2)胡漢の抗争
本の第2章を読みます。まとめます。
五胡十六国の時代
◆西晋
賈后の10年弱、名望家の張華や裴頠の力で安定した。
299年12月、司馬遹が賈后に殺された。300年4月司馬倫は、賈后を排除し、301年に恵帝を幽閉した。306年11月、懐帝司馬熾が東海王司馬越に擁立されるまで、八王の乱。地方に諸勢力が割拠した。
311年に司馬越が死ぬと、河北の混乱は第2幕。匈奴の劉淵は、羯族の石勒、漢族流民の王弥と、河南・山東地方を席巻。石勒は、晋の10余万を捕殺した。
311年6月、劉淵が死去し、劉聡が立った。劉聡は、劉曜と王弥に洛陽を攻めさせた。懐帝と玉璽は、平陽に拉致された。
◆漢
永嘉の乱の主役・匈奴は304年に漢を号した。304年から439年まで、136年間を五胡十六国時代と呼ぶ。ほんとうは19国ある。
匈奴は、魏代に移住し、晋代に山西で、漢人に使役されて農耕していた。西晋では、郭欽や江統が警戒を促した。
304年、劉淵が大単于になった。309年、平陽に都を定めた。317年、西晋の愍帝を殺した。
318年、劉聡が没すると、内乱。劉曜と石勒が鎮定。
◆前趙
劉曜が長安に都を置き、前趙を立てた。石勒は、襄国(河北省)に都を置き、後趙を建てて、劉曜に対抗した。前趙と後趙に始まり、439年に北魏が河北を統一するまで、関中と関東の戦いはくり返す。
匈奴の劉氏は、中国文化に理解がある。劉曜は長安に、宗廟・宮殿・学校を建てた。劉曜は、草書と隷書が得意。劉淵は、儒教や『春秋左氏伝』『孫子』に通じた。劉聡も、書物に通じ、詩賦ができた。
異民族君主の学識は、前秦の苻堅や北魏の拓跋宏(孝文帝)に受け継がれる。
◆後趙
石勒は、首枷をはめて山東に送られた経験がある。劉淵に帰属して、皇帝の位にまで登った。石勒は、ブレインの張賓に従い、漢が関中を計略したとき、関東に扶植した。319年、劉曜が長安に移って、漢から趙に改めると、24郡を率いて、趙王・大単于になった。
329年、関東を統一した後趙は、前趙を滅ぼした。330年、皇帝になった。
石勒は、漢族を陵辱することを、厳に戒めた。父兄の妻妾を引き継ぐこと、喪中に結婚することを厳禁した。胡漢の融和を目指した。融和政策の背景には、仏図澄による教化がある。仏図澄は、石勒に殺戮をやめるよう諭し、石勒の子供を生き返した。
333年、石勒が死んだ。石弘が継いだ。334年、石虎は石弘を廃した。石虎に対し、漢族の王度は、
「仏教は外国の神です」
と廃仏論をやった。朝廷は多くが同調した。だが石虎は、
「私は西方の蛮族で、外国の民族だが、中国に君臨している。宗教まで全て中国風にしなくていい」
と言った。胡漢の対立が、仏教の受け入れに伏在していた。
石虎は、鄴に都を移した。奢侈淫虐な政治をしたので、349年の石虎の死後、漢人の冉ビンが魏国を建てた。
◆前燕
337年、遼西の鮮卑の慕容コウは、龍城で燕王になった。慕容は、166年に檀石槐がリーダーになったとき、構成部族に入っている。慕容コウは、建国した慕容廆の子。342年から346年に遼東・遼西に攻勢をかけて、高句麗の丸都を陥落させた。345年、年号を称した。
348年、慕容コウが死に、子の慕容儁が、357年に後趙を攻めて、鄴に遷都した。後燕、南燕、北燕の源流だ。
◆前秦
後趙の混乱を受けて、関中では、氐の苻洪と、羌の姚弋仲が争った。351年、苻洪の子の苻健が、長安に前秦を建国した。
関中と関東は、前趙と後趙から、前秦と前燕の対立に移った。
357年、「五胡十六国時代屈指の英主」である前秦の苻堅が即位し、胡漢の融和が推進される。
胡漢両者のコンプレックス
成都王の司馬頴は、幽州刺史の王浚に破れて、匈奴の劉淵に救いを求めた。匈奴の劉宣は、かつて匈奴を奴隷として扱った漢族を憎み、救援を諌めた。いっぽう漢族は、
「劉淵は漢族ではないから、彼の心は必ず異なる」
と敵愾心を抱いていた。
劉琨が石勒に助けを求めるとき、
「異民族で帝王になった人はいない。あんたが私を助ければ、勲功を立てられるだろう。異民族のあんたに、私を助けるチャンスをあげるんだから、感謝しろ」
と、人を食ったような手紙を送った。
王浚は、皇帝になりたいと思った。石勒の使者が即位を勧めにきた。
「石勒は本心で、自分が皇帝になりたいと思っていないか」
と王浚が石勒の心中を疑うと、
「石勒は異民族です。どうせ帝王になれない。野心など、あるわけない」
と使者が弁明した。王浚は納得し、喜んだ。
後秦の祖で、羌族の姚弋仲は、40人の子達を戒めた。
「異民族が天子になった例はない。東晋に帰属して、臣節を尽くせ」
後趙の滅亡直後だから、弱気になったか。建国者なのに・・・
漢族・胡族に生じた変化
漢族は必ずしも東晋を正統とは認めなかった。
前涼で、張軌の子・張寔は、西晋年号を使い続けた。滅んで40年経っても、前涼は西晋を奉じた。
張重華は、348年に東晋から侯爵に封じられたが、
「鮮卑の慕容コウが王爵なのに、なぜ晋に忠節を尽くした私が下か」
と反発した。張祚のとき、帝号を称した。張天錫のとき、桓温の北伐に押されて、東晋の年号を使った。西晋を支持したり、東晋を支持したり、独立したり。前涼に見られるように、漢族の意識は複雑に変遷した。
胡族は、「西晋は、胡漢を包摂した、前の時代の王朝だ」と考えた。自らを西晋の旧臣と捉え、西晋の正統性を否定はしなかった。
成漢の李雄は、
「司馬睿が大晋を中夏に復興するなら、従おう」
と言った。司馬睿は藩王に過ぎないが、西晋への遺愛はある。