表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋武帝好色攷」が暴く家族愛

04) 懐帝の母は、孫皓の宮女?

武帝は、バカな恵帝が可愛くて仕方がない。 自分が死ぬ前から、恵帝からカウントした親等を基準にして、封王体制を作ってくれた。
武帝は3回の封王をやった。
はじめは司馬氏の八達の顔を立てて、武帝自身の地位を固めようとした。八達の長老が死ぬと、2回目は武帝からの血縁の距離を基準にした。3回目は、次の代の恵帝を中心にして、王を封じた。10歳未満のお子様王国が乱立した。武帝の読みとしては20年後に、恵帝を助けてくれる史上最堅の藩屏が出来ているはずだ (笑)

オーディションの理由を補強する

武帝が女子を集めたのは既述だが、
「初めから身分の高い家の女子を集めたのか、集められた女子の実家の人が高い身分に昇ったのか」
因果関係の順序が、史料ではハッキリしないらしい。
なぜなら史料で人物を形容するときは、最終的に上り詰めた役職で説明をつける。だから「鎮軍大将軍・胡奮の娘」とか「廷尉卿・諸葛沖の娘」と書いてあっても、後先は不明のままだ。

安田氏が分析した結果、女子の入宮が先で、後から父の官位が上がるのを促したらしい。その証拠に楊皇后は、報恩のために生母の趙氏から娘を入れようとしている。
三都賦を作った左思も、同じだ。「小将吏」の家柄に過ぎなかったが、妹の左フンが武帝の後宮に入ったおかげで、秘書郎に昇ることができた。
胡奮も同じである。

胡奮について、他で読んだことのないほど詳しく書いてある。今日は本題から逸れるから引用しないが、胡奮を知りたくなったら、是非ともここに帰ってこねば。

胡奮は、羊祜-杜預と継がれた都督荊州諸軍事を継いだ。胡奮の次は、楊駿の弟の楊済が荊州を治めた。また胡奮は、羊琇を継いで護軍将軍になった。ここに出た人は、みな司馬氏の外戚だ。外戚が就任する官位が設定されていたことになる。

武帝は外戚を拡張して、司馬氏を守ろうとした。
だから中の下くらいのランクの家から娘を拾ってきて、その実家の男を高位に抜擢した。男たちは武帝に恩を感じて、味方してくれる。嫁ぎ入れが先で、出世が後なのは、こういう理由だ。

外戚の筆頭は、皇后を出した家だ。武帝の楊氏と、恵帝の賈氏が、西晋を混乱させた張本人である。完璧なウラメである。

孫皓からのオサガリ

武帝は孫皓を降服させたとき、呉の宮人5000人を手に入れた。安田氏は、武帝のオーディションが単なる好色が理由でないと言うのだから、孫皓の後宮を引き継いだ理由を説明しなければならない。

安田氏が自らに問題を課しているので、ぼくら読者は見守るだけだ(笑)

もともと孫皓は、各地に宦官を派遣して、良家の娘をかき集めている。暴君ならではの所業だと言ってしまえば終わりだが、西晋の武帝との共通性に注目すべきだ。

だから世間では、孫皓も司馬炎も同じ暴君なんだけど。安田氏が言いたいのは、そんなことじゃない。分かっていても突っ込みたくなるねえ。


孫皓は、江東の有力氏族を味方に付けるために、娘を集めた。安田氏が想定した武帝の目的と同じである。つまり武帝のオーディションは、孫皓のマネだった。

武帝のオーディションは273年だ。孫皓がまだ呉に割拠しているときだ。後から「お前とオレは隣同士」と孫皓が歌にしたけれど、隣同士で同じことをやっていたのです。

武帝は旧呉の良家の支持を得るために、孫皓のコレクションをスライドさせて吸収した。
だが武帝の思惑も虚しく、孫皓から宮人をもらった後の10年間に、3人の皇子しか生まれなかった。新しい楊皇后との間に司馬恢が生まれ、2歳で死んだ。出自不明の中才人との間に、司馬熾が生まれた。最後の皇子は夭折したから、母も名も不明。

司馬熾は、西晋の懐帝です。劉聡に拉致られて殺されるのだが、この皇子を生めただけでも、最後の10年の房事に価値はあったと思うんだが。
これはぼくの想像だが、司馬熾の母の中氏という姓は、他に思い当たらない。揚州の田舎の出身で、孫皓の後宮から移ってきた人だと仮定しても、史料的とは矛盾しないのです。実質的な最後の西晋皇帝の母が、孫皓のお手つきだったとしたら、面白いなあ。
こういうことを言うと「小説だ」と糾弾されるのが常道ですが、ここは趣味のサイトなのだし、面白けりゃいいじゃん (笑)


女色に狂った君主と言えば、劉禅がいる。

三国ファンには嬉しいのだが、唐突な例示だ。

劉禅は黄皓にたぶらかされて、女を囲った。だが劉禅が主体的に、巴蜀の豪族と関係を結ぼうとしたと想定できる。

安田氏は言っていないが、劉禅が諸葛亮を遠ざける手段として、女に走ったんだと。安田氏の指摘を膨らませれば、そう読めなくもない。
劉備とその仲間たちにしてみれば、益州は占領地でしかない。だが劉禅をはじめとした2世以降は、益州が故郷となってく。地域に落ち着いていくのは、自然な流れです。

三国の君主の悲哀

西晋の武帝にしろ、呉の孫皓にしろ、蜀の劉禅にしろ、なぜ後宮を拡大させて、大きな外戚を形成したか。
皇帝が、数いる同輩の中の第一人者に過ぎないからだ。すなわちプリムス・インテル・パーレスだ。中央集権の官僚制が実際に機能していないとき、外戚は強くなる。

「中国史における外戚とは」みたいな大きな問題設定を、安田氏は論文の中でかするだけだ。正面から語らない。いちおうテーマとして認識してはいますけどねーという逃げ口上だけ用意しているけれど。
安田氏は、劉宋と対比して、西晋は外戚が特別に膨らんだ時代だと言っている。だがそれを言うなら、前漢と後漢を忘れてはいけないでしょう。意図的に言及していないのかなあ。
後漢の皇帝は、同輩の第一人者だから、後漢で外戚が膨らんだ? このテーマは、今日は何とも言えない。

武帝が好色だったのは、私的な性格のせいばかりではなく、皇帝権力を確立する政策として狙ったものだった。

武帝の好色が、単なる変態趣味じゃないというのは、よく分かりました。だとしても武帝は、我が身と我が子のことばかり考えているんだよね。そんな奴に、天下が治められるんだろうかねえ。
まだスケベエの方が愛嬌があるし、質の悪い毒を持たなかったと思う。パッと射精してしまえば、それで終わりなんだもん。武帝は死の20年後まで余計な心配をした。結果、300年も鎮火しない爆薬を念入りに仕込んでしまった。緻密に練り上げた成果物だけに、外戚や封王たちの関係に齟齬が出始めた(逆作用が出てきた)ときも清算が間に合わず、異民族に中原を取られた。皇帝の功績としては、極悪だな。


次回でラストスパート。
安田氏が今回の論文で、『晋書』『資治通鑑』を額面どおりに読まずに、自分で勝手に話を作ったことについて、弁解をしてくれます。