表紙 > 読書録 > 『中華の崩壊と拡大』で両晋通史を知る

3)江南貴族制社会

本の第3章と第4章を読みます。まとめます。

苻堅の時代

五胡十六国の混乱は、諸民族の憎悪の連鎖のせいだ。
憎悪のピークが、冉閔の乱の前後だ。冉閔は漢族だが、石虎の養子になった。後継者にしてくれる約束を石氏が守らないから、皇族を数十人殺して、350年に冉閔は大魏を建てた。20万人の胡族を殺した。だが羌族の姚襄に敗れて10人が殺され、352年に南進した前燕に殺された。

氐の苻健は、後趙から離脱して、351年に関中で前秦を立てた。長安が都。苻堅は農業を奨励した。漢学をよくやり、士大夫を取り立てた。苻堅は、 370年に前燕を滅ぼし、376年に前涼を滅ぼして、河北を統一した。
漢族や鮮卑や羌を重く用いて、民族対立を終息させ湯落とした。謝安の治める東晋に、100万の南伐をして失敗した。失敗して、前秦は滅亡を早めた。
融和政策は、北魏に引き継がれた。
(以降は東晋の時代を離れるので、省略します)

東晋の貴族制社会

氐族の斉万年が296年から299年に反乱。
蛮族の李特が、成都で自立した。子の李雄は304年に成都王、306年に帝号、大成国。西晋は湖北の兵に、李特を討たせようとしたが、反抗した。
蛮族の張昌は、湖北で反乱した。 張昌の部下の石冰は、江南に流れ込んだ。
江南では、顧秘や周キが結束し、西晋の陳敏将軍とともに、石冰を討った。陳敏は江南の豪族の支持を失い、寿春の周馥に討たれた。
307年、瑯邪の王導と、安東将軍・都督揚州諸軍事の司馬睿がきた。陳敏を討った直後だ。江南の顧榮を筆頭に、司馬睿に協力した。王導は、要職を北来の人で固めた。江南の期待を裏切った。王導は、呉郡・会稽の名族と、その他の新興豪族とのミゾに付け入って分断した。周キは、北来の人を恨んで死んだ。江南が団結しなかったから、司馬睿は存続した。 呉郡・会稽の名族を、郡中正に任じて、中原の秩序を持ち込んだ。
317年、晋の諸将、鮮卑の段部・慕容部の推戴を受けて、東晋元帝になった。

四川の李特から逃れた人が、荊州に流入した。杜弢は荊州を鎮定していたが、反乱した。杜弢は、零陵から武昌を席巻した。王導の従兄・王敦は、陶侃・周訪とともに、杜弢を討った。王敦は隠然たる勢力を持ち、「王馬が天下を共に治める」と言われた。 (揚州と荊州の二頭体制のはじめ)
元帝は、劉隗、刁協を用いて、王氏を押さえ込んだ。王導さえ遠ざけた。王敦は武昌から、石頭城を突いた。王敦は、劉隗、刁協を除けと要求した。元帝は王敦に敗れ、322年に崩御した。 明帝が即位した。王敦は、勇決な明帝を嫌った。王導すら、王敦の不評を嫌った。明帝は、淮水で北方を守っていた祖逖や蘇峻に建康を守らせた。324年、王敦が病没し、一族を誅滅した。

325年、明帝が崩御。王導、庾亮、温嶠に、幼い成帝を輔政せよと遺命した。庾亮は、明帝の東宮時代の侍講で、妹が皇后になった人。庾亮は外戚として、法を厳格に運用した。王導の寛和と相反し、庾亮は人心を失った。
王敦を鎮定した、蘇峻と祖約は、庾亮に不満を持った。庾亮は、蘇峻の軍権を解き、弟に与えようとした。
蘇峻と祖約は327年に反乱した。
蘇峻は、歴陽から建康に迫り、焼き払った。士女から衣服を剥奪した。庾亮は、江州の温嶠のところに逃げ、陶侃と連合した。徐州刺史で下邳にいて、流民のリーダーだった郗鑒も加わり、329年に蘇峻を斬った。
「荒廃した建康を捨てよう」
と議論になった。豫章と会稽が候補に上がったが、王導が、
「帝王の都を捨てて、蛮族の住地に行くな」
と言った。建康に都が留まったから、揚州と荊州の東西の均衡の上に、東晋は安泰した。王導の炯眼だった。

北府・西府の抗争と南朝政権成立への道のり

320年代の混乱は、混成的政権の東晋を、2つにまとめた。建康東方の京口と、対岸の広陵を基盤とする集団(北府)。荊州を基盤とする集団(西府)。
華北戦乱を避けた流民が、江南社会を不安定にした。石勒が南攻の動きを強めた。流民は結束した。王敦を鎮定した、祖逖・祖約・蘇峻は、流民の上に立った。
北府は、鎮北将軍や征北将軍に任ぜられ、北方を守る長官が率いた。蘇峻を鎮定した、郗鑒の軍団が母胎。西府は、陶侃の軍団が母胎。
334年陶侃が死ぬと、庾亮を西府に送った。庾亮が死ぬと、弟の庾翼が赴任した。西府は、北府に対抗する軍政民政政権として、南朝時代も続く。

庾翼の死後、345年、西府のリーダーは荊州刺史の桓温。父の桓夷は、王敦の乱で軍功があり、蘇峻の乱で戦死した。桓温は347年、成漢を滅ぼした。桓温を制する役目は、殷浩。
華北は、後趙の石虎の死後で、混乱した。東晋に帰属を願う人が多い。桓温は北伐を願った。北府の蔡ボは、北伐の無謀を指摘した。殷浩は桓温を睨みつつ、北伐して失敗した。
桓温は殷浩を流罪にして、長江流域全体の軍権を得た。湖北から長安を攻め、東進して洛陽で帝陵を修復した。356年、凱旋した。

365年、鮮卑の前燕に洛陽を奪われた。桓温は北伐したが、敗れて徐州に帰還した。前燕と前秦の南侵を受けて、桓温は勢威を傷つけられた。
桓温は簒奪を急いだ。謝安は、陳郡の名族。王羲之や仏僧支遁と交わり、40歳をこえて桓温の副官になった。謝安は禅譲に反対した。簡文帝が崩御するとき、桓温ではなく孝武帝に、遺言を伝えた。桓温は重病になった。謝安は禅譲の期日を引き伸ばし、373年に桓温が死んだ。
謝安は、王導が再来した宰相。前秦の苻堅を、383年、肥水で破った。司馬道子が権力を持つと、謝安は虐げられた。東晋は滅亡へと向う。

『三国志』との絡みで、桓温まで見たかった。以下は略します。