表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋武帝好色攷」が暴く家族愛

01) 司馬炎の好色は「政策」だ

また論文を読みます。
安田二郎「西晋武帝好色攷」です。
初出は、『東北大学東洋史論集』七、1998年だそうです。

全体の感想

とても面白かった!
西晋の武帝がどんな人だったのか、とてもよく分かった(ような気にさせてもらえた)論文でした。今回は、安田氏にいちいち感動しながら引用していくことが多くなりそうです。
ただねえ、あえて難を言うなら、安田氏の論文は推理小説みたいだってことかな。つまり、初めに結論が書かれておらず、徐々にヒントを拾い集め、最後に伏線が1つにつながる、という。別にいいけど。

勝手に要約

西晋の武帝は、三国を統一した後に緊張が緩み、女漁りをしたマイナスのイメージがある。
だが武帝は、父と母が死ぬと規定どおり3年の服喪をするなど、至孝の人物だった。服喪中は、子作りまでも自制した。父が死んでちょうど3年目に母が死んだので、約5年間も連続して子作りが慎まれた。武帝の26人の男子には、中間に5歳ほどの年齢のブランクが生まれ、不慧の恵帝を守るべき成人の皇子が、少ししか残らなかった。

安田氏は言っていないが、八王の乱に2つの山があるのは、このためである。290年に楊駿の周辺が暴発したとき、多くの皇子は子供だったから、参加しなかった。成長を待って、300年過ぎに第2ラウンドが始まった。


天下の婚姻を停止させて女性をかき集めたのは、外戚を拡大して、恵帝を守らせるためである。その証拠に、良家の娘を選び、娘の親族を高い位に取り立てた。恵帝を守るための政策だから、恵帝の母・楊皇后も女性集めに協力した。
孫皓も武帝と同じように、名族を味方に付けるため、名族の娘を後宮に集めていた。武帝が孫皓の後宮を引き継いだのは、揚州の名族を味方に付けるためである。勝者の特権に酔いしれただけではない。

西晋の封王制も、恵帝を守るためである。恵帝との血縁関係を中心にして、恵帝を守ってくれそうな近親を大きな国に封じた。成人した恵帝の弟が、破格に待遇された。
恵帝を助ける皇子を増やすために、武帝は女色に励んだ。
以上のように、外戚・皇子の両面から恵帝を支える政策として、武帝は好色な振る舞いをしたんだと。個人的に堕落したのではないんだと。

この結論に、ぼくと同じく「すごい」と感じられた方は、以下の要約にお付き合いください。っていうか、図書館に走ってください。120ページの論文なので、ちょっと長いですが (笑)

司馬炎の好色なイメージ

西晋の武帝・司馬炎は、一部の親臣を寵用しすぎる欠点があったものの、全体的には名君だった。
だが孫呉を平定すると「驕泰の心」を起こして、政治への熱意を失った。孫皓のコレクションから5000人を追加して、後宮の女性が10000人に迫った。荒淫のせいで、武帝は55歳で死んだ。八王の乱どころか、五胡十六国を招いたのは、武帝のせいである。
『晋書』曰く、武帝は天下の婚姻を停止して、女性のオーディションをした。楊皇后が面接試験をしたが、嫉妬に狂って、不細工な女ばかりを通過させた。武帝は惜しくなって、横から口を出した。単なる好色の中年男である。
これが史書に見える、武帝のイメージである。

安田氏が、これから反論していく対象である。

至孝の皇帝

前漢の文帝は、現実生活への支障が大きいから、服喪をシンプルにした。だが西晋の武帝は、禅譲革命を推進している非常時でさえ、ルールどおりに服喪した。質素な普段着、白黒シマの冠、ワラの座布団、飲むのは水だけ、粗末な食事。

父の司馬昭が死んだときから、司馬炎が主役となった。
大抵の人は、父が死んで家督を継ぎ、もっとも体力を使う仕事を始める。喪をシンプルにすることは、処世には適っているなあ。

1周忌を機会に、司馬孚ら高官たちが、
「これから孫呉を平定しなければいけない。神気を損なうし、お母上も心配されているから、服喪を辞めて下さい。あなたは喪をやり遂げたら、気が済むかも知れない。だが国家の判断を誤ってはいけません」
と武帝を諭した。だが武帝は、
「私は諸生の家に生まれて、礼の薫陶を受けた。服喪を中断することなんて、あり得ない」
と言った。ついに3年(25ヶ月)の喪をやり遂げた。

「諸生の家」がキーワードです。学者の血筋って感じかな。司馬氏のアイデンティティです。
その割には、白痴で読み書きのできない人が多く出るのです。べつに司馬氏の遺伝子が悪かったのではなく、一族からバカが出る可能性はどこも同じだったのかも。ただ一族を総動員して王にしたから、バカが世に出て目立ったのか。

武帝が父の喪を終えた半年後、268年3月に母が死んだ。同じように3年の喪をやり遂げた。武帝のやり方は天下に賞賛された。羊祜は、
「三年喪を復活すべきだ」
と言っている。

武帝も三年喪を誇りに思った。282年正月、武帝が言った。
「私は生涯で3つの快挙をやった。1つが、天下を統一したのに、謙虚にも封禅の儀を辞退したこと。2つが、278年に献上された珍品を焼き捨て、奇抜な服飾を禁じたこと。3つが、三年喪をやったことだ」

司馬炎は、封禅をやらなかった。結末から遡れば「司馬炎は西晋の天下が長く続かず、大分裂時代への序章に過ぎないと知っていたのか」と勘ぐりたくなる。また、父祖の功績を引き継いだだけで、いまいち達成感が薄かったとも言う。
違うね。
謙遜の美徳を天下に示したかったから、わざと封禅を断ったのだ。上の文脈から言えば、そうなるでしょう。
裏を返せば、司馬炎は自分に封禅の資格があることを十二分に自覚していた。わざわざ封禅をしなくても、天下における自分の地位が損なわれない自信があったから、泰山で祭らなかった。すなわち、普通に封禅した皇帝よりも、心は傲慢だったんだ。息を切らして泰山をよじ登った前漢の武帝すら上回る。
その証拠に司馬炎は、後で安田氏が説くように、自分や子の権力が揺らぎそうになると、ルール違反ばりに名誉を付加していく。封禅の資格がないと萎縮していれば、なおのこと、封禅をしたはずだ。


次回、つまんない服喪の話が艶っぽくなります (笑)