,遣禁征之。禁急進 攻豨;豨與禁有舊,詣禁降。諸將皆以為豨已降,當送詣太祖,禁曰:「諸君不知公常令乎! 圍而後降者不赦。夫奉法行令,事上之節也。豨雖舊友,禁可失節乎!」自臨與豨決,隕涕而斬之。是時太祖軍淳于,聞而歎曰:「豨降不詣吾而歸禁,豈非命耶!」益重禁。

袁紹を破ると、于禁は偏将軍に遷る。奇襲が平らぐと、昌豨がふたたび叛した。于禁は急進して昌豨を攻めた。昌豨は、于禁と旧知であり、于禁のところに降りに訪れた。諸将は、昌豨を曹操のところに送ろうとしたが、于禁は「諸君は曹操の軍令を知らんのか。囲まれた後に降っても許さない。旧友でも、例外なく適用する」と。于禁は泣きながら昌豨を斬った。このとき曹操は淳于に駐屯していたが、「昌豨が私ではなく于禁に帰したのは、運命ではなかろうか(私を頼ってきたら、昌豨を許しただろうに)」といい、ますます于禁を重んじた。

于禁は、青州兵が曹操軍のなかで略奪を働いているとき、これを禁じようとした。特別扱いされている青州黄巾・泰山諸将のなかにあり、自分もその一員として、曹操の権力を行使・浸透させていたように見える。于禁が旧友を泣きながら斬る理由は、「曹操の軍令」なのだ。


『陳志』巻十八 臧覇伝:太祖破袁譚於南皮,霸等會賀。霸因求遣子弟及諸將父 兄家屬詣鄴,太祖曰:「諸君忠孝,豈復在是!昔蕭何遣子弟入侍,而高祖不拒,耿純焚室輿 櫬以從,而光武不逆,吾將何以易之哉!」東州擾攘,霸等執義征暴,清定海岱,功莫大焉, 皆封列侯。霸為都亭侯,加威虜將軍。又與于禁討昌豨,與夏侯淵討黃巾餘賊徐和等,有 功,遷徐州刺史。

曹操が袁譚を南皮で破ると、臧覇らは祝賀にあつまった。臧覇らは、子弟をあずけ、諸将の父兄の家を鄴郡に移そうといった。曹操は「諸君の忠孝は、そこにあるのだな。蕭何は子弟を劉邦にあずけ、耿純は家をやいて劉秀に従った。簡単なことじゃないと思うわ」と。

泰山諸将のうち、臧覇が積極的に曹操に手を貸した。それ以外は、独自の路線を歩んだ。曹操との距離は、バラバラ。この規模の小さい割拠・バランスが、青州・徐州を動的な平衡にしたのだろう。
ぼくが思うに、曹操は、べつに徐州大虐殺のことだけで、委任統治に切り替えたのではない。諸葛亮の南征と同じく、必ずしも中央から官僚を送り込むのが、コストが小さく、効果が大きくなるとは限らない。現地のひとびとに、小さな(他州に害を及ぼさないほどの)諍いをさせ、総体として脅威をのぞく。いわば臧覇は、孟獲なのです。

東州(青州・徐州)で擾乱があると、臧覇は平定した。都亭侯、威虜将軍。また于禁とともに昌豨を討ち、夏侯淵とともに黄巾の余賊の徐和を討った。功績があり、徐州刺史に遷った。

昌慮太守の昌豨・黄巾の余賊。両者に、社会階層における区別は、きっとなくて、曹操が袁紹との戦いに集中したとき、タガが外れて、また叛いただけだろう。于禁・夏侯淵の軍事行動は、一連のものだと思われ、敵の毛色も、きっと同じ。


『陳志』巻十八 呂虔伝は、昌豨・徐和について記述があるが、話が散らかってきたので、また後日にする。
呂虔は任城のひと。兗州で曹操に用いられる。昌豨らが氾濫すると、酒食に招いて平定した。泰山太守となる。泰山には、袁紹の将や、済南黄巾の徐和がいて、城を襲う。呂虔は、夏侯淵とともに平定をした。云々。

孫策の江東六郡制圧

袁術は滅亡し、劉繇は198年頃に死ぬ。二大勢力ののち、本命となったのが、廬江太守の劉勲である。袁術の集団を吸収し、揚州の群雄の盟主となる。曹操の旧友でもある。

曹洪とともに、鄴都で好き勝手にやった「豪右」であり、楊沛が鄴の県令になると、びびった。曹操の旧友の資格によって、法令を守らなかった(ほど曹操と仲が良い)ので、君主権力の確立においては、ジャマとなる存在。


劉勲の対抗馬は、孫策。呉郡と会稽、丹楊北部を制圧。袁術と断交してから、曹操に接近。太守就任を認めさせた。孫策は会稽太守に。呉景を丹楊太守に。張勲や橋ズイは、孫策に心を寄せた。袁術も息子としてほしがる。
袁術の死後、劉勲を頼りたい袁胤と黄イ(袁術の女婿)にたいして、張勲と、長史の楊弘は、孫策への合流を主張。
ほかに豫章太守の華歆が、旧劉繇集団の盟主になる。ダークホースは、下邳の陳氏。陳瑀は江東割拠をねらう。陳瑀は、孫策に奇襲されて壊滅。従子の陳登は、袁術と呂布に対策する切り札で、伏波将軍、広陵太守。陳登は、みずからを伏波将軍の馬援になぞらえたか。劉備ですら、陳登の豪胆さに舌を巻いた。だが陳登は、孫策と同時期に死去。

199年末ころ、劉勲が豫章の土豪を討伐。そのすきに孫策は、廬江の皖県を攻略。西塞山で劉勲をやぶる。劉勲は曹操をたより、征虜将軍、華郷侯。劉勲は、幕僚になる。
孫策は、袁術の家族と、技術者、軍楽隊、兵士3万をえる。なかに橋公の娘(二橋)もふくまれた。橋公とは橋玄。橋玄の晩年に10歳の息子がいた。公は、三公への敬称。橋氏の三公は、橋玄のほかにないから、同一人物だろう。

これよりさき、旧劉繇集団も、太史慈をつうじて孫策に加わる。袁術の子・袁耀、劉繇の子・劉基は、呉に仕官した。袁術の娘は、孫権の側室になった。孫策は、袁術・劉繇の後継者の地位を手に入れた。

曹操の江淮進出

200年までに、孫策は江東六郡を制圧。劉表の江夏太守・黄祖に大打撃。
199年6月に孫策は、張紘を許都におくり、討逆将軍・呉侯をえる。張紘・孫権・弟の孫翊らは、曹操の司空府に辟召された。曹彰と孫賁の娘、孫匡と曹操の弟の娘が結婚。孫策が大司馬を称し、献帝をむかえにくる風聞があった。

袁術が滅亡したあと、曹操が許都から、揚州刺史に送った。督軍御史中丞の厳象(文則、京兆のひと、163-200)だ。着任してまもなく、孫策の将・李術(汝南の人)に攻められて敗死。孫策が、厳象を殺したのだろう。孫策は、揚州刺史になりたい。
揚州の江北=江淮を、曹操と孫策が取り合っている。孫策は、200年4月に呉郡で殺された。陸康、周昕、許貢を迫害したせい。
曹操は、孫権を討虜将軍、会稽太守にして恩を売る。いっぽう厳象の後任に、劉馥をおくりこむ。土豪を懐柔した。曹操は劉馥をつかい、江淮を得た。屯田をひらき、民心を安定させ、江淮の地を一大軍事拠点にしたてる。孫氏を江東に封じ込めた。曹操が、政治的に勝利したのだ。151212

このあたり、曹操は現地に行っていなくて、官職を送ること、厳象・劉馥を送ることで、江淮の地を得た。もと袁術の地域を、軍事拠点にしたてた。
そのいっぽうで、江南までは手が回らない。孫権が、曹操の力を借りることで、江南で地位を確立した。よもや、姻族となった孫権が、曹操に逆らうはずがない、という情況をつくったのが大切。赤壁ドッキリの伏線となる。

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第18回 官渡城を築き、董承を粛清する

袁紹を官渡城に誘導する

建安四年(199) は、後漢末の政治史で、節目の年。三月、袁紹が公孫瓚を滅ぼして、河北の支配者。数十万の軍勢。
前年十一月、大司馬の張楊が暗殺される。親曹操と親袁紹の対立がからむ。親曹操を粛清した眭固は、射犬聚(野王県)に駐屯するが、曹操が建安四年四月、眭固を討つ。大司馬長史の薛洪・河内太守の繆尚より以下、張楊集団は降伏。

武帝紀:四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其眾屬袁紹,屯射犬。夏 四月,進軍臨河,使史渙、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵 北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率眾降, 封為列侯,還軍敖倉。以魏种為河內太守,屬以河北事。

前年末、呂布が討たれ、この年の六月、袁術が淮南で病死。曹操と袁紹が二大勢力として残る。p214

建安元年、司空・車騎将軍を兼任。建安四年二月、太僕の趙岐に、司空を譲ろうとして、慰留される。趙岐とは、李傕が関東安撫のために派遣し、袁紹・公孫瓚を和解させてから、荊州に慰留していた元老。

ぼくが三国志学会『三国志研究』第十号に投稿した、 「『資治通鑑』編纂手法の検証(中平五年~建安五年)」で、趙岐に関する司馬光の誤記について、指摘しました。ともあれ趙岐は、荊州にいた。曹操の政権の外部にいたことに注意。
建安十三年、曹丕を辟してクビになったのは、司徒の趙温。別のひと。

三月、衛将軍の董承が、車騎将軍に昇格する。明らかに曹操の後任。失政の責任を取ったわけでないのに、なぜ曹操は、司空・車騎将軍を降りるのか。

袁紹の官位は、
 ・興平元年(195) 五月、後将軍(or右将軍)・冀州牧・コウ郷侯
 ・建安元年(196) 十一月、太尉・鄴侯となるが固辞
 ・建安二年七月、大将軍
 ・建安四年、使持節・大将軍・督幽青并三州諸軍事・領冀州牧・コウ郷侯
ところがこのころ、曹操の幕僚に「冀州牧」があらわれる。
 ・建安四年四月ごろ、董昭が冀州牧
 ・建安五年正月、劉備を討ち、董昭が徐州牧に遷り、賈詡が冀州牧
 ・建安五年二月ごろ、董昭が魏郡太守
 ・建安九年九月、曹操が冀州牧、賈詡が太中大夫
赴任できぬから許都に留まるが、名義上は袁紹がニセの冀州牧 p216

とすれば、冀州牧とセットの大将軍も剥奪された可能性が高い。証拠はすくないが、曹操は官渡の直前から、「大将軍」を称していたらしい。だから、司空・車騎将軍の辞任は、袁紹を解任し、大将軍が空きポストになるのを見越しての人事。p216

この本の特徴的な推論なので、小説に絶対に取り入れる。


袁紹の南下をくいとめる防衛ラインの構想もすすめる。南北朝時代の「中牟台」は、曹操の築いた官渡城のなごり。建安四年の後半、曹操は、黄河と許都を往復し、決戦を準備。
 ・八月、黎陽に進軍
  于禁に兵二千で延津を守らせる(河内郡の汲県の東)
 ・九月、許都に帰還、兵を分遣し、官渡を守らせる
 ・十二月、官渡に進軍
袁紹は、曹操が用意した決戦場に、まんまと誘導されたことになる。官渡の戦いは、曹操が主導権。田豊・沮授は、これに懸念したのかも。

劉表の荊州支配

孫堅に殺された王叡の後任。清流派「八及」のひとり。初平元年の十一月、南郡の宜城に赴任。北の魯陽に袁術がおり、長沙太守の蘇代が割拠し、土豪=宗族の勢力がつよい。
清流派の幹部の生き残りとして、蒯越・蒯良・蔡瑁に強力された。
蒯越に「宗族を懐柔し、江陵に拠り、襄陽を守れば、荊州八郡は伝檄して平定できる」と言われる。襄陽を本拠とし、袁紹とむすんで袁術を追い出す。将軍の黄祖を、江夏太守として夏口に駐屯させ、長江下流に備える。建安元年、張繍を「北藩」とする。
建安元年(199) 十一月、賈詡が張繍を曹操に帰順させる。
劉表は、中原の勢力とつかず離れず、あいまいな態度。曹操と袁紹には、両面外交をする。

蒯越・別駕の劉先(零陵のひと)・治中の鄧羲(章陵のひと)は、曹操に味方せよとすすめる。許都を探りにいった従事中郎の韓嵩は、曹操に人質を送れという。これが事実なら、先見の明のある賢俊ぞろいとなるが、そんなことはあり得ない。曹操陣営の士大夫・武将ですら、敗戦後の安全のため、袁紹と内通した。

曹操が手紙を焼く話。

曹操を支持したとは、荊州が降伏したとき、口裏をあわせたニセにアリバイ。けっきょく劉表は、袁紹支持を表明する。曹操は、南北から挟まれた。
曹操は、劉表の将・長沙太守の張羨(南陽のひと、-200?)と結び、対抗。長沙・武陵・零陵・桂陽といった、江南四郡に依然たる勢力をもつから、張羨は劉表から警戒された。建安四年後半から一年の攻防で、張羨は滅亡するが、劉表は中原に介入しそこねた。

◆張羨伝

『范書』劉表伝:三年,長沙太守張羨 率零陵、桂陽三郡畔表,表遣兵攻圍,破羨,平之。〈英雄記曰:「 張羨,南陽人。先作零陵、桂陽守,甚得江湘閒心。然性屈彊不順,表薄其為人,不甚禮也。羨因是懷恨,遂畔表。」〉

建安三年、長沙太守の張羨は、長沙・零陵・桂陽(・武陵)の三郡をひきいて、劉表にそむく。劉表は兵をやって囲み、平定した。『英雄記』はいう。張羨は南陽のひと。さきに零陵・桂陽の太守となり、長江・湘水のあたりの人心を得ていた。しかし性格が屈強・不順なので、劉表はその人となりを軽んじ、あまり礼遇しなかった。張羨はこれを恨み、ついに劉表に叛した。

『陳志』劉表伝:長沙太守張羨 叛 表,表圍之連年不下。羨病死,長沙復立其子懌,表遂攻并懌,南收零、桂,北據漢川,地 方數千里,帶甲十餘萬。

長沙太守の張羨がそむき、劉表は囲むが、連年(建安三年~五年か)下せず。張羨が病死すると、長沙郡は、子の張懌を立てた。劉表はこれを攻め、南のかた零陵・桂陽を得る。北は漢水に拠り、地方は数千里、帯甲は十余万。

『陳志』巻二十二 桓階伝:後太祖與袁紹相拒於官渡,表舉 州以應紹。階說其太守張羨 曰:「夫舉事而不本於義,未有不敗者也。故齊桓率諸候以尊 周,晉文逐叔帶以納王。今袁氏反此,而劉牧應之,取禍之道也。明府必欲立功明義,全福 遠禍,不宜與之同也。」羨曰:「然則何向而可?」階曰:「曹公雖弱,仗義而起,救朝廷之 危,奉王命而討有罪,孰敢不服?今若舉四郡保三江以待其來,而為之內應,不亦可乎!」
羨曰:「善。」乃舉長沙及旁三郡以拒表,遣使詣太祖。太祖大悅。會紹與太祖連戰,軍未 得南。而表急攻羨,羨病死。城陷,階遂自匿。久之,劉表辟為從事祭酒,欲妻以妻妹蔡 氏。階自陳已結緍,拒而不受,因辭疾告退。太祖定荊州,聞其為 張羨謀也,異之,辟為丞相掾主簿,遷趙郡太守。

曹操が官渡で袁紹と対峙すると、劉表は州をあげて袁紹に応じた。(長沙のひと)桓階は、太守の張羨にいう。「劉表が袁紹に呼応したが、これは禍いを取るの道である。曹操は弱いが、王命を奉じて、有罪のひとを討つ。どうして遠くからでも味方しないのか」と。
張羨は長沙およびそばの三郡をひきいて、劉表と戦った。このとき袁紹と曹操は連戦し、まだ南下できない。劉表は、急ぎ張羨を攻めた。張羨は病死して城が落ちた。桓階はかくれた。しばらくして、劉表は桓階を辟して、従事祭酒として、妻の妹の蔡氏を桓階にめあわせた。

張羨に妻の一族をめあわす。劉表。これは、規模こそ小さいが、曹操が冀州・荊州を平定して、人材を吸収したときの手段に似ている。荊州南部を接収したから、旧仇は忘れて、統治に強力してくれと。

桓階は「すでに結婚してるので」と拒んで、受けなかった。病気を理由に辞退した。曹操が荊州を定めると、桓階が張羨のために謀ったことを評価して、辟して丞相掾主簿とした。趙郡太守に遷した。

董承の陰謀

建安五年正月、車騎将軍の董承らが許都で皆殺し。加担したのは、左将軍の劉備・長水校尉の种輯・将軍の呉子蘭(=議郎の呉碩?)、将軍の王子服。
种輯は、种暠とのつながりが「いっさい不明」だが、長安から洛陽まで献帝に供をした、数少ない近臣。呉子蘭が呉碩なら、これも長安に出仕。王子服は、『後出師表』では李服とされ、曹操の信認が扱ったとされる。

諸葛亮伝にひく『漢晋春秋』に、「曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成, 任用李服 而 李服圖之,委夏侯而夏侯敗亡,先帝每稱操為能,猶有此失,況臣駑下,何能必勝?此臣之未解四也。
これって王子服のことなのか? むしろ、李服=王子服としたところに、ひとつの判断が入っている。まあ、曹操が任用した「某服」が、曹操を殺そうとした事例は、ほかに見当がつきませんが。

人名をあざなで表記するのは、ないかを隠そうとするとき。よほど重要な幹部だったか。陳寿が『三国志』を執筆したとき、関係者が権貴の地位にいたか。
許都の朝廷は、廷臣と曹操の連立政権。朝廷では、臣下のひとりに過ぎない。『魏志』袁紹伝にひく『献帝伝』に、献帝の奉迎に消極的だった袁紹が、「いちいち天子に裁断を仰がねばならず、袁紹の権威が軽くなる」という反対意見がある。p220
関東の群雄の権力は、実力で勝ち取った非合法なもの。天子を担ぐと、その矛盾が露呈するかも知れない。曹操も同じ。

後漢きっての鬼才・禰衡(173-198)は、許都にあらわれ、士大夫と交流。司馬朗・陳群を歯牙にもかけず、孔融・楊脩だけをほめる。『魏志』荀彧伝にひく『平原禰衡伝』p221

是時許都雖新建、尚饒人士。衡嘗書一刺懷之、字漫滅而無所適。或問之曰「何不從陳長文、司馬伯達乎?」衡曰「卿欲使我從屠沽兒輩也!」又問曰「當今許中、誰最可者?」衡曰「大兒有孔文舉、小兒有楊德祖。」又問「曹公、荀令君、趙盪寇皆足蓋世乎?」衡稱曹公不甚多。又見荀有儀容、趙有腹尺、因答曰「文若可借面弔喪、稚長可使監廚請客。」其意以爲荀但有貌、趙健啖肉也。於是衆人皆切齒。衡知衆不悅、將南還荊州。

文中に出てくる、堂々たる体格の趙蕩寇(趙稚長)とは、西園八校尉の趙融。いかにも士大夫らしい風貌をそなえた、荀彧・趙融を、禰衡はこき下ろした。こういう評論が、許都で項羽前と行われていた。曹操の権威は絶対でなく、士大夫の厳しい目にさらされた。

禰衡そのひとを登場させることが目的ではなく、曹操の権威が確立していないことを言うために、紹介された。「許都 新たに建つと雖も」とあるから、まさに献帝を連れてきた直後のこと。これ以後、曹操は、段階的に許都で権威を確立していくと。


◆一筋縄でいかぬ、したたかな董承
董承の陰謀は、曹操が横暴だから、献帝が密詔を下したとされる。袁紹が発した檄文でも、梁孝王の劉武(文帝の子)の陵墓を盗掘して、曹操が献帝を悲しませたとある。精兵七百人に宮殿を監視させたとある。
ただし、『三国演義』に登場する、忠義・実直な老臣である登場は、フィクションに過ぎない。

『三国演義』を名指しした人物評は、めずらしい。董承のイメージを、『三国演義』から更新せよ!という、石井先生の声が聞こえる。董承をていねいに描くべきだ。


興平二年、黄河を渡るとき、董承は手下に、伏皇后の侍女を斬り殺させ、白絹を脅しとった。川岸に着くと、船に取りすがる兵士の手を切る。
董太后が失脚しても難を逃れ、董卓に接近して幹部におさまる。董卓も、董太后の権威を利用した。李傕・郭汜の内戦のとき、いつのまにか近臣になり、献帝を長安から連れ出す。曹操を味方に引き入れる。一流の謀略家だったことを物語る。

建安二年(197) 夏、曹操が孫策に呼びかけ、反袁術同盟を結成したとき、司空の曹操・衛将軍の董承・益州牧の劉璋とともに、孫策は、袁術・劉表を討つ(孫策伝にひく『江表伝』)

策被詔敕、與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等幷力討袁術、劉表。軍嚴當進、會術死。

盟主のひとりとして、曹操・劉璋と並記される。曹操も、廷臣の顔を立てて、彼らの顔を立てた。

@darql さんはいう。この辺り(董承に出自)の矛盾、「裴松之が誤っている」とする盧弼の見解が一番尤もらしく見えるし、私もそう思う。すなわち、「董承は董卓の同族であり、献帝の舅ではあるが、董太后の甥ではない」ということ。そもそも、董太后派は何進のクーデタで排除されているので、生き残りがいたら、それはそれでびっくりだ。董太后の兄である董寵は、早々に失脚して獄死し、董太后の甥である董重は、驃騎将軍として大将軍たる何進と対立した。董太后派の蹇碩(not十常侍の宦官)が何進暗殺を図るも、郭勝・張譲ら(十常侍)が何進に味方して蹇碩を返り討ちにし、それに連座して董重も獄死し、董太后は失意の内に没した。このときに、董承が董太后の血族として朝廷にいたならば、一緒に始末されているはず。朝廷にいなかったのならば、どこにいたのか。董卓の将軍営にいたのならば、確かに、董承は生き延びられたのかも。その後、同姓だからと親董太后な董卓の庇護の下、牛輔の中郎将営に所属していたという可能性もあり。
@darql さんはいう。だとすると、董卓と同族ではないが、董卓が同族扱いしているという点で、董旻らと名を連ねることもあり得るね。すると、裴松之も献帝起居注も後漢書も、どれも間違っていないないことになる。よし、私はこの考えを採択しよう。それが一番面白い。外戚が校尉に任命されている例はあるから、董重が驃騎将軍→董承が何らかの校尉になる→王国の乱に際し、董卓の将軍営に所属→何進のクーデタにおける董太后派殲滅を免れる→董卓とともに入朝→李カクらとともに、牛輔配下の校尉となる。この流れが確からしい。これを採用。


◆陰謀の発覚
建安二年、曹操が張繍討伐に向かうとき、武器をもった虎賁を左右に並ばせ、曹操はそのあいだを通る。曹操の背中は、冷や汗がにじんだ。曹操は二度と参内しなくなる。武帝紀にひく『魏晋世語』、『後漢書』伏皇后紀にある。

『魏晋世語』:世語曰。舊制、三公領兵入見、皆交戟叉頸而前。初、公將討張繡、入覲天子、時始復此制。公自此不復朝見。
『范書』伏皇后紀:自帝都許,守位而已,宿衞兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彥嘗為帝陳言時策,曹操 惡而殺之。其餘內外,多見誅戮。操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則 厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。
舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之。操 出,顧左右,汗流浹背,自後不敢復朝請。董承女為貴人,操誅承而求貴人殺之。帝以 貴人有任女,累為請,不能得。

伏皇后紀のほうが、詳しく伝える。
許都の宿衛兵は、曹氏の旧党・姻戚でないものがない。内外で曹操が廷臣を殺しまくるので、献帝がキレて「輔政か廃位か、どっちかにしろ」といった。当時の雰囲気がよく分かる。史料操作かも知れないけど。

小説にするときは、時系列に並べ直すこと。さっきの禰衡も、時期的には、建安元年だから、もっと前に置くべきだ。献帝を迎えたばっかりに、冷や汗ばかりの曹操。という、建安初期の状況をきちんと描く。

ロコツな嫌がらせ。故事に精通した学識者が、悪知恵を働かせた。成り上がりの曹操に対する風当たりが、そうとう強かったことを示す。

董承の陰謀未遂は、劉備の徐州奪取と、セットで説明されることが多い。

まるでご自身の意見は、違うというような書きぶり。董承の陰謀は、べつに劉備が徐州を取ろうが取るまいが、独自に進められたという立場でしょう。
劉備は、呂布を倒すときに合流するが、さっぱり触れられない。あと、関羽を降伏させたことも省略。劉備については、ほんとうに扱いが軽い。

曹操は、劉備の討伐にむかう。問題は、タイミング。陰謀の発覚が、数ヶ月あとなら、曹操政権は確実に崩壊していた。
こうした仮定が成り立つところに、事件の真相がある。p225
謀反は、巧妙にしくまれた疑獄事件。劉備を徐州に出したのは、反対派をあぶり出すワナ。曹操にとって、董承ら廷臣グループは、党内野党。袁紹との対陣中、許都で彼らが暗躍すれば、万事休す。決戦を前に、董承一派を粛清して、政権をひきしめた。

劉備を外に出すことの可否について、郭嘉らが議論する。「劉備が独立するリスクがあるよ」「いや独立しても脅威にはならんよ」と。これは、曹操の本来の関心とはズレている。反対派をあぶり出すために、まずは劉備を外に出すことは、決めている。


袁紹陣営の内部対立

建安元年正月、曹操が徐州に。田豊は許都を突けというが、子供の病気を理由に出兵せず。田豊は、杖で地面をたたく。
袁紹陣営は、河南出身者と河北出身者という二代派閥がある。河南出身の袁紹、同じく前任の韓馥が、汝南・潁川の士大夫の庇護者を任じたから。
公孫瓚との戦いには力を貸した士大夫は、河南への進攻には慎重。民衆に負担をかけたくない。沮授と田豊。これに対して、河南のひとは、河北は物資・兵士の供給源でしかない。河北平定とともに、矛盾が表出した!p226

出陣の直前、郭図らは、監軍の沮授を讒言。沮授は「内外の軍」、つまり袁紹の直属軍・地方軍を監督しつつ、参謀として機密にあずかった。ひとりに権力を集中させるのは危険だから、分散させた。河北派に対する、河南派の牽制。あらたに、郭図・淳于瓊を官軍にして、沮授の権限を削減。袁紹は疑念をいだき、沮授の意見をことごとく退ける。
二月、袁紹は許都攻略を命令した。151212

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第19回 官渡の戦い、袁氏の滅亡

袁紹の南下

袁紹は、審配・逢紀のふたりに「留知後事」、鄴の留守と後方支援をまかせる。最初の集積地・黎陽にむけて南下。東郡太守の劉延が、対岸の白馬城を守っている。これをおおとし、渡河点の橋頭堡を確保するため。p227
河北きっての名将・顔良が白馬城を攻撃。沮授「顔良は慎重さに欠けるから独任するな」は無視。

四月、曹操は白馬を救援。荀攸が作戦を立案。

武帝紀:二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延于白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。夏四月,公北救延。荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」公從之。

敵の勢力を分散させよ。延津にゆき、渡河すると見せかける。敵は、黎陽を後ろから襲われぬよう、西に向かって応戦しようとする。そのとき軽装の兵で白馬(を攻撃する軍)を急襲すれば、顔良を捕らえられる。p229 に地図あり。
袁紹は延津に気を取られ、張遼・関羽が顔良を撃ちとる。関羽は劉備のもとに出奔。白馬の包囲を解いた曹操は、住民をつれ、黄河の南岸沿いに、西にむかう。

関羽の降伏・出奔の経緯については、きわめてアッサリ。むしろ『三国演義』が強調しすぎているのか。


出し抜かれた袁紹は、渡河して曹操を追撃。先鋒は文醜・劉備。曹操は、延津の南に騎兵を伏せる。曹操軍の輜重隊は、白馬城から後方につづく。文醜は突撃して、輜重隊を襲うが、文醜が戦死した。
顔良・文醜の活躍は、まったく伝えられない。ふたりを名将とする曹操陣営の分析は、緒戦の勝利を誇大に宣伝するためのフィクションか。曹操は官渡まで「ゆうゆうと」退却。袁紹は、官渡の北・陽武に軍を進める。

見方によっては、曹操は、袁紹の渡河を許してしまい、白馬の攻撃軍(顔良)を破ったが、白馬よりも後ろに退かざるを得なくなった。退くとき、輜重を襲撃されて奪われたが、奪われながらも指揮官(文醜)を討つことができた。それでも退き続け、官渡城に入った。袁紹の進軍を妨害しながら、袁紹軍の将を削ったが、けっきょく進軍を許したというのが実際か。このプロセスで、曹操軍が倒した武将が、たまたま顔良・文醜だったから、ふたりを名将だったことにした、という解釈は成り立つ。
なぜなら、顔良・文醜の活躍は、石井先生の言うとおり記述がない。
しかし石井先生は、曹操が官渡城を防衛拠点にして、許都を守ることは、曹操の計画のうちとする。つまり袁紹に、官渡を攻撃させた(官渡の目前の、陽武まで連れ込んだ)のは、まんまと曹操の計画どおり、袁紹が動いたという解釈になっている。


官渡城の戦い

八月、袁紹は官渡を遠巻きにして、陣地を作りながら、少しずつ前進する戦法に切り替える。戦線は、東西数十里。袁紹の来襲にそなえ、一年も前から準備していた、野戦の要塞。ふつうの城郭都市なみの防御力があるから、長期戦は必至。p230
袁紹は「高櫓」「土山」を築き、城内に矢を射る。対抗手段は、城内にも土山を作ること。于禁が任された。
曹操は「発石車」をつくり、袁紹軍に「霹靂車」と呼ばれる。袁紹は「地突」をするが、守備側が察知して、深い塹壕を掘って無力化。攻防は膠着化。
双方とも数十万の動員力があるから、会戦では決まらない。いかに相手を消耗させ、戦意喪失させるか。政治・外交を含めた総合力。官渡の戦いも第二ラウンド。補給の妨害・後方の撹乱、心理戦に突入。

汝南の攻防

豫州南部、汝南郡の一体は、袁氏の本拠地。袁氏の門生・賓客が兵をあつめて、塢壁(要害に築かれた防御施設、とりで)をつくり、曹操の支配に抵抗。この地域で、数少ない曹操の拠点が、陽安郡。汝南郡から、陽安・朗陵の2県を独立させた郡。土豪の李通(江夏のひと、167-208)が曹操の支持を表明し、陽安都尉となる。のちに袁紹は、李通の内応をうながし、「征南将軍」という破格の待遇を約束。
袁紹と本格的な軍事衝突が始まる前に、汝南を始末したい。はえぬきの幕僚・満寵を汝南太守として、五百の兵で二十の塢壁をおとす。有力な土豪十余人をだましうち。

『陳志』巻十八 李通伝、巻二十六 満寵伝をやること。


官渡が膠着すると、袁紹は「汝南・潁川黄巾」と連携し、後方を撹乱させる作戦。劉備は、黄巾を直接の指揮下に置きつつ、インキョウ県を本拠地にゲリラ戦。豫州はほとんどが袁紹につき、許都のある潁川郡にしか、曹操の威令が及ばない。黄初二年、曹丕の詔に、

魏書載詔曰「潁川、先帝所由起兵征伐也。官渡之役、四方瓦解、遠近顧望、而此郡守義、丁壯荷戈、老弱負糧。昔漢祖以秦中爲國本、光武恃河內爲王基、今朕復於此登壇受禪、天以此郡翼成大魏。」

官渡のとき四方が瓦解したが、潁川郡だけが義を守った。丁壮(成人)は武器をとり、老弱(老人や少年)が兵糧を運んだ。劉邦の秦中、劉秀の河内と同じような、本拠地である。
ただし官渡の逆転劇は、曹操の勲章。『魏志』は、苦境を誇張する。

曹操は、陳群を沛国のサン県の令、賈逵を汝南の城父県の令にした。豫州の諸県に、名望ある士大夫を起用。
陽安都尉の李通は、内応の嫌疑がかかるが、期日どおり徴税。朗陵の県長の趙𠑊(潁川のひと、171-243)は、民衆に戸調の綿・絹を返還。

『陳志』巻二十三 趙𠑊伝:時袁紹舉兵南侵、遣使招誘豫州諸郡、諸郡多受其命。惟陽安郡不動。而都尉李通、急錄戶調。儼見通曰「方今天下未集、諸郡並叛。懷附者復收其綿絹、小人樂亂能無遺恨。且遠近多虞、不可不詳也」通曰「紹與大將軍相持甚急、左右郡縣背叛乃爾。若綿絹不調送、觀聽者必謂我顧望有所須待也」儼曰「誠亦如君慮。然當權其輕重、小緩調。當爲君釋此患」乃書與荀彧曰「今陽安郡當送綿絹。道路艱阻、必致寇害。百姓困窮、鄰城並叛、易用傾蕩。乃一方安危之機也。且此郡人執守忠節、在險不貳。微善必賞則爲義者勸。善爲國者、藏之於民。以爲、國家宜垂慰撫、所斂綿絹、皆俾還之」彧報曰「輒白曹公。公文下郡、綿絹悉以還民」上下歡喜、郡內遂安。


曹仁を派遣して、劉備を討つ。郡県を味方に引き戻す。劉備は、劉表に働きかけるという口実で、汝南にもどる。本能的に、袁紹の敗北を嗅ぎとったか。
劉備は、黄巾の龔都(共都)と連合して、曹操の将・蔡陽を廃止させる。建安六年九月、劉備は荊州におちた。

先主伝:關羽亡歸先主。曹公遣曹仁將兵擊先主,先主還紹軍,陰欲離紹,乃說紹南連荊州牧劉表。 紹遣先主將本兵復至汝南,與賊龔都等合,眾數千人。曹公遣蔡陽擊之,為先主所殺。


劉備は、建安二十四年(219) 漢中王になるまで「左将軍・領豫州牧」を名乗る。献帝から拝領した官位を、大切にした。豫州は、劉備ゆかりの地であり、袁紹はその影響力に期待した。
だが、汝南の奪還を真剣に考えるのなら、息子のだれかに、汝南・潁川の士大夫を参謀としてつけ、投入すべきではなかったか。袁氏の貴公子が出馬すれば、戦況はちがったはず。汝南をめぐる攻防は、じつは官渡の重要な山場。袁紹陣営は、だれも気づかなかったか。p234

このイフ設定から、「もしも袁紹が官渡で勝ったら」を考え始めた。別のページでやる。


曹操軍の苦戦

曹操軍の苦戦は、武帝紀に「時公兵不滿萬,傷者十二三」とある。古来、問題がある数字とされた。袁紹軍は、歩騎あわせて十一万。十分の一以下。裴松之は反証をあげて粉飾とし、清の歴史家も同意。
ただし、『陳志』に矛盾はなく、張範伝で「つかれた兵の数千」、劉曄伝で「歩兵五千」とする。魏王朝の公式見解なのだろう。

張範伝で、袁術が曹操について質問する。「今曹公欲以弊兵數千,敵十萬之眾,可謂不量力矣!子以為何如?」

こういう史料操作は、袁紹との戦いの全般にわたる。

たがいに補給部隊を攻撃しあう。専任の監督者を「督軍糧」「督運」という。のちに魏王朝が設置した、「度支尚書」は総元締め。軍需物資の担当長官。
後方支援をする任峻は、数千のユニットを十組つくり、いっせいに出発させて、危険を分散させた。道路に二重の防護柵を築き、厳重に警戒。

『陳志』巻十六 任峻伝:官渡之戰、太祖使峻典、軍器糧運。賊數寇鈔絕糧道。乃使千乘爲一部、十道方行、爲複陳以營衞之、賊不敢近。軍國之饒、起於棗祗而成於峻。
「複陳以營衞之」というのが、二重の防護柵と訳されている。

『魏志』荀彧伝で、曹操は撤退するなと励ます。p237

曹操は故市で、車数千両の補給部隊を撃滅。荀攸が立案し、徐晃・史渙・曹仁が実行。

武帝紀にひく『曹瞞伝』:攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀 已盡,此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚, 不過三日,袁氏自敗也。」
『陳志』巻十 荀攸伝:軍食方盡,攸言於太祖曰:「紹運車旦暮至,其將韓猛大銳而輕敵,擊可破也。」太祖曰:「誰可使?」攸曰:「徐晃可。」乃遣晃及史渙邀擊破走之,燒其輜重。
『陳志』巻十七 徐晃伝:與曹洪擊イン彊賊祝臂,破之,又與史渙擊袁紹運車於故市,功最多,封都亭侯。
『陳志』巻九 曹仁伝:紹遣別將韓荀、鈔斷西道。仁擊荀於雞洛山、大破之。由是紹不敢復分兵出。復與史渙等、鈔紹運車。燒其糧穀。
どうやら、韓猛・韓荀など、敵将の表記がゆれる。

督軍糧の韓猛は、任務の大切さを自覚せず、軽々しく応戦。荀攸は、人選の欠陥を見破った。袁紹は、督軍糧に適任者を起用していないのでは、がヒント。烏巣襲撃の布石。

ちょっと小説めいた記述ですが、全面的に踏襲する方向で!


烏巣を襲撃する

兵糧があと1ヶ月分を切った、十月。袁紹は、河北の総力をあげて補給。淳于瓊など5人と、兵1万をつける。故市で喪失して、兵糧が不足が深刻化。本営の北四十里の烏巣に集結。充分な防御施設もない。任峻の運搬と好対照をなすあぶない方法。
沮授「支援部隊に烏巣を警戒せよ」

袁紹の有力参謀で「奔走の友」、「もちろん」曹操との旧知、許攸が投降。

「とうとう、待ちかねていた戦局の変化がおとずれる」と書かれ、いっきに伏線を回収するような、劇的な事件として扱われている。

極秘情報とは、烏巣を焼けば、袁紹軍は三日もせずに自壊すると。半信半疑の幕僚のなか、荀攸・賈詡だけが賛同。ともに外様から召し抱えられた参謀。

荀攸は「外様から」なんですね。じゃあ、そういう扱いで。

淳于瓊は、おろかにも応戦。後方支援を軽視していた、袁紹軍の欠点が、最悪の局面で露呈。淳于瓊は、兵糧が満載の陣地に逃げもどる。あとはひたすら物資めがけて突進し、これを燃やせばよい。

なんか興奮が伝わってくるような文章の調子。


袁紹は、ふたつの選択肢。曹操が不在の官渡城に総攻撃。もうひとつは烏巣への援軍派遣。どちらも賭け。主導権は曹操に。

「どちらかに注力すれば、袁紹が勝てたのに」という分析ではない。もう、どちらを選んでも、後手に回っているから、負け始めたという認識。

この期に及んでも、派閥争い。烏巣の救援は、中郎将の張郃が主張する。張良の子孫・河間張氏。れっきとした河北の名門。司空の張敏(-112?)、張超(朱儁の別部司馬、張邈の弟とは別人)を輩出。張超は『張超集』がある。
官渡攻撃を主張する郭図は、河南派の代表。

河北派は烏巣、河南派は官渡城。そういう分析は成り立つのか? 確かに、河北派は河北の財産を守りたいし、河南派は中原を統一したいから、官渡城が攻撃がしたい。

張郃に官渡を攻めさせる。しぶしぶ命令に従った張郃は、郭図の讒言をおそれ、投降した。

七万とも八万ともいわれる、袁紹の投降兵は皆殺し。徐州大虐殺とならぶ、曹操の蛮行として名高い。天下統一という政治目標からいえば、障害になった。多くの人命を奪うようなものは、帝王となる資格はない。失点を重ねた。p240

こういう価値判断は、とても作品の参考になる!


河北の平定

官渡の前に、袁紹は作戦会議。意見はまっぷたつ。
慎重派=持久戦は、沮授と田豊(『陳志』袁紹伝にひく『献帝伝』)
 ①連年の公孫瓚との戦いで疲弊、将兵は驕るが、曹操は強い
 ②曹操が天子を奉ずる。幽州平定を天子に報告してみろ
 ③黎陽に本陣をおき、少しずつ前進すれば、2-3年で勝てる

積極派の審配と郭図(『陳志』袁紹伝にひく『献帝伝』)
 ①袁紹の「神武」と、河朔の強兵があれば勝てる
 ②周武王が殷中央を討ったのは「不義」でない、大義名分は不要

沮授は、全軍の渡河を諌める。本営は延津におき、兵を分遣して官渡を攻撃せよ。官渡を攻略してから、全軍が渡河しても遅くない。もし全軍を河南に投入すれば(背水の陣となり)不測のとき撤退できない(『陳志』袁紹伝にひく『献帝伝』)

許攸が、持久戦派か、決戦派だったか、定かでない。しかし、許都の襲撃を立案。「目の覚めるような作戦」「奇策中の奇策」。
袁紹は「包囲して、曹操を撃ち取るのが先決」と、武帝紀にひく『漢晋春秋』でいう。持久戦、奇策・奇襲をすべて退け、正面突破にこだわった。p244

曹操陣営の袁紹論

曹操は、武帝紀 建安四年四月、袁紹の個人的な性格の短所が、軍事的に欠陥をもたらすという。荀彧・郭嘉もいう。ふたりとも、袁紹の人柄を知る。
ただし、官渡の直前、涼州牧の韋端の使者・楊阜が、袁紹のことを評するが、

『陳志』巻二十五 楊阜伝:以州從事、爲牧韋端使、詣許、拜安定長史。阜還、關右諸將問袁曹勝敗孰在、阜曰「袁公、寬而不斷、好謀而少決。不斷則無威、少決則失後事。今雖彊、終不能成大業。曹公、有雄才遠略、決機無疑、法一而兵精、能用度外之人、所任各盡其力。必能濟大事者也」長史非其好、遂去官。

示し合わせたように、郭嘉・荀彧と同意見。帰参したばかりの賈詡も、同じことをいう。許都に報道管制がしかれ、袁紹・河北勢の情報が操作されたのだろう。曹操の勝利が必然だと主張するためのキャッチフレーズではないか。
袁紹側には、正確なデータがない。不均衡なデータを比較するのは、不平等な見方。パーソナリティに帰するのは酷であり、短絡的。p246

やはり、石井先生の本のカゲの主人公は、袁紹なのです。


光武帝の中興と「河北」

挙兵当初、袁紹が曹操に語った抱負。p247

武帝紀 建安九年八月の条:初、紹與公共起兵、紹問公曰「若事不輯、則方面何所可據?」公曰「足下意以爲何如?」紹曰「吾南據河、北阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」公曰「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」

曹操の優位を際立たせようという意図がみえみえだが、はからずも、具体的なヴィジョンを示せない曹操に対して、袁紹のほうが明確な基本戦略をもっていたことを暴露。河北割拠、河南進攻、天下平定という三段階からなる覇権確立のシナリオ。
政治戦略が、光武帝の故事をベースに練られた。持久戦も、奇襲・奇計も採用しなかった理由はこれ。ただ勝てばよいのではなく、完膚なきまでに叩きのめし、許都の朝廷が天命を失っていることを証明しなければならなかった。
『陳志』武帝紀で、荀彧が「袁紹が全力で攻めてくるのは、この一戦に勝負をかけるから、至弱で至強をあいてにする。防げねば、必ずつけこまれる。ふんばれ」という。政治性を看破していた。p250

武帝紀:彧以為「紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至強,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」

威風堂々の大軍をひきいて黄河を渡る袁紹は、往年の光武帝そのもの。

袁氏の滅亡

建安七年(202) 五月、袁紹は病死。袁譚をおす辛評・郭図(河南派)と、袁尚をおす審配(河北)逢紀(袁紹の側近)

曹操のとき、士大夫は長子の曹丕を推し、側近な曹操の意向を受けて曹植を推した。士大夫の主流とは、辛評・郭図を輩出した潁川である。曹操と袁紹とで、「同じことが起きた」と分析しやすいように、整理されている(ような気がする)

建安十二年までに、河北を平定。

例の年表形式なので、重視しない。

冀州牧となった曹操は、袁紹の地盤=河北をひきつぐ。経営の決め手は、士大夫の強力が得られるか。郭嘉の献策で、四州の名士を辟召。
河北士大夫の代表は、騎都尉の崔琰(清河のひと、161?-216?)。別駕従事史になり、河北の兵力・生産力にばかり関心を示す曹操をたしなめる。毛玠とともに、官界を綱紀粛正。

曹操の私的集団から、天下の公的集団へ、というぼくなりの区分けを、前にやりました。崔琰伝にも、目を通しておくべき。

副産物は、烏桓族の壊滅。蹋頓が、三郡烏桓の盟主となり、公孫瓚・袁紹とむすび、内戦に介入していた。漢民族に同化した烏桓騎兵は「天下の名騎」と恐れられた。

官渡から赤壁へ

官渡から赤壁への政局は、後漢初期に驚くほど類似。関中に劉盆子を擁する赤眉、河南・山東には梁王の劉永。隴右に隗囂。河西に竇融。益州に公孫述。荊州は混乱し、秦豊・田戎・更始帝・鄧奉。隗囂・公孫述との戦いには、なお十年を費やした。

曹操は、はるかに楽観的に見えた。
①揚州は会稽太守の孫権に外交攻勢をかけ、内部分裂を誘発。豫章太守の孫賁は、孫堅ゆかりの長沙太守・征虜将軍を授けられ、赤壁の直前、単独で曹操に降ろうとする。朱治の説得で思い留まる。廬陵太守の孫輔も、平南将軍・交州刺史にすすめられ、江東を曹操に引き渡そうとする。
②関中・涼州は、最有力とみられた、前将軍・槐裏侯の馬騰が、赤壁の直前に入朝して衛尉。安南将軍・ビン郷侯の段煨(弘農に駐屯)も、召還され大鴻臚となる。
③益州牧の劉璋は、曹操が冀州を平定すると慶賀の使者をよこし、建安十二年(207) 傭兵三百人を提供。

はっきり敵対関係にあるのは、④荊州の劉備・劉表のみ。馬騰・劉璋は、曹操に接近。政権が盤石でない孫権は、きりくずし工作で動揺。共同戦線をはられると危険だが、孫権と劉表、劉表と劉璋、劉璋と張魯は、不倶戴天。曹操と手を組むよりも非現実的。
劉表を討てば、あとは地すべり的な天下統一がなる。『陳志』荀彧伝で、中原の総力を見せつけ、戦わずに相手を屈服させようという。

太祖將伐劉表、問彧策安出、彧曰「今華夏已平、南土知困矣。可顯出宛葉、而閒行輕進。以掩其不意」太祖遂行、會表病死。太祖直趨宛葉、如彧計。表子琮、以州逆降。

光武中興の再現を、最大の政治目標に掲げた。151213

逆にいえば曹操は、袁氏を滅ぼすまでは「袁紹に勝つ」ことが政治目標であった。具体的なヴィジョンがなかった。献帝を得たのも、袁紹に対抗するためだった。
天下統一という新しい政治目標は、袁氏を滅ぼして、やっと抱いた直後に、赤壁で砕かれる。「長年の志を挫かれた」というより、袁紹からパクったが、自分のものにならなかった、という感じである。魏の建国に向かうとき、もう1回、変節するが、その変節は悲劇的なものという感じがしない。

閉じる

第20回 赤壁で、江東の経済力に敗れる

丞相に就任する

建安十三年 正月、鄴に凱旋して、政府を改造。三公の廃止、丞相・御史大夫の復活。
三公制度は、前漢の成帝(前008)のとき、丞相・御史大夫を廃して、大司馬(将軍が兼任)に、大司徒・大司空を設置する。200年つづく制度を変革。廷臣たちはきっと抵抗する。
曹操は、興平元年(194) から司空だった趙温を、曹丕を司徒掾属に辟召したことを「選挙不実」の罪とした。理由がわからず、現任の三公の子弟、もしくは列侯の嫡子を辟召してはならないという規定でも、あったのだろうか。

これは『陳志』文帝紀にひく『献帝起居注』。建安十(五)[三]年、爲司徒趙溫所辟。太祖表「溫辟臣子弟、選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免溫官。

理屈はどうあれ、司徒から引きずりおろす、という目的はハッキリ。建安元年 九月以降、太尉は欠員。司空の曹操をのぞき、三公の在任者がいない。
こうした政治情況をつくってから、建安十三年 六月、丞相に就任。御史大夫は、2ヶ月遅れの八月、光禄勲の郗慮を選出。
建安元年以来、事実上、曹操の専権体制が固まっている。司空だろうが、丞相だろうが、曹操が最高の実力者であることには変わりない。宰相の権限をあつめ、強化するため、という説明は正しい理解ではない。

建安九年(204) 八月、鄴を攻略した直後、蕭何の子孫を安衆侯とする。歴代皇帝は、蕭何の跡継ぎが絶えれば、子孫を見つけて爵位を与えた。「漢の法」の制定者。漢王朝を改造しようとするものは、みな蕭何を尊重することで、自己を正当化。これは、帝国改編のため、蕭何の記憶をよびさます世論操作。
曹操は、たんなる丞相ではなく蕭何の継承者としての地位を欲した。

荊州攻略

具体的な編成を、列伝から推測すれば、
先陣は、南征にそなえ潁川郡内に進駐した7軍。虎威将軍の于禁、蕩寇将軍の張遼、平狄将軍の張郃、破虜将軍の李典、将軍の朱霊・路招・馮楷。曹操の直属軍=中軍の精鋭部隊であろう。都督護軍の趙儼が、七軍を総督する。

『陳志』巻二十三 趙儼伝:時于禁屯潁陰,樂進屯陽翟,張遼屯長社,諸將任氣,多共不 協;使儼并參三軍,每事訓喻,遂相親睦。太祖征荊州,以儼領章陵太守,徙都督護軍,護于禁、張遼、張郃、朱靈、李典、路招、馮楷七軍。
この列伝に、それぞれの時点の官位を追記したと思われる。

親衛隊=虎豹騎・虎士に守られた、曹操と幕僚がつづく。虎豹騎の都督は、参軍事の曹仁・曹純である。ほかに、横野将軍の徐晃、折衝将軍の楽進、奮威将軍の満寵が動員される。

八月、劉表が病死。
袁譚と同じように、長子の劉琦(-209)は後継者を外され、江夏太守。劉備は、不満分子をとりこみ、勢力を拡大している。九月、劉琮は「節」をさしだして降伏。
劉備は、襄陽から当陽に到着。南郡の江陵県をめざす。曹操は、補給部隊をのこして、虎豹騎五千とともに追跡。p261
江陵で曹操は、荊州の吏民に布告、新政に協力を促し、論功行賞。蒯越より以下、15人が列侯。韓嵩を釈放し、交友の礼。韓嵩に士大夫を品評させ、それに従って任用した。九品官人法の原型。

『范書』劉表伝に、

操以琮為青州刺史,封列侯。蒯越等侯 者十五人。乃釋嵩之囚,以其名重,甚加禮待,使條品州人優劣,皆擢而用之。以嵩為大鴻 臚,以交友禮待之。蒯越光祿勳,劉(光)〔先〕尚書令。

15人を列侯とし、韓嵩に士大夫を論評させたことがある。

いちおう『陳志』劉表伝を見ると、

太祖以琮爲青州刺史、封列侯。蒯越等、侯者十五人。越爲光祿勳。嵩、大鴻臚。羲、侍中。先、尚書令。其餘多至大官。

とあり、きっと『范書』はこれを見て書いたんだろうなと知れる。
石井先生は「また」と繋いで、文聘・和洽・裴潜・王粲・司馬芝・劉廙・韓暨の登用について書いているが、これは、劉表伝にはないが、各人の列伝から拾ったものだろう。冀州を平定したとき、崔琰を登用したのと同じ。士大夫を優遇して、人心の安定をはかった。

ぼくは思う。冀州の崔琰と、荊州の蒯越。これを代表者としてセットで暗記しましょう。


劉備を追撃する曹操にも、危険があった。『陳志』劉表伝の注釈、

漢晉春秋曰。王威說劉琮曰「曹操得將軍既降、劉備已走、必解弛無備、輕行單進。若給威奇兵數千、徼之於險、操可獲也。獲操卽威震天下、坐而虎步、中夏雖廣、可傳檄而定、非徒收一勝之功、保守今日而已。此難遇之機、不可失也。」琮不納。

石井先生が「劉表の将」王威が説いたとするが、官職が不明。「油断しきっているところを数千の伏兵で襲えば、かならず討ち取れる。曹操を破れば、天下取りも夢ではない」と。胡三省はこれに賛成する。胡三省は、手堅く実証的で知られ、みずからの意見を開陳するのは珍しい。胡三省を賛成させるほど、ことは深刻であった。263p

出典が『漢晋春秋』なので、劉備をひいきして、曹操の正統性・必然性を疑う立場から書かれている。王威なる人物は、ほかに登場しない。「劉氏の王の威信」を意味する、『漢晋春秋』の創作ではあるまいか。でも、石井先生が、うっかり者の曹操を強調するのに使っているから、積極的に取り込みたいけれど。


曹操軍の敗退

孫権が劉備のクビを差し出し、降伏するだろう。曹操・幕僚は楽観する。

江陵で、論功行賞をしたとき、曹操は祝賀ムード。公孫氏が、袁尚らのクビを持ってきたときと、南北が逆だが、同じ情況。弛緩しまくった曹操軍。描きたい!

程昱だけが、劉備・孫権の同盟を危惧。『陳志』程昱伝:

太祖征荊州、劉備奔吳。論者以爲孫權必殺備。昱料之曰「孫權新在位、未爲海內所憚。曹公無敵於天下、初舉荊州、威震江表。權雖有謀、不能獨當也。劉備有英名、關羽張飛皆萬人敵也。權必資之以禦我。難解、勢分。備資以成、又不可得而殺也」權果多與備兵、以禦太祖。

孫権が劉備を殺すといったのは「論ずる者」であるが、石井先生は、これを曹操・幕僚と解釈する。程昱を除いて、みな同じ意見でなくては、程昱の特異性があらわれず、列伝が輝かない。
曰く、孫権は新たに位に在り(兄のあとを嗣いだばかりで年若く)まだ海内に憚られていない(天下に畏れられていない)。孫権の謀略があっても、ひとりでは曹公に当たれない。劉備に英名があり、関羽・張飛は万人に敵する。孫権はこれを利用するだろう。

無名に近い孫権でも、無敵の曹操をやぶれば、政治宣伝ができ、覇権争いの対抗馬となる。そうなれば、曹操の天下統一が遠のき、中原が動揺し、内部崩壊の危機さえ生じる。p264

事実として、これが起きたと。271pで「赤壁の戦後、二年ほどが曹操政権にとって最大の危機だった」とする。中原の動揺、内部崩壊の危機は、史料のなかで見つけにくいが、きっと起きた。史料に痕跡があれば、絶対に石井先生が紹介したはずだが、存在しない。しかし確実に、動揺・危機があった。そういう本当の情報ほど、歴史家が抹殺するでしょう。なぜなら、曹魏は倒れなかったから。だれがどうやって袁紹と内通したか、史料に見えないように。動揺・危機は、石井先生の洞察です。史料に見えなくても、きっちり描く。それが小説家の役目である。


孫権は豫章の柴桑県にいる。江夏太守の黄祖を討ったばかり。長史の張昭より以下、幕僚は色を失う。『陳志』巻五十四 周瑜伝に、

議者咸曰「曹公豺虎也、然託名漢相、挾天子、以征四方。動以朝廷爲辭、今日拒之、事更不順。且、將軍大勢可以拒操者、長江也。今操得荊州、奄有其地。劉表治水軍、蒙衝、鬭艦、乃以千數。操悉浮以沿江、兼有步兵、水陸俱下、此、爲長江之險已與我共之矣。而勢力衆寡、又不可論。愚謂、大計不如迎之」

曹操は豺虎(山犬のように獰猛)であるが、天子を奉じるから、抵抗したら不順=叛逆である。長江を防衛線とする、わが軍の戦略は破綻した(石井先生の意訳)。
張昭ではなく「議者はみな」となっているが、張昭もこれを言ったという解釈でよいでしょう。漢朝を奉じる士大夫は、孫氏の政権が崩壊しても、地位がゆるがない。荊州と同じ。江東六郡の世論は傾いた。

孫氏の政権が崩壊しても、孫権を除いては地位は安泰。べつに魯粛が詭弁をつかって孫権を脅したのではなく、直近に荊州の前例があったから、説得力があった。


魯粛は「爪牙」の劉備集団の武名に着目。劉備も、草盧対にしたがい、孫権を同盟相手と、決めている。魯粛が根回し、周瑜が帰順論を封殺する。①名分、②戦略において、曹操との決戦に問題がないと主張。
①曹操は「賊臣」であり、孫氏は代々の忠臣。②曹操の弱点は4つあり、決戦を求めるのは中原が盤石でないからで韓遂・馬超が不穏、騎馬戦を放棄、冬にむけて馬の飼料が不足、中原の兵士は疫病になる。

赤壁で火計が使われたことすら、石井先生は省略。曹操は楽観しているが、周瑜のいうとおり、名分・戦略において、曹操に欠陥があった、戦う前から負けていた、というのが原作の歴史観である。黄蓋の苦肉とは、些事なのである。


夏口・江陵は、孫権に帰する。劉備は、公安を本拠として、江南四郡を制圧。建安十四年、劉琦が死ぬと、相互推薦の形式をとり、劉備は左将軍・領豫荊二州牧、孫権は行車騎将軍・領徐州牧を自称する。「天下三分」の形勢は、現実味をおびる。p267

経済力に基づいた天下三分論

『漢書』地理志には、001年の人口が、『范書』郡国志には140年の人口がある。戸口数をまとめた表は269p。前漢の最盛期と比べると、両漢交替期の混乱から立ち直った後も、全土で人口が1千万少ない。中原が落ちこんだが、荊州・揚州・益州は増加に転じている。
全体的な戸口の厳象は、収奪の強化・自然災害によって、経営基盤を失った小農民が流亡し、一部が豪族に隷属したことを示す。江南の増加は、長江流域の開発が本格化し、経済的な自立度を高めていたことを意味する。
江南の開発は、秦漢帝国の枠組みに揺さぶりをかけ、既成の政治・社会体制で対処しきれない情勢をかもした。「漢」という旧秩序にしがみつくのか、現実に即した新秩序を構築するのか。後者が天下三分論。

このあたりは、個別の史料によるのではなく、先行研究を読み、総合的に組み立てられた、歴史に対するイメージ。これを、作中で直接レクチャーさせるのではなく、新旧の対立をそれとなく織り込めたら、小説としては成功です。


諸葛亮は、当代きっての曹操ウォッチャー。名分・実力から見て、曹操に太刀打ちできない。だから、荊州・益州を足場に、孫権と同盟しつつチャンスを窺う。天下三分は、目的ではなく手段。
張紘・甘寧など、江南の識者は、長江流域の経済力が、中原に対抗できることを看破していた。石井先生は魯粛伝で、「江南の覇者は、天下をあらそう資格がある」と、漢王朝の権威・枠組みにこだわらないことを紹介。

しかしぼくは、曹操と接点のある張紘に着目したい。『陳志』張紘伝に、

明年將複出軍,紘又諫曰:「自古帝王受命之君,雖有皇靈佐於上,文德播於下,亦賴武功以昭其勳。然而貴於時動,乃後為威耳。今麾下值四百之厄,有扶危之功,宜且隱息師徒,廣開播殖,任賢使能,務崇寬惠,順天命以行誅,可不勞而定也。」於是遂止不行。

209年、張紘が孫権に内政の優先を勧めるが、違うな。石井先生が張紘について言及したのは、『陳志』孫策伝にひく『呉歴』で、孫策に戦略を授けて、

今君紹先侯之軌、有驍武之名、若投丹楊、收兵吳會、則荊、揚可一、讐敵可報。據長江、奮威德、誅除羣穢、匡輔漢室、功業侔於桓、文、豈徒外藩而已哉?方今世亂多難、若功成事立、當與同好俱南濟也。

とある。長江流域に割拠すれば中原に対抗できるというのは、これを指すのだろう。孫策が人材を募っている時期だから、190年代の中頃。たしかに諸葛亮より、ずっと早い。

張紘は、陳琳との交友が張紘伝で記されるなど、料理の余地がある人物。曹操に対して、孫権の扱いを進言したり、かなり天下三分に影響力をもった。曹操に従うふりをして、「曹操は、江南の重要性を見損なっているぞ。シメシメ」とほくそ笑むキャラにしようか。曹操が「旧」勢力に転落したことは、石井先生の認知の枠組み。曹操と出会うことのない、孔明・魯粛・甘寧に、この役割を課すると、話がブツギレになる。張紘に、それを暗示させる役割を与える。


魯粛・周瑜・諸葛亮(と張紘)。政治・社会をもっとも的確に把握する彼らは、急速な天下統一・秩序の回復が絶望的と見抜いていた。だから、段階的な統一のために、四分五裂を二、三に整理し、天下三分を現出させるのがベターを考えた。
孫権の抵抗を、だれが予想したか。光武帝の前に、長江流域の諸勢力は、ほとんど抵抗らしい抵抗を見せなかった。

光武帝から二百年。社会・価値観が変化した。赤壁で曹操を待ち受けたのは、発展いちじるしい江東の経済力に支えられた、強力な水軍。魯粛・周瑜・諸葛亮のように、既成の価値観にとらわれない新世代。孫劉連合は、漢帝国の秩序に対する重大な叛逆であり、挑戦だった。官渡の勝利者は、時代遅れになっていた。

秦漢帝国の枠組み内において、曹操は充分に「天下統一」を成し遂げていた。そういう肯定的な捉え方もできる。漢の輔政・回復が、曹操の政治目標だとすれば、それは達成していたよと。
たとえば入学試験で、100点満点のテストで、100点満点を取れるだけの回答をして、残り時間は寝ていた。しかし、じつは「最初の問題を解き終わったものから挙手して、さらに50点分の問題用紙を受けとらなければならない」という、隠れルールがあった。読めないような微細な文字で書いてあった。及第点は110点でしたと。いくら100点満点を取っても、「挙手して、新しい問題をもらう」という隠れルールを遂行しないと、及第しない。寝ていたやつは、油断してたね、バーカ。という感じ。
たとえばゲームで、最後のボスを制限時間ギリギリに倒したら、「じつは真のボスは、別にいました。はい、時間切れ」という、理不尽な展開。


光武帝から、なりふり構わぬ「覇」へ

建安十四年三月、故郷の譙県で水軍をととのえ、合肥に軍を進め、芍陂で大規模な屯田をおこす。淮南の人心を安定させ、持久戦の体制をかためるため。合肥は、揚州刺史の劉馥が防備をほどこした堅城で、赤壁の直後、孫権軍十万を釘づけに。「死せる劉馥、生ける孫権を走らす」と。p272
曹操の合肥進駐は、七月から十二月。

石井先生の解釈では、曹操が合肥に行ったのは、孫権を討伐するためでなく、孫権を食い止める準備をするため。いきなり消極的になった。この間に、重大な路線の変更があったという解釈。なぜか。やはり(史料にないが、石井先生が洞察したところの)内部崩壊の危機があったに違いない。


建安十五年春、求賢令を布告。武帝紀に、

十五年春、下令曰「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定、此特求賢之急時也。『孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫』。若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋、唯才是舉、吾得而用之。」

人材登用に限れば、従来の姿勢とおおきな矛盾はない。「唯才」という帰順は、しばしば曹操が口にしてきた。郭嘉・賈詡など、人格に問題のある策士を重用。
しかし、天下への布告となれば、話は別。基本戦略=光武中興の再現は、赤壁で破綻し、急速な天下統一は望めない。それに代わるキイワードが「覇」である。

「斉の桓公は世に覇たることができたであろうか」とある。

なりふり構わぬ覇権の追及。重大な基本方針の転換。

「なりふり構わぬ」というのが、「覇」のカギなのでしょう。
ただ一度の戦敗で、曹操が基本方針を変えるとは思えない。戦敗以上のダメージ、ないしは認識の変更をせまるような事態を、赤壁で目にしたから、こうなった。それが、江東の経済力だったというのが、石井先生の話。
だって、例えばいちどは火計・水戦に敗れても、また攻めればいいじゃん、という気がする。袁紹の遺児の戦いは、一進一退で、みごとに押し切ったという感じだった。孫権とも、同じように一進一退してれば、いつか勝てそうなものだが。なぜ合肥に、半年間もいたのに、孫権を攻撃しなかったか。
曹操は、火計・水戦といった、小手先の戦術では片付かないような、天下統一が難しい決定的なものを見てしまったのだろう。それが人口に表象される、江東の経済力だと。曹操が方針転換した理由について、史料が沈黙し、石井先生も、やや飛躍がある(史料にないことは書けないから)ので、ぼくなりに埋めてみるしかない。
曹操の識見が衰えていないとするなら、江陵に駐屯して、江南の経済力を調査するうちに、「現地に来てみるとおおちがいだ」といって(漢中だかで吐いた台詞)、準備不足を悔いて、不利だと考えて撤退した……、という『魏志』っぽい流れになる。べつに、火計とか、キッカケですらない。


いっぽうで、変わらぬ漢室の護持の決意も表明する。「建安十五年十二月己亥令」である。武勲を列挙してから、「又劉表自以爲宗室、包藏姦心、乍前乍卻、以觀世事、 據有當州、孤復定之、遂平天下」と、とうとう天下を統一したのである!と述べる。曹操の公式見解は、荊州攻略をもって「天下平定」は終了したという。赤壁の敗戦には触れない。

ぼくは思う。これを「詭弁だね」と退けるのは、のちの歴史(三国鼎立~南北朝)を知る者のアトヂエである。たしかに秦漢帝国の外部に、余計な軍閥は残っているかも知れないが、時期を見て討てば宜しい。前漢だって武帝期まで、交州に残存勢力がいた。独自の正朔を用いていたが、黙認せざるを得なかった。それと同列だと思えば(ちょっと割拠している地域が近いけど)天下統一が終わったと言える。


建安十六年正月、商曜がそむく。

武帝紀:太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。張魯據漢中、三月、遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。

石井先生いわく、并州牧の高幹の旧将・故吏なのだろう。反曹操の勢力が運動をひろげる可能性は、大である。中平から四半世紀、ほとんど半独立の状態にあった関中・涼州方面も、例外ではなかった。

韓遂・馬超の呼び水が、武帝紀にある商曜。すごい構成力!

商曜は、この事件にしか出てこなくて、

夏侯淵伝:太祖征孫權還,使淵督諸將擊廬江叛者雷緒,緒破, 又行征西護軍,督徐晃擊太原賊,攻下二十餘屯,斬賊帥商曜,屠其城。從征韓遂等,戰於 渭南。
徐晃伝:十五年,討太原反者,圍大陵,拔之,斬賊帥商曜。韓遂、馬超等反關右,遣晃屯汾陰以撫河東, 賜牛酒,令上先人墓。

夏侯淵・徐晃が、商曜を斬ったという記述しかヒットしない。

関西の諸将(関東の群雄と左右対称?)

関中・涼州は、後漢の初期から、羌族問題に悩まされてきた。黄巾により、反乱が起きる。関中の無政府状態は、黄巾に始まり、董卓の長安遷都をはさみ、曹操の遠征までつづく。この間、関中対策を委任されたのは、司隷校尉の鍾繇。基本方針は、半独立的な「関西の諸将」の合従連衡をたくみに利用すること
『魏志』荀彧伝に、建安初期の分析がある。

彧曰「關中將帥以十數、莫能相一。唯韓遂馬超最彊。彼、見山東方爭、必各擁衆自保。今若撫以恩德遣使連和、相持雖不能久安、比公安定山東、足以不動。鍾繇、可屬以西事。則公無憂矣。」

関中の諸将は十をもって数えるが、まとまらない。韓遂・馬騰が最強である。

石井先生は、原文「馬超」を「馬騰」に変えていた。

山東が争うのを見て、兵衆を擁して守りを固めるだろう。懐柔策をとり、和平をむすべば、永遠(久しく)とはいかなくとも、曹操が山東を安定させるまでは、動かないだろう。鍾繇に委ねよと。

ぼくは思う。荀彧の見立てにおいて、山東が争うと、なぜ関西は守りに入るのだろうか。たがいに牽制しあうから、関東に出ようとすれば、本拠地をライバルに奪われるからだろう。鍾繇は、彼らのバランスを取ることで、関中を平穏にできた。曹操の武力ではなく、互いに潰し合わせることで、バランスをたもつ。うまいなー。

最強は、金城を本拠とする、征西将軍の韓遂。涼州の名士だが、反乱勢力に擁立され、兵をひきいること三十余年。羌胡の信頼もあつく、馬騰の入朝後、盟主的な存在に。偏将軍の馬超は、扶風に駐屯する。

もちろん、韓遂・馬超は、勢力圏が違う。関東に比べると、注目されにくいが、一郡を統治して、周辺の勢力と張りあうのだから、曹操・張邈・劉備・張楊・張繍・呂布らが演じたのと同じような死闘が、史料に見えないだけで、関西でも並行して起きたのだろう。むしろ、勝者がひとりにならないように、鍾繇が仲裁をしたとか。董卓・李傕政権が、皇帝権力を背景に、袁紹・公孫瓚を停戦させたみたいに。

韓遂・馬超に次ぐのが、安定郡を本拠とする楊秋。魏に降伏してから、特進・冠軍将軍・臨涇侯。
梁興(-212?)は、安定郡の梁氏の一門。梁冀の失脚後も、勢力を保持した。建安期、左馮翊の西部を分割し、左内史(治所は高陵県)という郡が置かれる。のちに梁興は、左内史の管内にあるフ城で滅んだ。左内史は、梁興を太守とするために新設された郡かも。

曹操が郡をひねり出すのは、泰山の諸将を味方に取り込んだときにやったこと。関西の諸将も、泰山の諸将も、上記の曹操・張邈・張楊……という、後漢の中央とパイプをもつ群雄と比べると、いちだん(王朝の正統性を語る、史料のなかでは存在価値が)劣るかも知れないが、限られた地域を実効支配する、すぐれた軍閥だったのだろう。
だから、泰山・関西とも、相互に合従連衡して、潰しあった。泰山・関西の諸将は、ゲーム内での野心は「地方統一」に設定されている。だから曹操は、後漢の郡よりも小さな郡をつくって、奪いあうパイを適度に切り分けた。少なくとも、天下統一に支障を来さないように利用した。見方を変えれば、統治を「委任」した。
もし諸将が、天下統一の支障となるレベルで叛逆するなら、ひとりの魏の将軍を遣わせば、平定することができる。夏侯淵・于禁・徐晃など。それは諸将にとってもワリに合わないから、郡より小さな郡(郡を切り分けて創出された郡)の太守であることに満足して、間接的に中央政権(曹操とか)に協力したと。

のこりの六人は、詳細が分からないが、曹操に降伏して「官爵を復」された。韓遂・馬超のように、将軍号・列侯を授けられたことは間違いなく、郡太守もあったと思われる。

河東郡に駐留する、司隷校尉の鍾繇は、計略を提案。「張魯を討伐するふれこみで、諸将に圧力をかけ、人質を取ろう」と。みえみえの凡策。しかし、曹操には別の考えがあった。p277
建安十六年三月、鍾繇に出兵を許可。太原に出動していた、征西護軍の夏侯淵を、河東で合流させる。関西の諸将は、韓遂を都督に推戴すると、兵十万で潼関を固める。

張既伝にひく『魏略』にある。會約西討張猛、留行守舊營、而馬超等結反謀、舉約爲都督。及約還、超謂約曰「前鍾司隸任超使取將軍、關東人不可復信也。今超棄父、以將軍爲父、將軍亦當棄子、以超爲子。」行諫約、不欲令與超合。」
ここでは韓約になっているけど。
『三国志』巻15・張既伝、献帝がぬけた西方を、曹丕のとき収束する

予想された関中の反応を受け、行安西将軍の曹仁を都督として派遣。会社にいく時間なので、次回につづく。151222

通勤しながら、ぼくは思う。『蒼天航路』で曹操が万里の長城を見て、天下の領域を区切って、始皇帝?も器が小さいなという(うろ覚え)。合肥を要塞にした曹操は、現実的な対策としては正解でも、「ここから先は呉の領域だからね」と認めたことになる。赤壁は、小手先の戦術(水軍の優劣・火計)とは別のところで負けたのかな。
赤壁の翌年、曹操は7月から12月まで、半年も合肥あたりにいて、屯田(兵糧確保と兵員配置)をやる。これは、長城を築くに等しい。韓遂・馬超がすぐに関東に攻め込んでくる気配がないのに、なぜ曹操は短期制圧から、持久戦に切り替えたのだろう。
‏@Golden_hamster さんはいう。漢中もそうですね。
ぼくはいう。境界の生産人口を拉致するとか、長城と発想が同じなんです。天下三分(後漢よりも狭い領域を天下だと再定義する)のは、諸葛亮と曹操の「共犯」なのかも知れません。曹操が保身に走らず、イチかバチか本格侵攻すれば、三国鼎立なんてなかったかも。これが袁紹なら…あるいは…

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第21回 三国鼎立を有利に始める準備

五官中郎将の曹丕

建安十六年の正月(鍾繇に関中を攻撃させる2ヶ月前)、曹丕は五官中郎将を拝命。ふつうなら光禄勲に属し、五官郎を掌握する。しかし曹丕の場合、まったく別物で、副丞相の職とされ、三公・将軍と同じように、府を開いて官属をおけた。将軍に類する官職。p277
『太平御覧』五官中郎将にひく『魏武令』に、「告子文:汝等悉為侯,而子桓獨不封,而為五官郎將,此是太子可知矣」とあり、曹操は曹彰に、「曹丕だけが列侯に封ぜられないのは、太子だからだよ」と説明したとある。

『太平御覧』の直前には、應劭《漢官儀》曰:五官中郎將,秦官也。秩比二千石,三署,郎屬焉。とある。


ほかに成人に達した順に、曹彰・曹植・曹拠・曹宇・曹林・曹玹の六人を列侯にした。「おだやかではない」「革命を予感させる出来事でもある。

馬超を討伐する前から、革命を予感させる行動を取っている。関中を平定したことは、曹操の爵位をあげる口実にはなるが、量的な変化にすぎない。質的な変化は、これより前である。建安十六年正月時点、すでに曹操が変節しているなら、赤壁の意義がおおきくなる。少なくとも石井先生は、そのつもりで書いておられる。

魏晋革命は、世子の司馬炎が、中撫軍という変則的な官職を拝し、副相国となる。晋宋革命でも、世子の劉義符が、中軍将軍・副相国。革命直前、覇王の継承者が、独自に幕府をひらき、副官となる方式は、漢魏革命からはじまった。なぜ曹丕に、五官中郎将という官名が使われたかは「不明というほかない」p279

関中の遠征の留守は、長史の邴原が曹丕を輔佐……。と279pに顔ぶれがある。アリバイのための記述に見えるため、はぶく。曹丕は、功曹の常林に諌められて、みずから田銀を撃つことなく、後継者としての地歩を固める。

ぼくは思う。曹丕・曹植の後継者争いは、五官中郎将に任じられた時点、つまり赤壁の3年後には、官爵の上では片付いている。そこまで、盛り上がるネタとして、この本では扱われていない。


渭水の戦い

従軍するひとは、p280にある。関中平定戦は、曹操の戦略・戦術の粋を集めた、改心の一戦。武帝紀で、戦後の曹操のコメントを載せて、

公曰「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、吾故盛兵向潼關。賊悉衆南守、西河之備虛、故二將得擅取西河。然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。連車樹柵、爲甬道而南、既爲不可勝、且以示弱。渡渭爲堅壘、虜至不出、所以驕之也。故賊不爲營壘而求割地。吾順言許之、所以從其意、使自安而不爲備、因畜士卒之力、一旦擊之、所謂疾雷不及掩耳、兵之變化、固非一道也。」
始、賊每一部到、公輒有喜色。賊破之後、諸將問其故。公答曰「關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、爲功差易、吾是以喜。」

これの翻訳が、p281

◆婁圭伝
婁敬の計略をもちいて、土砂でつくった塁壁を水で凍らせ、ひと晩で城を出現させる。発案者の婁圭は、曹操の旧友で、「婁圭子伯の計略には、私は及ばない」と曹操に言わせた策士。のちに警戒されて粛清。

『陳志』巻十二 崔琰伝のなかに、孔融・許攸とともに曹操に殺された旧友として、「婁圭,皆以恃舊不虔見誅」簡潔な記述があり、『魏略』がひかれる。

魏略曰: 婁圭字子伯,少與太祖有舊。初平中在荊州北界合眾,後詣太祖。太祖以為大將,不使典兵,常在坐席 言議。及河北平定,隨在冀州。其後太祖從諸子出游,子伯時亦隨從。子伯顧謂左右曰:「此家父子,如今日為 樂也。」人有白者,太祖以為有腹誹意,遂收治之。

婁圭は、曹操が若いときからの旧知である。初平期、荊州の北の境界にいて、兵をあわせて曹操にいたる。曹操は婁圭を大将としたが、兵を典ぜしめず、つねに同席させて議論した。河北を平定すると、冀州に随う。のちに曹操が諸子をしたがえて出遊すると、婁圭も随行した。婁圭は左右をかえりみて、「この家の父子は、今日のように楽しんだことがあるか」と。婁圭の言葉を、曹操に告げたひとがいた。曹操は、婁圭に(曹氏を)そしる気持ちがあると思い、とらえた。

吳書曰:子伯少有猛志,嘗歎息曰:「男兒居世,會當得數萬兵千匹騎著後耳!」儕輩笑之。後坐藏亡命,被繫當 死,得踰獄出,捕者追之急,子伯乃變衣服如助捕者,吏不能覺,遂以得免。會天下義兵起,子伯亦合眾與劉表相 依。後歸曹公,遂為所用,軍國大計常與焉。劉表亡,曹公向荊州。表子琮降,以節迎曹公,諸將皆疑詐,曹公以 問子伯。子伯曰:「天下擾攘,各貪王命以自重,今以節來,是必至誠。」曹公曰:「大善。」遂進兵。

『呉書』はいう。婁圭は、勇猛な志があり、嘆息して「男児として世に居るからには、数万の兵と千匹の馬を獲て、後世に名を著したい」という。仲間たちは笑った。のちに獄に繋がれたが、衣服をかえて獄吏になりすまし、逃れた。

党錮から、奔走の友の流れに至るひとは、みんなこういうエピソードがある。王允・荀攸などを思い出す。つぎに劉表と結ぶのも、霊帝期の人脈を頼ったのだろう。

天下に義兵がおこると、劉表と結合したが、のちに曹操に帰した。

上の『魏略』にある、荊州北部で兵を集めて、というのがこれ。初平期だから、袁術が南陽にいたころ。張繍は興平期~建安期にくるから、時期は重なっていない。

曹操の軍国の大計には、いつも婁圭がかかわった。劉表が死ぬと、劉琮がくだった。諸将が疑ったが、婁圭は「天下が乱れ、みな王命(献帝を擁する曹操)を貪って自ら重しとする。いま節をもって来たからには、かならず至誠である(偽降ではない)」といった。曹操は、ついに兵を進めた。

荊州をくだして、天下統一を確信する旧友は、婁圭に確定しました。許攸・婁圭のように、曹操と初期から仲が良いが、こうして粛清されて、『魏志』に列伝がないひとが、ほんとうの脇役なんだと思う。


寵秩子伯,家累千金,曰:「婁子伯富樂于孤,但勢不如孤耳!」從破馬超等,子伯功為多。曹公常歎曰:「子伯之計,孤不及 也。」後與南郡習授同載,見曹公出,授曰:「父子如此,何其快耶!」子伯曰:「居世間,當自為之,而但觀他人 乎!」授乃白之,遂見誅。

曹操は、とくに婁圭を重用して財物を与えたから、家には千金が積まれた。曹操「婁圭は私よりも、富み楽しんでいる。ただ権勢が私に及ばないだけだ」と。

ぼくは思う。曹洪は蓄財して、曹操よりも財産を持っていた。曹操は、ポトラッチするタイプの君主だったらしく、官職に媒介されない旧知(婁圭・曹洪)に対して、ものすごい財物を贈ったようです。ジョークかも知れないが、私財という一点においては、曹操は彼らに劣った。ぎゃくに、蓄財するかわりに、政治的な権威をもった。諸葛亮に通じるところがあるなー。
曹操の「官職に依らない旧知」の動きに注目したら、楽しい小説になりそう。衛茲・鮑信あたりも、べつに曹操が高位だから協力したワケではなく、このジャンルに数えることができる。

馬超らを破るのに従軍して、功績がおおい。曹操はつねに「婁圭の計略に、私は及ばん」と嘆じる。のちに南郡の習授と同乗して、

後漢末の習禎(習鑿歯の祖先)は、襄陽のひと。ちかい。親族かな。

曹操が外出するのを見た。習授は「父子があのように(仲良く外出するのは)なんと壮快なことか」といった。婁圭は「世間に居れば(曹氏のような高位にいなければ)おのずと(父子が仲良く)できる。ただ他人に見せびらかしているだけだよ(本当は曹氏の父子は、仲が悪いからね)」と。習授がちくって、ついに誅された。

ちくま訳は「世の中に暮らしているのなら、自分でそうすればよい。それをただ他人を眺めるだけとは」とあり、意味不明なので、直しました。
石井先生は、「智謀を警戒され、粛清される」とあるが、これは智謀を警戒されたのか? 後継者の問題の本質を言い当てられて、警戒した? でも婁圭は、きっと曹操と同世代。劉表と付き合いがあるから、少し上かも知れない。曹操の死後に、なにかやるとも思えない。なにかトンチを見落としているか?
ぼくが思うに、婁圭は、曹操に嫉妬しているから、こんなことを言ったのですよ。


離間の策と、関中の平定

賈詡の意見により、離間の策。曹操は韓遂と昔話。つぎに会うとき、鉄騎の五千を、十重に並べた。「鉄騎」とは、騎士だけでなく、面簾(鉄面)、馬甲(馬よろい)で覆った、重装騎兵。「甲騎具装」ともいう。陽光を受けて輝いたので、連合軍は感服したという。
『魏志』武帝紀にひく『魏書』に、

公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可為木行馬以為防遏。」公然之。賊將見公,悉 于馬上拜,秦、胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「汝欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後 大觀。又列鐵騎五千為十重陳,精光耀日,賊益震懼。


連合軍を振り回してから、会戦する。関西の兵は「長矛」を得意とする。丈八=4.3メートルの長柄の矛。建寧元年(168) 安定郡の逢義山で、段熲が一万の陣立てで使った。長柄の矛を装備した、重装歩兵の密集隊形をさすのだろう。p284
曹操は、中央にわざと軽装の歩兵を老いて、関西の長矛にぶつけ、左右翼に虎豹騎。左右から包囲殲滅。十月に楊秋を降すと、安定郡の統治をまかせ、十二月に鄴に帰還。p284
あとは夏侯淵の仕事。p286-p287

◆負の遺産
曹操の関中遠征には、目的がいくつか。
第一に、赤壁でおちた威名の回復。泥沼戦に引きこまれてはならない。地理・風俗上、尚武の気風があり、土豪層の力が強く、光武帝も手を焼いた。曹操は、馬超の同盟者が増えるごとに、手を打って喜んだという。一網打尽にしたい。できた。
第二に、江南との連携の阻止。周瑜・諸葛亮とも、関中に反曹操の勢力を結集させるのがポイント。防衛体制をととのえる必要あり。予想される三国鼎立に先立ち、

予想されるのか? 石井先生のなかの曹操は、赤壁で敗れて天下統一を諦めてしまったから、「三国鼎立を有利にやる準備をしよう」と、天下三分に加担している。ほんとに、赤壁で何があったのか。
ぼくは思う。石井仁『曹操』では、曹操が後漢の全土回復を諦めたのは、208年の赤壁の敗戦。209年の合肥の屯田、210年の求賢令(なりふり構わぬ覇業)、211年に曹丕を変則的な五官中郎将とし、六子を列侯に封建したのも、すべて革命と(予想される)三国鼎立の準備とされる。208年って早くない?


負の遺産も。山間部は、羌胡が聚落をつくって定住。関西の諸将にとって、兵員・物資の重要な供給源。その関係を切り崩すために、強制移住政策「徙民」をやる。百年の大計を誤る大失策となった。だれも気づかない。五胡によって、漢民族は中原を奪われる。

魏国の成立

建安十七年(212) 賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿。丞相の蕭何の特典。いよいよ国家の改造に取りかかろうとする。その前に、孫権に一矢むくいる。

なんだか、ザツな理由で孫権に攻撃するんだなー。


前年、孫権は丹陽の秣陵県に進駐。この年、石頭城を築き、恒久的な根拠地「建業」をつくる。

建業を勧めたのは張紘。やはり、曹操にとって張紘は、キーマンになる。しっかり描きこもう。呉に入ったっきりの張昭は、出す必要がないが。

孫権は、呂蒙の言うとおり濡須塢をつくって、建業を防御。曹操と孫権の戦いは、合肥・濡須を攻めあう展開となる。

建安十七年十月、曹操は南下。翌年正月、濡須口にきて、「息子にもつなら孫権」といって撤退。孫権伝にひく『呉歴』より。曹操に撤退。(第一次 濡須)

p290 すごいザツです。「改めて、侮れない相手だと思い知らされる結果」って、ほんとにそんだけか。


建安二十年、曹操が漢中にいくと、孫権が合肥を攻め、張遼に負ける。ふつう、城の守備軍が、十倍以上の寄せ手に挑戦したりしない。曹操のねらいは、常識のうら。張遼は、これを忠実にやりとげた。(第二次 合肥)

第一次 合肥は、赤壁の直後、208年でした。

建安二十一年(216) 十月、曹操は、第二次 濡須。翌年(217) 正月、居巣で甘寧に冀州される。三月、伏波将軍の夏侯惇を居巣にのこし、二十六軍の都督とする。

孫権が合肥を攻め、曹操が濡須を攻める。しかも律儀に交互に。このように図式的に説明するために、すごく簡略に整理されてます。

もとより曹操は、本気で孫権を討てると思っていない。

曹操の孫権攻めは、期せずして「八百長」みたいな説明になっている。曹操は、国内を引き締めるために、かつ全土統一の意思があるというポーズを見せるために、孫権を攻める。漢中を攻める。しかし、本気で外征するつもりはない。こういう曹操は「新しい」のではないか。
赤壁で負けて天下統一・漢の復興を諦めた曹操。211年に馬超を攻めたのは周瑜との連携を防ぎ、(予想される)天下分裂を少しでも有利に始める準備。濡須に孫権を2回 攻めるが、本気で平定できると思わずポーズだけ。なるべく領土を広げて革命を迎えるのが目標。石井先生の描く『曹操』はちょっと微妙。赤壁までは、志に燃える、石井先生の共感できる人物だが、それ以後は、わりと現実と折りあっちゃった感じで、魅力に乏しい。だから割かれている分量が少ない。

江東を制圧するには、長柄の水上権を奪う必要があるから。晋の平呉、隋の平陳のときも、荊州から攻めた。

ぼくは思う。末期の諸葛亮のムリめな北伐は、天下統一が難しいと知ってても、外征していないと国の存在意義が薄まり、求心力が保てないからだ…という分析を読んだことがある。それなら、濡須に孫権を攻めても本気にならず、漢中で張魯を降したら「隴を得て蜀を望」まずに劉備を攻めない、末期の曹操も同じ。ポーズとしての外征なんてあり? 国力を費やしても、やること…なんでしょうか。
曹操の幕僚にも、諸葛亮・魯粛が顔負けの天下分割の論者がいたはず。「すぐには天下統一はムリ。それなら可能な限り、大きな領土を確保して、分裂時代に備えるべき。もし江南に異変があれば、複数路から制圧すべし」と。董昭あたりかなー。荀彧は、これに真っ向から反対。


荀彧の死

建安十三年八月、太中大夫の孔融が処刑された。建安元年、青州刺史を袁譚に追われ、許都に出仕したが、漢室護持をつらぬき、曹操と確執を深めた。

これによると、漢室護持をすると(赤壁の前の時期でも)曹操と対立するということになる。李傕・郭汜が、本質的に献帝を折りあわなかったように、伝統的権力である献帝を、(軍事的には)新興の勢力が、完全に融合することはできない。曹操と献帝は、つねに緊張をはらむ。
孔融のような「伝統的権力」をまとったひとは、折りあうけれど。

兗州平定から、士大夫との衝突は、政局の変わりめごとに表面化。第一次 濡須のとき、董昭が「九錫」授与を提案する。説明は p293。王莽のときは、九錫という言葉が先行して、数は九つとは限らない。九つの器物に限定されたのは、曹操のとき。原型は、周の時代、諸侯を封建するのに用いられた器物。人格の顕彰、天子の代行者であることを示すものなど。天下を平定して天命を受けなくても、現在の天子から、位を譲ってもらおうと。p294

荀彧が猛反対。荀彧の政治目標は、あくまでも天下統一。曹操にもとめたのは、「高祖の業」である。だが、関中討伐に象徴されるように、赤壁後の曹操の軍事行動に、

関中討伐は、鍾繇の考えた「みえみえの凡策」でした。

くしくも、南征(劉表攻め)の基本戦略を最後に、荀彧の発言は史料に見えなくなる。破局は必然的だった。
荀彧は、尚書令を解任され、出征中の不慮の事故として殺された。外征する将軍には、処断権が認められているから。あとは、新国家樹立にむけて、走らざるをえない。士大夫との関係も険悪化。

荀彧と曹操の確執は、諸説あるが、石井先生の見解を「原作」とするので、このとおりに行きます。


九州の復活

天下統一を断念したので、中原における覇権を、既成事実化せねばならない。第一弾は、212年の魏郡の拡張。p295
最大の改革が、213年の九州の復活。冀州が、河北全土をふくみ(幽州・并州の消滅)、関中の一部をふくむ(司隷校尉の消滅)。面積だけなら、江南の三州に及ばないが、人口・生産力では、他の追随を許さない。名実ともに、最大の州。

高幹の平定後、并州刺史となった梁習は、「冀州西部都督従事」となる。任務・軍隊は従来どおり。ねらいは、河北の行政を一元化しつつ、曹操の支配を既成事実化すること。

これより先、206年、冀州・青州などの漢室諸王を取りつぶす「国除」をした。曹操の地盤に点在する諸王国はめざわり。
なお212年、献帝の皇子を、済陰王・山陽王・済北王・東海王となる。漢室擁護の政策。益州にいる許靖は、「奪うとき、暫く与えておくもの」と看破した。

石井先生も許靖に賛成しているが、違うと思う。いま献帝の皇子が封じられたのは、兗州・徐州である。つまり河南四郡である。曹操の固有の領土として、ほしい場所ではない。河北を自領として確立する一方、批判をかわすために、重要性の低い場所を、劉氏に与えているのである。

いずれも、魏公就任にむけた布石。

もしも袁紹が官渡で勝ったら、戦略を度外視して、光武帝の再現に努めるだろうなあ。長江も秦嶺山脈も、ものともせず、負けるまで勝ち続ける。曹操の優れた点は(同時に劣った点は)戦略を度外視しないところ。勝てないときは、負けて滅びる前に退いて、国境を確定させるため、要塞をつくったり、屯田をつくったり、異民族を強制移住させたりする。


魏公国の成立

赤壁後、東西に慌ただしく遠征し、凱旋するたびに位を進められる。

孫権が合肥を攻める、曹操が濡須を攻める、孫権が合肥を攻める、曹操が濡須を攻める、というパターン化をしたように、曹操の殊礼があがるのもパターン化する。

殊礼(特別の臣下に許される、優遇措置)を積み重ねた上に、新国家の正当性を求める。

これは、さらっと読み流していいことではないです。示唆に富んだ/客観的でない分析です。

殊礼の説明は、p299-p300

魏公国の組織整備も進む。十月、魏郡を分割して、東西部都尉をもうける。首都機能の拡充をねらった。魏王朝の成立後、東部都尉は陽平郡、西部都尉は広平郡となり、魏郡とあわせて「三魏」と称された。
十一月、魏国の官僚として、尚書・侍中・六卿を任命。事実上の宰相・尚書令には、荀攸。216年8月、奉常と宗正をおく。217年6月に衛尉が置かれ、九卿がととのう。魏王朝の成立後、名前を後漢に揃える。

尚書令・侍中には、軍師系統の出身者、尚書には丞相東曹掾属(人事担当)の経験者がおおい。六卿には、実務肌の士大夫。意思決定の機関が、公卿から尚書・門下にシフト。p301

このあたりは論文を読むべきで、概説書で理解することはできない。そしてこれは、魏晋南北朝の制度史の関心であり、曹操の人となりとは違うので、ぼくの小説では大きくは扱いません。

なお曹操は、依然として、漢の丞相・冀州牧を兼任。だから、丞相府・冀州牧府の機能は健在。幕僚も置かれている。これが三位一体となり、曹操政権を構成。

親会社Aが子会社Bと合併するとき、子会社Cから親会社Aに派遣されているひとが、子会社Bから親会社Aに出向しているひとと子会社Bのひととで会議をひらき、すると子会社Bから子会社Cに業務委託して招いた助言役が口を出し、親会社Aの事務所で「子会社Cの助言役はジャマ」と言うと、「彼は親会社Aから業務委託されて動いているのだ」と判明し、親会社Aのなかで委託元責任を問うと、じつは子会社Bから委託に出した仕事がメインだったが、助言役は子会社Bから委託された者でなく、子会社Cの名義で、親会社Aと子会社Bに要請を出してて、ABともに混乱。親会社Aと子会社Bの利害が対立する問題を、なぜ子会社Cが決めるのか。そこで、親会社Aに派遣出来ているCの社員が代わりに親会社Aの一員として問題を解決するとともに、子会社Cの報告ルートで元凶を戒めた……。子会社BとCの社長・重役は、親会社Aの出身者。親子の関係にあり、もと後輩たちにアゴで使われてイライラしている。
これがぼくの平日昼の仕事場で、頭が混乱しまくって効率が悪くて仕方がなく、「だれが」「だれに」「だれとして」を1回でも省略すると会話は成立しない。曹操の組織の「三位一体」も、これ系のコミュニケーションの齟齬があったかも。しかも親会社Aのなかは、利害・役割分担する組織が5つくらい相互に牽制しあってて、子会社Bとの関係と距離感もバラバラで。ある案件を誰が決めるかを誰が決めるかが決まらなくて、仲裁をすることが多い。そんないまの職場は2015年内の終わり。散々、苦しめられてきたが「一連の騒動を、歴史学の史料として見ると、論文が何本か書けそうです。彼らはどういう構造の組織で、いかなる価値観に沿って行動していたのか。抽象化・理論化したら楽しそう!あ、すみません。なんだか他人事・客観的な視点を獲得しつつあるみたいで、あはは、という失言をした。

漢帝国の内部に魏帝国。これは、秦漢帝国の支配の根幹にかかわる大改革。始皇帝は封建制を全廃し、中央集権的な郡県制にした。この方針は(いささか例外があるが)堅持されてきた。二度と春秋戦国のような封建制に逆戻りすることはなかった。魏公国は数少ない例外である。
次回、最終回。魏王として曹操が死にます。151222

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第22回 夏侯淵を抜擢し、劉備に称王を許す

魏公から魏王へ

曹参・蕭何・張良らに与えられた一万戸の封邑は、れっこうとしては最大級。一万戸より多いと殊礼と見なされる。霍光は二万戸(前073)、王莽が三万戸(001)、竇憲が二万戸だが辞退(090)、単超が一万戸(159)。
封邑が複数県にまたがるのも殊礼。後漢では「鄧禹の故事」といわれる。建武元年(025) 酇侯に封ぜられ一万戸。意図的に蕭何と同じ件に封ぜられたのだろう。翌年、梁侯となり四県。 該当者は、①呉漢、②耿弇、③朱浮、④竇融、⑤賈復、⑥梁冀(151年、鄧禹に比せられ、乗氏侯・4県・3万戸)、⑦皇甫嵩(184年、槐裏侯、2県)。
①から⑤までは、光武帝の創業をたすけた。

①から⑤までは、特殊な事情なので、曹操と比べることはできない。梁冀と皇甫嵩は、「もうひとりの曹操」として、たえず参照されるべきである。曹操が複数県をもらうとき、前例としては、梁冀・皇甫嵩しかないのだから。
皇甫嵩ですら(時期は曹操より早く、戦乱は曹操より浅く、功績は曹操より小さくても)帝位を勧められた。袁紹を倒した時点で、曹操を帝位に、という声はあったか。

曹操は、206年、武平侯の封邑を、武平・柘城・陽夏・苦県の4県・3万戸となる。県をまたがること、戸数がおおいことの両面において、「いっぱんの臣下と隔絶する殊礼である」と。p304

高祖は「劉氏以外のものが王を名乗れば、天下のものは共にこれを撃て」といった(『史記』呂后本紀)。だから曹操は、列侯と王に割りこむ「公」となる。漢の爵制に存在しない。
ただし前漢末、先代を顕彰するため、周の末裔を「鄭公→衛公」、殷の末裔を「宋公」に封じた。光武帝も建武十三年(037) 姫常を「衛公」、孔安を「宋公」とした。漢の賓客とされ、三公の上。
王莽は元始元年(001) 周公の故事から「安漢公」となる。三年後、伊尹・周公の官職をミックスした「宰衡」となり、位は「諸侯王の上」。翌年、九錫・仮皇帝。始建国元年(009) 王莽が皇帝となると、孺子嬰を「定安公」として清の賓客。曹操は、衛公・宋公・定安公よりも、かぎりなく王莽の安漢公に近い。

建安十九年(214) 正月、魏公国で籍田の儀式。農業国において、豊作の祈願は、重要な国事行為。一国のあるじとして行う。
三月、魏公の位を、諸侯王の上とする。金璽・赤紱・遠遊冠を授けられる。王の身分を示す印章と組みひも、冠。魏公が「魏王」に進むのは、時間の問題である。

このあたりは、武帝紀でだいたい用が足りる。もはや、史実の発掘や、隠れた人脈の検出よりも、史実の概括・整理に入っている。赤壁で敗れた時点で、石井先生のなかで曹操の魅力がなくなってしまったのだろう。ただし、赤壁の時点で、曹操は「晩年」ともいえる年齢。志への邁進に限界が訪れ、現実(江南の経済的な発展により、急速な天下再統一はムリ)に折りあう老人というのも、哀愁があってカッコいい。


魏武輔漢の故事

建安十九年(214) のこと、

武帝紀:十二月,公至孟津。天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡。

旄頭とは、被髪(ざんばら髪)の異様な風体をした儀仗兵。曹丕の『列異伝』に、被髪の兵の記述がある。味方を鼓舞し、敵を畏怖させる、シャーマン的な要素をもつ騎兵なのだろう。p306
鍾虡とは、鍾をかける台に猛獣の飾りを施したもの。いずれも天子の持ち物だから、これを臣下に与えることは殊礼。

石井先生は、殊礼の整理をしており、史実を時系列で述べることに、意味を見出しておられないが。この年の七月、孫権を征ちにゆき(秋七月,公征孫權)、十一月、伏皇后・伏完を殺す(十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡, 發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法)。シャーマン的な要素をもつ騎兵をもらったのは、伏皇后を殺した翌月です。

曹操がもらったものは、光武帝の長子・廃太子の劉彊(p119参照、劉虞の祖先)の故事。太子の位を異母弟の明帝に譲ると、建武二十八年(052) 封国の東海におもむくとき、旄頭をたまわり、宮殿に鍾虡を儲けることを許された。これを受けた曹操は、王以上の地位にあったといえる。

後漢の皇統(明帝-章帝-和帝)から見て、兄のすじにあたる家柄に与えられた特典。きっと当時の学者は、天子の位以外で、曹操に与えられる殊礼を、血眼になって調査したのだろう。天子の位だけを、神経症的に避けるというのが、後漢の呪い・袁術の呪いを感じさせて、とても楽しい。


建安二十一年(216) 五月、漢中から帰還した曹操は、魏王に。
七月、南単于の呼廚泉(於夫羅の弟)が来聴する。漢王朝が形だけの存在であるおkとは、内外周知の事実。呼廚泉は鄴に留まり、魏の臣下に。漢人の司馬が、南匈奴の目付役として派遣され、後漢よりも過酷な支配が行われた。

百年の大計を誤るもの。晩年の曹操は、後漢の再統一を諦めるし、異民族を強制移住させて恨みを買うし、匈奴を圧迫して前趙の成立を準備させるし、失敗ばかり。やや空想的な漢の至上主義者であれば、曹操こそ、漢王朝のみならず、漢王朝が保ってきた天下を損なった、大悪人である。かりに天下統一がムリでも、それを狙い続けろと。荀彧に、その役割を担わせよう。荀彧は、国境の漢人・辺境の異民族を強制移住させることに、反対だったという図式的なデッチアゲをしよう。


殊礼はつづく。p308

天子には、責任がともなう。その責任を回避して、現実に即応した(秦漢の皇帝ではできないような)前代とは異なる政策を打つ。こういう方針に転じた曹操には、まさに天子の位は足かせである。後漢末という情況に、リアルに対処するには、「権限・権威とも天子なみだが、天子ではない」という特殊な/哲学の命題のような立場が、過渡期的に必要ではある……のかも知れない。
曹丕・曹叡が天子になると、秦漢の皇帝のような振る舞いに逆戻りして、硬直した外交を行う。まるで魏の領土=本来の天下だった、と錯覚しても構わないような、政治を安定して行う。曹操は、漢と魏の天子が、秦漢の伝統上に存在する天子として振る舞えるように、あいだで調整を行ったといえる。本人が意図してというより、時代の要請により、結果的に。

(建安二十二年)夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕。……冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郎將丕為魏太子。

天子の旌旗を設け、出入りに「警」「蹕」と称する。「警」「蹕」とは、天子の出行を知らせる先触れ。「旒」は、「冕」の前後に垂らす飾りで、天子は12本、三公・諸侯は7本or9本、卿大夫は5本or7本と規定されている。曹操が与えられた飾りが12本とは、天子のもの。「金根車」以下も、天子の乗り物。
もはや曹操にないのは、皇帝という称号だけになった。輿論と天命にしたがい、皇帝を称してはどうかと夏侯惇が聞くと、武帝紀にひく『魏氏春秋』で、

夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害為百姓所歸者,即民主也。今 殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,為天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施于有政,是亦為政』。若天 命在吾,吾為周文王矣。」

わたしに天命があるなら、周の文王になろう。

北宋の趙匡胤の即位(960) まで、700年間、政権交代は禅譲によって行われた。曹操・曹丕の革命は、後世のお手本。曹操の官位・殊礼をひっくるめて、「魏武(曹公)輔漢の故事」といわれる。マニュアル化されたから、時期が短縮化される。このマニュアルが、曹操の最大の遺産。
黄初二年(221) 孫権に、大将軍・荊州牧・呉王・九錫を授けたのは、曹丕。呉王朝の樹立を保証したのは、魏王朝である。

石井先生の文脈からすると、「孫権の支配領域を、当面、討伐の対象(曹氏の領土の予定地)と見なさない」と決めたのは曹操。曹操は、にわかに武力で、孫権を制圧できないと思っていた(と石井先生は考える)。ならば、孫権を攻めきらないことに、正当な理由が必要。曹操のとき、攻撃のポーズだけ示せば、なんとなくごまかせたが、天子たる曹丕は、そうはいかない。天子とは、天下の全域を支配することが、儒家によって期待されるから。
そこで曹丕が、孫権を呉王にすれば、あたかも漢王朝のなかに魏国があったかのように、魏の国内に、呉が誕生したという二重国家になる。建安末期の漢に、魏を武力討伐することが期待されていなかったように(そもそもムリ)、魏が呉を武力討伐することは期待されない。国内であって国外でない。いちおう君臣ではあるが(曹操は漢臣であった)、リアルな服属の関係がなくても、決して不自然ではない(天子が自由に、王を召還できなくても可)。曹丕が、孫権の呉王朝を保証したのは、曹操が漢に対してやったことの応用である。
曹丕は、「献帝:曹操=曹丕:孫権」という関係をつくることで、孫権を武力討伐できない魏の正当性を手に入れた。すると潜在的に、呉魏革命(孫権が曹丕に禅譲を迫る)が準備されてしまうが、それは実力をもって防ぐから問題ないよと。
孫権が皇帝を称するのが遅れる。孫権が皇帝になるまでは、曹丕のかけた魔法の支配下にあったと、見なすことができるかも知れない。もしくは、曹丕と「共犯関係」になっておくほうが、孫権にとって有利であったと。べつにぼくは、「孫権が曹丕にだまされ、一方的に損をした」とは思いません。曹丕と孫権の利益が、最終的な目的地は異なるものの、一時的に一致したから「共犯関係」を演じたのだと思う。
諸葛亮の天下三分が、目的ではなくて手段であり、暫定的に「思想的な宙づり、理想の不徹底に耐えましょう」というスローガンだったように。曹丕が孫権を呉王に封じたのは、にわかな統一ができないため、仕方なく施した、暫定的な政策である。
諸葛亮の天下三分が「なぜすぐに、劉備を曹操に突撃させ、天下統一しないのか?」という批判を受けないように、曹操が国境を区切ったこと、曹丕が呉の建国を保証したことは、批判を受けてはならない(とぼくは考える)。むしろ、天下を一時的に混乱から救う、優れたアイディア。
強者である魏側から見た、天下を分ける計略というのが、小説の後半のテーマかも知れない。「政治目標に邁進する人物たち」は、石井先生が提示した、魅力的なキャラの属性・性質です。みんな目標をもって、がんばっている世界。


壮心はやまず

蜀・漢中には、張陵の五斗米道があった。張陵は、沛国豊県の出身、くしくも曹操と同郷。孫の張魯は、同僚の張脩を殺害し、漢中で劉璋から独立。p310
張魯の漢中支配は、教団の統制組織をもちこんだもの。官吏を任命せず、「祭酒」が「鬼卒」を指導する。相互扶助・弱者救済。曹操朝廷は張魯を、鎮夷中郎将・漢寧太守として、支配を容認。曹操との関係も、良好だったらしい。

建安十六年、曹操が鍾繇に張魯討伐を命じたのは陽動。

もしも張魯が、張魯との関係が良好なら、張魯を討伐する意味がない。むしろ、事前に連絡が入っていたとしても、おかしくない。石井先生は、張魯討伐はウソという立場なので、そういう場面を、はさむべきである。

陽動のメッセージを真に受けた劉璋が、劉備を引き入れる。劉備に、劉氏の聖地をわたさないため、曹操は漢中への遠征を決意する。

張魯そのものの討伐ではなく、漢中を劉備から守るために遠征する、というロジック。その証拠に、張魯のところが曹氏に親和的だったという史料が、つぎに示される。
きっと曹操の武勲を飾るために、「あっさり張魯を降した」というフィクションが史料に記されたのであって、実際には外交上の同意に基づいて、土地を回収したのだろう。しかし信仰は保護すると。こうして張魯の教団は、数千年の命脈を得ました。

建安二十年(215) 四月、曹操は、陳倉から散関をこえ、武都郡に。七月、陽平関に。張魯は帰順するつもりだったが、弟の張衛に引きずられ、関の守りを固める。

これも荊州の劉表の旧臣と同じく、口裏合わせだろう。とりあえず未知の軍隊がきたら、守ってみる、というのは本能的・自然な行動だと思う。もし曹操軍じゃなかったら、どうするんだ。曹操が思ってたのと違うひとだったら、どうするんだ。

張魯伝で、閻圃が「巴郡にひき、蛮夷と結んで抗戦のかまえを見せ、のちに降れば重用される」といった。巴郡には、板楯蛮がおり、烏桓・義従胡のように、傭兵として漢王朝に軍事力を提供。蜀将の王平、成漢をたてる李氏はその出身。
張魯は府庫を封印して、巴郡に撤退。十一月、出頭して、鎮南将軍・閬中侯。娘が曹宇(あざなは彭祖)の妻となる。

張魯伝:魯盡將家出、太祖逆、拜魯鎭南將軍、待以客禮、封閬中侯、邑萬戶。封魯五子及閻圃等皆爲列侯。爲子彭祖、取魯女。魯薨、諡之曰原侯。子富嗣。

教団の伝承によれば、張魯の弟・張衛は昭義将軍、張傀は駙馬都尉・南郡太守。

張魯伝の外部の情報「教団の伝承」は貴重です。


◆真人と曹操 p313
前漢末から、天命を受けた「真人」が世直しのために出現するという思想が流布。「白水真人」が王莽を打倒するというウワサが流れた。光武帝は、南陽の蔡陽県の白水郷の出身。
南朝の道教経典によると、張陵を「…真人…天師」と表記する。張魯も同じだろう。文帝紀にひく『献帝伝』の「禅代衆事」において、漢魏革命の直前、教団幹部の左中郎将の李伏が、曹丕に上表すらく、

左中郎將李伏表魏王曰「昔先王初建魏國、在境外者聞之未審、皆以爲拜王。武都李庶、姜合羈旅漢中、謂臣曰。『必爲魏公、未便王也。定天下者、魏公子桓、神之所命、當合符讖、以應天人之位。』臣以合辭語鎭南將軍張魯、魯亦問合知書所出?合曰。『孔子玉版也。天子曆數、雖百世可知。』是後月餘、有亡人來、寫得冊文、卒如合辭。合長于內學、關右知名。魯雖有懷國之心、沈溺異道變化、不果寤合之言。後密與臣議策質、國人不協、或欲西通、魯卽怒曰。『寧爲魏公奴、不爲劉備上客也。』言發惻痛、誠有由然。

教団には、曹操が魏公になることを容認する声があり、張魯も帰順を希望したという。曹丕が天下を平定するというおまけもある。

しかし、曹氏が魏公から魏王に昇ってしまったので、預言と食い違ってしまった。「定天下者、魏公子桓」なんだから、「魏王子桓」には、その資格はない。張魯の教団は、曹操が魏公になったのを見て、それに迎合して、曹操に漢中を差し出すのも可とした。石井先生の文脈に沿うため、ぼくが思うに、事前に使者が往来していた。さすがに曹操軍が来たときは、生命の保全のため、門を守ったり、巴郡に逃げたりしたが、張魯には反発する意思がなかった。
しかし張魯が帰順したあと、曹操が魏王になるのは、聞いてないよと。


延康元年(220) 六月、曹丕は孫権を討伐するという触れこみで、軍勢をととのえて革命を総仕上げ。七月、沛国の譙県で宴会して、「譙県は、真人の出身地」という。文帝紀にひく『魏書』より。
これより先、桓帝期に「黄星」が出現して、殷馗は、「五十年後、梁・沛から、真人が現れる」という。曹丕のいう真人とは、曹操のこと。

武帝紀の建安五年:初,桓帝時有黃星見于楚、宋之分,遼東殷馗(馗,古逵字,見三蒼)善天文,言後五十歲當有 真人起于梁、沛之間,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。
天下無敵であるのは、袁紹を破ったことに、関連づけられた。

教団は、真人に曹氏を推戴し、曹氏もそれを意識して、教団を取り込んだ。教団にとって、漢中失陥は敗北ではない。信仰の公認と、政府の保護をひきだした。のちに天師道となり、魏晋王朝と良好な関係をたもち、永嘉の乱のとき、江南の劉虎山に本拠地を移す。

後継者の問題

建安二十年(215) 夏侯淵に漢中の留守を任せる。

孫権との戦い、殊礼、漢中の戦い。3つのテーマを、テーマごとに赤壁~曹操の死まで整理しているので、時系列が前後する。注意!

老練な中護軍の韓浩をおす意見が多いが、

韓浩伝は、今回の『曹操』読解のなかで、すでにやりました。
第10回 西園軍と、反董卓の起兵

意表をつく抜擢。夏侯淵の将才を疑問視して、白地将軍というひとがいた。「わけもなく」「ただなんとなく」曹操の身内だけで、将軍になったという痛烈な皮肉。

法正伝で、法正が看破したように、

二十二年、正說先主曰「曹操、一舉而降張魯、定漢中。不因此勢以圖巴蜀、而留夏侯淵張郃屯守、身遽北還。此、非其智不逮而力不足也、必將內有憂偪故耳。今策淵郃才略、不勝國之將帥。舉衆往討、則必可克。之克之日、廣農積穀、觀釁伺隙。上、可以傾覆寇敵、尊奬王室。中、可以蠶食雍涼、廣拓境土。下、可以固守要害、爲持久之計。此、蓋天以與我、時不可失也」

下線部、曹操は政権内部に、問題をかかえていた。
魏王となった216年、魏国の中尉・崔琰が自殺。曹操におもねる士大夫をたしなめたから。崔琰は、河北士大夫のリーダー的な存在。尚書僕射の毛玠も、崔琰を擁護して廃される。毛玠は、曹操が兗州牧となって以来の古参の幕僚。丞相府において、崔琰と二人三脚で人事を担当した士大夫。

後継者問題もある。大多数の士大夫が曹丕を支持するが、丁儀・楊秋など若手グループが、曹植をおす。繊細な天才詩人のイメージがあるが、曹植は父譲りの剛直な人物。関羽が樊城を囲むと、南中郎将・行征虜将軍に任じた。

将軍に任じられたら、剛直なのか?


曹丕を太子にしたのは、政治的な視点では、儒教的な価値観を奉じる士大夫を尊重・妥協したことになる。当面の天下三分を乗り切るには、士大夫の協力が不可欠。曹操は、アメ(曹丕の立太子)と、ムチ(崔琰・毛玠の排除)をつかいわけ、士大夫層を懐柔しなければならない。

石井先生が「妥協」というからには、曹操の本心は、曹植のほうに傾いていた、ということになる。こういう微言大義を探していきたい。

だから(石井先生は)確証はないが、曹操が意図的に作り上げた政治状況という見方もできる。

はじめから曹丕を立てるつもり(もしくは、どちらでもいい)が、わざと曹操が「曹植がいい」といい、「士大夫の意向を聞いて、曹丕にしたからね」と恩を売るということか。当事者は、たまったものではない。とくに曹丕さん。
というか、孫権の二宮の変にも通じる愚行のような気が。二宮の変も、孫権が意図的に対立をつくって、政権を引き締めようとしたとか。成否は別にして、動機はそうかも。

じっさい、曹丕に決まってから、少なくとも政権中枢部の動揺はおさまり、漢魏革命は軌道に乗る。曹丕をささえた陳群・司馬懿は、ともに荀彧に抜擢され、その後継者と目される士大夫。p318

許都の政変

董承以後、廷臣グループはなりをひそめた。

「廷臣グループ」とか、石井先生の人物の括り方を踏襲したい。ある傾向のある人物を、ひとまとめにした呼び方が、けっこう出てくる。

少壮の士大夫・金禕(金旋の子)が首謀者となり、吉本とその子の吉邈・吉穆のほか、曹操政権の幹部である耿紀・韋晃がくわわる。

この顔ぶれの分析は、すでに終えているのでくり返さない。

建安二十三年(218) 正月、蜂起。許都を制圧し、関羽を呼び寄せ、鄴を攻める。実行部隊の吉邈兄弟が、丞相長史の王必を夜襲。p320

武帝紀の建安22年-巻末を読む 建安23年の条を参照


武帝紀にひく『献帝春秋』に、「收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟為羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。」とあり、耿紀が首謀者であることを窺わせる。
金禕・耿紀らのクーデターは、漢王朝による最後の抵抗。p320

夏侯淵の敗死

建安二十三年(218) 劉備が諸将をひきい、漢中に進攻。張飛・馬超が武都郡の下弁県へ。ここを取られたら、漢中の駐留軍は孤立する。曹操は、都護将軍の曹洪に撃退させる。これもまた、適切な人事とはいえないが、議郎の辛毗・騎都尉の曹休を参軍事とする。曹休には「おまえが大将」と訓令。

夏侯淵・曹洪を、『蒼天航路』のように、一族の名将として描いてはならない。「ただなんとなく、曹操と血縁なので」将軍になった。そういう描き方をすべきである。曹操の一族で、軍事・政治の手腕を、石井先生からほめられているのは……、だれだろう。いたっけ。


建安二十四年(219) 正月、夏侯淵は劉備におびきだされ、定軍山のふもとに布陣。鹿角(さかもぎ)をめぐらす。山上に劉備軍がいるから、包囲するのは、兵法の常道。だが、いけないことに、劉備軍の夜襲で、鹿角の一部が焼かれると、修理におもむいて戦死。
夏侯淵の享年は不明だが、キャリアから見て、曹仁と同世代か、やや年長。五十代なかばと推定される。曹操は絶句して、『太平御覧』鹿角にひく『魏武軍令』にコメントあり。検索したらおもしろかったのでコピペ。

◆『太平御覧』兵部六十八 鹿角

01 袁曄《漢獻帝春秋》曰:揚州刺史劉馥上言:「荊州牧劉表與會稽太守孫權謀襲京城。」遂塹許,作鹿角砦。
02 王沈《魏書》曰:李通拜汝南太守,劉備與周瑜圍曹仁於江陵,與諸將擊之。通親下馬入圍拔鹿角,勇冠諸將軍。
03 魚豢《魏略》曰:夏侯霸,字仲權,為偏將軍。太和中,在長安及子午之役,霸占為前鋒。蜀人望知其是霸也。指下兵攻之,霸手戰鹿角間,賴救然後解。
04《魏志》曰:徐晃討關羽於樊,羽自將步騎五千出戰。晃擊之,退走,遂追與俱入圍破之,或自投沔水死。魏太祖令曰:「賊為塹鹿角十里,將軍致戰全勝,遂陷賊圍,將軍之功逾孫武、穰苴。」
05 虞溥《江表傳》曰:曹公出濡須,甘寧拔曹公鹿角,逾壘入,斬數十人。
06 王隱《晉書》曰:馬隆為武威太守。之郡,作八陣圖。地廣則鹿角車營,進攻則木屋抱輪。并戰并前,虜弗能逼。
07 干寶《晉記》曰:曹爽留車駕宿伊水南,伐木為鹿角,發屯田兵數千人以為衛。
08 習鑿齒《漢晉陽秋》曰:曹芳謁曹叡墓於大石山,曹爽兄弟皆從。於是,司馬懿閉四城,遂與太尉蔣濟俱屯洛水南浮橋。奏罷,爽兄弟不知所為,芳還宿伊水南,發屯田數千人,樹鹿角為營。
09《晉惠帝起居注》曰:王浚乘勝追石超軍于斥丘,超持重不與戰,以鹿角為營。一云以鹿角步安立營。
10《晉起居注》曰:義熙六年,筑壘起城于祖浦石頭城,施鹿角以御盧循。
11 司馬彪《戰略》曰:遼東太守公孫淵反,明帝召太尉司馬公計之。軍到襄平,公圍之北面,東面有圍不合,連車置水中,積石鎮其上,以鹿角塞之。
12《魏武帝表》曰:臣前遣討河內,獲嘉之屯,獲生口,辭云:「河內有一神人宋金生,令諸屯皆云鹿角不須守,吾使狗為汝守。不從其言者,即夜聞有軍兵聲,明日視屯下,但見虎跡。」臣輒部武猛都尉呂納,將兵掩捉得生口,輒行軍法。
13 諸葛亮《教》曰:前到武都一日,鹿角壞刀斧千餘枚,賴賊已走。若未走,無所復用。
14 晉宣帝《教》曰:今日當將作四千人,東為三軍作營塹壘,又當將斧三百枚,破樹木作鹿角,塞諸郵漏處。
15 諸葛亮《軍令》曰:敵以來進持鹿角,兵悉卻在連沖后。敵已附鹿角里,兵但得進踞,以矛戟刺之,不得此住,起住妨弩。
16《魏武軍策令》曰:夏侯淵今月賊燒卻鹿角。鹿角去本營十五里,淵將四百兵行鹿角,因使士補之。賊山上望見,從谷中卒出,淵使兵與斗,賊遂繞出其後,兵退而淵未至,甚可傷。淵本非能用兵也,軍中呼為「白地將軍」,為督帥尚不當親戰,況補鹿角乎
17 王曠與楊州論討孫敏計曰:賊今下屯固橫江。
18 又云:復據烏江,皆塹壘,彭排鹿角,步安嚴峻以襲歷陽諸軍。
19 辛昞洛戍時與桓郎箋曰:「桓振武令下官將千二百人掩襲營,值天洪雨,器仗沾濕,塹廣深丈餘,鹿角五重,樓櫓嚴設。自四更三唱攻,逼至小食時,不克。」


夏侯淵の軽率な行動は、曹操の戦略に致命傷をもたらす。失敗の責任は、人選を強行した曹操にある。

夏侯淵の死に様から遡って、「ほら将器じゃなかった」というのが、石井先生の指摘。結末から遡った人物評は、ずるいことが多いですが、夏侯淵については、そのとおりだと思います。

益州刺史の趙顒(蜀郡のひとか)と、夏侯淵の末子の夏侯栄が落命。夏侯栄は、「父の安否も知れないのに、脱出できようか」といって討ち死に。
三月、曹操は斜谷をこえる。斜谷は険しいが、散関より近道。劉備は決戦に応じない。漢中の駐留軍を救出したことで、満足せざるを得ない。p323

この戦役に、あまり意味がなくて、曹操の関与は、夏侯淵の人選という一点につきる。そして、それを失敗した時点で、もうリカバリ不可能と。


曹操の死

秋七月、劉備は、大司馬・漢中王。劉氏なので、帝王となるのに、曹操ほど苦労しない。漢中王は劉邦の封号、大司馬は光武帝が即する前の官職。ふたつを兼ねることで、漢王朝の正当な継承者であることを宣言した。

劉備にこれを許したのは、夏侯淵を将軍に抜擢した、曹操のせいだと。

秋、関羽が北上すると、荊州刺史の胡脩・南郷太守の傅方など、曹操が任じた地方官は、関羽に降った。許都以南は、騒然となり、内通するものもあり。

袁紹と戦ったときも、許都以南が騒然となった。経済的には、同じ豫州の汝南、荊州の南陽と繋がっており、すぐに同調するのだろう。


九月、曹操・劉備のような人物かもしれない魏諷が、謀反して発覚。鄴でよそもの扱いをされた、王粲の子・宋忠の父子・張繍の子が含まれた。旧荊州政権の関係者。
樊城では、樊城を包囲する関羽を徐晃が包囲するという二重包囲。

曹操は、摩陂で徐晃をねぎらい、周亜夫になぞらえる。
曹操の健康は、二度目の漢中遠征の前後(留守軍の救出)から悪化していたらしい。夏侯惇が寿春から呼び戻された。洛陽で、北部尉の役所を修理させた。46年前、政治生活をスタートさせた場所。
建安二十五年 正月二十六日、「青春の日々をすごした都」で、生涯を閉じた。エピローグがあるけど、読解はここまで。151223

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