1章、正史から演義へ
三国ファンなら、とうの昔に読んでおくべき基本的な本ですが。
井波律子『三国志演義』
を扱います。岩波新書で1994年に出ています。
今回は、新しい発見のあった場所を抜書きします。原著の話運びを再現する
要約ではなく、本当にただの引用&箇条書きであることを予め宣言します。構成は支離滅裂で、筆者の要点が抜け落ちたりしています。
陳寿は曹丕の即位文を載せない
蜀びいきから陳寿が非難されるのは、譙周の弟子であったことが決定的な理由だ。陳寿は、母親を故郷に埋葬しなかったことがあだになり、297年に失意に死んだ。
西晋が短命に終わるというネタバレをしているか否かで、三国時代を記した著作の歴史観を分類できないかなあ。ちょっとした思い付きでした。
陳寿は、蜀と呉に差をつけた。先主の呼称を使い、死を表す漢字を区別した。だが他でも、蜀の正統を主張した。
劉備に関して、漢中王即位の上表文と、蜀皇帝即位のとき天帝に捧げた文を、全て採録している。逆に曹丕が魏皇帝になったとき、臣下からの勧進文がたくさん出たが、陳寿はいっさい採録していない。曹丕のために、裴松之が補わなければならなかった。
積み重なるエピソード
裴松之は陳寿を「近世の嘉史」と呼んだ。すなわち「みごとな歴史書」と言った。
呂伯奢の件は、裴注でだんだん曹操が姦雄になる過程が分かる。だが何も知らない、帰路の呂伯奢本人まで曹操が殺すのは、『演義』のオリジナルだ。裴注にないことである。
曹操が姦雄になるのは東晋からだ。東晋に生まれたエピソードを綴った『世説新語』で、梅の実の話がある。『演義』は、曹操が劉備を相手に酒を飲んでいて、ふと梅を見て思い出すという状況設定を与えた。
『世説新語』に散らばったエピソードを巧妙に並べ、楊修が曹操の怒りをエスカレートさせる過程を、『演義』は創作した。芸が細かい。
『演義』は、張松の曹操訪問の時期をズラし、馬騰の死と馬超挙兵の因果を入れ替えた。この前後関係の操作をぼくは悪んでいたんだが、じつはこれが『演義』の付加価値なのかも?
蜀正統論は、亡命政権で採用される。東晋と南宋である。南宋では、朱熹『通鑑綱目』が代表的だ。
後に出てくるが、裴松之は孫堅のファンだと読み取れるらしい。地方政権=蜀びいき、という構図は、疑ったほうが正解かも?