表紙 > 読書録 > 『中華の崩壊と拡大』で両晋通史を知る

4)華北と華南のタイミング

本を読んだばかりの今だから、記憶が濃い。おぼえがきます。

華北の流れ

おおざっぱに時代を区切っておきます。
◆306年-311年
西晋の司馬越の時代。
匈奴は304年に漢王を称し、308年に漢帝を称したが、まだ西晋に手出しをしていない。匈奴の君主は、310年に劉淵から劉聡へ。つまり劉淵は、洛陽を落とす前に死んだ。劉聡が立った。
劉聡は、洛陽を陥落させた。司馬越の死と、洛陽の陥落は同じ311年。司馬越が屋台骨だったことが分かる。

◆-318年
漢帝の劉聡の時代。 劉聡は、313年に西晋の懐帝を殺した。この期間に劉聡は、華北を平定。関中を劉曜に、関東を石勒に担当させた。
314年、石勒は襄国で王浚を滅ぼし、河北を征圧。316年、劉曜は長安で愍帝を捕縛。318年、石勒は劉琨を滅ぼした。
318年に、劉聡は死去。

◆-329年
前趙の劉曜と、後趙の石勒が対立する時代。
318年に劉聡が死んだので、319年に劉曜と石勒は自立した。関中と関東でにらみ合い。 328年、石勒は劉曜を洛陽で殺した。

◆-349年
石氏の後趙の時代。
石勒は、329年に前趙を滅ぼし、華北統一。330年、皇帝を称した。333年、石勒が死去。石弘が継ぐ。
334年、石虎が石弘を殺し、居摂大王。349年、石虎が皇帝を称したが、病没。冉閔が胡族を虐殺した。

◆-356年
後趙が滅びた後の混乱期。
350年、冉閔が魏を建国。350年、前燕が薊に遷都。351年、前秦の苻健が長安に入った。352年、前燕が冉閔を殺した。時代を担う王朝が、北と西から徐々に育っている段階です。
353年、東晋の殷浩の北伐失敗。354年、桓温が北伐したが、前秦が関中を守りきる。
356年に、東晋の桓温が洛陽を奪還。後趙が滅び、胡族の次の王朝が完成する前の、隙間を縫った成功だった。洛陽は、石勒が劉曜を殺した戦場になったことから分かるように、関中と関東の境界線上。関中と関東の国がどちらも充分に大きくならないと、どちらからも手薄になる?

◆-370年
前燕と前秦が対立する時代。
357年、前秦で苻堅が天王となる。357年、前燕が鄴に遷都。胡族の王朝が、関中と関東でにらみ合う形に戻る。東晋に付け入る隙を、もう与えない。
365年、前燕が洛陽を占拠。369年、前燕が桓温を破った。

◆371年-
苻堅の前秦の時代。
371年、前燕を鄴で滅ぼし、名君が胡漢融合政策をとる。373年、前秦は蜀を東晋から奪う。376年、前秦は華北統一。383年、肥水の戦い。

華南の流れ

◆307年-316年
司馬睿が江南に慣れる時代。 304年の石冰、307年陳敏の乱が終わり、司馬睿が入る。310年、周キが乱を平定、311年、司馬睿は周馥を滅ぼした。313年、司馬睿は遠隔地で、愍帝の丞相になる。

◆-322年
東晋の元帝の小康時代。
317年、愍帝が殺されて晋王になる。318年、石勒が劉琨を殺して山西を平定し、劉聡が死んだのと同じ歳に、皇帝となる。
元帝の治世は、劉曜と石勒が対立した期間に収まる。
322年、王敦に反乱されて、後悔しつつ死去。

◆-329年
東晋で反乱が続き、二府に収斂する時代。
322-324年、王敦。327年-329年、蘇峻と祖約。

元帝が即位するのと、劉曜と石勒が建国するのは、ほぼ同時。「西晋の瑯邪王と漢」から「東晋と前趙・後趙」へ。
明帝・成帝のとき、反乱を経て荊州と揚州がバランスするのは、石勒の華北統一と同時。「危うい東晋と前趙・後趙」から「安定した東晋と後趙」へ。


◆-345年
外戚の庾氏の政治。341年に土断を実施。

◆-373年
東晋の桓温の時代。
347年に成漢を滅ぼした。治世の前半は、後趙が滅びて華北が混乱。365年に洛陽を占領。しかし治世の後半は、前燕と前秦が起こり、前秦が華北統一。出番なし。桓温の死後は謝安が政権担当し、前秦と渡り合う。

おわりに

安定があれば不安定があるのだ・・・なんて、したり顔でまとめるのは、バカのすることですが(笑)華北と華南の呼吸のタイミングを知るのは、大切なことだと思いました。
「東晋が洛陽を奪還した」というのは、あまり例がないシャッフルです。どんな前後関係で、華南の王朝が洛陽を占領できたのか、確認することが目的でした。いちおう果たせたと思うので、終わります。090813