表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』帝紀10、安帝と恭帝の翻訳

409-418年、劉裕が安帝を弑す

劉裕は、露骨に内外で対立者を除いています。禅譲間近。
禅譲を受けるために、功を積むべく、外征をする。曹操ができなくて、曹丕が既成事実を作りそこねて、司馬昭が成功したことだ。常套手段なんだ。

劉裕の北伐

十年春三月戊寅,地震。夏六月,乞伏熾盤帥師伐禿發傉檀,滅之。秋七月,淮北大風,壞廬舍。九月丁巳朔,日有蝕之。林邑遣使來獻方物。是歲,城東府。

十(414)年春三月戊寅,地震。
夏六月,乞伏熾盤帥師伐禿發傉檀,滅之。
秋七月,淮北大風,壞廬舍。
九月丁巳朔,日有蝕之。林邑遣使來獻方物。是歲,城東府。

十一年春正月,荊州刺史司馬休之、雍州刺史魯宗之並舉兵貳于劉裕,裕帥師討之。庚午,大赦。丁醜,以吏部尚書謝裕為尚書左僕射。二月丁未,姚興死,子泓嗣偽位。三月辛巳,淮陵王蘊薨。壬午,劉裕及休之戰於江津,休之敗,奔襄陽。夏四月乙卯,青、冀二州刺史劉敬宣為其參軍司馬道賜所害。五月甲申,彗星二見。甲午,休之、宗之出奔于姚泓。論平蜀功,封劉裕子義隆彭城公,硃齡石豐城公。己酉,霍山崩,出銅鐘六枚。秋七月丙戌,京師大水,壞太廟。辛亥晦,日有蝕之。八月丁未,尚書左僕射謝裕卒,以尚書右僕射劉穆之為尚書左僕射。九月己亥,大赦。

十一(415)年春正月,荊州刺史司馬休之、雍州刺史魯宗之並舉兵貳于劉裕,裕帥師討之。

劉裕への反発です。このままだと、全員粛清される。

庚午,大赦。丁醜,以吏部尚書謝裕為尚書左僕射。
二月丁未,姚興死,子泓嗣偽位。
三月辛巳,淮陵王薨。壬午,劉裕及休之戰於江津,休之敗,奔襄陽。
夏四月乙卯,青、冀二州刺史劉敬宣為其參軍司馬道賜所害。
五月甲申,彗星二見。甲午,休之、宗之出奔于姚泓。

劉裕に負けたので、なんと五胡の国へ逃げた。

論平蜀功,封劉裕子義隆彭城公,硃齡石豐城公。己酉,霍山崩,出銅鐘六枚。
秋七月丙戌,京師大水,壞太廟。辛亥晦,日有蝕之。
八月丁未,尚書左僕射謝裕卒,以尚書右僕射劉穆之為尚書左僕射。九月己亥,大赦。

劉姓の、誰と誰が劉裕の親族なのか、整理しないと。


十二年春正月,姚泓使其將魯軌寇襄陽,雍州刺史趙倫之擊走之。二月,加劉裕中外大都督。夏六月,赫連勃勃攻姚泓秦州,陷之。己酉,新除尚書令、都鄉亭侯劉柳卒。秋八月,劉裕及琅邪王德文帥眾伐姚泓。丙午,大赦。冬十月丙寅,姚泓將姚光以洛陽降。己醜,遣兼司空、高密王恢之修謁五陵。

十二(416)年春正月,姚泓使其將魯軌寇襄陽,雍州刺史趙倫之擊走之。二月,加劉裕中外大都督。
夏六月,赫連勃勃攻姚泓秦州,陷之。己酉,新除尚書令、都鄉亭侯劉柳が卒した。
秋八月,劉裕及琅邪王德文帥眾伐姚泓。

司馬休之と魯宗之をかくまったから、劉裕が姚泓を恨んでいるわけではあるまい。

丙午,大赦。冬十月丙寅,姚泓將姚光以洛陽降。

洛陽の取り合いは熾烈です。

己醜,遣兼司空、高密王恢之修謁五陵。

十三年春正月甲戌朔,日有蝕之。二月,涼武昭王李玄盛薨,世子士業嗣位為涼州牧、涼公。三月,龍驤將軍王鎮惡大破姚泓將姚紹於潼關。夏,劉裕敗魏將鵝青于河曲,斬青裨將阿薄幹。是月,涼公李士業大敗沮渠蒙遜于鮮支澗。五月,劉裕克潼關。丁亥,會稽王修之薨。六月癸亥,林邑獻馴象、白鸚鵡。秋七月,劉裕克長安,執姚泓,收其彝器,歸諸京師。南海賊徐道期陷廣州,始興相劉謙之討平之。冬十一月辛未,左僕射、前將軍劉穆之卒。

十三(417)年春正月甲戌朔,日有蝕之。
二月,涼武昭王李玄盛薨,世子士業嗣位為涼州牧、涼公。
三月,龍驤將軍王鎮惡大破姚泓將姚紹於潼關。
夏,劉裕敗魏將鵝青于河曲,斬青裨將阿薄幹。
是月,涼公李士業大敗沮渠蒙遜于鮮支澗。
五月,劉裕克潼關。丁亥,會稽王修之薨。
六月癸亥,林邑獻馴象、白鸚鵡。
秋七月,劉裕克長安,執姚泓,收其彝器,歸諸京師。

劉裕が長安を抜きました。功績はもうばっちり蓄えられた。

南海賊徐道期陷廣州,始興相劉謙之討平之。
冬十一月辛未,左僕射、前將軍劉穆之卒。

十四年春正月辛巳,大赦。青州刺史沈田子害龍驤將軍王鎮惡于長安。夏六月,劉裕為相國,進封宋公。冬十月,以涼公士業為鎮西將軍,封酒泉公。十一月,赫連勃勃大敗王師於青泥北。雍州刺史硃齡石焚長安宮殿,奔於潼關。尋又大潰,齡石死之。十二月戊寅,帝崩於東堂,時年三十七。葬休平陵。

十四(418)年春正月辛巳,大赦。
青州刺史沈田子害龍驤將軍王鎮惡于長安。
夏六月,劉裕為相國,進封宋公。

やっぱり、このタイミングで、こうなるわけです!

冬十月,以涼公士業為鎮西將軍,封酒泉公。

東晋の威勢に接すると、たちまち臣従するのが涼州の国でs。

十一月,赫連勃勃大敗王師於青泥北。雍州刺史硃齡石焚長安宮殿,奔於潼關。尋又大潰,齡石死之。

負けて死に際とは言え、長安を焼き払うとは・・・

十二月戊寅,帝崩於東堂,時年三十七。葬休平陵。

治世の中身はないけれど、(比較的)長生きでした。三国志に比べて、東晋の権力闘争は単純で奥行きがなさそう。だが、孫呉内の抗争と同レベルに見れば、分量は充分だと思う。華北ほ五胡の争いまで加味して、面白さや複雑さが、三国志に並ぶわけです。


帝不惠,自少及長,口不能言,雖寒暑之變,無以辯也。凡所動止,皆非己出。故桓玄之纂,因此獲全。初讖雲「昌明之後有二帝」,劉裕將為禪代,故密使王韶之縊帝而立恭帝,以應二帝雲。

安帝は知能が低く、若いときから大人になるまで、うまく口が聞けなかった。寒かったり暑かったりしても、それを訴えることはなかった。

東晋末期にどれだけ皇帝権力が脅かされても、不満を言わず、改善の努力もせず。安帝の生き方に対する、皮肉めいた比喩だと思う。この寒暖の話は。

動くことも止まることも、安帝は、自分の意思で行えなかった。だから桓温が簒逆したとき、なすがままに全て奪われてしまったのである。
はじめ図讖が予言していた。
「昌明(孝武帝のあざな)のあとに、2人の皇帝が立つ」
劉裕は今にも禅譲を受けたかった。劉裕は、王韶之にひそかに命じて、安帝を縊り殺した。劉裕は、恭帝を立てた。安帝が死んでしまえば、孝武帝の後に2人の皇帝が立つことになる。図讖に合ったかたちで、心置きなく劉裕が禅譲を受けられるのだ。

図讖の話がどこまで本当か知らんが、孝武帝も安帝も殺された。王莽、曹丕、司馬昭、劉裕と、代を下るごとにえげつなくなるね。