表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』帝紀10、安帝と恭帝の翻訳

418-420年、東晋の最期

劉裕によって、禅譲させられるために立てられた皇帝が登場します。

司馬氏の誇り

恭帝諱德文,字德文,安帝母弟也。初封琅邪王,曆中軍將軍、散騎常侍、衛將軍、開府儀同三司,加侍中,領司徒、錄尚書六條事。元興初,遷車騎大將軍。桓玄執政,進位太宰,加兗冕之服,綠綟綬。玄篡位,以帝為石陽縣公,與安帝俱居尋陽。及玄敗,隨至江陵。玄死,桓振奄至,躍馬奮戈,直至階下,瞋目謂安帝曰:「臣門戶何負國家,而屠滅若是?」帝乃下床謂振曰:「此豈我兄弟意邪!」振乃下馬致拜。振平,複為琅邪王,又領徐州刺史,尋拜大司馬,領司徒,加殊禮。

恭帝諱德文,字德文,安帝母弟也。

「いみな」と「あざな」を同じにするとは・・・オレのことを呼ばないでくれという意思表明なのか。いじわるである。
東晋は、同母弟が次の皇帝に選ばれることが、とても多いですね。3回目だ。

初封琅邪王,曆中軍將軍、散騎常侍、衛將軍、開府儀同三司,加侍中,領司徒、錄尚書六條事。
元興初(402年)、遷車騎大將軍。桓玄執政,進位太宰,加兗冕之服,綠綟綬。玄篡位,以帝為石陽縣公,與安帝俱居尋陽。及玄敗,隨至江陵。玄死,桓振奄至,躍馬奮戈,直至階下、恭帝は、目をいからせて桓振に言った。
「私たちの一族は、国家を背負ってきたのに、こんなふうに殺され、滅ぼされてたまるかよ」
安帝は床に下りて、桓振に言った。
「こいつの言うことは、私たち兄弟の本意じゃないんだ(桓振さんに逆らう気は、さらさらありませんよ。司馬氏は、桓氏に服従いたしますよ)」
桓振は下馬して、安帝に拝礼をした。

後漢の質帝が、梁冀に「跋扈将軍」と言って、殺された話を思い出す。日本近世の例で恐縮だけど、下馬将軍と呼ばれた酒井氏も、こんな感じ?
劉裕は、大人しい安帝を殺して、恭帝を立てた。果たして劉裕の思い通りになるのか。恭帝の気性的には、ひと波乱ありそう。

振平,複為琅邪王,又領徐州刺史,尋拜大司馬,領司徒,加殊禮。

義熙二年,置左右長史、司馬、從事中郎四人,加羽葆鼓吹。十二年,詔曰:「大司馬明德懋親,大尉道勳光大,並徽序彝倫,燮和二氣,髦俊引領,思佐鼎飪。而雅尚沖挹,四門弗辟,誠合大雅謙虛之道,實違急賢贊世之務。昔蒲輪載征,異人並出,東平開府,奇士向臻,濟濟之盛,朕有欽焉。可敕二府,依舊辟召,必將明易攵俊乂,嗣軌前賢矣。」於是始辟召掾屬。時太尉裕都督中外諸軍,詔曰:「大司馬地隆任重,親賢莫貳。雖府受節度,可身無致敬。」劉裕之北征也,帝上疏,請帥所蒞,啟行戎路,修敬山陵。朝廷從之,乃與裕俱發。及有司以即戎不得奉辭陵廟,帝複上疏曰:「臣推轂閫外,將革寒暑,不獲展情埏璲,私心罔極。伏願天慈,特垂聽許,使臣微誠粗申,即路無恨。」許之。及姚泓滅,歸於京都。

義熙二(406)年,置左右長史、司馬、從事中郎四人,加羽葆鼓吹。
十二(416)年,詔曰:
「大司馬明德懋親,大尉道勳光大,並徽序彝倫,燮和二氣,髦俊引領,思佐鼎飪。而雅尚沖挹,四門弗辟,誠合大雅謙虛之道,實違急賢贊世之務。昔蒲輪載征,異人並出,東平開府,奇士向臻,濟濟之盛,朕有欽焉。可敕二府,依舊辟召,必將明易攵俊乂,嗣軌前賢矣。」
於是始辟召掾屬。時太尉都督中外諸軍,詔曰:
「大司馬地隆任重,親賢莫貳。雖府受節度,可身無致敬。」
劉裕之北征也,帝上疏,請帥所蒞,啟行戎路,修敬山陵。朝廷從之,乃與裕俱發。及有司以即戎不得奉辭陵廟,帝複上疏曰:
「臣推轂閫外,將革寒暑,不獲展情埏璲,私心罔極。伏願天慈,特垂聽許,使臣微誠粗申,即路無恨。」
許之。及姚泓滅,歸於京都。

十四年十二月戊寅,安帝崩。劉裕矯稱遺詔曰:「唯我有晉,誕膺明命,業隆九有,光宅四海。朕以不德,屬當多難,幸賴宰輔,拯厥顛覆。仍恃保祐,克黜禍亂,遂冕旒辰極,混一六合。方憑阿衡,惟新洪業,而遘疾大漸,將遂弗興。仰惟祖宗靈命。親賢是荷。咨爾大司馬、琅邪王,體自先皇,明德光懋,屬惟儲貳,眾望攸集。其君臨晉邦,奉系宗祀,允執其中,燮和天下。闡揚末誥,無廢我高祖之景命。」是日,即帝位,大赦。

十四(418)年十二月戊寅,安帝崩。劉裕矯稱遺詔曰:
「私(安帝)は不徳だったが、頼れる臣下(劉裕さま)がいたから、東晋は滅亡せずに済んだ。司馬徳文よ、皇帝になれ。高祖(司馬懿)に下った天命を絶やすな」
是日,即帝位,大赦。

元熙元年春正月壬辰朔,改元。以山陵未厝,不朝會。立皇后褚氏。甲午,征劉裕還朝。戊戌,有星孛於太微西籓。庚申,葬安皇帝于休平陵。帝受朝,懸而不樂。以驃騎將軍劉道憐為司空。秋八月,劉裕移鎮壽陽。以劉懷慎為前將軍、北徐州刺史,鎮彭城。九月,劉裕自解揚州。冬十月乙酉,裕以其子桂陽公義真為揚州刺史。十一月丁亥朔,日有蝕之。十二月辛卯,裕加殊禮。己卯,太史奏,黑龍四見於東方。

元熙元年春正月壬辰朔,改元。
以山陵未厝,不朝會。立皇后褚氏。甲午,征劉裕還朝。戊戌,有星孛於太微西籓。庚申,葬安皇帝于休平陵。帝受朝,懸而不樂。以驃騎將軍劉道憐為司空。
秋八月,劉裕移鎮壽陽。劉懷慎為前將軍、北徐州刺史,鎮彭城。
九月,劉裕自解揚州。
冬十月乙酉,裕以其子桂陽公義真為揚州刺史。
十一月丁亥朔,日有蝕之。十二月辛卯,裕加殊禮。己卯,太史奏,黑龍四見於東方。

二年夏六月壬戌,劉裕至於京師。傅亮承裕密旨,諷帝禪位,草詔,請帝書之。帝欣然謂左右曰:「晉氏久已失之,今複何恨。」乃書赤紙為詔。甲子,遂遜於琅邪第。劉裕以帝為零陵王,居於秣陵,行晉正朔,車旗服色一如其舊,有其文而不備其禮。帝自是之後,深慮禍機,褚後常在帝側,飲食所資,皆出褚後,故宋人莫得伺其隙,宋永初二年九月丁醜,裕使後兄叔度請後,有間,兵人逾垣而入,弑帝于內房。時年三十六。諡恭皇帝,葬沖平陵。

二(420)年夏六月壬戌,劉裕至於京師。傅亮承裕密旨,諷帝禪位,草詔,請帝書之。帝欣然謂左右曰:
「司馬氏の晋王朝は、すでに久しく天命を失っている。いま禅譲を求められても、なにを劉裕を恨むことがあろうか」
乃書赤紙為詔。甲子,遂遜於琅邪第。劉裕以帝為零陵王,居於秣陵,行晉正朔,車旗服色一如其舊,有其文而不備其禮。
恭帝はこれよりのち、劉裕に口実を与えないように、細心の注意を払った。褚皇后は、つねに恭帝の傍にいて、恭帝の飲食をまかなった。だから劉裕の建てた宋の国の人は、恭帝に隙を見出せなかった。
宋の永初二(421)年9月丁丑,劉裕は、皇后の兄の褚叔度に、褚皇后を呼ばせた。褚皇后が離れて、恭帝に隙が生まれた。宋の兵人が生垣を越えて、恭帝の屋敷に入った。恭帝は室内で、宋人に弑された。
時年三十六。諡恭皇帝,葬沖平陵。

帝幼時性頗忍急,及在籓國,曾令善射者射馬為戲。既而有人雲:「馬者國姓,而自殺之,不祥之甚。」帝亦悟,甚悔之。其後複深信浮屠道,鑄貨千萬,造丈六金像,親於瓦官寺迎之,步從十許裏。安帝既不惠,帝每侍左右,消息溫涼寢食之節,以恭謹聞,時人稱焉。始,元帝以丁醜歲稱晉王,置宗廟,使郭璞筮之,雲「享二百年。」自丁醜至禪代之歲,年在庚申,為一百四歲。然丁醜始系西晉,庚申終入宋年,所餘惟一百有二歲耳。璞蓋以百二之期促,故婉而倒之為二百也。

恭帝は幼いとき、性格がとても忍急だった。王に封じられて藩國にいるとき、弓術がうまい人に、馬を射させて楽しんだ。ある人が言った。
「馬というのは、國姓(皇帝の姓は司馬)です。あなたは司馬氏なのに、自ら馬を殺している。とても不祥ですよ」
恭帝は悟るところがあり、反省した。
のちに恭帝は、仏教にどっぷり浸かった。千万の金貨を鋳潰して、丈六の金の仏像を作った。親於瓦官寺迎之,步從十許裏。
安帝既不惠,帝每侍左右,消息溫涼寢食之節,以恭謹聞,時人稱焉。

王莽が王鳳を看病して、名を上げたのと同じである。

はじめ元帝は、丁丑の歳に晋王となり、宗廟を置いた。郭璞に筮竹で占わせると、
「晋王朝は、200年続くでしょう」
という結果が出た。
恭帝のとき、庚申の歳に劉裕に禅譲したが、元帝の即位から104年しかなかった。だが、東晋が西晋を継いでから、宋に滅ぼされるまでは、102年しかない。

司馬睿が晋王となったのと、晋帝になった時期には、1年ちょいのギャップがある。

きっと郭璞は、「百二年」では短くて可哀相だから、ひっくり返して「二百年」とごまかしたのだろう。

最後は手を抜きましたが、おしまいです。090827