1)魏臣南北朝の幕開け
今回読むのは、
川本芳昭『中華の崩壊と拡大』講談社2005年
です。2730円という、衝動買いするには、ちょっと高いけれど、専門書にカテゴライズすれば、厚さのわりに安い本です。買いました。
一般読者が、歴史を通観するために発行されたシリーズだと思うけど、よほど好きな人しか手に取らないよなあ。ターゲットが設定が中途半端だ(笑)
今回は、西晋と東晋の通史を、上の本を抜き出しながらまとめます。筆者が強調したいポイントと、ぼくが興味を持ったポイントがズレていることがあるので、純粋な「要約」にはなりません。
西晋や東晋の時代と並存した、五胡の国家についても、扱います。また、東晋通史といっても、桓温までしか興味がないので、そこで終わります。
はじめに
魏晋南北朝は、400年におよぶ大分裂時代。だが、六朝文化を生み出した時代で、「暗黒」と「絢爛」が混在する。国際色豊かな隋唐時代の淵源だ。
中原に大移動し、中華文化の保護もやった「五胡」が重要な役割を果たす、「民族」の時代である。
新たな時代へのうねり
秦漢時代の平和により、富の創出・蓄積が、庶民レベルまで進行した。階層が分化して、一君万民的な国家は、存立しなくなった。
公権力は、宦官・外戚が私物化した。
私物化に対抗して、儒教を学んだ豪族は、郷里で「公」の再構築を目指した。
豪族は名士に成長し、後漢で地方長官となった。袁紹、袁術、劉璋らがそれだ。だが三国時代に限っては例外で、曹操、劉備、孫権のような、名士ではない戦略家が勝ち残った。
陳羣は、九品中正制度を作った。漢朝の官僚をその才能・徳行に応じて、魏に吸収することが目的だ。
司馬氏の時代
司馬懿は曹丕から、蕭何になぞらえられる信頼を得た。
子の司馬師は、後継の重責を担えるか、未知数だった。252年に東関で敗北したときに、責任を自分に帰して、度量を示した。
しかし『資治通鑑』の胡三省注では、
「自己の権力を固めるための方便だ。盗賊も同じやり方をする」
と辛辣に評価された。
曹操は魏公から魏王に3年をかけたが、司馬昭は晋公の6ヵ月後に晋王となった。五爵を配り、魏臣に本領安堵して、禅譲を万全にした。
司馬氏は血生臭く簒奪したが、プラスの評価がある。習鑿歯は、司馬師が敗戦の責任を負ったことを「智」と言った。孫呉の張悌は、
「曹氏は残虐だったが、司馬氏は公平・恩恵を心がけた」
と言った。食い違いの理由を次節で見る。
司馬炎による中国再統一
初期の政治は、学識と礼教を重んじる名望家を、重臣に配した。庶民への爵を再開し、一律に5ランクを引き上げた。郷村の指導者に爵位を与えて、国家の構成員の一体感を醸成した。礼教による国家構築を目指した。
27人の郡王を封じた。宗室の友愛を志向した。曹植の子・曹志を太守にし、諸葛亮の子孫を任用した。寛大だ。
孫権の死後、太子派の諸葛恪と、孫覇派の孫峻・孫綝が対立した。孫皓は、南朝諸朝の滅亡期に見られる、暴虐な天子の嚆矢だ。
孫呉征伐は、西晋で慎重だった。帝権のさらなる拡大を嫌う貴族、征伐計画から漏れた人の焦り、論功行賞に漏れる不満、などが原因。私事を優先し、国家を省みない、西晋末の風潮につながる。
統一後、州郡の兵士が帰農した。分権的な軍事状況の終息だ。
占田制で、農民に耕作地を申告させた。官人が、占有できる土地の上限を決めた。課田制で、農民に公有地を割り当てて、耕作させた。魏代に、淮南や関中で行なわれた軍屯を、一般に組み込んだ政策だ。
280年、戸調式という税法で、人頭税から戸単位に変更した。
275年、疫病で洛陽の半数が死んだ。司馬炎も病気になり、司馬攸の排除を真剣に考えた。司馬攸は吐血して病死したが、司馬炎に諫言する人がいなくなった。
次の皇帝は、衛瓘に「この席が惜しい」と嘆かれた、司馬衷。司馬炎は、生母の楊艶への寵愛、孫への期待のため、廃立しなかった。輿論を失望させた。
司馬懿父子の権謀術数は、一族の私利追求。儒教的教養を身につけた名望家として、経世済民の志もあった。過酷な時代の終息が熱望され、魏から民心が離れ、司馬氏に帰した。私利を廃した公権の確立が求められた。
占田・課田制は、私利の大土地所有を規制し、広範に存在する自作農の再生産を保護することを目的とした。貴族制も、在地の輿論に基づくなら、公権力につながる。
だが司馬氏は私権化した。爵位の5ランクアップは、恣意的な輿論の誘導。司馬炎の後継選びは、私的配慮が大きく関与した。混乱の端緒となった。