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- 第6回 『范書』橋玄伝(曹操の教育者)
橋玄との出逢い
霊帝の建寧五年(172)、18歳の諸生(太学や私塾の学生)・曹操は、放蕩の日々。数年前、陳蕃(-168)と李膺(-169)が、宦官に敗れて弾圧された。そういう時代背景。
曹操が洛陽に登ってきた時点で、すでに陳蕃・李膺は片付いており、曹操が出会うことがなかった。どんなキャラが「出演しない」かも、小説をまとめる上で重要な情報。原作の中身に入る前に、『范書』橋玄伝を見ておきます。このサイト内で、まだやっていなかったから、いま、やっておく。
小説を書く前に、読解が必要な史料は、モレなく読んでおく。この教育は、非常に重いのです。
『范書』列伝第四十一 橋玄伝
橋玄字公祖,梁國睢陽人也。七世祖仁,從同郡戴德學,著禮記章句四十九篇,號曰 「橋君學」。成帝時為大鴻臚。祖父基,廣陵太守。父肅,東萊太守。橋玄は、梁国のひと。7世祖の橋仁は、同郡の戴徳に学んで「橋君学」を立ち上げた。成帝のとき大鴻臚となる。
『後漢書集解』によると、成帝でなく、平帝の元始二年が正しい。祖父の橋基は、広陵太守。父の橋粛は、東莱太守。
玄少為縣功曹。時豫州刺史周景行部到梁國,玄謁景,因伏地言陳相羊昌罪惡,乞為 部陳從事,窮案其姦。景壯玄意,署而遣之。玄到,悉收昌賓客,具考臧罪。昌素為大 將軍梁冀所厚,冀為馳檄救之。景承旨召玄,玄還檄不發,案之益急。昌坐檻車徵,玄由是 著名。橋玄は、わかくして県(睢陽)功曹となる。ときに豫州刺史の周景(列伝三十五)は、梁国をめぐる。橋玄は地に伏せ、陳国相の羊昌の罪悪をうったえ、陳国の従事となり、羊昌の悪事を調べたいといった。周景はみとめた。陳国に赴任すると、橋玄は、羊昌の賓客をとらえ、収賄を取り調べた。羊昌は、大将軍の梁冀に近しいので、梁冀が羊昌を救った。周景は、梁冀の意向をうけ、橋玄を呼び戻したが、橋玄は取り調べをやりきった。
梁冀に近い地方長官の汚職を、糾弾する。橋玄のキャリアは、ここから始まる。曹操が橋玄をモデルとするとき、陳国でのこの活躍を、絶対に意識したはずだ。
舉孝廉,補洛陽左尉。時梁不疑為河南尹,玄以公事當詣府受對,恥為所辱,弃官 還鄉里。後四遷為齊相,坐事為城旦。刑竟,徵,再遷上谷太守,又為漢陽太守。時上邽令 皇甫禎有臧罪,玄收考髡笞,死于冀巿,一境皆震。
郡人上邽姜岐,守道隱居,名聞西 州。玄召以為吏,稱疾不就。玄怒,勑督郵尹益逼致之,曰:「岐若不至,趣嫁其母。」益 固爭不能得,遽曉譬岐。岐堅臥不起。郡內士大夫亦競往諫,玄乃止。時頗以為譏。後謝 病免,復公車徵為司徒長史,拜將作大匠。孝廉に挙げられ、洛陽左尉に補せらる。
左部の尉。『続漢書』百官志 五に、「尉は大県に2人、小県の1人おかれた。盗賊を掌る」とある。洛陽は大県なので、左右の尉が(2人)いた。
曹操の洛陽北部尉にオーバーラップする職歴。
ときに梁不疑(梁冀の弟)が河南尹となる。橋玄は、梁不疑から事情聴取されることになり、辱められるのを恥として、官を棄てて帰郷した。
いちいち、曹操の行動と重なる。曹操も帰郷する。曹操の場合は、宦官とその縁者たちが政敵だった。橋玄の場合は、梁冀とその縁者が政敵だった。のちに斉国の相となるが、城旦の刑罰を受けた(辺境に送られて昼は守備にあたり、夜は長城建設の労役をする)。刑がおわると、上谷太守となる。
漢陽太守となる。
橋玄は、曹操の政治生命が、政敵によって妨害されるのを危ぶんだ。なぜなら橋玄そのひとが、権力者と衝突したり、刑罰を受けたりして、にがい思いをしたからだ。橋玄が曹操を励ましてくれた背景が、橋玄伝を読むと、やっと分かるという仕組みである。ときに上邽令の皇甫禎は、収賄の罪があった。橋玄は、取り調べて、髡笞(頭髪を剃って笞でうち)冀巿で殺した。みな震えた。
漢陽の郡人である上邽の姜岐は、道を守って隠居した。橋玄は、召して吏にしようとした。督郵に「姜岐もし至らざれば、すみやかにその母を嫁せしめよ」と命じた。郡内の士大夫に諌められ、姜岐をあきらめた。人材マニアなところも、曹操のモデル。
世代をへて、曹操を行動のモデルとする諸葛亮が、姜維の母をとらえて、姜維を蜀に勧誘する。漢陽(天水)の姜氏は、因縁がふかいなー。ときに橋玄はひどくそしられた。病気によって免じられた。
このあたりの処世術の難しさ。というか、橋玄は、失敗しまくっている。同じ失敗を、曹操がおかすことを恐れて、保護してくれたのだろう。司徒長史、將作大匠となる。
◆桓帝末:西北の列将
桓帝末,鮮卑、南匈奴及高句驪嗣子伯固並畔,為寇鈔,四府舉玄為度遼將軍,假黃鉞。 玄至鎮,休兵養士,然後督諸將守討擊胡虜及伯固等,皆破散退走。在職三年,邊境安靜。桓帝末、鮮卑・南匈奴および高句麗が侵入したので、四府(三公+大将軍)は、橋玄を度遼将軍とし、黄鉞を假す。橋玄は、鎮所にくると、兵士を休養させ、将軍・太守を督して、けちらした。3年つとめ、辺境は安静たり。
曹操が、袁紹の遺児を追いかけて、河北に深入りする。遼東に接近する。橋玄のおもかげを追いかけて、深入りしたと考えられる。なんか、妙に時間を食ってしまい、天下統一を遠ざけたような気がする。しかし、後漢の将軍として、本分を果たしたのだ。
桓帝期は、167年まで。曹操が史料に登場する直前、橋玄にしたがって幽州で戦いを学んでいた、という設定を考えたが、話がおもしろくなるのか慎重に吟味したい。やり過ぎると、史実から乖離する……。
◆霊帝期:国を憂う三公として
靈帝初,徵入為河南尹,轉少府、大鴻臚。建寧三年,遷司空,轉司徒。素與南陽太守 陳球有隙,及在公位,而薦球為廷尉。玄以國家方弱,自度力無所用,乃稱疾上疏,引眾災 以自劾。遂策罷。歲餘,拜尚書令。時太中大夫蓋升與帝有舊恩,前為南陽太守,臧數億 以上。玄奏免升禁錮,沒入財賄。帝不從,而遷升侍中。玄託病免,拜光祿大夫。光和元 年,遷太尉。數月,復以疾罷,拜太中大夫,就醫里舍。霊帝初、橋玄は河南尹となり、少府、大鴻臚に転じた。建寧三年(170)、司空、司徒。
172年、諸生として洛陽で放蕩をする曹操。物語の時間軸が、揃ってきた。もとより南陽太守の陳球(列伝四十六)と仲が悪いが、陳球を廷尉にすすめた。
曹操は、自分を裏切ったものを、重職に留めたりする。性格がキツくて敵が多いけれど、政治における任用とは区別できる。三公として(曹操の場合は司空)人材を推薦するとき、私情を排することができる。
橋玄こそ、石井先生がもっとも強調した「もうひとりの曹操」にふさわしい。橋玄は、国家が弱まり、力を用いるところがないから、病気といい、災害の責任をとって、三公を退いた。歳余して、尚書令になる。
この三公を退く理由が、まさに曹操と橋玄が知り合った時代に一致する。わざわざ范曄が、橋玄の内面を描いているのは、だれに向けたサービスだろうか。列伝では省かれているが、橋玄がみずからを弾劾する文書が、残っており、しかし全文を引用するほど重要なものはないから、范曄が抽象化したのかも。
しばしば曹操は、おのれの志の所在を明らかにするため、文書を発表する。この動作は、橋玄をマネたものだったのかも知れない。つまり小説家は、橋玄が曹操と出会う前後、志(とその挫折)を言及した上表のようなものを、創作していいのです。ときに太中大夫の蓋升は、霊帝と旧恩があった。さきに南陽太守となり、数億の収賄をした。橋玄がせめたが、霊帝はゆるした。
曹操は宦官の縁者でも攻撃したが、橋玄は霊帝の縁者でも攻撃する。
橋玄にそっくりな、カネに清潔で厳格な曹操が、丁斐のネコババを許していたのだから、矛盾しているように見える。他人の縁者が、立場を利用して不正をするのは許さぬが、自分の縁者ならば、許しちゃう。その意味でも、曹操は霊帝の後継者である。というか、「人間ってそういうものだな」と、仕方ない真理を示すのが、小説においてできることだ。
光和元年(178)、太尉。数ヶ月で、病気でやめる。
◆人質を取っても効果なし
玄少子十歲,獨游門次,卒有三人持杖劫執之,入舍登樓,就玄求貨,玄不與。有頃,司 隸校尉陽球率河南尹、洛陽令圍守玄家。球等恐并殺其子,未欲迫之。玄瞋目呼曰:「姦人 無狀,玄豈以一子之命而縱國賊乎!」促令兵進。於是攻之,玄子亦死。玄乃詣闕謝罪,乞 下天下:「凡有劫質,皆并殺之,不得贖以財寶,開張姦路。」詔書下其章。初自安帝以後, 法禁稍㢮,京師劫質,不避豪貴,自是遂絕。橋玄の少子が人質にとられた。司隷校尉の陽球(列伝六十七 酷吏)が、少子が殺されるのを恐れたが、橋玄は、兵を進ませた。「姦人は無状なり。玄 豈に一子の命を以て国賊を縦(ゆる)さんか」と。橋玄の子は死んだ。詔書により、「人質を取ってカネを要求するものがいたら、人質ごと殺せ」と定めた。
この事件に、曹操が立ち会ってほしい。というか、橋玄の少子を、曹操があずかって面倒を見ているときに、この事件が起きるのである。小説ならば、それができる。安帝のころから、法禁はゆるみ、京師の劫質(人質をとってカネを要求する)は、顕貴のものを避けなかったが、橋玄のことがあって、事件が起きなくなった。
玄以光和六年卒,時年七十五。玄性剛急無大體,然謙儉下士,子弟親宗無在大官者。 及卒,家無居業,喪無所殯,當時稱之。橋玄は、光和六年(183)、75歳で死んだ。
曹操よりも、40歳以上も上である。「父よりも年上」。曹操は、祖父の曹騰は、幼児のころに死に別れ、父のことは気に入らない。曹操から見ると、橋玄は「実父よりも頼りになる父親のような存在」だろう。梁冀の時代(曹騰の時代)から知っている。橋玄から、生き方をおおいに学んだのだろう。橋玄は、気性が激しくて、大局を見通すことはできないが、謙虚でつつましい。近親の一族に、高い官職にあるものがない。死ぬと、家に財産はなく、葬儀をするにも、棺を置くところがない。
気性がはげしく、大局を見通せない。これは「お調子者」の曹操に通じる。そして、周囲と頻繁にトラブルを起こすから、「子弟をイモヅル式に官職にひっぱりあげる」ことができない。自分自身ですら、浮沈がはげしい。
薄葬を命じる曹操とも、イメージがかぶる。橋玄が曹操に「祭ってね」と頼んだのは、橋玄を祭ってくれる子弟が、きちんと育たなかったから。国家の危機を認識しているのに、何も達成できず、しかも子弟に頼れる人物がいない。橋玄の晩年は、孤独だからこそ、曹操への思いが重くなる。
◆曹操との交流
初,曹操微時,人莫知者,嘗往候玄,玄見而異焉,謂曰:「今天下將亂,安生民,者其在 君乎!」操常感其知己。及後經過玄墓,輒悽愴致祭。自為其文曰:曹操が無名のころ、だれにも知られないが、橋玄をたずねると、「生民を安んずる者は、それ君にあるか」と言ってくれた。のちに曹操は、橋玄の墓を通りかかり、
「故太尉橋公,懿德高 軌,汎愛博容。國念明訓,士思令謨。幽靈潛翳,心哉緬矣!操以幼年,逮升堂室,特以頑質, 見納君子。增榮益觀,皆由奬助,猶仲尼稱不如顏淵,李生厚歎賈復。士死知己,懷 此無忘。又承從容約誓之言:『徂沒之後,路有經由,不以斗酒隻雞過相沃酹,車過三步,腹 痛勿怨。』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯為此辭哉?懷舊惟顧,念之悽愴。奉 命東征,屯次鄉里,北望貴土,乃心陵墓。裁致薄奠,公其享之!」「わたしは幼年のとき、堂室にのぼらせ、頑固な私を受け入れてもらった。
堂は表屋敷、室は奥の私室。『論語』先進に、子路は堂にのぼったが、まだ室に入っていない、とある。(後漢初に)李生が賈復を見出してくれたのと同じである。くつろいでるとき、『一斗の酒と、一羽の鶏をもって墓をおとずれ、酒を地にそそいで祭ってくれねば、車が過ぎて三歩で腹痛になっても怨むな』といわれた。戯笑だと思ったが、親密に思ってくれねば、どうしてこんなことを言うものか。(建安七年)わが故郷の譙県に駐屯して、北のかた梁国をのぞみ、橋玄の墓がしのばれる」と。
玄子羽,官至任城相。橋玄の子の橋羽は、任城相となる。
橋玄伝は、ここまで。吉川忠夫 訳注に基づいて抄訳してきた。
曹操は「治世の姦賊」、自重せよ
原作 p51、曹操はどのような抱負をもったか。建安十五年(210) 十二月、丞相として「己亥令」を出す。武帝紀にひく『魏武故事』である。帝位簒奪をたくらんでいるという風聞を、打ち消すために書かれた文書である。
210年の段階で、帝位簒奪がリアルに疑われていた。これは自明ではなくて、石井先生の「解釈」です。是非とも作品に取り入れたい。「凡愚な人間と見られやしないかと心配した。太守となり、うまく治めて名誉を得たいと思った。済南国で、邪悪なものを退治し、公平な選挙を心がけた」
唯一、最大の理解者が、梁国の睢陽県の橋玄。区画はちがうが、沛国の譙県とは「目と鼻の先」にある。
『後漢書』橋玄伝によると、「不思議なことに、橋玄と清流派をむすぶ接点はみあたらない。そもそも党錮に連座せず、霊帝のもと、三公を歴任した」というひと。
橋玄の官僚としての性格は、良くも悪くも、人脈がうすいこと。人脈が厚ければ、党錮にも連座しただろう。そのくせ、なんども退職しても、なんども官職を得るのだから、よほど実務官として有能だったということになる。カネのちからも使っていないから、有能さだけで、世に顕れたひとと考えられる。
曹操も、人脈のうすさに焦っており、だから何顒グループに接近するのだが、その点でも橋玄は似ている。孤立したもの同士、親子のような結合になった。
橋玄が曹操に語った言葉は、『魏志』武帝紀、同注引『魏書』、『世説新語』識鑑篇の3系統にわかれる。
①将来、天下が乱れるが、収拾できるのは「乱世の英雄」曹操だけ。
②しかし曹操は「治世の姦賊」なので、落とし穴に落ちないとも限らない。老い先 短いので、いつまでも庇護できない。自重せよ。
③忠告に従えば、曹操は富貴となる。妻子を保護してくれ。
注意すべきは②。「乱世の英雄、治世の姦賊」は、許劭の語として有名。許劭に会うことを勧めたのも橋玄。「乱世の英雄」は、橋玄の見方と一致するが、「治世の姦賊」が気懸かり。橋玄の危惧は、曹操の才能が開花しないうちに、摘み取られるのを恐れた。
「二十歳にもならない若者に一族の将来をゆだねるとは、ずいぶん思い切ったことをいったもの」。「橋玄は六十歳をすぎ、国家機密に参与する、皇帝の秘書長-尚書令」であった。ただし、ふたりの出逢いを劇的に語るのは、やや見当はずれ。
ここが原作のいちばんのポイントなので、詳しく見ておきます。
西北の列将として、英才教育を受ける
p55 梁冀の滅亡後、司徒の种暠は、桓帝を輔政して「賢相」と称された。种暠が推薦したのが、橋玄・皇甫規(安定のひと、104-174)
『范書』种暠伝:暠到營所,先宣恩信,誘降諸胡,其有不服,然後加討。羌虜 先時有生見獲質於郡縣者,悉遣還之。誠心懷撫,信賞分明,由是羌胡、龜茲、莎車、烏孫等 皆來順服。暠乃去烽燧,除候望,邊方晏然無警。まず恩恵を施すことを約束して帰順を呼びかけ、それでも降伏しなければ討伐する。捕虜になって拘留されているものは、みな家に帰す。誠意をもって慰問し、信賞必罰を明らかにしたので、羌胡はもちろん、遠方の諸国も使者をやって服従した。p56
宿敵の匈奴を屈服させた後漢は、護羌校尉(033年に設置、隴西郡の令居県に駐屯)、護烏桓校尉(049年に設置、幽州の上谷郡の寧県に駐屯)、使匈奴中郎将(050年に設置、并州の西河郡の美稷県に駐屯)。「四夷中郎将校尉」と総称される。
これを統括するのが、西北方面の総司令官というべき度遼将軍(065年に設置、并州の五原郡の曼柏県に駐屯)。後漢代、常設された唯一の将軍職。旗状の器物「節」をもつ、天子の代理=全権の大臣。幕府をひらき、駐屯地域に軍政をしく。
桓帝末~霊帝期の任官者は、p57
鮮卑が勢いを強め、匈奴・羌族が連動。『范書』李雲伝に「西北の列将」にある。
『范書』列伝 第四十七を見ると、李雲は政治に危機感を持っており、「西北列將,得無解體?……今官位錯亂,小人諂進,財貨 公行,政化日損,尺一拜用不經御省」と、課題のひとつとして上がってる。同時代的な言葉づかいだったことが分かる。作中で、キャラに言わせてよい。
ちなみに注釈で、「列將謂皇甫規、段熲等」とある。
しかも、度遼将軍の李膺、護羌校尉の段熲をのぞき、西北の列将は、すべて曹騰の人脈に連なる。
李膺は、169年に死ぬ。段熲は、179年に死ぬ。彼らを扱おうとすると、話が拡散してしまうので、本作では見なかったことに。
皇甫規は、延熹四年(161)、中郎将となる。种暠が司徒になった歳。以後、親友の張奐とともに、「二人三脚」で辺境を統治。ふたりは学者としても知られ、「种暠より、一歩進化」している。p59
曹騰に認められた張温は、列伝がないが、中平二年(185)、在外三公となる。「当代きっての文武兼備の士だったのだろう」
李膺は、清流派の領袖。清流派の政権構想は、反宦官という以外、よく分からない。辺境統治の経験をもつ李膺は、大胆な構造改革の抱負を持っていたのかも知れない。p59
清流の話、党錮の話に深入りしない。これが、原作の立場です。李膺の遺児・東平相の李瓚は、曹操を認めた、数少ない士大夫。
『范書』列伝 第五十七 李膺伝のおわり:膺子瓚,位至東平相。初,曹操微時,瓚異其才,將沒,謂子宣等曰:「時將亂矣,天下英雄無過曹操。張孟卓與吾善,袁本初汝外親,雖爾勿依,必歸曹氏。」諸子從之,並免於亂世。
謝承『後漢書』では、李「瓚」ではなく、李「珪」につくる。
李瓚の子(李膺の孫)李宣が、張邈でも袁紹でもなく、曹操を頼ってくるシーンを作らないといけない。李膺は作中に出す必要がなくて、李宣がふらっと現れて、「じつは……」と語り始めれば充分である。
p60 変革の動きは、辺境=マージナルな場所から起こる。「入りては相、出ては将」を体現したのが、种暠・橋玄であり、曹操も「ほこを横たえて詩を賦す」。突然変異の異端児ではなく、時代に要請された。
武勇のひとである必要はなく、軍令を徹底させ、規律ある行動を取らせるのが必要。李膺が、冀城で皇甫禎を撲殺し、人質を殺したのも、この性質。p62
さっき『後漢書』橋玄伝で読んでおきました。
『水経注』睢県の条には、橋氏の墓がある。大鴻臚の橋仁、太傅掾の橋載(橋玄の子)が点在。橋玄の墓には廟があり、故吏や有志が石碑をたて、羊・虎・ラクダ・馬の石像がならぶ。
『水経注』より:城北五六里,便得漢太尉橋玄墓,冢東有廟,即曹氏孟德親酹處。操本微素,嘗候于玄。玄曰:天下將亂,能安之者,其在君乎。操感知己,後經玄墓,祭云(中略、腹痛の話)乃共刊石立碑,以示後世。……廟南列二石柱,柱東有二石羊,羊北有二石虎,廟前東北有二石駝,駝西北有二石馬,皆高大,亦不甚彫毀。惟廟頹搆,麤傳遺墉,石鼓仍存,鉞今不知所在。たしかに石像が並んでいますねー。曹操の腹痛は、『魏志』武帝紀にひく『褒賞令』より。
橋玄もまた、曹騰の恩顧をうけた。曹操は幼少のころから、邸宅に出入りした。「堂室」に出入りして、家族も同然の待遇を受けていたことを「暗示」する。曹操は、政界で孤立していたのではない。曹騰に恩顧のある士大夫にかこまれ、英才教育をほどこされた。p63
祖父の生前に、引きあわされているといい。
橋玄は、しょっちゅう免職になるので、いつでも会える。司徒長史、將作大匠となるあたりで、曹騰・曹操と出会っておこうか。英才教育の仕上げは、幽州への従軍!とか、やっぱり描きたくなってきた。石井先生が、かなり想像をたくましく、橋玄との接点を設定しているので、膨らませたい。西北の列将の後継者、将来の動乱を収束する切り札として、大事に育成された人材だったのだ!p64
次回、王吉によって孝廉にあげられる。151129閉じる
- 第7回 桓典とともに王吉に孝廉に挙げらる
曹操は、熹平三年(173)、20歳で孝廉に挙げられる。p64
後漢中期、人口20万人につき1名。沛国は100万前後なので、4-5名の枠がある。高級官僚への関門。しかるべき中央官を与えられ、幹部候補生となる。
陳王の劉寵の謀反事件
このころ、故郷の沛国・隣国の陳国で、騒動がある。沛国相の魏愔・陳国相の師遷が、洛陽で処刑された。魏愔が陳王とともに、霊帝を呪詛したという。
『後漢書』袁術が殺した、弩兵が巧みな皇族の列伝
事件が記されるのは、『范書』列伝 第四十 劉寵伝:熹平二年,國相師遷追奏前相魏愔與寵共祭天神,希幸非冀,罪至不道。有司奏遣使者案驗。是時,新誅勃海王悝,靈帝不忍複加法,詔檻車傳送愔、遷詣北寺詔獄,使中常侍王酺與尚書令、侍御史雜考。愔辭與王共祭黃老君,求長生福而已。無他冀幸。酺等奏愔職在匡正,而所為不端,遷誣靠其王,罔以不道,皆誅死。有詔赦寵不案。陳王は、明帝の子・劉羨を始祖とし、劉寵は6代目(-197)。弩斜がうまい。日々、稽古に明け暮れたか。後漢の王侯には、不法行為にて取りつぶされたものが少なくない。政界への道が閉ざされ、学問・修身しても、経世済民に役立てる機会が永遠にないから。だから、王侯のおおくは、自暴自棄な生活を送った。劉寵も、不良の王侯のひとり。
このキャラ立ちは、絶対に使いたい。先年、勃海王の劉悝(-172)を殺したばかりの霊帝は、喪失の厳罰をはばかり、詔獄(皇帝じきじきの裁き)とした。黄帝・老子を祭り、長寿を祈願しただけと判明した。師遷は誣告、魏愔は輔導をおこたった罪で処刑。熹平二年(172) 五月のこと。
捜査をしたのは、中常侍・領黄門令の王甫。竇武・陳蕃を殺したひと。熹平元年(172) 十月、曹節とともに勃海王を自殺させた。
王甫には、少なくとも2人の容姿がいる。長楽少府の王萌と、沛国相の王吉。
酷吏と伝えられる王吉
王吉は、『范書』列伝 第六十七 酷吏伝にある。
王吉者,陳留浚儀人,中常侍甫之養子也。甫在宦者傳。吉少好誦讀書傳,喜名聲,而 性殘忍。以父秉權寵,年二十餘,為沛相。曉達政事,能斷察疑獄,發起姦伏,多出眾議。
課使郡內各舉姦吏豪人諸常有微過酒肉為臧者,雖數十年猶加貶棄,注其名籍。王吉は陳留のひと。書伝を誦読することを好み、名声を喜ぶが、性は残忍。義父の牽制を背景に、20余歳で沛国相となる。若さに似ず、政務をテキパキと処理する。法律に明るく、よく難事件をさばいた。いわゆる名判官である。p66
郡内で、姦吏・豪人を取り締まり、わずかでも酒肉をワイロにすれば、数十年前のことでも、摘発して罰した。
專選剽悍 吏,擊斷非法。若有生子不養,即斬其父母,合土棘埋之。凡殺人皆磔屍車上,隨其罪目, 宣示屬縣。夏月腐爛,則以繩連其骨,周徧一郡乃止,見者駭懼。
視事五年,凡殺萬餘 人。其餘慘毒刺刻,不可勝數。郡中惴恐,莫敢自保。及陽球奏甫,乃就收執,死於洛陽 獄。剽悍な吏を選び(部下として)非法なものを撃断した。子を産んで養わない父母があれば、父母とも死罪。殺人犯は、罪状を書いて車でハリツケにして、引き回す。真夏、死体が腐乱しても、縄でホネを繋ぎ、郡内を一周したから、見るものを駭懼させた。
沛国を統治すること5年、およそ1万余人を殺した。『范書』の筆致は、宦官の養子である王吉にひややか。陽球に捕らわれ、洛陽獄で死んだ。
◆賈彪と王吉との比較
王吉のように、間引きを取り締まったのは、賈彪。「親の子殺しは、天道に逆らう」といい、養育された子は「賈」という名が付けられた。
賈彪字偉節,潁川定陵人也。少游京師,志節慷慨,與同郡荀爽齊名。
初仕州郡,舉孝廉,補新息長。小民困貧,多不養子,彪嚴為其制,與殺人同罪。城南有盜劫害人者,北有婦人殺子者,彪出案發,而掾吏欲引南。彪怒曰:「賊冠害人,此則常理,母子相殘,逆天違道。」遂驅車北行,案驗其罪。城南賊聞之,亦面縛自首。數年間,人養子者千數,僉曰:「賈父所長」,生男名為「賈子」,生女名為「賈女」。賈彪は、あざなを偉節。潁川の定陵の人だ。同郡の荀爽と、名声がひとしい。
はじめ州郡につかえ、孝廉、新息長。子供を間引けば、殺人と同罪とした数年のうち、間引かれなかった子供が、1千人を数える。みな言った。「賈彪がやしなった子だ」と。男子は「賈子」、女子は「賈女」とよぶ。
◆『范書』列女伝における王吉
『范書』列伝 第七十四 列女伝 劉長卿妻伝沛劉長卿妻者,同郡桓鸞之女也。鸞已見前傳。生一男五歲而長卿卒,妻防遠嫌疑,不 肯歸寧。兒年十五,晚又夭歿。妻慮不免,乃豫刑其耳以自誓。宗婦相與愍之,共謂曰: 「若家殊無它意;假令有之,猶可因姑姊妹以表其誠,何貴義輕身之甚哉!」對曰:「昔我先君五更,學為儒宗,尊為帝師。五更已來,歷代不替,男以忠孝顯,女以貞順稱。詩云:『無 忝爾祖,聿脩厥德。』是以豫自刑翦,以明我情。」沛相王吉上奏高行,顯其門閭,號曰「行義桓釐」,〔寡婦曰釐〕。縣邑有祀必膰焉。〔膰,祭餘肉也。尊敬之,故有祭祀必致其餘也。左傳曰:「天子有事膰焉。」〕沛国の劉長卿は、同郡の桓鸞(あざなは始春、108-184)の娘をめとる。1男を生み、劉長卿が死んだ。寡婦となった桓氏は、婚家にとどまるが、子が15歳で死ぬ。実家に帰されると思った桓氏は、耳をそぎ、貞節を誓った。王吉は「行義桓釐」を朝廷に報告した。書伝を好む王吉は、儒学の徒であった。仁政のエピソードとして、王吉伝に載せられるべき話だ。p68
王吉の最後は、光和二年(179) 四月。王甫が、司隷校尉の陽球に弾劾され、太尉の段熲とともに獄に下された。
橋玄の少子を人質に取られたとき、攻撃をはばかったのが陽球だった。陽球の死は179年で、橋玄の死は183年。時系列としては、橋玄の少子の事件→王甫の処刑→陽球の死→橋玄の死となる。
王甫、王萌、王吉を拷問した、陽球伝
陽球は、王甫を殺したら、次は曹節を殺したい!任期を延長してくれ!と希望したが、果たされずに洛陽の獄で死んだ。酷吏の陽球が、酷吏の王吉を殺したが、陽球も同じ末路をあゆんだと。きっと曹操は、一部始終を見ている。できれば、立ち会ってほしい。そして、酷吏の末路を、目に焼き付けてほしい。王甫の養子である王萌は「なかなかの人物」であり、陽球に「老父の王甫には手加減をしてくれ」と頼み、聞く耳を持たれないと、「以前、おまえは奴僕のように、わが父子にペコペコしたではないか。奴僕のくせに、主人に逆らおうというのか」という。痛いところをつかれた陽球は、土で王萌の口をふさがせた。
王吉の最後の台詞は分からない。
陽球伝に「爾前奉事吾父子如奴,如敢反汝主乎!今日困吾,行自及也!」とある。なかなかの人物とか、ペコペコとか、痛いところとか、書いてない。石井先生の筆が(小説めいた方向に)滑ったと思われます。積極的に採用します。
そして王吉の最後の台詞は、曹操の未来を祝福するもの、曹操の未来を暗示するものであってほしい。できれば、曹操がそれに立ち会ってほしい。179年時点の官職を、あとで確認せねば。
わざわざ、史料にない「最後の台詞は……」と、石井先生が書くからには、曹操の挙主としての遺言を期待しているのだ。本作は、そういうシステムなのです(笑)
沛国の桓氏(『范書』桓栄伝)
なお、沛国桓氏は、後漢の明帝の教師となった桓栄から、「累世帝師」と称された名門。p68
ぼくは、これだけでは気持ち悪いので、もうちょい調べておく。原作は、桓典と王吉の関係に触れるが、長々とは列伝を参照していないので、補う。
列女伝で、劉長卿の妻が、実家のことを、「昔我先君五更,學為儒宗,尊為帝師」という。『范書』列伝 第二十七 桓栄伝によると、沛国桓氏は、代々、天子に儒学を教えた。
桓栄-桓郁-桓焉-○-桓典という系統と、桓栄-桓郁-○-桓鸞-桓曄(劉長卿の妻の兄弟)と、桓郁の曽孫の桓彬という系統がある。
◆桓典伝
典字公雅,復傳其家業,〔華嶠書曰「典十二喪父母,事叔母如事親。立廉操,不取於人,門生故吏問遺,一無所受」也。〕以尚書教授潁川,門徒數百人。舉孝廉為郎。居無幾,會國相王吉以罪被誅,故人親戚莫敢至者。典獨弃官收斂歸葬,服喪三年,負土成墳,為 立祠堂,盡禮而去。桓典は、家の学問『尚書』を伝え、父母の喪12年に服した。潁川で数百人に教えた。(王吉によって)孝廉に挙げられ、郎となる。ほどなく、沛相の王吉が殺されると、故人・親戚は、だれも遺体を回収しなかった。桓栄だけが官職を捨て、収容して埋葬し、服喪すること3年。土を背負って、墳墓をつくり、祠堂をたて、礼を尽くして去った。
当時の言葉でいえば、桓典は王吉の「故孝廉」であり、王吉は桓典の「挙主」「挙将」である。p69
長官には、辟召という部下を自選する権利があった。どちらかが転任しても、私的な交際がつづく。故主-故吏の関係。
ことに三公・将軍の辟召は、エリート官僚の登竜門。かれらは府(官房)をもつ。将軍の場合は「幕府」という。スタッフの成績優秀者を、皇帝に推薦する「高第」という選挙権を認められる。
府には、長史(官房長)、主簿(庶務係)、掾・属(約30の「曹」=府の事務を分担する部局の長と輔佐)がいる。将軍には、司馬や従事中郎(参謀)、中郎将・校尉(将校)も配置される。
故主のため、身の危険を顧みない、桓典のようなひとがいた。後漢で重要なのは、こういう関係を重んじることが、士大夫の要件とされたこと。『范書』が決めつけた王吉像は、かなりの修正が必要。桓典は王吉を、士大夫として節義を尽くすに足る人物と見なした。p70
辟司徒袁隗府,舉高第,拜侍御史。是時宦官秉權,典執政無所回避。常乘驄馬,京師畏憚,為之語曰:「行行且止,避驄馬御史。」及黃巾賊起滎陽,典奉使督軍。賊破,還,以啎 宦官賞不行。在御史七年不調,〔華嶠書作「十年」〕後出為郎。(179年から3年間、王吉の喪に服した後)桓典は、司徒の袁隗の府に辟され、高第に挙げられ、侍御史を拝す。
三公の府に辟され、スタッフの成績優秀者として「高第」に推薦される。原作は、もう桓典伝を紹介しなくなるが、、ちょうどいま解説されたエリートコースを、桓典は歩んだ。当時、宦官が京師でのさばるが、桓典がモレなく取り締まった。桓典は驄馬(あしげの馬)に乗ったので、京師は「あしげの馬の御史に気をつけろ」といった。
「桓典よ、お前は曹操か」というくらい、似たエピソードを持つ。
曹操は、共通の挙主をもつ、同僚の関係。桓典は201年に死ぬから、曹操よりは年上か。王吉が沛相だった数年間に、ひとしく孝廉に挙げられた。曹操のほうが若く、桓栄は年長。学識においては、桓栄が上。ふたりで、シンボリックな馬にのって、洛陽で宦官の子弟を取り締まるとか、、描けたら壮観だろう。時期、大丈夫かな。黄巾が滎陽でおこると、桓典は使を奉じて督軍した。しかし宦官は賞を行わず。
曹操とともに出陣し、洛陽のそばで黄巾を防ぐ。宦官がはびこる世の中に、冷笑している。いい話し相手&行動のお供になってくれそうだ。御史にあること7年(もしくは10年)出でて郎となる。
靈帝崩,大將軍何進秉政,典與同謀議,三遷羽林中郎將。〔華嶠書曰「遷平津都尉、鉤盾令、羽林中郎將」也。〕獻帝即位,三公奏典前 與何進謀誅閹官,功雖不遂,忠義炳著。詔拜家一人為郎,賜錢二十萬。
從西入關,拜御史中丞,賜爵關內侯。車駕都許,遷光祿勳。建安六年,卒官。霊帝が崩ずると、何進とともに謀議し、羽林中郎将となる。〔平津都尉にうつり、鉤盾令、羽林中郎將となる〕
洛陽のまわりの守備を任されたか。董卓が城外に駐屯しているとき、軍事的な接触があってもいい。献帝が即位すると、三公は「桓典は、何進とともに宦官を殺すという功績はなかったが、忠義は明らかなので、家から1名を郎にせよ」という。
何進との関係を切られ、董卓の賛成者となったのだ。霊帝期末、軍の指揮権をもったひとを、董卓はなるだけ多く、懐柔する。桓典は、それに乗ったのである。
曹操は、董卓を支持しない。董卓にかんする判断が異なり、同郷・同僚のふたりが決裂するというのが楽しい。曹操と袁紹の関係を描いても、ふたりの結論は同じなので(董卓を支持しない)対立軸がなくて退屈である。
桓典が董卓についたのは、故主の袁隗との関係を重んじたからだろうな。長安に従い、御史中丞・関内侯。車駕が許に都すると、光禄勲となる。建安六年(201) 官にいて卒す。
桓帝を、曹操と同年代としたほうが、おもしろいか。司空となり、袁紹を破って、勢力を増していく曹操。董卓に従ったばかりに、パッとしなくなった桓栄。いや、九卿のひとつ光禄勲だから、パッとはしてるのか。曹操から、頼りにされている。こっちでいこう。桓栄の臨終のとき、曹操とともに王吉の思い出話をしてほしい。
◆桓曄伝
曄字文林,一名嚴,尤修志介。姑為司空楊賜夫人。初鸞卒,姑歸寧赴哀,將至,止 於傳舍,整飾從者而後入,曄心非之。及姑勞問,終無所言,號哭而已。賜遣吏奉祠,因縣 發取祠具,曄拒不受。後每至京師,未嘗舍宿楊氏。其貞忮若此。賓客從者,皆祗其志 行,一餐不受於人。仕為郡功曹。後舉孝廉、有道、方正、茂才,三公並辟,皆不應。桓曄の姑は、司空の楊賜の夫人となる。父の桓鸞が死んだとき、楊賜からの援助を受けなかった。
初平中,天下亂,避地會稽,遂浮海客交阯,越人化其節,至閭里不爭訟。為凶人所 誣,遂死于合浦獄。初平期、会稽に避難して、交趾にゆく。越人は桓曄に教化され、閭里の争訟がやんだ。凶人にそしられ、合浦の獄で死んだ。
〔東觀記曰「礹到吳郡,揚州刺史劉繇振給穀食衣服所乏者,悉不受。後東適會稽,住止山陰縣故魯相鍾離意舍,太守王朗餉給粮食、布帛、牛羊,一無所(當)〔留〕。臨去之際,屋中尺寸之物,悉疏付主人,纖微不漏。移居揚州從事屈豫室中,中庭橘樹一株,遇實孰,乃以竹藩樹四面,風吹落兩實,以繩繫著樹枝。每當危亡之急,其志彌固,賓客從者皆肅其行」也。〕『東観記』によると、桓曄が呉郡にいたると、揚州刺史の劉繇が衣食をあたえたが、桓曄はこばんだ。のちに会稽にゆき、山陰県にとどまる。もと魯国相の鍾離意の舎に泊まった。会稽太守の王朗が衣食をほどこしたが、ひとつも留めず。去るとき、まるまる返却した。
立派な生き方かも知れないが、乱世と関わりを避けすぎて、本作に登場させるのは難しいなー。主役級の人物から、ほどこしを断りまくった。
つぎにある桓彬伝は、中常侍の曹節と対立したが、免官され、光和元年に家で死んでおり、本作に登場させるほどでもない。『范書』桓栄伝からは、桓典を「知る」ことができたので、ヨシとしよう。
沛国の孝廉は、定員が4-5名。物語を盛り上げるなら、曹操と桓典は、同じ年に、王吉に見出されて孝廉にあがってほしい。
「吉の利するところとなる」
曹操の場合、孝廉の推薦者の名がない。あまり触れられたくない人物だったに違いない。沛国相の魏愔が刑死するのが、熹平二年(173) 五月。王吉の獄死は、光和二年(179) 四月。王吉の在任は5年。赴任は、熹平三~四年ごろ。王甫が空きポストとなった沛国相に、養子の王吉を推薦したものと思われる。p71
王甫と曹氏は、交流の記録がない。だが、ふたりとも権門の子弟として、洛陽で顔をあわせていた可能性はたかい。王吉がやや年長だが、年齢もさしてかわらない。
洛陽で顔を合わせるシーンをつくれと。そういう命令を受信しました。そういうシステムなので。
「名声」をもとめ、法を遵守して、沛国の風紀を正した、王吉の官僚としてのスタンス。曹操も、ほとんど同じ抱負をもち、実行した。着々と業績をあげつつあった、王吉のやり方に追随したのだろうか。
追随したのです。ぼくが作ろうとしているのは小説なので、この疑問の留保と除き去り、追随した、という断定ができる。曹操が光だとすれば、王吉は影。不慮の災難がなければ、「曹操」になれたかも知れない人物。橋玄・王吉・曹操のようなタイプの政治家が、とりたてて特異ではなかった。のちに法術主義をかかげて成功した曹操の統治方針は、前ぶれなく現れたのではない。p72、151201
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- 第8回 曹操の起家(洛陽北部尉)
起家とは、天子に直接つかえて、秩禄をもらう、中央官僚になること。
鴻都門学と、草書の名手
学問好きの霊帝は、諸生をあつめ、『皇羲篇』を編纂させた。文章や書にたくみな数十人を飯だす。宮中の鴻都門下につめ、諮問にあずかる。
『范書』列伝 第五十 蔡邕伝
初,帝好學,自造『皇羲篇』五十章,因引諸生能為文賦者。本頗以經學相招,後諸為尺牘及工書鳥篆者,皆加引召,遂至數十人。侍中祭酒樂松、賈護,多引無行趣埶之徒,並待制鴻都門下,憙陳方俗閭里小事,帝甚悅之,待以不次之位。又市賈小民,為宣陵孝子者, 復數十人,悉除為郎中、太子舍人。
このように「遊び」まくっている霊帝を、蔡邕が諌めたと。
士大夫は、素性・家柄を二の次にした、鴻都門学の出身者と、同列になるのを恥じたという。
光和元年(178) 二月、鴻都門学が開かれた。文学の士が1千人あつまり、やがて刺史・太守、侍中・尚書に任用されてゆく。ブレイン養成所。p72
上谷浩一氏の3論文を読み、霊帝&董卓を改革と捉える
「後漢政治史における鴻都門学-霊帝期改革の再評価のために-」
門下省の前身ともいうべき「侍中寺」が置かれるのが、熹平六年(177)。
曹操は、張芝・張昶につぐ草書の名手。音楽・囲棋・医学・化学にも長じた。武帝紀 巻末の裴注にある。
張華博物志曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶 並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子 道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華佗、甘陵 甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。曹操は、鴻都門学が打ち出した、唯才主義の洗礼を受けた。
名門の家のひとと、唯才により抜擢されたひとが、対立する。曹操は、どちらの立場か。鴻都門学のなかのライバル争い、そとに出たときの士大夫との反発。そういうのを描くのが小説の役割。
草書の名人たちが作品をつくり、霊帝が品評会をやって、「張芝・張昶がうまい。曹操はその次だな」と判定して、曹操がイライラ!とする場面とか。石井先生は、曹操を霊帝の後継者と位置づけており、のちに西園八校尉となるときも、霊帝がみずから抜擢したか(抜擢してたらいいな)とにおわせる。曹操と霊帝の親交を、鴻都門学でやろう。年齢は、ほぼ同じだし。
孝廉に察挙されると、いったん郎(比三百石~比六百石)に任官して、しかるべき官職を受ける。
このころ、書の名人である師宜官(のちに袁術の将)が、一世を風靡。技を盗んだ梁鵠(安定のひと)は、霊帝に認められ、選部(=吏部)尚書となる。官僚の人事担当。
曹操は洛陽令(千石)を希望したが、洛陽北部尉(四百石)となる。洛陽の尉は、孝廉の初任官とされた。後漢の初期、洛陽の左右(東西)尉は、「孝廉左尉」「孝廉右尉」といわれた。橋玄も洛陽左尉となった。このときは東西南北の4人の尉がいる。
梁鵠は荊州牧の劉表に身を寄せる。曹操に攻略されると、曹操は、旧友の蔡瑁(南郡のひと、襄陽の大豪族、漢水の中洲=蔡洲に居館あり)にいう。
『襄陽耆旧記』によると、「一緒に梁鴻にあったとき、やつは見る目がなかった」と。ふたりは「同歳」の孝廉だったらしい。そろって梁鴻に重んじられなかった。
軍仮司馬となり、ひたすら書を作らされた。蔡瑁は、丞相司馬・長水校尉となる。蔡瑁の父・蔡諷の姉は、太尉の張温の妻。
末子相続を推進した、曹操の旧友・蔡瑁伝
蔡瑁は、『范書』劉表伝、『陳志』劉表伝・先主伝に出てくるが、情報が貧困である。それよりも、『襄陽耆旧記』に詳しい。『中國哲學書電子化計劃』より、『襄陽記』の蔡瑁の項目より。
蔡瑁,字德圭,襄陽人,性豪自喜。
少為魏武所親。劉琮之敗,武帝造其家,入瑁私室,呼見其妻、子,謂瑁曰:「德圭,故憶往昔共見梁孟星,孟星不見人時否?聞今在此,那的面目見卿耶!」是時,瑁家在蔡洲上,屋宇甚好,四牆皆以青石結角。婢妾數百人,別業四五十處。
漢末,諸蔡最盛。蔡諷,妹適太尉張温;長女為黃承彥妻;小女為劉景升後婦,瑁之妹也。瓚,字茂圭,為郿相,琰,字文圭,為巴郡太守,瑁同堂也。永嘉末,其子猶富,宗族甚強,共保於洲上,為草賊王如所殺,一宗都盡,今無複姓蔡者。蔡瑁は、性は豪。若いとき曹操と親しむ。劉琮が敗れると、曹操は蔡瑁の家を訪れ、私室に入り、妻子と会った。
曹操と蔡瑁は、きわめて親密な個人的な付き合いをしていたことが分かる。橋玄の堂室に入ったのと同じ。
劉備が流民を連れて逃避行するとき、曹操は荊州を征服した余裕をこいて、旧友の蔡瑁の豪邸を訪れて、昔話をしていた。この余裕ぶりがよい。赤壁で敗れると思ってない。「すでに天下は定まったわけだが……」という調子で、蔡瑁と談笑させたい。「蔡瑁、覚えているか。梁鴻(梁孟星・梁孟黄)は、ひとを見る目がなかったな。どんな顔をして、きみに会うのだろうか」と。
「那的面目」という表現が、口語くさいですね。
石井先生が、これをもとにして書かれていることが分かります。
このとき蔡瑁の家は、蔡洲にあり、建物は美しく、四方の壁には「青石結角」な装飾がある。婢妾は数百人、田畑?は40-50箇所ある。
漢末、蔡氏はもっとも盛んである。蔡諷の妹は、太尉の張温にとつぐ。なぞのひと・張温。初めての在外三公。つまり、三国志の群雄の先駆け。史料が少ないけど、きっと文武両道の優れた人物だったと、石井先生が推測する。曹操の旧友である蔡瑁の姻族(蔡瑁と同郷)。董卓・孫堅・陶謙・公孫瓚のもと上司。袁術と内通して、董卓に斬られる。群雄のヒナガタかも知れない。
張温にキャラづけをすると、霊帝末の雰囲気を、かなり立体的に描くことができるかも。史料がないから、料理してよい。また考える。蔡諷の長女は、黄承彦の妻となる。蔡諷のすえの娘(蔡瑁の妹)は、劉表の後妻となる。蔡瑁の同世代?同居者?は、郿相・巴郡太守を輩出した。
「郿国」「郿王」なんてないから、郿相って、よく分からない。董卓は「郿侯」になった。もしくは、曹峻(曹操の子)は、建安二十一年に郿侯となった。曹整(曹操の子)は、建安二十二年に郿侯になった。いずれも『魏志』巻二十。それを輔佐した?永嘉末、彼らの子孫は、依然として富強であったが、草賊の王如に皆殺しにされた。今日では、蔡氏は残っていない。
瑁,劉表時為江夏、南郡、章陵太守,鎮南將軍軍師。遂為魏武從事中郎、司馬、長水校尉、漢陽亭侯。魏武雖以故舊待之,而為時人所賤,責其助劉琮,讒劉琦故也。
魏文作《典論》,以瑁成之,曰:「劉表長子曰琦,表始愛之,稱其類己。久之,為少子琮納後妻蔡氏之侄,遂愛琮而惡琦。瑁及外甥張允,並得幸於表,又睦於琮。琮有善,雖小必聞;有過,雖大必遮。蔡氏稱美於內,允、瑁誦德於外。愛憎由之,而琦益疏。乃出為江夏太守,監兵於外。瑁、允陰伺其過厥,隨而毀之。美無顯而不掩,厥無微而不露。於是忿怒之色日發,逍讓之言日至。而琮竟為嗣矣。故曰,『容刃生於身疏,積愛出於近習』,豈謂是邪!洩柳、申詳,無人乎穆公之側,不能安其身。君臣則然,父子亦猶是乎!」蔡瑁は、劉表のもとで、江夏・南郡・章陵太守となる。
『陳志』巻六 劉表伝にひく父子によると、蒯越は劉表のとき、「詔書拜章陵太守,封樊亭侯」となる。『陳志』巻二十三 趙𠑊伝によると、「太祖征荊州,以儼領章陵太守,徙都督護軍,護 于禁、張遼、張郃、朱靈、李典、路招、馮楷七軍」と、曹操が荊州を征服した直後、趙𠑊は章陵太守となる。
後漢代、章陵は県なんだけど、いつ郡になったか。
鎮南將軍の軍師となる。曹操によって、従事中郎・(丞相)司馬・長水校尉、漢陽亭侯となる。曹操は旧友なので厚遇したが、同時代人からは賎しまれた。劉琮を助け、劉琦を陥れたからである。
曹丕『典論』では、蔡瑁・張允が、劉琦を迫害したことを責める。
以前、魏には2つの矛盾した性質があって、「沛国曹氏の私的集団」と、「儒家の支える公的な官僚機構」だといいました。曹操が蔡瑁を重んじるのは、私的集団として。沛国丁氏・曹植を重んじるのと、同じ立場である。これに対して、毛玠・曹丕は、公的機構としての立場をとった。
曹丕が蔡瑁を貶めるのは、公的機構としての立場(長子相続をすべきという主張に基づく)である。わざわざ『典論』で、蔡瑁を批判するなんてなー。
後表疾病,琦慈孝,還省疾。瑁、允恐其見表,父子相感,更有托後之意,謂曰:「將軍令君撫臨江夏,為國東藩,其任至重。今釋眾而來,必見譴怒。傷親之歡心以增其疾,非孝敬也。」遂遏於戶外,使不相見,琦流涕而去,士民聞而傷焉。表卒琮竟嗣立,以侯印與琦。琦怒而投之,偽辭赴喪,有討瑁、允之意。會王師已臨其郊,琮舉州請罪,琦遂奔於江南。のちに劉表が病気になると、劉琦は慈孝だから、見舞いをしようとした。蔡瑁・張允は、劉表・劉琦が共感して、劉琦に後事を託すと困るから、「江夏を撫臨して、国のために東で藩屏として働くのは重要な任務だ。来るんじゃない」といった。劉琦は戸外に閉め出され、劉表に会えず、士民から傷まれた。劉表が死に、劉琮が立つと、侯印を劉琦に与えた。劉琦は怒って投げすて、「父の遺体に会いに行く」と偽り、蔡瑁・張允を討とうとした。たまたま曹操軍が郊外にきたので、劉琮は州をあげて降った。劉琦は江夏ににげた。
士民の世論、儒家の世論において、蔡瑁は「長子相続」を妨げたから、断罪されるべき。曹丕=劉琦、曹植=劉琮という連想がある。
ぼくは思う。蔡瑁がなぜ士大夫から評判が悪いか。劉備を迫害したから?違います。長男の劉琦を虐げて次男を立てたから。曹操の旧友だから高位を得たが、軽蔑されたようで。
曹操政権には2つの性格があり、曹操の旧友(蔡瑁)、同族(曹氏)、姻族(夏侯氏や丁氏)から成る私的集団。儒家官僚が支える公的集団。私的集団は、曹操の感情に馴染み、曹植を支持。長子の劉琦を虐げた蔡瑁も同調。儒家からは自由に、能力とか愛情を重視する。いっぽうで公的集団は、長子相続を唱え、曹丕を支持。魏は公的集団として建国され、曹丕が勝った。
しかし「公」概念に取り憑かれた曹丕は、丁氏の抹殺だけならまだしも、最も私的なもの(親族)まで攻撃。皇帝権力なんて、原理的に私的な要素を廃せないのに(世襲だから)曹丕はそれを否定することで、魏王を嗣ぎ、受禅した。矛盾を抱えて、悲しいひと!だから皇族を虐めた。
曹操の晩年、曹丕と仲が悪そうなのは、魏が私から公に変質するための陣痛なのかも。
曹操・蔡瑁を低く評価した、梁鵠伝
『范書』列伝 第四十八 蓋勲伝より。
初舉孝廉,為漢陽長史。時武威太 守倚恃權埶,恣行貪橫,從事武都蘇正和案致其罪。涼州刺史梁鵠 畏懼貴戚,欲殺正和以 免其負,乃訪之於勳。勳素與正和有仇,或勸勳可因此報隙。勳曰:「不可。謀事殺良,非 忠也;乘人之危,非仁也。」乃諫鵠曰:「夫紲食鷹鳶欲其鷙,鷙而亨之,將何用哉?」鵠 從其言。正和喜於得免,而詣勳求謝。勳不見,曰:「吾為梁使君謀,不為蘇正和也。」怨之 如初。はじめ蓋勲は孝廉にあげられ、漢陽長史となる。ときの武威太守は、権勢にたのんで貪るから、従事である武都の蘇正和は、罪を訴えた。涼州刺史の梁鵠は貴戚を恐れ、蘇正和のほうを殺して責任を負わせようとした。蓋勲は、蘇正和と仲が悪いから、あるひとが「梁鵠を利用して、蘇正和を殺せ」といった。しかし蓋勲は、「蘇正和を殺すな。良臣を殺すのは不忠である」と反論した。蓋勲は梁鵠を諌めた。蘇正和は殺されずに済んだ。
貴戚を恐れる、事なかれ主義。のちに蘇正和が謝礼にゆくと、蓋勲は(蘇正和が嫌いなので)会わず、「梁使君のために(彼が政治を誤らぬよう)謀ったのだ。蘇正和のためじゃない」といった。
梁鵠が、保身のためなら、平気で良臣を殺すような人物であったと。まあ范曄のバイアスがあるかも知れませんが、そういう話です。
〔續漢書,中平元年,黃巾賊起,故武威太守酒泉黃雋被徵,失期。 梁鵠欲奏誅雋,勳為言得免。雋以黃金二十斤謝勳,勳謂雋曰:「吾以子罪在八議,故為子言。吾豈賣評哉!」終辭不受。〕『続漢書』によると、184年、黄巾が起兵すると、もと武威太守である酒泉の黄雋は、中央に徴されても、時期をのがした(黄巾に妨げられて遅れた)。梁鵠は「黄雋を誅せ」と上奏したが、蓋勲が弁護したので、黄雋は死なずに済んだ。黄雋が黄金をもって蓋勲に謝礼にいくと、蓋勲は受けとらなかった。
梁鵠は安定のひと。そして涼州刺史である。梁冀と同族の生き残りという連想が、許されないか。石井先生は、梁興(馬超とともに反乱)は、同族と見なした。同じ論法で、出身地+姓により、同族と認定をできなくもない。
つまり、安定梁氏の影響力をつかって、涼州の兵乱を収めようとした。しかし梁鵠は、梁冀ゆずりの中央政界とのツナガリを重んじて、現地の統治方針は、ザツになった。まあ梁冀は、ルールを破って、横車を押すことが得意だったので、その継承者でしょう。それでは、治まる土地も治まらん!と怒って、規範意識をふるったのが、蓋勲であると。
『続漢書』志第二十六 百官志三
尚書六人,六百石。本注曰:成帝初置尚書四人,分為四曹:常侍曹尚書主公 卿事。〔漢舊儀曰:「初置五曹,有三公曹,主斷獄。」蔡質漢儀曰:「典天下歲盡集課事。三公尚書二人,典三公文書。吏曹尚書典選舉齋祀,屬三公曹。靈帝末,梁鵠為選部尚書。」〕『漢旧儀』によると、霊帝末、梁鵠が選部尚書になったと。
『范書』列伝 第四十四 楊賜伝に、
光和元年,有虹蜺晝降於嘉德殿前,帝惡之,引賜 及議郎蔡邕等入金商門崇德署,使中常待曹節、王甫問以祥異禍福所在。賜仰天而歎, 謂節等曰:「……又鴻都門下,招會羣小,造作賦說,以蟲篆小技見寵於時,如驩 兜、共工更相薦說,旬月之閒,並各拔擢,樂松處常伯,任芝居納言。郄儉、梁鵠俱以便辟之性,佞辯之心,各受豐爵不次之寵,而令搢紳之徒委伏畝,口誦堯舜之言,身蹈絕俗 之行,棄捐溝壑,不見逮及……」書奏,甚忤曹節等。蔡邕坐直對抵罪, 徙朔方。賜以師傅之恩,故得免咎。光和元年(178)、嘉徳殿前に虹が出たので、霊帝がこの異変をにくみ、曹節・王甫をやって、楊賜・蔡邕に、その意味を聞いた。すると楊賜・蔡邕は、霊帝の政治を批判した。そのなかに、「鴻都門学で、小技をつかえる人材を寵用した。郗倹(益州刺史だが殺され、劉焉の州牧の提言のキッカケとなる郤倹)と梁鵠は、便辟の性・侫弁の心を持っているくせに、不相応の官爵を受けて、統治を乱している」という批判が含まれた。
曹節・王甫は、楊賜・蔡邕の意見が気にくわないので、蔡邕を朔方にとばした。楊賜は、霊帝の教師だったから、災難をのがれた。
梁鵠は、霊帝期に、体制側(曹節・王甫ら宦官、鴻都門学の徒)とひとくくりにされた。梁鵠は(世代が上だから鴻都門学の出身ではないかも知れないが)書道の名人として、霊帝に重んじられたと思われます。涼州刺史として、豪族や民衆から収奪するわ、中央へのワイロを欠かさないわで、反乱されても不思議ではないような統治をやったのだろう。
そんな梁鵠が、中央で人事権を持っており、曹操を(本人的には)不当に低く評価した。だから、イライラした。曹操もまた、宦官の子弟であり、草書の腕前によって霊帝に愛された。すると、梁鵠への憎悪は、似た者同士の先輩に対する反発となる。草書の腕前の善し悪し、年齢の高低によって、対抗心を燃やして鬱屈する曹操。そういう話になる。
◆『陳志』より
『陳志』巻一 武帝紀より、
衞恆四體書勢序曰:上谷王次仲善隸書,始為楷法。至靈帝好書,世多能者。而師宜官為最,甚矜其能,每書,輒 削焚其札。梁鵠乃益為版而飲之酒,候其醉而竊其札,鵠卒以攻書至選部尚書。於是公欲為洛陽令,鵠以為北 部尉。鵠後依劉表。及荊州平,公募求鵠,鵠懼,自縛詣門,署軍假司馬,使在祕書,以(勤) 〔勒〕書勒書。公嘗懸 著帳中,及以釘壁玩之,謂勝宜官。鵠字孟黃,安定人。魏宮殿題署,皆鵠書也。衞恆『四體書勢序』はいう。上谷の王次仲は、隸書がうまくて、楷法をはじめた。
衞恆は、あざなを巨山という。『晋書』に列伝あり。『三国志』衛覬伝注にもあり。盧弼はいう。『晋書』の本伝に、序文がすべて載っている。裴松之は抜粋したのだ。また『三国志』劉劭伝注にも、序文がすこし載っている。
諸法について、上海古籍123頁に注釈あり。はぶく。
霊帝が書を好んだので、書法がうまい人が多かった。師宜官がもっとも上手くて、書くたびに焼き捨てた。梁鵠は、師宜官の書きものを盗んだ。梁鵠は選部尚書となる。
盧弼がいろいろ注釈してるが、はぶく。『晋書』衞恆伝とも異同があるみたい。
『晋書』職官志はいう。光武帝は、常侍曹を吏部曹とした。祠祀の選挙をつかさどる。霊帝のとき、侍中の梁鵠が選部尚書となった。ここにおいて、初めて曹名がみえる。曹魏になると、選部を吏部とした。選部のことをつかさどる。??曹操は洛陽令になりたいが、梁鵠が曹操を北部尉とした。
武帝紀のはじめ、建安21年注にある。 趙一清はいう。『続百官志』注引『漢官』はいう。孝廉から就ける官位は、洛陽の左右2尉がある。けだしこのとき、孝廉から郎になったものがいた。曹操は孝廉にあげられ、議郎となった。曹操は「洛陽令になりたい」でなく、「洛陽尉になりたい」とすべきだ。孝廉から、いきなり洛陽令になれない。へえ!曹操が荊州を平らげると、軍假司馬としてた。梁鵠は、あざなを孟黄という。安定の人。魏の宮殿にある題署は、みな梁鵠が書いた。
『続百官志』はいう。軍司馬は1名、比1千石。軍には仮司馬がいて、副官だ。
『水経注』穀水はいう。董卓が宮殿を焼いてから、曹操が荊州を平定するまで、後漢の吏部尚書である安定の梁鵠は、師宜官がつくった八分体(という書体)をやり、荊州にいた。曹操に死を乞うた。
『書断』はいう。梁鵠は、安定の烏氏の人。師宜官の書法をまなぶ。八分書がうまくて、名を知らる。孝廉にあげられ郎となり、鴻都門下にいる。選部にうつり、霊帝に重んじらる。曹操に書法を愛された。このとき、邯鄲淳が王次仲の書法をできる。邯鄲淳が小字を書き、梁鵠が大字を書く。邯鄲淳の書法は、梁鵠ほどの勢いがなかった。
ぼくは思う。曹操が個人的に梁鵠にうらみ?を持っていたかは別として。孝廉から郎となり、霊帝の文化活動のなかで抜擢されたのだから、梁鵠は曹操の真上にいる先輩である。得意なことも、活躍の分野も同じである。さっき趙一清により、曹操は「洛陽令」でなく「洛陽(左右)尉」になりたいと言っていたことが分かった。曹操は洛陽の北部尉になれたのだから、それほど大きなハズレではない。梁鵠は、後輩の曹操を、ちゃんと優遇している。そして曹操は、梁鵠の書法をしたって、宮殿に書かせている。まったく良好な関係じゃないか。劉表に身を寄せたことが、もし曹魏で「罪」になるなら、梁鵠は罪人だが、曹操は、劉表に仕えたことを責めないのが全体方針である。
もし「曹操は魏王なのに、先輩の梁鵠はセッセと、ペン習字の内職みたいなことをさせられて、かわいそう」と言うのなら、誤りだと思う。書道を重んじることは、霊帝-曹操の共通点だから、書道家として使われ続けた梁鵠は、霊帝-曹操の政権において、少なくとも同じくらい優遇されている。
官位の優劣と、仕事の種類のちがいを、どのように捉えるか。曹操と梁鵠の関係を語るとき、その語り手は、職業に対する意識とか、社会における序列とかを、うっかり吐露しちゃう仕組みなんだろう。また、皇帝や魏王という権力者と、書法の名人という文化者との関係は、価値観の変動期?である後漢において、微妙な問題。曹操と梁鵠の、個人的な意趣返しのエピソードにしてしまうのは、もったいないと思う。
以下、ご指導を頂戴しました。
@yuan_shao さんはいう。孝廉(三署)郎から洛陽令になれないわけではありません。但し孝廉郎でも五官郎に限られます。曹操の場合、二十歳で孝廉なので、おそらく、ただほぼ確実に右署の郎中のはずです。この場合、比三百石で年齢の上からいって、四百石かよくて六百石相当の官に限られるはずです。ついでに、趙一清の認識不足な点なんですけれど、孝廉で議郎になったわけではないです。曹操の場合、右署郎の後、北部尉に遷って色々あってやめて、光和三年の古文に通ずる者に該当して「徴召」されたときが議郎です。議郎からなら、次は千石~眞二千石まで遷官可能なはずです。
@yuan_shao さんはいう。孝廉に推挙されると三署郎のどれかになります。規定で五官郎には五十歳以上が配属されます。左・右への配属基準はよくわかりませんが、五官>左>右なので、課試、年齢が基準になるんだろうと思います。曹操は最下年層の二十歳なので右郎の可能性が高いというわけです。少し補足すると、若い段階で孝廉郎になった場合、洛陽令(千石クラス)の地位に遷ることは、「功・勞」の点で不可能で、通常は四百石~六百石、県長相当に遷ります。事例をみれば判りますがほぼこれに該当します。千石クラスに遷るのは年齢が上の方々の事例ばかりです。
@yuan_shao さんはいう。起家官相当の比三百石から眞二千石までのパターンは、実例を網羅的に収集して整理・分類しパターンを見つけ出すことになります。あとは収集した実例が、一定の数に達しているかとか、ばらつきがないかを勘案します。または百官志以外の箇所、おもに上奏、詔から拾う感じです。
『陳志』巻二十一 韋端伝にひく『文章敍錄』に、草書の歴史について記し、邯鄲淳に学んだ韋端は、「魏氏の寶器の銘題は、みな韋端が書いた」としてから、「又曰:「師宜官為大字,邯鄲淳為小字。梁鵠謂淳得次仲法,然鵠之用筆盡其勢矣。」師宜官は大字、邯鄲淳は小字を書いた。梁鵠は「邯鄲淳は、王次仲の技術を習得した」という。
◆『晋書』より
『晋書』巻三十六 衛瓘の子の衛恒伝に、
恒善草隸書,為『四體書勢』曰:……秦既用篆,奏事繁多,篆字難成,即令隸人佐書,曰隸字。漢因行之,獨符、印璽、 幡信、題署用篆。隸書者,篆之捷也。上谷王次仲始作楷法。至靈帝好書,時多能者, 而師宜官為最,大則一字徑丈,小則方寸千言,甚矜其能。或時不持錢詣酒家飲,因書 其壁,顧觀者以酬酒,討錢足而滅之。每書輒削而焚其柎。梁鵠乃益為版而飲之 酒,候其醉而竊其柎。鵠卒以書至選部尚書。宜官後為袁術將,今鉅鹿宋子有耿球碑,是術所立,其書甚工,云是宜官也。衛恒の著した『四体書勢』によると、霊帝は書をこのみ、師宜官がもっともうまい。あるときカネを持たずに酒家で飲み、壁に書をかいて、見物料をとり、酒代にした。見物料が酒代に達すると、書を消した。師宜官は、書くごとに焼き捨てた。梁鵠は、師宜官を酔わせて、技術を盗んだ。
師宜官はのちに袁術の将となる。いま鉅鹿の宋子に『耿球碑』があるが、これは袁術が建てたもので、書は師宜官が書いた。
梁鵠奔劉表,魏武帝破荊州,募求鵠。鵠之為 選部也,魏武欲為洛陽令,而以為北部尉,故懼而自縳詣門,署軍假司馬;在祕書以勤 書自效,是以今者多有鵠手跡。魏武帝懸著帳中,及以釘壁玩之,以為勝宜官。今宮 殿題署多是鵠篆。鵠宜為大字,邯鄲淳宜為小字。鵠謂淳得次仲法,然鵠之用筆盡 其勢矣。鵠弟子毛弘教於祕書,今八分皆弘法也。漢末有左子邑,小與淳鵠不同,然 亦有名。梁鵠は劉表をたより、曹操が荊州をを破ると、梁鵠をさがした。かつて梁鵠が選部尚書だったとき、曹操は……と、石井先生の本の内容となる。
司馬懿の父・司馬防
尚書右丞の司馬防(149-219、京兆尹)は、魏王になった曹操と、思い出話をする。武帝紀にひく『曹瞞伝』。
曹瞞傳曰。爲尚書右丞司馬建公所舉。及公爲王、召建公到鄴、與歡飲、謂建公曰「孤今日可復作尉否?」建公曰「昔舉大王時、適可作尉耳。」王大笑。建公名防、司馬宣王之父。曹操「オレは魏王になったわけだが、司馬防は、今日でもおれを洛陽北部尉にするか(適任だと思うか)」。司馬防「むかし大王を推挙したとき、ちょうどよいと思っただけのこと」p75
後漢の中期、孝廉の被選挙の資格を、40歳以上とする。形骸化していた。曹操と同歳のなかに、50歳以上の士大夫がいた(建安十五年の己亥令)。韓遂(145?-215)の父は、曹操と同歳という。
曹操よりも10歳以上も年上の韓遂の、さらにその父である。例によって先生は明言されないが、曹操が出会った50歳以上の同歳を、韓遂の父とイコールで結ぶ。
曹操を軽蔑ししつづけた宗承
同歳の宗承は、南陽のひと。建安元年、司空になった曹操は、交際を申し出るが、「わたしは無節操な人間ではない」と断られる。『世説新語』方正篇。
南陽宗世林、魏武同時、而甚薄其為人、不阻參文。及魏武作司空、總朝政、從容闡宗曰、可以交未。答曰『松相之志猶存』、世林既以忤旨、見陳位不配仙。文帝兄弟、每造其門、皆獨拜床下、其見禮如此曹操の人となりを軽んじ、交際しなかった。曹操が司空となり、「付き合ってくれんかね」といたが、「松相の志、猶ほ存す」といった。
中國哲學書電子化計劃のコピペですが、ちょっとテキストが変です。「同時」を、新釈漢文体系では「同時代のひと」としてた。それではドラマ性が薄れる。
新釈漢文体系に基づいて、『世説新語』の注釈の抄訳を載せる。
『楚国先賢伝』はいう。宗承はあざなを世林といい、南陽の安衆のひと。父の宗資は、美誉があった。宗承は官職につかず、賓客が家にあふれた。宗承の出待ちもいた。曹操は曹丕に命じて、子弟の礼を取らせ、漢中太守を拝させた。
まだ袁紹を破る前の話。なぜ漢中? 張魯が支配している。実効性がないけれど、充分に重んじているよ!というポーズか。もしくは、なにかの皮肉?曹操が冀州を平定すると、宗承は曹操に従って鄴に至る。陳羣らは、みな宗承に拝したが、なおも曹操は旧情があり(好意と悪意のどっちだろう)宗承の官位を薄くし、礼を厚くした。家をたずねて朝政を問い、賓客の右においた。文帝が徴して、直諌大夫とした。明帝は相にしたかったが、老いているので辞した。
陳羣にすら、頭を下げられる名声がある。宗承こそ「名士」です。曹操は、官職で釣るのでなく、礼儀によって敬うという方法を選んだのだろう。畏友?のような存在として、描きたい。
孝廉に挙げられ、着任する官職の高さとか、草書の腕前とか、そういうものにヤキモキしている曹操を、冷淡に眺めている宗承。曹操のキャラを、アンチテーゼによって浮き立たせる存在。次回、黄巾の乱が起きます。151202
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- 第9回 革命の陰謀と、奔走の友
宋皇后の廃位事件
五色の棒で、小黄門の蹇碩のおじを殴り殺した。頓丘令に「体のいい厄介ばらい」。「だが、若き県令は、自信にみちあふれていた」と。
『陳志』曹植伝に、23歳のときに努力した話。p78
曹植伝:太祖征孫權、使植留守鄴、戒之曰「吾昔爲頓邱令、年二十三。思此時所行、無悔於今。今汝年亦二十三矣、可不勉與」
議郎(六百石)。光和元年(178) 十月、宋皇后が廃位された。従妹の夫・宋奇が殺された。
扶風宋氏は、帝室と姻戚。劉慶の母を出すが、自殺させられる(082年)など、政治的に失策を重ねた。素行の悪い勃海王の事件(172年)にまきこまれ、族滅。曹節・王甫のさしがね。
◆『范書』皇后紀 霊帝宋皇后
靈帝宋皇后諱某,扶風平陵人也,肅宗宋貴人之從曾孫也。建寧三年,選入掖庭為貴 人。明年,立為皇后。父酆,執金吾,封不其鄉侯。
后無寵而居正位,後宮幸姬眾,共譖毀。初,中常侍王甫枉誅勃海王悝及妃宋氏,妃 即后之姑也。甫恐后怨之,及與太中大夫程阿共構言皇后挾左道祝詛,帝信之。光和 元年,遂策收璽綬。后自致暴室,以憂死。在位八年。父及兄弟並被誅。諸常侍、小黃門在省闥者,皆憐宋氏無辜,共合錢物,收葬廢后及酆父子,歸宋氏舊塋臯門亭。宋皇后は、建寧三年(170)、掖庭に入って貴人。建寧四年(171)、皇后となる。
霊帝の寵愛がない。王甫は、勃海王の妃を陥れたが、その妃は皇后のおばである。だから王甫は、皇后が「左道を挟み祝詛してる」と霊帝に告げた。光和元年(178)、憂死させられた。常侍・小黄門たちは、宋氏の無罪を憐れみ、銭物をめぐんだ。
帝後夢見桓帝怒曰:「宋皇后有何罪過,而聽用邪孽,使絕其命?勃海王悝既已自貶, 又受誅斃。今宋氏及悝自訴於天,上帝震怒,罪在難救。」夢殊明察。帝既覺而恐,以事 問於羽林左監許永曰:「此何祥?其可攘乎?」永對曰:「宋皇后親與陛下共承宗廟, 母臨萬國,歷年已久,海內蒙化,過惡無聞。而虛聽讒妬之說,以致無辜之罪,身嬰極誅,禍及家族,天下臣妾,咸為怨痛。勃海王悝,桓帝母弟也。處國奉藩,未嘗有過。陛下曾不證 審,遂伏其辜。昔晉侯失刑,亦夢大厲被髮屬地。天道明察,鬼神難誣。宜并改葬,以 安冤魂。反宋后之徙家,復勃海之先封,以消厥咎。」帝弗能用,尋亦崩焉。のちに霊帝は、夢で桓帝に怒られた。羽林左監の許永、夢の意味と、解消法を聞いた。「無罪なのに殺された。改葬して供養せよ」といったが、やる前に、ほどなくして霊帝は崩じた。
まるで、宋皇后の呪いが当たって、死んだかのよう。
ていうか、霊帝って、生前の桓帝に会ってなくないか? 傍流の皇族として、遠くから見たくらいかも。
連座するが、議郎にもどる
注目されるのは、沛国曹氏が、皇后・王妃を輩出した名門の士大夫と、婚姻したこと。
ただし珍しいことではない。桓典の五侯の唐衡は、荀彧と縁を結び、弘農王妃(献帝の兄の劉辯の妃)を出した。曹氏も、外戚曹氏との関係をテコに、士大夫社会で地位を確立しようとした。
曹操のみならず、曹氏全体にとって大きな痛手。p79
曹操はなく、父の曹嵩が失脚することのほうが、曹氏にとって重大なニュースだろう。しかし曹嵩の官職、失脚の有無は史料にない。てきとうにローテーションさせて設定するか。石井先生が「曹氏全体」というのは、きっとそういうこと。
光和三年(180) 六月,詔公卿舉能通〔古文〕尚書、毛詩、左氏、穀梁春秋各一人,悉除議郎。とあり、曹操は議郎に復帰。
曹操はどれに通じていたのだろう。武帝紀にひく『魏書』では「後以能明古學,複徵拜議郎」とある。古文に通じたことが分かるが……。
光和五年(182年) 前後、曹操は霊帝を批判。『范書』劉陶伝で、司徒の陳耽とともに。『陳志』武帝紀にひく『魏書』では何度も諌めたが顧みないので辞めた。 石井仁『曹操』では無視される。清流派は「宦官排除を政治的スローガンにする以外、政策は不明」とスルー。霊帝の暗君説を否定するため?
黄巾の乱
張角は、迷信と新しい倫理観をたくみに融合(懺悔による病気の平癒)。辺境の戦乱と災害、豪族の収奪によって窮乏していた、関東・江淮・江南の小農民が支持。
教団は、3月5日に挙兵し、鄴県と洛陽を同時制圧する手はず。
『范書』何進伝:張角別黨馬元義謀起洛陽,進發其姦,以功封慎侯。
『范書』皇甫嵩伝:中平元年,大 方馬元義等先收荊、楊數萬人,期會發於鄴。元義數往來京師,以中常侍封諝、徐奉等為內應,約以三月五日內外俱起。未及作亂,而張角弟子濟南唐周上書告之,於是車裂元義於 洛陽。靈帝以周章下三公、司隸,使鉤盾令周斌將三府掾屬,案驗宮省直衛及百姓有事角道 者,誅殺千餘人,推考冀州,逐捕角等。曹操は、高低の侍従武官である騎都尉(比二千石、奉車都尉・駙馬都尉とともに「三都尉」という)となり、潁川黄巾を鎮圧。
『范書』皇甫嵩伝:詔勑州郡修理攻守,簡練器械,自函谷、大谷、廣城、伊闕、轘轅、旋門、孟津、小平津諸 關,並置都尉。召羣臣會議。嵩以為宜解黨禁,益出中藏錢、西園廄馬,以班軍士。帝從 之。於是發天下精兵,博選將帥,以嵩為左中郎將,持節,與右中郎將朱儁,共發五校、三河 騎士及募精勇,合四萬餘人,嵩、儁各統一軍,共討潁川黃巾。
皇甫嵩(-195?、皇甫規の兄子)・朱儁が、ともに潁川で戦う。済南相となり、10県のうち8県の令長を、贈収賄の罪で罷免。権臣・貴戚のうらみを買い、「家禍」をおそれて、帰郷。読書と狩猟。p81
武帝紀にひく『魏書』:於是權臣專朝,貴戚橫恣。太祖不能違道取容。數數幹忤,恐為家禍,遂乞留宿衛。拜議郎,常讬疾病,輒告歸鄉里;築室城外,春夏習讀書傳,秋冬弋獵,以自娛樂。
西北で地方長官が殺される
184年、北地郡で胡族は挙兵。護羌校尉・金城太守を殺害。金城の韓遂が合流。
孝廉の同歳のなかに、韓遂の父がいたという設定なので、韓遂と曹操は、顔見知り。馬超との戦いで単刀会するまで、ずっと遠くで思い合う。中平四年(187) 4月、涼州従事の辺章・韓遂が涼州刺史の陳鄙を殺害。体制内からも反逆者が現れる。
『范書』霊帝紀:夏四月,涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗,遂寇漢陽,漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛,寇三輔。
『范書』 列伝 第四十八 傅燮伝:時刺史耿鄙委任治中程球,球為通姦利,士人怨之。中平四年,鄙率六郡兵討金城 賊王國、韓遂等。燮知鄙失眾,必敗,諫曰:「使君統政日淺,人未知教。……」鄙不從。行至狄道,果有反 者,先殺程球,次害鄙,賊遂進圍漢陽。城中兵少粮盡,燮猶固守。
『范書』列伝 第四十八は、傅燮伝・蓋勲伝があり、180年代後半の西の情勢を伝える。曹操が、現地に行ってないから、今日は掘り下げない。「西が荒れている」というニュースを、曹操が受けとるだけである。
これと並行して、
中平二年(185) 河北の黒山賊が挙兵。
中平四年(187) 六月、もと中山太守の張純・もと泰山太守の張挙が烏桓と結び、挙兵。護烏桓校尉・右北平太守・遼東太守を殺害。皇帝、弥天将軍・安定王を称する。
中平五年(188) 河東の白波賊が起兵。西河太守・并州刺史の張懿・南単于を殺害。西北の列将のポストが、殺されている。曹操の気持ちはいかに。184年、黄巾を平定しながら、韓遂が陳鄙(耿鄙)を殺したことを知る。曹操は、皇甫規の兄子・皇甫嵩のもとにいて、「西北に行かなきゃ」と焚きつけたとしても、不思議ではない。この歳、益州の馬相が、刺史の郤倹を殺して、益州刺史を称する。
皇甫嵩に帝位を勧めた、閻忠伝
黄巾の鎮圧後、信都令の閻忠(漢陽のひと、-188?)が、左車騎将軍の皇甫嵩をたきつける。のちに涼州で反乱軍の明主に担がれ、車騎将軍を称するが病死。
黄巾を平定するための、皇甫嵩の軍のもとに、洛陽から騎都尉の曹操が来ており、信都県(冀州の安平国)で閻忠が加わり、張角の首を斬ったあと、会話したら楽しい。閻忠「皇甫嵩が、皇帝になれ」、曹操「いやいや、おじの皇甫規のように西北で活躍しましょうよ」と。
閻忠の史料を集める。『陳志』巻十 賈詡伝と、その裴注。
賈詡字文和,武威姑臧人也。少時人莫知,唯漢陽閻忠 異之,謂詡有良、平之奇。
若いとき、だれも賈詡を知らない。ただ漢陽の閻忠だけは、賈詡をみとめた。賈詡に、張良や陳平の性質があると言った。
曹操-皇甫嵩-閻忠-賈詡、というつながりで、賈詡の評判を知っていたら、のちの展開に厚みが出る。2次のツナガリまで、ひろげて物語にすると、わりと何でもできる。
〔九州春秋曰:中平元年,車騎將軍皇甫嵩既破黃巾,威震天下。閻忠時罷信都令,說嵩曰:「夫難得而易失者時也,時至而不旋踵者機也,故聖人常順時而動,智者必因機以發。今將軍遭難得之運,蹈易解之機,而踐運不撫,臨機不發,將何以享大名乎?」嵩曰:「何謂也?」忠曰:「天道無親,百姓與能,故有高人之功者,不受庸主之賞。今將軍授鉞於初春,收功於末冬,兵動若神,謀不再計,旬月之間,神兵電掃,攻堅易於折枯,摧敵甚於湯雪,七州席捲,屠三十六(萬)方,夷黃巾之師,除邪害之患,或封戶刻石,南向以報德,威震本朝,風馳海外。『九州春秋』はいう。中平元年(184)、車騎将軍の皇甫嵩は、黄巾を破った。閻忠は、信都令をやめて、皇甫嵩に言った。
『郡国志』はいう。冀州の安平国に、信都県がある。「皇甫嵩は、初春に、黄巾を平定した。
『後漢書』皇甫嵩伝は、「暮春」とする。潘眉はいう。黄巾は、春二月に挙兵し、三月に皇甫嵩が討伐した。「初春」は誤りである。皇甫嵩が討った黄巾は、7州、36万方だった」
何焯はいう。「36方」が正しい。『後漢書』皇甫嵩伝はいう。黄巾は「36方」を設置した。「方」とは、将軍号のようなものだ。大方は、1万余人。小方は6,7千人をひきいた。おのおの渠帥をたてたと。
趙一清はいう。『後漢書』霊帝紀は、「36万」とする。注釈された『続漢書』では、「36万余人」とする。『三国志』孫堅伝では、「36万」とする。後世の人が、誤って書き換えたのだろう。
ぼくは思う。軍の単位である「方」は、36個だろう。これを「36万人」と誤った。
是以群雄回首,百姓企踵,雖湯武之舉,未有高於將軍者。身建高人之功,北面以事庸主,將何以圖安?」嵩曰:「心不忘忠,何為不安?」忠曰:「不然。昔韓信不忍一餐之遇,而棄三分之利,拒蒯通之忠,忽鼎跱之勢,利劍已揣其喉,乃歎息而悔,所以見烹於兒女也。今主勢弱於劉、項,將軍權重於淮陰,指麾可以振風雲,叱吒足以興雷電;赫然奮發,因危抵頹,崇恩以綏前附,振武以臨後服;徵冀方之士,動七州之眾,羽檄先馳於前,大軍震響於後,蹈跡漳河,飲馬孟津,舉天網以網羅京都,誅閹宦之罪,除群怨之積忿,解久危之倒懸。如此則攻守無堅城,不招必影從,雖兒童可使奮空拳以致力,女子可使其褰裳以用命,況厲智能之士,因迅風之勢,則大功不足合,八方不足同也。功業已就,天下已順,乃燎於上帝,告以天命,混齊六合,南面以制,移神器於己家,推亡漢以定祚,實神機之至決,風發之良時也。夫木朽不彫,世衰難佐,將軍雖欲委忠難佐之朝,彫畫朽敗之木,猶逆阪而走丸,必不可也。方今權宦群居,同惡如市,主上不自由,詔命出左右。如有至聰不察,機事不先,必嬰後悔,亦無及矣。」嵩不從,忠乃亡去。〕閻忠は言う。「皇甫嵩は、庸主に仕えるな。皇甫嵩が、皇帝となれ」と。皇甫嵩は、閻忠にしたがわず。閻忠は、逃げ去った。
ひどく省略して、すみません。霊帝の後半、すでに後漢はダメだという世論が、立ち上がりつつあった。霊帝の改革を理解するために、頭に入れておきたいこと。
『後漢書』皇甫嵩伝にも、閻忠のセリフがある。『三国志集解』は、ちがいをひく。范曄は、『九州春秋』などを見ながら、皇甫嵩伝を書いたのだろうか。
〔英雄記曰:涼州賊王國等起兵,共劫忠為主,統三十六部,號車騎將軍。忠感慨發病而死。〕『英雄記』はいう。涼州で、賊の王国らが起兵した。王国らは、むりに閻忠を盟主とした。36部を統べさせ、閻忠を車騎将軍とした。
ぼくは思う。36という数字は、ポピュラーなのか?黄巾も、36方だ。上で見たばかり。そして車騎将軍は、皇甫嵩とならぶ官位。まるで皇甫嵩を閻忠を、対句にしているみたい。皇甫嵩の代役なのだ。主君を招けない謀士なんて、成功する資格がない。
閻忠は、皇甫嵩に失言をしたから、冀州の県令を辞して、故郷に帰ったのだろう。賈詡を見出したのも、建国のためかも。「むりやり推戴された」としているが、現地につぎの皇帝を探しにいって、皇甫嵩のような西北の列将の近親者を君主に立てようとした。しかし見つからず、みずから立つしかなくなった。下で、推戴の経緯が揺れているようだし。
君主になってコケるとか、曹操の別バージョンなのです、閻忠も。きっと世代的に、曹操と同じくらい。
閻忠は感慨して、病死した。
『後漢書』皇甫嵩伝にひく注釈では、「36郡」とする。誤りだ。蘇輿はいう。閻忠は、王国らにおどされて、盟主にさせられたので、恥じて死んだ。ぼくは思う。さっき『英雄記』の記述を、対句のためのレトリックだと言った。閻忠の病死も、『英雄記』が、言葉を飾っているだけだと思う。閻忠は、皇甫嵩をそそのかしたから、バチが当たったよと。筆誅!
『後漢書』董卓伝はいう。韓遂らは、王国を廃して、閻忠をムリにかついだ。いまの賈詡伝にある裴注『英雄記』と、同じでない。
盧弼は論評を引く。「まだ漢室が忘れられていない。皇甫嵩が閻忠にしたがえば、董卓の前がけになった。朱儁や盧植だって、董卓とおなじく、用兵が得意だった」とか。
ぼくは思う。価値観は、世代にしばられる。150年前後に生まれた世代が、『三国志』の世界をひらく。袁紹や曹操のあたりが、境界なんだ。それより年長ならば、後漢を守る。黄巾のころ、50代に入っていると、もう融通が利かないらしい。お金だけでなく、価値観もふくめて、利息で暮らそうとする。元本がいかに少なくても、いかに品質がわるくても、40代までに築いてきた元本に、しがみつく。
史料にないが、閻忠は、皇甫嵩より、だいぶ若かったのだろう。賈詡の兄世代。
皇甫嵩伝で、王国との戦い、董卓との絡みを見ると楽しいのだが、曹操との接点が薄くなるから、また別の機会に。曹操は、皇甫嵩とは黄巾の戦いで一緒におり、本作では閻忠に立ち会わせるが、それっきり、閻忠は涼州に帰郷し、皇甫嵩は長安に着任する。曹操は、済南国の相になるから、こまかく経過を追うことはない。
抱負としては、西北にいきたいが、コネもないから、官職にイライラ。国相なんて、充分に出世しているのだが、祖父・親の七光りなのでしょう。だから、せめて凡庸なひとだと思われないように、過激な統治をやっていると。
張温に帝位を勧めた、張玄伝
涼州討伐におもむく車騎将軍の張温に、張玄は説く。『范書』列伝 第二十六 張覇伝にある、張覇の孫の張玄伝より。
玄字處虛 ,沈深有才略,以時亂不仕。司空張溫數以禮辟,不能致。中平二年,溫以車 騎將軍出征涼州賊邊章等,將行,玄自田廬被褐帶索,要說溫曰:「天下寇賊雲起,豈不以黃 門常侍無道故乎?聞中貴人公卿已下當出祖道於平樂觀,明公總天下威重,握六師之要, 若於中坐酒酣,鳴金鼓,整行陣,召軍正執有罪者誅之,引兵還屯都亭,以次翦除中官,解天 下之倒縣,報海內之怨毒,然後顯用隱逸忠正之士,則邊章之徒宛轉股掌之上矣。」張玄は、沈深にして才略あり(落ち着いて才能知略がある)。時の乱れたるをもって仕へず。司空の張温は、しばしば礼をもって辟するが、到せず。中平二年(185) 張温は車騎将軍となり、涼州の辺章らを討つ。張玄は、田廬(いなか屋敷)から褐(布子)をつけ索(なわ)を帯として、張温に説く。
「天下の寇賊は、雲のごとく起つ。なぜ黄門・常侍による、無道のせいではなかろうか。聞けば、中貴人(宦官)と公卿より以下は、平楽観(洛陽城の西にあり)で祖道(送行の儀式)をする。明公は、天下の威重をすべ、六師の要(天子の軍隊の総称)を握る。もし中坐に酒の酣(たけなわ)なるをもって、金鼓を鳴らし、行陣を整え、軍正(憲兵)を召して有罪の者を執へて誅し、兵を引きて還りて都亭(洛陽にあり)に屯し、次を以て中官を翦除し(次々と宦官を殺し)、天下の倒縣を解き、海内の怨毒に報い、然る後、顕らかに隱逸・忠正の士を用いれば、則ち辺章の徒は、股掌の上に宛轉せん(『国語』呉語より、股と掌で転がす)」
小説に使えそうなので、岩波版を詳しくみました。
溫聞大 震,不能對,良久謂玄曰:「 處虛,非不悅子之言,顧吾不能行,如何!」玄乃歎曰:「事行則為 福,不行則為賊。今與公長辭矣。」即仰藥欲飲之。溫前執其手曰:「子忠於我,我不能用, 是吾罪也,子何為當然!且出口入耳之言,誰今知之!」[一]左傳曰:「言出於余口,入於爾耳。」玄遂去,隱居魯陽山中。及 董卓秉政,聞之,辟以為掾,舉侍御史,不就。卓臨之以兵,不得已彊起,至輪氏,道病 終。[三]輪氏,縣,屬潁川郡,故城在今洛州洛陽縣城西南。張温は、ふるえて答えられない。「きみの言葉に悦ばないではないが、私にはできない。どうしよう」と。張玄は嘆じて、「やれば福となり、やらねば賊となる。あんたとは永遠にお別れです」と。張玄は毒薬を飲もうとした。
それだけの覚悟が必要な、耳打ちなのだ。閻忠も出奔して、賊の側に回ったから。張温は、前にすすんで手をつかまえ、「張玄は私に忠でいてくれるが、私が用いられなかった。私の罪である。なぜ自殺するのだ。きみの口から出た言葉は、私の耳に入った(『左伝』昭公二十年)」と。
これだけ呑みこんでくれる度量が、張温の大物ぶりを示す。張玄は、魯陽山に隠れすまう。
これって、袁術が駐屯したところじゃん。袁術には、耳打ちしないのかな。しないのかなー。ぼくは、耳打ちしてほしいなー。董卓から辟されたが、受けない。董卓が兵をつれて連れ出そうとした。仕方なく起ったが、輪氏で病死した。
兵士にムリに連れ出されて病死するって、なんかおかしい。董卓と袁術の、人材さそい合戦にウンザリするとか。袁術が「三顧の礼」を尽くして、アドバイスをもらうとか。
話としては、曹操が皇甫嵩のもとで、閻忠の革命論を聞く。皇甫嵩が退ける。曹操も反対する。そのあと、曹操は張温の「祖道」に出席した。済南相にゆく直前。
その席で、張温の様子がおかしい。曹操「張温さん、この軍で革命をやろうと思ってるね?」、張温「ギクッ」、じつは張温は、張玄を退けたが、実行しようか迷っていた。しかし曹操に見透かされており、思い留まった。曹操「聞いていたわけじゃない。張温さんの立場にあれば、誰かが耳打ちするだろう(閻忠の前例もあったしな)。その様子を見ると、図星のようですね」、張温「知らんな」
在外三公とか、州牧とか、地方に出た高官に特権を与えていくと、やがて独立国になっちゃうよ、というのが、石井先生の指摘。ここで曹操に、ペラペラ喋らせたい。もしくは、儀式が終わったあと、こっそりと。好きなだけ喋って、曹操は済南に赴任する……と。
新たな国家・社会を創造しようという考えが、士大夫からも出てきた。漢王朝の権威の失墜を物語る。p83
冀州刺史の王芬の陰謀
王芬には、陳蕃の子・陳逸も加わるが、史料がないからアッサリ。党錮の話は、なかば意識的に避けているので、陳逸の内面を詮索したりしない。むしろ、閻忠・張玄の文脈につなげ、サラッと流す。
不満分子と見られた曹操(故郷で狩猟・読書)も、華歆・陶丘洪らとともに誘われた。
華歆は、原作では扱いが軽い。孫策の征伐対象として、名前が出てくるが、すぐに陳瑀の話に流れる。義務的に触れました、という程度。陶丘洪は、ここにしか出てこない。
原作に従って掘り下げるなら、許攸である。場面としては、曹操が許攸に訪問され、参加を説得されるという場面で充分だろう。許攸は、官渡でねがえり、袁紹が大敗する原因をつくった策士。袁紹・曹操と親交があつく、何顒(南陽のひと、-192)からも評価された。袁術は、「性行不純」な許攸をもちあげる何顒はけしからん、と批判した。陶丘洪がかばった。
荀攸伝より、何顒への裴注:平時の袁術、乱世の陶丘洪
『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏
このへんの人脈は、人数を出しすぎると、ワケが分からなくなる。何顒・荀攸・許攸・袁術・袁紹・曹操。これ以上、出してはいけない。華歆も陶丘洪もカットする。袁術との結びつきがある鄭泰は、おもしろそうだが、別の機会にやる。王芬ですら、名前だけの出演として、話を単純化する。
志をもつ中堅・若手の士大夫は、袁紹を中心に結集し、対抗する袁術が、独自の派閥をつくっていたらしい。のちに反董卓同盟の主導権をあらそった、対立構図は、はやくから芽生えていた。
袁紹は、曹操の庇護者を自認していた。では袁術は? 原作にヒントは落ちていない。あくまで曹操は、袁紹の派閥だから。
許攸伝
武帝紀にひく『漢晋春秋』
習鑿齒漢晉春秋曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也。急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。」紹不從,曰:「吾要當先圍取之。」攸怒。許攸は袁紹に言った。「軍を分けて、許都を襲え」と。袁紹は聞かない。許攸は、怒った。
『後漢書』袁紹伝でも、許攸がおなじく却下される。ぼくは思う。許攸の不遇は、興味ぶかいのだが。『漢晋春秋』の話じゃあ、小説っぽいエピソード追加という感じだ。許攸の不遇が、史書にベースとしてあり、2次創作しました、と。くわしくを袁紹伝で、確認せねばならん。許攸は、初期からの奔走の友だし。
『陳志』巻十二 崔琰伝より、
南陽許攸、婁圭,皆以恃舊不虔見誅。
〔魏略曰:攸字子遠,少與袁紹及太祖善。初平中隨紹在冀州,嘗在坐席言議。官渡之役,諫紹勿與太祖相攻,語 在紹傳。紹自以彊盛,必欲極其兵勢。攸知不可為謀,乃亡詣太祖。紹破走,及後得冀州,攸有功焉。攸自恃勳 勞,時與太祖相戲,每在席,不自限齊,至呼太祖小字,曰:「某甲,卿不得我,不得冀州也。」太祖笑曰:「汝言是 也。」然內嫌之。其後從行出鄴東門,顧謂左右曰:「此家非得我,則不得出入此門也。」人有白者,遂見收之。〕許攸は、若いときから袁紹・曹操と仲がよい。袁紹が冀州にゆくと、いつも会議の席に座って意見をのべた。官渡で、袁紹の作戦がまずいと考え、曹操に降った。曹操を勝たせてから、おごった。いつも曹操に同席して(軍師として意見をのべ)分限を弁えなかった。曹操を小字で呼んだ。
胡三省はいう。曹操の一名な吉利、小字は阿瞞。史書が隠した。のちに許攸は、鄴城の東門を出て、左右に「曹操は、私がおらねば、この門を出入りできなかった」といった。チクられ、捕らわれた。
曹操のことを「此家」と呼んでいるが、『范書』馬妃紀、王常伝、『呉志』朱然伝に用法がある。胡三省いわく「このひと」に同じ。
『後漢書集解』の注釈も、これくらいしかない。あとは論評。
奔走の友
袁紹は庶長子、伯父の養子になる。生母が婢なので、士大夫社会における評価が低い。終生、ライバル視した袁術は「わが家の奴」といい、公孫瓚も「微賤」と決めつける。だから袁紹は、虚名・虚誉をもとめた。濮陽令を辞めたとき、単車で帰郷した。許劭のそしりを受けぬため。六年喪も。
何顒は、汝南に潜伏して、党人の逃走を支援。袁紹と何顒は、「奔走の友」=義兄弟となる。党錮が解除されると、董卓暗殺の密謀をめぐらせ、獄死。袁紹は何顒と交流し、士大夫の本流としての、自覚と自信を深めた。
張邈は、八廚として散財し、反董卓同盟のフィクサー。フィクサー:政治・行政や企業の営利活動における意思決定の際に、正規の手続きを経ずに決定に対して影響を与える手段・人脈を持つ人物を指す。伍瓊は、董卓のもとで、官界の綱紀粛正を推進。袁紹との内通を咎められ、殺される。董卓を暗殺しようとしたとも。
何苗を殺した、呉匡=呉子卿(呉班の父)伝
呉子卿は、該当者が不明。陳留郡の呉氏か。
原作は、呉子卿には、わざわざ系図まで作って(1ページを使って)、輩行を説明する。彼を活躍させないと!大将軍長史(梁冀の部下)だった呉祐、楽浪太守の呉鳳、チュウ陽侯相の呉馮の三代は、名節を重んじる士大夫。
蜀の車騎将軍の呉懿(-237)、驃騎将軍の呉班(呉懿の族弟)は「豪侠」と称された。呉班の父の呉匡は、大将軍の何進の部下となり、袁紹・袁術とともに宮中で宦官を殺害。あざなの「子」を共有することから、呉子卿=呉匡だろう。p88
『陳志』巻六 董卓伝に、
時進弟車騎將軍苗為進眾所殺,進、苗部曲無所屬,皆詣卓。董卓は、何進・何苗の兵を吸収し、
〔英雄記云:苗,太后之同母兄,先嫁朱氏之子。進部曲將吳匡,素怨苗不與進同心,又疑其與宦官通謀,乃令軍 中曰:「殺大將軍者,車騎也。」遂引兵與卓弟旻共攻殺苗於朱爵闕下。〕何進の部曲将である吳匡は、何苗が何進と仲が悪く、何苗が宦官に通謀したと疑い、軍中に「何進を殺したのは、何苗である」といった。董卓の弟の董旻とともに、呉匡は、何苗を朱雀闕のもとで斬った。
何進の没後の、兵権の取りあいである。
『陳志』巻四十五 楊戯伝にふす『季漢輔臣賛』に、
壹族弟班,字元雄,大將軍何進官屬吳匡之子也。以豪俠稱,官位常與 壹相亞。先主時,為領軍。後主世,稍遷至驃騎將軍,假節,封緜竹侯。呉壱の族弟の呉班は、大将軍の何進の官属である、吳匡の子。官位は呉壱につぐ。先主のとき領軍となる。
『范書』列伝 第五十九 何進伝に、
進部曲將吳匡 、張璋,素所親幸,在外聞進被害,欲將兵入宮,宮閤閉。袁術與匡共斫 攻之,中黃門持兵守閤。會日暮,術因燒南宮九龍門及東西宮,欲以脅出讓等。讓等入白 太后,言大將軍兵反,燒宮,攻尚書闥,因將太后、天子及陳留王,又劫省內官屬,從複道 走北宮。呉匡・張璋は、何進から親幸された。(何進が死んだと聞くと)袁術とともに門をやぶって突入した。
袁紹與叔父隗矯詔召樊陵、許相,斬之。苗、紹乃引兵屯朱雀闕下,捕得趙忠等,斬之。 吳匡等素怨苗不與進同心,而又疑其與宦官同謀,乃令軍中曰:「殺大將軍者即車騎也,士 吏能為報讎乎?」進素有仁恩,士卒皆流涕曰:「願致死!」匡遂引兵與董卓弟奉車都尉旻 攻殺苗,弃其屍於苑中。紹遂閉北宮門,勒兵捕宦者,無少長皆殺之。或有無須而誤死者, 至自發露然後得免。〔死〕者二千餘人。袁紹・袁隗は、宦官側の地方長官である、樊陵・許相を殺した。
呉匡は「何進を殺したのは何苗だ」というと、何進の仁恩を受けた士卒が流涕し、「死んでも何苗を殺す」と。呉匡は、奉車都尉の董旻とともに、何苗を殺した。
袁紹の軍事行動と、並行して動いているのだ。宦官を殺しながら、何苗も殺して、「奔走の友による政権」を立てるための行動である。もしも単なる清流派なら「宦官にくし」で終わりだが、そうでなく、霊帝の遺産である兵権を、独占しようとしている。だから、全部殺す!
『続漢書』志十二 天文に、
中平二年十月癸亥,客星出南門中,大如半筵,五色喜怒稍小,至後年六月消。占曰: 「為兵。」至六年,司隸校尉袁紹誅滅中官,大將軍部曲將吳匡攻殺車騎將軍何苗,死者數 千人。……
六年八月丙寅,太白犯心前星,戊辰犯心中大星。其日未冥四刻,大將軍何進於省中 為諸黃門所殺。己巳,車騎將軍何苗為進部曲將 吳匡所殺。星の異変は、袁紹が宦官を、呉匡が何苗を殺すことの予兆だった。死者は数千人であった。
宦官を殺したことと同レベルに、何苗が殺されることは、朝廷にとって意義が大きかった。まあ、これで外戚権力が消滅したわけだから。何進は、袁紹らと関係性を築いていたが、何苗は怠った。
この政変から先の呉匡は、行方が分からないが、Wikipediaによると(これくらいしか情報がない)子と従子らが旧縁のあった劉焉を頼って入蜀している。なお、従子の呉氏は劉焉の子劉瑁に嫁いだ(穆皇后)。
政変のとき曹操は、沛国・丹陽にいた
せっかく話を膨らませたのに、
曹操が宦官を殺すのがグロければ、原作でスポットライトを浴びた、呉匡=呉子卿とともに行動する、とか考えたのに。曹操は、武帝紀にひく『魏書』で、宦官の誅殺に冷笑的だったとある。
袁紹らが宦官を全殺したとき、曹操は何をしてたか。p102
『魏書』では「宦官は便利な存在。ボスを退治すれば充分」と意見を述べ、意思を伴った不参加かと思いきや、違う。
石井先生曰く、冷静な観察に見えるが、そうでもない。現場の一将校にしか見なされず(募兵に行かされ)重要な決定の場から外されたと。都尉の毋丘毅・劉備とともに、沛国・丹陽の方面で、募兵してた。
「失敗は目に見えている」と、まるで他人事のような言葉には、何進への不満がこめられている。p103
劉備と曹操が、いっしょに募兵しながら、何進・袁紹の批判をしているという絵をください。(欲しいからそういう小説を書きます)
曹操が、丹陽に募兵に行くのは、タイムテーブルがよく分からないのだが、石井先生は、ここに置いています。袁紹・袁術・呉匡とともに、戦う場面はない。
ぼくが思うに、努力して奔走の友の人脈に連なったのに、袁紹と別行動するのは不自然。政変のあと、袁紹・袁術と同様に董卓から離れ、袁紹・袁術とともに董卓を攻める。決裂があったようには見えない。
霊帝・何進の死を受け、ついに奔走の友らが、外戚の何苗・宦官の張譲ら宦官を抹殺し、朝廷を真空にして、政権を狙うとき、曹操だけ傍観するはずがない。募兵という形ででも、参加していたのだ。
『魏書』は、曹操が宦官抹殺に反対した意見を載せ、以後の行動を記さない(隠す)ことで、①曹操は袁紹と同格に意見でき(募兵のパシリでななく)、②曹操は袁紹より判断力が勝り(宦官を全殺すれば、朝廷が真空になって、思わぬ災厄=董卓を招くかも知れないと予知し)、③後宮で殺戮をやる不忠者でなく(魏は漢から禅譲を受けるのに、皇帝権力の中枢空間を破壊したらダメ)、④董卓に政権を奪われた責任も少ない(少帝・献帝を取り逃したのは、袁紹・袁術がドジだから。袁氏のせいで漢が滅び、仕方なく曹氏が収束させたのだよ)、という印象を作り出した。ぼくらは騙されてきたかも。
宦官の抹殺に反対した、陳琳伝
『陳志』巻二十一 王粲伝にふす陳琳伝には、
琳、前爲何進主簿。進欲誅諸宦官、太后不聽。進乃召四方猛將、並使引兵向京城、欲以劫恐太后。琳諫進曰「易稱『卽鹿無虞』諺有『掩目捕雀』夫微物尚不可欺以得志。況國之大事、其可以詐立乎。今將軍總皇威、握兵要、龍驤虎步、高下在心。以此行事、無異於鼓洪爐以燎毛髮。但當速發雷霆、行權立斷。違經合道、天人順之。而反釋其利器、更徵於他。大兵合聚、強者爲雄、所謂倒持干戈、授人以柄。功必不成、祇爲亂階」進不納其言、竟以取禍。「目隠ししてスズメを捕らえるようなもの。いいかげんな方法で、手に入れられない。失敗して、混乱を招くだけだ」とある。p102
歴史家の手によって、曹操は、陳琳の「功績」を奪ったのだ。
陳琳は、檄文のことがあるから、登場が必須のキャラクター。曹騰・曹嵩のことを、作中でていねいに描くから、陳琳の檄文の「真実味」とか「威力」を、きっちり描き出さねばならない。陳琳は、重要な決定の場に、参加していたのである。どこかの曹操と違って。
琳避難冀州、袁紹使典文章。袁氏敗、琳歸太祖。太祖謂曰「卿昔爲本初移書、但可罪狀孤而已。惡惡止其身、何乃上及父祖邪?」琳謝罪、太祖愛其才而不咎。あとで陳琳は、袁紹のいる冀州に避難します。そして曹操の「父祖」を批判して、曹操から咎められる。
銅臭の崔烈伝、杖で撃たれた崔鈞伝
もうひとり、奔走の友。のちに袁紹とともに起兵したのが、涿郡のひと、崔烈の子である崔鈞。
『范書』 列伝 第四十二 崔駰伝に、父の崔烈の列伝があり、
寔從兄烈,有重名於北州,歷位郡守、九卿。靈帝時,開鴻都門榜賣官爵,公卿州郡下 至黃綬各有差。其富者則先入錢,貧者到官而後倍輸,或因常侍、阿保別自通達。是時 段熲、樊陵、張溫等雖有功勤名譽,然皆先輸貨財而後登公位。崔烈は、太守・九卿を歴任した。霊帝が鴻都門をひらいて、掲示して官職を売った。売り物は、三公・九卿、州郡より下は黄綬(二百石以上は、銅印黄綬)まで。カネがなければ、常侍・阿保(天子の養母)に裏口を取りはからってもらった。段熲・樊陵・張温らは、功勤と名誉があったが(カネを支払わなくても三公になる資格を満たしたが)先に貨財をおさめてから三公になった。
せっかく張温が出てきた。張温と、曹嵩に会話させましょう。三公をカネで買うことについて、云々と。張温の妻は、蔡瑁の伯母。曹氏との交際を描くことができそう。
思うに、張温は、西北の列将、皇帝の候補、三公の歴任者という、パーフェクトな資格をもつのに、キャラクターが空白。しかも、曹氏との間接的な縁もある。いじりたい放題。張温をどれだけ際立たせることができるかが、曹操の伝記の空白を埋める、カギとなる作業だろう。というか、そういうことにした。
烈時因傅母入錢五百萬,得 為司徒。及拜日,天子臨軒,百僚畢會。帝顧謂親倖者曰:「悔不小靳,可至千萬。」程夫人於傍應曰:「崔公冀州名士,豈肯買官?賴我得是,反不知姝邪!」烈於是聲譽衰減。 久之不自安,從容問其子鈞曰:「吾居三公,於議者何如?」鈞曰:「大人少有英稱,歷位卿守,論者不謂不當為三公;而今登其位,天下失望。」烈曰:「何為然也?」鈞曰:「論者嫌其 銅臭。」烈怒,舉杖擊之。鈞時為虎賁中郎將,服武弁,戴鶡尾,狼狽而走。烈罵曰:「死卒,父檛而走,孝乎?」鈞曰:「舜之事父,小杖則受,大杖則走,非不孝也。」烈慙而止。 烈後拜太尉。崔烈は、傅母に五百万銭を支払い、司徒になった。霊帝は軒に臨み(内殿から前殿に出御して)百僚の前で、崔烈を任命し、「千万銭は取れたのに」という。程夫人が「崔公は冀州の名士です。なぜ官職を買うことに肯んじますか。私に頼って、カネを払ったのです。カネを取れただけでも良いではありませんか(私に頼ってきたという、そもそもの事情をご存知ないのですか)」
岩波版を見てますが、校勘でもテキストが揺れており、翻訳が難しい。
名士だから、カネがない。天子の養育係の女である程夫人が、崔烈にカネを貸してやり、やっと払う気になったのです。というニュアンスかな。養育係の女に、裏口から官位を売ってもらう、という文脈があった。
これを見た曹嵩が、一億銭を出して、百僚を圧倒してやろう!と思った、とすると、物語は加速してゆく。
崔烈は、子の崔鈞に「私は三公にあったことを、議者はどう言ってるかな」と。崔鈞「天下は失望しました。銅臭を嫌って」と。崔烈は怒り、杖で崔鈞を撃った。崔鈞は、ときに虎賁中郎将であり、武弁(武官の冠、山鳥の尾の飾りがつく)をかぶり、狼狽してにげた。崔烈は罵った。「くたばり者の武官め。父に撃たれて逃げるのは、孝なのか」と。
父が三公をカネで買い、息子とトラブルが生じる。曹操と曹嵩のトラブルの、別バージョン、創作の参考にしたいから、こまかくやりました。
曹操と崔鈞は、ともに奔走の友となり、袁紹の人脈に含まれる。崔鈞「舜が父につかえたとき、小杖は受けたが、大杖はにげた。逃げるのは不孝じゃない」と。崔烈は、はじて辞めた。
鈞少交結英豪,有名稱,為西河太守。獻帝初,鈞與袁紹俱起兵山東,董卓以是收烈付 郿獄,錮之,鋃鐺鐵鎖。卓既誅,拜烈城門校尉。及李傕入長安,為亂兵所殺。
烈有文才,所著詩、書、教、頌等凡四篇。崔鈞は「英豪」と交際して、名声があり、西河太守となる。献帝初、袁紹とともに山東で起兵。董卓は、崔烈をとらえて、郿の獄で、鉄鎖の刑具でつなぐ。董卓が誅されると、崔烈を城門校尉にする。李傕の乱で死んだ。
『後漢書集解』諸葛亮伝にひく『梁ソ魏国統』はいう。崔州平の兄・元平は、議郎となる。忠直をたたえられた。董卓の乱のとき、父の崔鈞が殺された。崔元平は、つねに報復のチャンスをねらった。病気になって死んだ。
崔鈞=崔元平は、最期が分からない。創作できるなー。
崔鈞は、武帝紀にひく『傅子』でファッションが記される。傅子曰:漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹、(崔豹) 〔崔鈞 〕之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下 凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。虎賁中郎将を歴任した崔鈞は、衣冠をつけずに葛巾をつけて、伊達男として鳴らした。p88
奔走の友のまとめ
以上、袁紹の周辺には、名節を重んじる士大夫がいる。許攸・張邈のように、曹操を共通の友人とする。
曹操を「天下を安んじる者」と評した何顒は、曹操の才能を見抜いた、数少ない士大夫。奔走の友の精神的指導者である何顒に認められ、袁紹の交友に加えられた。
橋玄とは別の経路の、曹操が世に出るための人脈である。祖父の力を頼らず、自前で調達してきた、交友関係。経歴からいって、袁紹のほうが、10歳ちかく年長。終始、曹操の庇護者をもって任じている。これがふたりの基本的な関係。
奔走の友は、ポスト党錮・ポスト宦官の政局を動かす、主流派に転進した。曹操が、覇権争いに参入できたのは、奔走の友のなかに含まれていたから。
西園八校尉とか、草書の名人は、霊帝との人脈。これは、祖父の曹騰-橋玄、奔走の何顒-袁紹とも異なる、べつのツナガリであった。これらを、ゴチャ混ぜにすると、曹操の立ち位置が分からなくなる。次回、霊帝の改革(西園軍・牧伯制)です。151202
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- 第10回 西園軍と、反董卓の起兵
霊帝は暗君だったか。諸葛亮も、出師表で、桓帝・霊帝を批判する。批判の根元は、党錮の獄(焚書康儒のバリエーション)のため。
中平五年(188) ごろ、霊帝に召し出された討虜校尉の蓋勲(敦煌のひと、140-190)は、同僚の袁紹にいう。霊帝は聡明であるが、側近に惑わされている。
蓋勲伝
後去官,徵拜討虜校尉。靈帝召見,問:「天下何苦而反亂如此?」勳曰:「倖臣子弟擾之。」時宦者上軍校尉蹇碩在坐,帝顧問碩,碩懼,不知所對,而以此恨勳。帝又謂勳曰: 「吾已陳師於平樂觀,多出中藏財物以餌士,何如?」勳曰:「臣聞『先王燿德不觀 兵。』今寇在遠而設近陳,不足昭果毅,秪黷武耳。」帝曰:「善。恨見君晚,羣臣初 無是言也。」蓋勲は、(中平元年、辺章が反乱したので、涼州の戦闘を経験して、漢陽太守となってから)討虜校尉となる。
大将軍の配下の武官。『続漢書』百官志一に、大将軍の営は五部。部ごとに、校尉1名、比二千石。霊帝に召されて謁見する。「天下はなぜ苦しんで反乱するのか」と。蓋勲「倖臣の子弟が擾がすからです」と。ときに宦官である上軍校尉の蹇碩が同席する。霊帝は蹇碩を(お前のせいだと)顧みた蹇碩は懼れ、何と答えてよいか分からず、蓋勲を恨んだ。
西園軍のトップである。曹操がおじを殴り殺す。曹操は、ただの宦官を殴ったのではなく、西園軍のトップになるほど、霊帝から最も信頼された宦官の縁戚を殺したのだ。霊帝は蓋勲に、「わたしは、すでに師を平樂觀に陳(つら)ね、多く中藏(天子の手持ちのカネ)の財物を出して士を餌(く)らわせり。どうかな」と。
霊帝紀に、中平五年八月、西園八校尉を置くとある。蓋勲「聞くに、『先王は德を燿かせ兵を觀(しめ)さず』と。いま寇は遠くにあるのに、近くに陳を設ける。強さを示して戦果を挙げるには、ちぐはぐな方法です。武を穢す(みだりに武力を用いる)だけです」と。霊帝「よし。きみに会うのが遅かったことを恨む。郡臣に、それを言ってくれるひとはなかった」
勳時與宗正劉虞、佐軍校尉袁紹同典禁兵。勳謂虞、紹曰:「吾仍見上,上甚聰明,但擁 蔽於左右耳。若共併力誅嬖倖,然後徵拔英俊,以興漢室,功遂身退,豈不快乎!」虞、紹亦 素有謀,因相連結,未及發,而司隸校尉張溫舉勳為京兆尹。帝方欲延接勳,而蹇碩等心憚 之,並勸從溫奏,遂拜京兆尹。ときに(中平五年=188)宗正の劉虞・佐軍校尉の袁紹は、禁兵をつかさどる。蓋勲は、劉虞・袁紹に、「しきりに天子と会ってみると、天子は甚だ聡明であるが、ただ左右に耳目を塞がれている。もち力を合わせて近臣を除き、その後で英俊を徴して抜擢し、漢室を興し、功績を遂げてから身を退けば、なんと痛快なことであろうか」と。
劉虞・袁紹もまた、もとより謀ごとがあるから、蓋勲と結んだ。
袁紹が劉虞を天子に誘ったのは、蓋勲とのこの話があったからだろう。前ぶれなく、言ったのではない。劉虞も、漢王朝に中興が必要なことは認識しており、宦官の排除という「不穏」なことを考えていた。霊帝末の洛陽は、のちの群雄が集合する最後のタイミング(霊帝の崩御をトリガーに分散が始まる)ので、さまざまな人々を会わせておきたい。
ただし劉虞は、霊帝を頂いた改革には賛成しても、献帝を無視して、みずから皇帝になることは拒んだ。袁紹と劉虞のすれ違いと、その萌芽を、描きこみたい。
謀ごとを決行する前に、司隷校尉の張温は、蓋勲を京兆尹とした。霊帝は、蓋勲を延臣として取り立てたい(洛陽に置いておきたい)が、蹇碩は蓋勲をはばかり、京兆尹に転出させた。
袁紹・劉虞とは完全に一致しないが、張温にも「陰謀」があるはずで、蓋勲の配置は、それを物語っているのかも知れない。やはり張温は、多くを背負わせることができるキャラ。
時長安令楊黨,父為中常侍,恃埶貪放,勳案得其臧千餘萬。貴戚咸為之請,勳不聽, 具以事聞,并連黨父,有詔窮案,威震京師。時小黃門京兆高望為尚藥監,倖於皇太子,太 子因蹇碩屬望子進為孝廉,勳不肯用。或曰:「皇太子副主,望其所愛,碩帝之寵臣,而子違 之,所謂三怨成府者也。」勳曰:「選賢所以報國也。非賢不舉,死亦何悔!」勳雖在外,每軍國密事,帝常手詔問之。數加賞賜,甚見親信,在朝臣右。長安令の楊党は、父が中常侍となり、財産を貪るから、蓋勲が取り調べて没収した。小黄門である京兆の高望は、皇太子に寵用され、「わが子を孝廉にして」と蓋勲に頼んだ。蓋勲は、つっぱねた。
宦官の子弟が、財産や官職を集めようとするが、蓋勲はそれを防ぐ。きっと曹操の家(曹騰・曹嵩の時代)でも、同じことが起きたのだろう。曹操が権臣を取り締まるのは、「父」の否定である。蓋勲は洛陽にいないが、霊帝は、軍事(王国による陳倉攻め)があるたび、手詔にて問うた。親信されること、朝臣の右にあり。
西園軍の顧問のような感じで、霊帝が蓋勲に期待していたことが分かる。軍の校尉である曹操から見ても、尊敬すべき先輩なのだろう。ただし、宦官の孫の曹操を、きちんと評価してくれるかは疑問。
及帝崩,董卓廢少帝,殺何太后,勳與書曰:「昔伊尹、霍光權以立功,猶可寒心,足下小 醜,何以終此?賀者在門,弔者在廬,可不慎哉!」卓得書,意甚憚之。徵為議郎。董卓の廃立に反対した。「伊尹・霍光は、権限があって功績を立てたが、なお心がウスラ寒かった。あなたは小醜(微賤の輩)である。どうして無事に済まされようか。祝うものが門におり、弔うものが廬にいる(『荀子』大略篇にいうように禍福は接近している)。慎めよ」と。董卓に憚られた。議郎となる。
以後、董卓と対立して、皇甫嵩・朱儁とともに、董卓の牽制を試みるが、やり遂げずに死ぬ。霊帝にもっとも信頼された軍略家という意味で、董卓にも警戒された。きっと董卓よりも、戦さがうまい。曹操との接点があれば、いいキャラになっただろうに。
董卓が王允に「司隷校尉は誰がいい」と聞けば、王允が蓋勲を薦める。しかし董卓は、越騎校尉として、軍事を委ねる。蓋勲の軍事的な協力を得たかったのだろう。董卓は「用いたがり」だから。潁川太守にされたが、郡に到着しないうちに、洛陽に戻される。朱儁が董卓の軍事行動(百戦の八百長?)を批判すると、董卓が朱儁を斬ろうとしたが、蓋勲がとめた。蓋勲は、イライラして背中のできもので死んだ。51歳。
西園軍と牧伯制
霊帝は、覇気あふれる人物。光和三年(180)、四本の剣を鋳造し、「中興」を刻ませた。
『太平御覧』兵部七十四 剣中:陶弘景《刀劍錄》、靈帝宏在位二十二年。以建和三年鑄四劍,名曰:「中興」。一劍無故而失。
あれ。『中國哲學書電子化計劃』では「建和」になっているが、これは桓帝期なので、時代があわない。だから光和に校勘されたか。
西園軍と牧伯制は、p92-p96に解説あり。ここを切り貼りするより、論文を読むべきなので、細かくやりません。
典軍校尉に起用された曹操は、3年の下野生活を終える。p96
いきさつは不明だが、曹操を典軍校尉にしたのは、ポスト霊帝をにらむ政争がらみの人事なら、袁紹の推薦か。もしくは霊帝じきじきの登用だった可能性も、皆無ではない。とあるから、史料的根拠はないけれども、石井先生は、霊帝じきじきと推測したい(と思われる)
物語では、霊帝じきじきとする。蹇碩?と会話しながら、軍の設計を考え、人材の配置を考え、曹操の名をあげる。蹇碩は「おじを殺した、あいつは、辞めましょうよ」と抵抗するが、霊帝は鴻都門学で曹操に会っており、曹操の任命を押し切る。抵抗勢力があったほうが、話がもりあがる。
あとで、「蓋勲の意見を聞いておけば、もっといい設計ができたのに。中央軍もいいけど、地方にも転用できるような……」とか、ガッカリしたのだろう。その設計とは、曹魏の制度を先取りしたようなもの。もしくは、蓋勲が、西園軍の再編を提案するとき、曹操はそばにいて、蓋勲のアドバイスを聞き、のちの曹魏の兵制のアイディアを得た。
武帝紀にひく『魏書』に「軍を御すること三十余年」とあるが、典軍校尉となったのを起点とする。戦いに明け暮れた後半生は、このとき決定されたものと見て、間違いない。p97
韓遂・馬騰の勢いが盛んで、朝廷は手を拱いていた。己亥令で「典軍校尉となったのを機に、征西将軍になりたいと決心した」とある。
蓋勲に私淑して、曹操が軍事を学んだという話ができる。霊帝は、同じころ、韓遂・馬騰のことを気に病み、蓋勲が京兆に転出しても、アドバイスを求めていた(蓋勲伝)。曹操が、中継ぎになって、往復していても、おかしくない。任地を離れるのは感心できないが、トップじゃないし。のちの「軍師」のような役割を、蓋勲に見出したとか。
蓋勲が京兆に出されたのは、蹇碩が西園軍のトップでいられなくなることを恐れたから。曹操は、袁紹の手下として蹇碩を牽制しながら、蓋勲と霊帝のメッセンジャーをやり(蓋勲が転出したおかげで、この役割・場面が必要となる)、自立のためのノウハウを貯め、さらに征西将軍になる日を夢見た。
張温が、蓋勲を京兆に移した理由は、蹇碩と衝突して爆死するのを避ける、涼州に近いところで「在外三公」のような管轄の役割を期待した、などが考えられる。張温・蓋勲・蹇碩・霊帝・曹操。このあたりの人物が登場キャラである。
将軍号の説明を、p97
四征将軍は、後漢初、馮異が征西大将軍、岑彭が征南大将軍となった。献帝期、征東・征北将軍、および鎮東ら四鎮将軍、四安将軍・四平将軍をくわえ、16将軍を「四征将軍」とよぶ。このほかを「雑号将軍」という。将軍の下級武官として、中郎将・校尉・都尉・司馬がある。
曹操の直属軍を「中軍」とよぶ。西園軍を引き継いだか。
西園軍では、中軍校尉は、虎賁中郎将の袁紹。
上軍校尉は、小黄門の蹇碩で、元帥の職、全中央軍の監督官を兼ねる。中軍校尉よりも上のはずだが、曹操の直属軍の呼称として「上軍」は引き継がれなかった。八校尉とおなじ官職が設置された。中軍校尉の史渙(沛国のひと、曹操の同郷人)は諸将を感得し、典軍校尉の夏侯淵・丁斐(やはり曹操の同郷人)は、内外の事務を担当した。いずれも幹部職。
曹操が丞相になると、中軍校尉は中領軍と改称され、中軍を監督する。あらたに設置された中護軍が、外軍(地方派遣軍)の監督を担当。
都督の制度は、牧伯制をベースに、四征将軍を組み合わせたもの。4つの都督は、p99。制度は、個人の好みで制定されるものではない。だが、曹操が若き日に関わった西園軍、任官を熱望した征西将軍。この事実と、魏の軍事制度とが、なんの脈絡もないと考えるほうが不自然。
史料にないことを言わぬように、注意ぶかく、曹操の「個人の好み」を忖度している。作品では、曹操の好みを存分に描こう。董卓・袁紹にも、西園軍・牧伯のコンセプトは、影響をあたえた。魏王朝によって確立された、中軍・都督の制度は、六朝時代の軍事制度の根幹となった。霊帝の先見性。
「孫子・呉子もかくやと思わせる軍略家(諸葛亮伝にひく『後出師表』)」、「飛鳥を射落とし、猛獣と格闘する戦士(『陳志』武帝紀にひく『魏書』)」という曹操は、霊帝が「無上将軍」にたくした理想を、限りなく体現した。曹操は霊帝の後継者でもあった。
中軍校尉→中領軍の史渙伝
史渙は、独立した列伝を持たない。しかし、曹操の直属軍「中軍」を預かったのだから、同郷人として、集団の枢密を掌るひとだったはず。登場する史料を抜く。
四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其眾屬袁紹,屯射犬。夏 四月,進軍臨河,使史渙 、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率眾降, 封為列侯,還軍敖倉。以魏种為河內太守,屬以河北事。武帝紀の建安四年、史渙は、曹仁とともに渡河して、犬城で眭固を斬る。
『陳志』巻十七 于禁伝に「復從攻張繡於穰,禽呂布於下邳,別與史渙、曹仁攻眭固於射犬,破斬之」とあり、曹仁・史渙のほかに、于禁も参加していた。
袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、 史渙邀擊,大破之,盡燒其車。同じく武帝紀。官渡の戦いで、荀攸の計略をもちい、徐晃・史渙を派遣して、袁紹が兵糧を蓄積している千乗を攻め、そこで車を焼く。
『陳志』巻九 曹仁伝に、「紹遣別將韓荀鈔斷西道,仁擊荀於雞洛山,大破之。由是紹不敢復分兵出。復與史渙等鈔紹運車,燒其糧穀」とあり、同じ話。
『陳志』巻十 荀攸伝に、「軍食方盡,攸言於太祖曰:「紹運車旦暮至,其將韓荀 大銳而輕敵,擊可破 也。」太祖曰:「誰可使?」攸曰:「徐晃可。」乃遣晃及史渙邀擊破走之,燒其輜重」とある。同じ話。徐晃は、わざわざ荀攸が選出する必要があったが、史渙は、曹操の直属軍をひきいるので、おのずと行動する。
『陳志』巻十七 徐晃伝に、「與史渙 斬眭固於河內。從破劉備,又從破顏良,拔白馬,進至延津,破文醜,拜偏 將軍。與曹洪擊イン隱彊賊祝臂,破之,又與 史渙擊袁紹運車於故市,功最多,封都亭侯」とあり、史渙が河内で眭固を討つとき、徐晃もいた。荀攸の計略で、故市にある袁紹の兵糧を焼くとき、徐晃が参加したのは、同じ話。
きっと徐晃・于禁は、史渙の指揮下におり、中軍に属した。
『陳志』巻八 張楊伝で、武帝紀と同じ話があり、
太祖之圍布,楊欲救之,不能。乃出兵東市,遙為之勢。 其將楊醜,殺楊以應太祖。楊將眭固殺醜,將其眾,欲北合袁紹。太祖遣史渙邀擊,破之於犬城,斬固,盡收其眾也。張楊は呂布を救いたいと思ったが、楊醜に殺された。張楊の将である眭固は、楊醜を殺して、袁紹と合わさろうとした。曹操は、史渙をむかわせ、犬城で眭固を斬って、その兵を吸収した。
『陳志』巻九 夏侯惇伝にふす韓浩伝に、
韓浩者,河內人。沛國史渙 與浩俱以忠勇顯。浩至中護軍,渙至中領軍,皆掌禁 兵,封列侯。韓浩は、河内のひと。沛国の史渙とともに、忠勇を顕した。韓浩が中護軍となると、史渙は中領軍となり、どちらも禁兵を掌った。列侯に封じられた。
曹操が丞相となったタイミングで、中軍校尉のポジションにいる史渙は、権限は同じまま、官職が「中領軍」と改称された。韓浩は「中護軍」となる。韓浩が外軍の監督を担当するようになったとは、のちにひく夏侯惇伝にひく『魏書』からか。ちょっと分からない。
〔魏書曰:韓浩字元嗣。漢末起兵,縣近山藪,多寇,浩聚徒眾為縣藩衞。太守王匡以為從事,將兵拒董卓于盟津。 時浩舅杜陽為河陰令,卓執之,使招浩,浩不從。袁術聞而壯之,以為騎都尉。夏侯惇聞其名,請與相見,大奇 之,使領兵從征伐。
時大議損益,浩以為當急田。太祖善之,遷護軍。太祖欲討柳城,領軍 史渙 以為道遠深入, 非完計也,欲與浩共諫。浩曰:「今兵勢彊盛,威加四海,戰勝攻取,無不如志,不以此時遂除天下之患,將為後 憂。且公神武,舉無遺策,吾與君為中軍主,不宜沮眾。」遂從破柳城,改其官為中護軍,置長史、司馬。韓浩は、河内太守の王匡の従事となり、董卓を盟津でふせぐ。しゅうとを董卓に捕らわれても、董卓になびかず。これを聞いた袁術が、韓浩を騎都尉とした。夏侯惇が名を聞いて、会いにきた。おおいに評価して、兵を領させた。
王匡→袁術→曹操と、転職している。食糧が足りないので、屯田を急がせた。曹操は、韓浩を護軍とした。曹操が柳城を討つとき、領軍の史渙は、韓浩とともに、遠方すぎるので諌めようとした。だが韓浩は、「私とあなたは中軍の主である。くじけるな」という。柳城を破ると、韓浩を領軍から「中領軍」に改め、長史・司馬を置いた。
これが「曹操が丞相になったとき」だろう。もともと台詞のなかに「中軍の主」という言葉がある。「中軍」という曹操の直属軍の呼称はあり、韓浩は「中軍の護軍」で、史渙は「中軍の領軍」という、名詞を並べた官職だった。曹操が丞相になると、韓浩を「中護軍」、史渙を「中領軍」と、名詞を並べた官職を圧縮し、官名を創出した。
從討張魯,魯降。議者以浩智略足以綏邊,欲留使都督諸軍,鎮漢中。太祖曰:「吾安可以無護軍?」乃與俱還。其見 親任如此。及薨,太祖愍惜之。無子,以養子榮嗣。
史渙字公劉。少任俠,有雄氣。太祖初起,以客從,行中軍 校尉,從征伐,常監諸將,見親信,轉拜中領軍。十四年薨。子靜嗣。〕張魯を降すと議者は、韓浩を留めて、諸軍を都督させ、漢中を鎮させたい。しかし曹操は「中護軍の韓浩なしで、いられない」といい、ともに還った。
史渙は、わかくして任侠で、雄気あり。曹操がはじめて起兵すると、客として従い、中軍校尉となった。征伐に従い、つねに諸将を監した。曹操に親信され、中領軍に転じた。建安十四年(209) 薨じた。
沛国のひとだから、韓浩は曹操の同郷人。曹操が起兵したとき、仲間に加わった。初期の顔ぶれとして、忘れずに描こう。これが曹操の直属軍を、継続して統括したのだから、一貫性のある話。
赤壁の翌年、史渙が力尽きている。この時期(赤壁がキッカケか、史渙の死がキッカケか)曹操の軍の雰囲気が変わったら(史料的な根拠があれば編成が変わったら)おもしろい。
洛陽・中平六年
中平六年(189) 四月、霊帝は34歳で、あとつぎを明らかにせずに死ぬ。袁紹・劉表は長男を後継者からはずす。曹操も「さんざん迷ったあげく」、袁紹・劉表の失敗にかんがみ、ようやく曹丕を指名。孫権も国論を二分する結果を招く。こう列挙すると、ただの偶然ではない。相続に関する意識が変化しつつあったのだろうか。p101
儒教の衰退はあるだろうが、もっと直接的には、長幼の秩序よりも、実力が重視されたからだろう。霊帝の認識においても、涼州は反乱しまくっているから、乱世である。実力がある(=かわいい)子に嗣がせたい。
しかし、親は子の実力を、正確に見通すことができない。だからギクシャクする。年齢が若いほど、単純に可愛かろうし、まだ成長する余地がある(若いから)。自分が達成できなかった何かを、年下の子のなかに託してしまうのでは。霊帝が、自分に容姿が似ている(自分の分身のような気がする)劉協を、後継者にしたかったことに、兆候的である。
何進は、袁紹・袁術らを腹臣に、士大夫を登用。王允・陳琳・逢紀・鄭泰・荀攸ら「海内の名士」20余人を辟召。
陳琳は重要なキャラなので、もうやった。鄭泰は省略する方向で。逢紀は、袁紹が「河南から連れてきたひと」としての役割を負わせるか。何進は、清流派の首領になった気分だったのだろうが、「そうは問屋が卸さない」。彼らの基本的な政治目標は、「宦官なき漢王朝」。しかも青年時代に党錮を経験した世代は、雪辱に燃える。袁紹は何進に、宦官を倒すため、禁断のカードをきる。地方から軍隊を呼び寄せ、一気に決着を付けようという。陳琳が反対。p102
このとき曹操が地方で募兵した話は、すでに書いた。何進は、地方軍を呼び寄せるとともに、各地で兵士を募集し、直属軍の増強をはかった。曹操と同じく「現場の一将校ぐらい」で募兵に向かったのは、騎都尉の鮑信は兗州へ、騎都尉の王匡は徐州へ、司馬の張楊は并州へ、張遼は河北へ。曹操は、都尉の毋丘毅・劉備とともに、沛国・丹陽の方面へ。
鮑信は、曹操が兗州を取るとき、史料をまとめる。
王匡は、さっき韓浩の主として出てきた。董卓が和睦の使者として、王匡の娘婿である執金吾の胡母班を連れてきて……、とドロドロする。後述。
張楊は、呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝
毋丘毅は、『陳志』巻三十二に、「大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵,先主與俱行,至下邳遇賊,力戰有功, 除為下密丞」とあるが、登場はここだけなので、掘り下げない。
『陳志』巻二十八 毋丘倹伝に、「毌丘儉、字仲恭、河東聞喜人也。父興、黃初中爲武威太守、伐叛柔服、開通河右、名次金城太守蘇則」とあり、毌丘氏が河東のひとっぽいが、父ですら曹丕期のひとなので、毋丘毅と接続が難しい。
董卓は、桓帝末「六郡良家子」という、前代の遺物のような制度で、官界に入った。p104
胡漢の混血児「秦胡」を含んだ軍で、「百余戦」の八百長し合いを行った。涼州の反乱軍は、西北列将のもとで働いた将校・官吏がおおく加わるから、なかなか鎮圧できない。廷臣は、自分のたちの価値観が通用しない、辺境の将軍が乗りこんでくることに、極度の警戒感を示す。董卓は、瀕死の漢帝国のハカホリ人となる。
董卓が廃立をいう。袁紹が捨て台詞を残して、許攸・逢紀を連れて出奔。袁紹に董卓襲撃を勧告した鮑信、会議の席で異議をとなえた盧植らも帰郷。
廃立に、曹操が立ち会っていないのが残念。立場が軽いから、廃立を相談されるような立場ではない。十把一絡げに官職を与えられたリストに名があり、自分のほうから立場を明らかにしたのだろう。
関東の義兵が起つ
廃立した董卓は、刷新策を打ち出さなければ。全滅した宦官の穴を埋める。侍中・黄門侍郎の定員化(各六名)。中常侍・小黄門と競合する、士大夫の侍従職。
侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。士大夫の侍中・黄門侍郎は、宦官の全盛期、機密をあずかる要職ではなかった。のち、とくに侍中は重んぜられ、隋唐の三省体制のもと、宰相の職となる。
宦官が掌握していた、帝室の財務官(少府に所属する諸内署=平準令など)を、士大夫のポストとして回収。公卿の子弟をあてた。ひとつの見識として評価してよい。
蔡邕は、わずか3日間のうちに、侍御史・持書御史・尚書を歴任し、侍中に転じる。
南陽・陳留は、人口の多い大郡であるが、潁川の張咨を南陽太守、張邈を陳留太守にする。周毖・伍瓊らの、諌言とも脅迫ともつかない意見を聴き入れ、譲歩に譲歩をかさねた。
曹操は、おもてだって廃立に反対するでもなく、模様ながめを決めこんでいたらしい。p109
何進のために募兵したのに、何進が滅びた。兵を維持するだけでも、コストがかかる。引き取り手がいないから、兵を手放して、洛陽に戻ったか。劉備は、募兵のとき「至下邳遇賊,力戰有功, 除為下密丞」しており、これが董卓の時期か。劉備・曹操とも、丹陽の募兵は難しいなー!と実感して、いったん別れたのだろう。
董卓から、驍騎将軍を授けられた。『太平御覧』職官部 三十六 驍騎将軍
《魏志》曰:任城威王彰,字子文。性勇而須黃,為驍騎將軍。北出塞,為寇所要,彰獨與麾下數百騎突虜,王聞之曰:「我黃須兒定可用也。」
又曰:董卓立獻帝,表太祖為驍騎將軍,欲與計事。太祖乃變姓名,間行東歸。曹彰は驍騎将軍となった。また董卓が献帝を立てたとき、表して曹操を驍騎将軍として、ともに事を計ろうとした。曹操は姓名を変え、間道から東に帰った。
同じころ、左将軍に任ぜられた袁術は、南陽郡の魯陽県に出奔。
張温に帝位をすすめた張玄が、隠棲している場所。曹操は、司隷の最東端、中牟県にたどりつく。顔見知り(一説では県功曹)が、身元引受人となってくれた。事実なら、大恩人であるが、不可解なことに名が伝わらない。安全圏である、陳留(旧友の張邈が太守)に逃げこむ。
洛陽に近い大郡の太守として、南陽太守の張咨(孫堅に立場を乗っ取られる、袁術を頂く)、陳留太守の張邈(袁紹を頂く)が、最前線で有力。南陽と陳留の財富が、関東の軍の原資だろう。
曹操を助けたひとは、目途なしか。どこかで石井先生がほのめかしていたら、読み落としなので、がんばって詠み込もう。
任峻は中牟のひとだが、この時期は、揚原を河南尹に仕立て、主簿になってる(功曹というのと一致しない)。県をあげて曹操に従って、姻族となる。それなら曹操の命を救った功績が記されるだろう。
潘勗も中牟のひとで、魏公九錫の冊命を書いた。孫の潘尼は、晋代に学者・政治家として成功している。沛国丁氏のように、存在が抹殺されることはない。
沛国の譙県から西北に約50キロ、陳留の己吾県。
わたし!わたし!という、すごい名前だな。
『陳志』巻十八 典韋伝に、「典韋,陳留己吾人也」とある。このとき合流?軍国こそ違えど、曹氏と関わりの深い土地だったのだろう。ここで曹操は挙兵を準備。衛茲は、己吾のとなり、襄邑県の士大夫。「天下を平定するのは、このひと」と意気投合する。家財を投げ出し、5000の軍隊を整え、打倒董卓を宣言。
暮れもおしつまった十二月のこと。
曹操は、行奮武将軍事(奮武将軍の代行)に推薦された。
諸将を冷静に観察するのは、破虜将軍の鮑信、裨将軍の鮑韜。衛茲と鮑信こそ、曹操の覇権をプロデュースした、真の立役者。p112
初平元年二月、董卓は畢圭苑(180年、霊帝が造営)に駐屯。長安に遷都。緻密に計算された政治戦略だった。
『范書』列伝 第六十 鄭泰(鄭太)伝で、鄭泰が董卓に「関東を討伐する必要はないよ」と説得するために、董卓の有利なところを(本音を隠して)説明する。
且天下彊勇,百姓所畏者,有并、涼之人,及匈奴、屠各、湟中義 從、西羌八種,而明公擁之,以為爪牙,譬驅虎兕以赴犬羊。天下の精兵として恐れられている、涼州・并州の兵、異民族の傭兵(これも涼州・并州が供給源)は、みな董卓の麾下だ。長期戦をたたかうには、長安を本拠地にしたほうが有利。
曹操だけが成皋関を攻めるが、徐栄により敗退。衛茲・鮑韜が「戦場の露と消え」た。しかし、善戦したから、徐栄は深追いを避けた。
この時点で、まだ曹操は袁紹に合流しておらず、単独で戦ったのである。
◆中牟県のひとびと
石井先生は触れておられないが、『陳志』巻十六 任峻伝に、漢末擾亂,關東皆震。中牟令楊原愁恐,欲棄官走。峻 說原曰:「董卓首亂,天下莫不側目,然而未有先發者,非無其心也,勢未敢耳。明府若能唱 之,必有和者。」原曰:「為之奈何?」峻曰:「今關東有十餘縣,能勝兵者不減萬人,若權行 河南尹事,總而用之,無不濟矣。」原從其計,以峻為主簿。峻乃為原表行尹事,使諸縣堅 守,遂發兵。中牟県令の楊原が、董卓を恐れて逃げようとすると、任峻は「関東の10余県から、1万人を集められる。河南尹をかりに代行せよ」という。任峻は、たまたま董卓軍と接する最前線を故郷としてしまったため、リーダーを必要とした。官を棄てて逃げようとした楊原でも、かりにトップに立てておかねば、収拾が付かなかった。
任峻は主簿として、河南尹の仕事を代行し(代行を自称したひとの代行)諸県を堅守させ、兵を発した。
會太祖起關東,入中牟界,眾不知所從,峻獨與同郡張奮議,舉郡以歸太祖。 峻又別收宗族及賓客家兵數百人,願從太祖。太祖大悅,表峻為騎都尉,妻以從妹,甚見親信。曹操が中牟に入ったとき、任峻は郡(といっても、独自に切り取った10余県から成る河南尹)をあげて曹操に帰し、相続・賓客・家兵の数百人を、曹操に編入してもらった。
徐栄を退けた時点で、中牟県の人々の期待には応えた。曹操がカネで集めた五千のほかに、任峻のように、現地を董卓から守るために、協力したひともいたのかも。むしろ、曹操が志をもって董卓に果敢に挑んだというより、たまたま最も董卓軍に近い場所で、大将として担がれたから、徐栄と戦うハメになったのかも。
石井先生の本は「~を抱負とする」という表現が、頻出する印象がある。「夢や目標のために、ただ一度の人生をかけるか否か、生きざまの如何にかかっているのだ」とp332に曹操の人生観を分析する。たまたま中牟県の人々に担がれた、という描き方ではなく、両者の目標が一致した、という描き方をすべきである。
本に戻って(p113)董卓が関東を放棄すると、関東を、だれがどのように治めるのか。諸将の関心は、そちらに移る。曹操は、董卓打倒の策を開陳。武帝紀。
ただひとり、董卓軍に挑戦した曹操だからこそ、許される発言。だが、涼州・并州の連合に支えられている董卓に、持久戦の準備がある。益州の劉焉・徐州の陶謙は、高みの見物。
董卓を討っても、どのように漢王朝を再建するか、ビジョンが示されていない。スタンドプレーと受けとられても仕方のない、机上の空論。当時の曹操の限界。
推測や疑問のかたちにしているが、これが石井先生の見解でしょう。行き当たりばったりで気分屋。袁紹のように、河北を制圧して~、というビジョンのないひと。こういう曹操の限界を提示するのが、原作の特徴。
酸棗の諸将を見限り、夏侯惇とともに揚州へ。
揚州刺史の陳温(汝南のひと、-192?)と、丹陽太守の周昕(会稽のひと、-196?)が、兵四千を用意した。とくに周昕は、前後あわせて一万を派兵。陳蕃に師事した士大夫。
周昕には、周昂・周喁という二人の弟がおり、曹操と旧知らしい。ことに周喁は、曹操の挙兵に際して、兵二千をひきいて合流。また陳温は、曹洪と交友があったと。
曹洪伝に、「太祖起義兵討董卓、至滎陽、爲卓將徐榮所敗。太祖失馬、賊追甚急。洪下、以馬授太祖、太祖辭讓、洪曰「天下、可無洪、不可無君」遂步從到汴水。水深不得渡、洪循水、得船、與太祖俱濟、還奔譙」と、曹操を徐栄から逃がした話を載せてから、「揚州刺史陳温素與洪善、洪將家兵千餘人、就溫募兵、得廬江上甲二千人。東到丹楊復得數千人、與太祖會龍亢」と、陳温と旧知であることが分かる。この時点で、曹操は曹氏の族長と決まったわけでなく、曹洪も、曹操とは別に、ネットワークを作っていたのだろう。董卓と戦うことになり、曹洪は、正式に曹操を族長と認めた。馬を譲るセリフは、「敗北宣言」なのかも。
陳温と知り合うキッカケとして、曹洪伝にひく『魏書』に、洪伯父鼎爲尚書令、任洪爲蘄春長。と、尚書令の曹鼎がつくった人脈、蘄春の県長になった曹洪の官歴という、ふたつのヒントがある。
集めた丹陽兵は、暴動を起こした。兵士たちの素朴な不安・不満が爆発した。残留を希望したのは、五百人。途中で兵を補充し、河内の袁紹軍に合流した。「多難の初平元年」は、ようやく終わる。
◆会稽の周氏
曹操と旧知で、積極的に協力してくれた一族。
方詩銘氏の孫堅論「軍事力の量的形成」を抄訳するより、
孫堅が豫州をおさえ、洛陽にせまる。袁紹が、孫堅の豫州を奪いにきた。孫堅伝にひく『呉録』はいう。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史とした。『後漢書』袁術伝はいう。会稽の周昕が、豫州を奪った。袁術は怒ったと。袁紹が派遣した豫州刺史は、『呉録』で周喁、『後漢書』で周昕だ。『三国志』公孫瓚伝では周昂である。周喁、周昕、周昂の3つの記述がある。3人は兄弟だ。『資治通鑑』以来、どれが正しいのか議論された。清代の銭大昕は、周昂とする『資治通鑑』に同意せず、周喁とした。趙一清も周喁とした。
私(方詩銘)も、周喁だと考える。周喁は、特殊な人物である。豫州を奪いたい袁紹が、周喁を選んだのは、偶然ではない。
孫堅伝にひく『会稽典録』はいう。曹操が義兵をおこし、周喁は兵を集めて軍師となった。孫堅と豫州を争ったが、敗れたと。1つの奇怪な現象がある。周喁は、袁紹と密接に見えて、曹操とともに戦っている。曹操の軍師となった。同時に、周喁の兄・周昕は、曹操に兵を1万余人の兵を与えた(孫静伝にひく『会稽典録』)。会稽の周氏の兄弟は、曹操との関係が尋常でない。この奇怪に、説明が必要だ。
袁紹と曹操は、同一の政治集団だ。袁紹と曹操は、袁術と敵対した。すでに曹操は兗州を企図し、同時に豫州をねらった。だから豫州を争奪するとき、周喁が刺史として戦った。周喁が袁術に負けて、豫州をあきらめた。孫堅は、ひきつづき豫州をおさえた。孫堅は当時において、相対的に、強大な割拠者となった。
方詩銘氏の孫策論「丹楊を根拠地とする」を抄訳するより、
『三国志』呉夫人伝はいう。袁術は呉景を、丹楊太守とした。もと太守の周昕を討ったと。呉景は、孫堅の呉夫人の弟だ。孫策に参与した1人だ。
後漢の政府が任命した丹楊太守は、周昕である。孫静伝にひく『会稽典録』はいう。周昕は、太傅の陳蕃に支持した。周昕は、挙兵した曹操を助けた。袁術が淮南にくると、袁術の淫虐をにくみ、周昕は袁術との通信を絶ったと。ここから周昕は、当時の名士で、後漢が任命した丹楊太守とわかる。袁紹と曹操の政治集団に属した。周昕は曹操と密接で、曹操に丹楊兵を提供した。
孫静伝にひく『献帝春秋』はいう。袁術は呉景に、周昕を劾させた。呉景が丹楊をぬく前、呉景は百姓をつのった。あえて周昕に従う百姓を、呉景は赦さない。周昕は「百姓に、なんの罪があるか」と言い、会稽ににげたと。これは、呉景が丹楊を攻めるとき、軽く動かなかった証拠だ。周昕を支持した百姓とは、一般の人民でなく、丹楊の豪族だろう。呉景は、周昕と豪族の連携を切断した。のちに孫策は会稽を攻め、周昕を殺した(孫静伝)。呉景は、袁術に任じられた丹楊太守だ。
もっとも重要な史料は、『陳志』巻五十一 孫静伝の裴注とわかる。會稽典錄曰。昕字大明。少游京師、師事太傅陳蕃、博覽羣書、明於風角、善推災異。辟太尉府、舉高第、稍遷丹楊太守。曹公起義兵、昕前後遣兵萬餘人助公征伐。袁術之在淮南也、昕惡其淫虐、絕不與通。
獻帝春秋曰。袁術遣吳景攻昕、未拔、景乃募百姓敢從周昕者死不赦。昕曰「我則不德、百姓何罪?」遂散兵、還本郡。『会稽典録』はいう。周昕は、太傅の陳蕃に師事した。丹陽太守。曹操が義兵を起こすと、周昕は前後で万余人を送った。袁術が淮南にくると、袁術の淫虐をにくみ、絶縁した。
『献帝春秋』はいう。袁術は呉景をやって周昕を攻めた。呉景が、周昕に従う百姓を赦さないので、周昕は(丹陽太守をやめて)会稽に帰った。
『陳志』巻四十六 孫堅伝の裴注に、
吳錄曰:是時關東州郡,務相兼并以自彊大。袁紹遣會稽周喁為豫州刺史,來襲取州。堅慨然歎曰:「同舉義兵, 將救社稷。逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」言發涕下。喁字仁明,周昕之弟也。
會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人要喁,喁即收合兵眾,得二千人,從公征伐,以為軍師。後與堅爭豫州,屢戰失 利。會次兄九江太守昂為袁術所攻,喁往助之。軍敗,還鄉里,為許貢所害。『呉録』はいう。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史として、豫州を(孫堅から)取ろうとした。孫堅は、関東の同盟軍の内紛を起こす、袁紹のことを嘆いた。
『会稽典録』はいう。曹操が義兵を起こしたとき、人をやって周喁を要(むか)えた。周喁はすぐに兵衆を集めると、二千人を得た。曹操に従って征伐し、軍師となった。のちに孫堅と豫州を争い、勝てなかった。たまたま次兄の九江太守の周昂が袁術に攻められ、周喁は助けにゆく。敗れて郷里に帰り、許貢に殺害された。151204
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