表紙 > 読書録 > 井波律子『三国志演義』から抜書き

2章、民衆の哄笑と喝采『平話』

15年前の本なのに、発見がたくさん。
自分の無知に気づかせてくれる楽しい読書です。

『平話』の成立まで

誰しも言及する『演義』淵源3点セットがある。
1つが、晩唐の李商隠「驕児の詩」だ。張飛のヒゲ、鄧艾のどもり。2つが、北宋の蘇東坡のエッセイで、劉備を応援する講談の観客。3つが北宋の孟元老『東京夢華録』で、北京の盛り場に「説三分」というジャンルがあったと書いている。

この3点セットは、道をすれ違う赤の他人にいきなり問われても、スラスラと答えられるくらいに、暗誦しておきたいものだ (笑)


三国志物語の最古のテキストは、14世紀初の元代に刊行された『新全相三国志平話』だ。建安の虞という人が出版した。本家の中国では滅び去ったが、日本の内閣文庫に現存する。

文化大革命のことすら、ぼくは全く理解していませんが。日中の歴史に対する認識の違いを感じます。
中国人は王朝が分かるとリセットするけど、日本人は万世一系の歴史を作ってきた。
何の根拠もないことを言います。日本人が万世一系にこだわるのは、文明が中国の亜流から出発した負い目を、克服するためじゃないのか。文明の始まりは日本が遥かに遅いが、今の皇帝(天皇)の家は中国よりも古いんですよ、とアピールできる。
近代のナショナリズムとは別の話で、日本の古代や中世の人は、そういう競合優位性を抱くようになったんだと思う。


『平話』は英雄転生譚だ。転生という設定は『紅楼夢』にもある。遊び戯れる少女たちは、天上世界の仙女たちが転生した姿だ。

以前に『平話』について書きました。転生譚の詳細も紹介してます。
『三国志平話』でウェブ講談/作品の要約と考察
こちらも併せてどうぞ。

バーバラスでアナーキーな『平話』

『平話』では秩序を破壊する張飛が主役だ。黄巾後、就職した劉備を査定にきた督郵を、張飛は100回もムチ打ち、死体を6つに切断し、頭を北門にかけ、手足を役所の四隅にぶら下げた。『演義』で張飛は大人しくなり、柳の枝で打つだけで殺さない。『演義』では、
「お前のような奴は、本来なら殺すところだが」
と劉備が言って、官印を督郵に返上する。
『平話』から『演義』に移ると、張飛の暴走よりも、劉備の仁愛と関羽の冷静が、前面に押し出されたエピソードに変わる。

殺すところだった、というのは『平話』を踏まえたセリフだろう。
元ネタを知ると、かくも皮肉と含みが利いてて面白い。


関羽は『平話』では脇役なので、五関突破をしない。神がかった武力を発揮させるシーンは必要ないのだから。
『平話』で張飛は、山賊皇帝となって、独自の年号「快活」まで設定する。だが『演義』では、年号がバカバカしいとして、あっさりカットした。荒唐無稽すぎると判断したからだろう。

山賊が王や皇帝を名乗り、国名や年号をオリジナルに設定するのは、『後漢書』の後半に頻繁に出てくる。史書に残らない裾野を含めると、けっこう普通に実行されていたんじゃないか。
井波氏は『演義』のリアリティを指摘しているが、ぼくは「平話」の弾けぶりの方にリアリティを感じる。無学な大将は、堅苦しい正統論争なんかやらずに、センスのない年号を名乗り放題だったんだと思う。


張飛は長坂橋を、叫び声で落とした。
『平話』と張飛のパーソナリティは相性がいい。アナーキーな魅力に、聞き手は喝采をしたのだ。かげりを帯びたインテリジェンスである関羽や諸葛亮は、『演義』では活躍させてもらえたが、『平話』の雰囲気には馴染まない。
諸葛亮は『平話』の野蛮さに引きずられて、赤壁前夜の論戦で、曹操の使者を切り殺した。バーバラスな『平話』ならではの脱線で愉快だ。

『平話』では、論戦の内容が浅い。諸葛亮よりも、張昭の言い分の方が筋が通っていて、話が前に進まなくなる。
論戦の詳細も、上のリンク内「未完成の赤壁」から見ていただけます。


『平話』の周瑜は軟弱だ。そして諸葛亮にさほど敵対的ではない。
陳寿の周瑜は、攻撃力の結晶のような颯爽感に溢れていた。周瑜は『平話』『演義』というフィクションの世界で、順に諸葛亮の引き立て役になった。もっとも割の合わない役回りである。
華容道で関羽は、棒のように突っ立っているだけ。曹操は濃霧が発生したので、脱出に成功した。『演義』の文学的な名場面は、まだない。

物語の終わり

『平話』の下巻は、にわかに駆け足だ。劉関張の義兄弟の活躍を描くことに中心があったから、彼らの死後は付け足しに過ぎない。『演義』は諸葛亮のために半分強を割くが、『平話』はそれをしない。

井波氏の指摘は、違うと思う。
『平話』はあくまで、前漢の劉邦たちが転生した三国の初代君主が主役だから、後半が駆け足になるのだ。張飛は成り行きで主役みたいになったが、あくまで『平話』のジャンルは転生譚だ。ぼくは物語に対し、伏線回収を義務のように求める読者なので、そう考えています。


赤壁後、龐統がサボタージュしたので、張飛は龐統に数太刀あびせた。ドクドクと血が溢れたが、よく見るとイヌの死体だった。

勤務態度の調査という、およそ張飛に似つかわしくない仕事を、なぜ張飛が任せられたか。『演義』を読んだだけでは、分かりませんでした。このフィクションに、どんな面白さがあるのだろうか、と疑問で。
『平話』を知り、答えが分かりました。龐統のマジックを強調するなら、スターの張飛が助手役に回らねばね。
『演義』で張飛は、龐統の酔っ払いぶりに腹を立てるだけだ。行き場のない不完全燃焼は、やむを得ない理由のあることでした。

龐統は、荊州四郡を扇動して、劉備に反旗した。手ごわい抵抗をしたが、諸葛亮の説得に応じた。
龐統の叛乱は、正史にも『演義』にもない。唐突なこのストーリは、滅び去った「龐統物語」の痕跡を示している。『演義』は、つじつまの合わないムダを拭い去った。

はじめ龐統は、周瑜に仕えた。龐統が荊州南部を扇動したという話が、あっても不思議ではないかも。
ひまな仕事を任せられた人の怨みは、かなり根深いものになるのだ。ぼくは経験的にそう思う。ひとつ腕試しに、叛乱でも起こしてみたくなるさ。


三国を滅ぼした西晋を、劉淵が滅ぼした。復讐に始まり、復讐に終わる物語だ。

『平話』は、転生を説明した冒頭部分の伏線回収に、実は失敗していることを、以前に書きました。

また『平話』の特徴として、登場人物が少ない。荀彧、荀攸、程昱がいない。知的人物には無関心だったようで、猛将の張遼が「智嚢先生」の役割を果たした。

登場人物が多すぎるのが、中国の歴史文学の欠点である。ファンを取っ付きにくくさせる。それは『平話』の時代も同じだったようだ。
初めて読んだ人は「荀攸は、荀彧より年下のおじで」なんて興味ないよな。2人を区別する以前に、荀氏だか筍氏だか分からなくなる。
荀彧と程昱は、名の読み方が「イク」と同じだが、どちらも見慣れない漢字だし、区別もつくまい。