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5章~、諸葛亮をめぐる人々

『演義』と同じく、ここまで論じられることなく、読者を焦らしてきた人の登場です。諸葛亮です。

意図的な大魔王・諸葛亮

諸葛亮を追い求める劉備は、司馬徽たちに、念入りに焦らされる。読者も焦らされて、諸葛亮に対する期待と好奇心が、劉備と完全に一体化する。うまい手法である。

諸葛亮の隠棲地は、清浄である。諸葛亮は、仙界に住む仙人である。
南朝宋の劉敬叔 『異苑』では、諸葛亮の超越した能力が描かれる。
蜀に火の吹き出る井戸があり、桓帝や霊帝のときに火力が弱くなった。諸葛亮が一目見ると、ふたたび盛んになった。劉禅の降服とともに、火が消えた。
諸葛亮の神秘性が、早い時代から語られた証拠だ。

民衆の支持を得た太平道とは対照的に、上級知識人に支持された天師道がある。天師道のメッカは、諸葛亮の出身地・瑯邪郡である。天師道のイメージが、諸葛亮と重なったのだろう。
南征で新手の魔王をつぎつぎ倒すのは『平話』にないことだ。諸葛亮は『演義』で大魔王である。

忠義一徹の堅苦しい諸葛亮より、風を呼び人工獣を駆使し、北斗星に呪文を唱えて寿命延長する諸葛亮に人気があった。『演義』の虚構だと批判するのではなく、作家としての腕前を褒められるべきである。

曹操の史実臭さを褒めたり、諸葛亮の神がかりを褒めたり、井波氏の賞賛の基準がちょっとよく分からなかったりもします。

周瑜と司馬懿の違い

周瑜は、組織化された道化である。これでもか、これでもかと、人格や知力が貶されていく。
司馬懿は、諸葛亮の空城の計にやられるが、天文が読めるし、そこまで貶されない。最後まで諸葛亮を防ぎきったからだ。
ちなみに空城の計とは、226年に文聘が江夏郡の石陽で使った作戦だ。孫権に急襲されたとき、わざと官舎で寝そべっていた。裴注『魏略』に見える。

屋内で寝そべっていて、どうして敵の油断を誘えるものか。だって文聘の姿は、敵に見えないじゃん。それとも、身の回りまで敵に筒抜けだと諦めていたのか? それはそれで、もっと文聘は頑張れよと言いたい。

張角と、対句の技法

ここからは本の6章です。
張角には3人の兄弟がいる。劉備の3義兄弟と対句した発想である。張角という魔術師で『演義』は始まり、諸葛亮という魔術師で終わる。

井波氏は言っていないが、復讐に始まり復讐に終わった『平話』の説明と、魔術師に始まり魔術に終わった『演義』の解説を、中国文学みたく対句しているのでしょう。いまいち上手くないが (笑)

反抗型知識人

曹操に対立した知識人が『演義』に出てくる。
荀彧は、曹操のあまたのブレーンの役割を集中されている。荀彧は留守をまもる女性的な役割である。
孔融は、スタート地点で曹操と同格の立場であり、プライドが高かった。でも黄巾に負けるほど弱かった。
禰衡も反抗した。禰衡は荀彧を、弔問の使者に相応しいと言った。荀彧は、端麗で冷静沈着だったが、生気に乏しかったのかも知れない。
曹操は才気煥発な人を、近親憎悪した。人の裏をかかない剛直な人を、曹操は愛した。典韋、許褚、関羽たちである。

これらの対立は、反抗的な知識人を吸収するほど、曹操政権の層が厚かったことを示す。けっきょくは殺して排除してしまうのだが、地方政権にはできないことだった。

終章、大いなる対句

中国文学は、対句する。
『金瓶梅』では、性エネルギーの塊のような男が死ぬと、その婿が同じことをくり返す。『演義』も同じで、曹操と劉備らの第一世代が死ぬと、諸葛亮の第二世代が同じことをくり返した。
この『演義』の対句は、一代だけの物語である『平話』と違うところだ。

井波氏の本を読み終えて

新書の抜書きはここまで。
この本を書くために、井波氏は何度も何度も『演義』を読むという、準備体操をなさったらしい。あとがきに書いてある。ファン精神があふれていて、知的興奮に満ちた読書シーンが浮かぶようで、ぼくはすごく好きな一節です。
ふと自分を省みると、『演義』を最後までちゃんと読んだことがない。原文どころか、翻訳すら読んでいない。ああ、なんてこと。吉川『三国志』を何度か読み、だいたい『演義』を知ったつもりでいたが、なんとマヌケなことか。ファン失格だ。
ちゃんと一度読んでみよう、、091223