表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋武帝好色攷」が暴く家族愛

02) 妃オーディションの真意

武帝が父母の服喪を3年ずつやり遂げたところまで、
話が進んでいます。

若き司馬炎の女断ち

史料には書いていないことであるが、司馬炎は服喪の期間、閨房の生活を慎んだことが詮索できる。
その証拠は、皇子の生年である。
『晋書』によれば、司馬炎には26人の皇子がいて、皇女が10人いたことが読める。生年が確認できる人に絞ると、262年以前と、271年以後に両分される。その間には空白の8年間がある。この8年は、司馬炎が父母のために喪に服していた時期と重なる。
恵帝の兄・司馬軌は、生没年不詳。恵帝は259年生まれ。同じ楊皇后から262年生まれた司馬カンを最後に、皇子の生年はブランクへ。

恵帝には同母兄、同母弟がいたんだ。どちらも早死にして、恵帝は年齢差と母の違いで、多くの兄弟の中で1人ぼっちになるのです。

ブランクの8年間とは対照的に、母の喪が明けた翌年の271年には、1年で4人も皇子が誕生している。武帝の生殖能力が描くカーブとしては、不自然だ。喪で、意図的に慎んだのだろう。

皇子の生年を穴埋めしていくと、『晋書』に矛盾が発見できる。

入社試験で受けさせられるペーパーテストと同じである。AさんはBさんより順位が上、Cさんの後ろには4人いた、Eさんは2位である、などの断片的な情報をかき集めて、全体の順序構成を推測する仕事である。

司馬瑋が「第五子」で、司馬乂が「第六子」だと『晋書』は言う。
だが『北堂書鈔』や諸王条引王隠『晋書』によれば、司馬瑋を「第九子」だとする。

『北堂書鈔』は虞世南(558~638)による百科事典(類書)だそうです。ぼくは恥ずかしながら、存在を知らなかった。紀州藩文庫のサイトで、蔵書の写真が見れるみたい。すごく便利です。http://densi.lib.wakayama-u.ac.jp/

『世説新語』に劉注が引く『八王故事』では、司馬乂を「第十七子」、司馬頴を「第十九子」とする。この数字なら、他の記述と矛盾しない。ともあれ、生年が271年より前には遡らないことは確認できる。

いちいち検証をフォロウできてないが、おそらく正しいのでしょう。

史料にないことだが、司馬演が第八子で271年生まれ、司馬カが第十三子、司馬乂が第十七子、司馬頴が第十九子、司馬晏が二三子、司馬恢が二四子、司馬熾が二五子であることが決まる。

司馬景と司馬憲は、第四子と第五子で、どちらも夭折して詳細が不明である。ブランクの期間中に生まれた可能性がある。だが武帝は、父の喪が明けてから母が死ぬまでの半年、解放期間があった。そのとき儲けられた子だと解釈すれば良い。
武帝は、20代半ばから30代前半に、子作りを慎んだ。礼経が説く、節制と禁欲を守った。好色の皇帝というイメージとは正反対である。

泰始九年のオーディション

武帝は273年秋に、自分の喪が明けたのをきっかけに、天下の婚姻を停止させて「采女」をした。
後宮はすでに、相当の整備状態だった。楊元皇后のほかに、審美人、徐才人、ヒ才人、趙美人、李夫人、厳保林、陳美人らが皇子を生んでいた。

「相当の整備状態」というのは、安田氏の言葉です (笑)

だがなぜ、後宮を拡充したのか。

このあたりから推理小説節が炸裂して読みにくいのだが、、
「なぜ」と言っておきながら応えず、時系列で史料を並べ始めるのです。

胡芳と諸葛婉(どちらも女性)の記録から、顛末を追う。
273年8月、宦官は馬車と衛兵を率いて、戸籍調査に便乗して、女たちを一次選考した。10月半ばに選考が終了した。翌274年春に50余人が上洛した。吏女の数十人も、涙ながらに連れてこられた。武帝は女を集め終えたので、選ばれなかった人たちを結婚に追いたてた。人口を増やすためである。

おかしみがあるほど、勝手なことです (笑)

天は旱魃と水害で、武帝を叱った。
『資治通鑑』のみが、274年3月に二次募集で数千人を集めたと伝える。しかし二次募集をかけては、武帝が世間のノコリモノを集めることになる。司馬光が武帝の好色ぶりを強調するために、数字を創作して、ありもしない二次募集をでっちあげたのだろう。

カタカナ表記の「ノコリモノ」は安田氏の表現です。ぼくと同じ20代の人が、この表現を使うだろうか。怖くて使えないよなあ。安田論文に「史料的価値」を感じてしまうのでした。あはは。

オーディションの政策意図

史料のバイアスを除いても、最大で百余人を後宮に入れたことは否定されない。『晋書』「胡奮伝」によれば、武帝は大欲を満たすためにやったという。
王船山は、武帝が弛緩したからオーディションを開催したと説明した。即位して8年、地位が安定した。司馬昭が心配した旧臣たちは、司馬炎に忠誠を誓った。司馬攸でなく司馬衷を皇太子として、賈充の娘を妃にした。宗室の大長老である、司馬孚と司馬望が死んでくれた。服喪がやっと終了した。
自負心と解放感に浸った武帝だが、新しい危惧が浮上した時期でもある。司馬衷が「不慧」だという疑惑が持ち上がった。オーディションは、その疑惑への対策である。

274年7月、楊皇后が武帝の膝の上で死んだ。

オーディションから半年後である。

死にゆく楊皇后は、心配した。
「皇太子の衷はバカです。陛下は新しく胡氏を寵愛していますね。胡氏が子を生んだら、私の子・衷を廃してしまうのではありませんか」
武帝が応えた。
お前の子が次の皇帝になることは、決まっているんだ。もし衷がバカなら、同母弟のカンを立てるよ」
「ありがとうございます。それなら次の皇后には、従妹の楊芷を立てて下さい」
このクダリが、後世から批判を受ける。私情を主張した楊皇后は、国家を滅ぼした。楊皇后の情に流されてしまった武帝は、愚かであると。しかし安田氏の主眼は、そういった批判にはない。
この会話に見えるように、司馬衷のバカはすでに認識されており、前年のオーディションも同じ心配が根っこにあるんじゃないのか。安田氏が読み取るのは、これである。

この辺りの論順が推理小説なんだよ。

この安田氏の仮説は、274年閏正月の詔が傍証になるそうで。
「曹操の卞氏、曹丕の郭氏、曹叡の毛氏は、みな身分が低い出身だ。身分が低い女を皇后にしたせいで、嫡庶の序列が乱れた。皇后の身分を逆転させてはいけない」
この声明がオーディションが決着する前月に出ている。つまり、どれだけ女を集めても、皇后を楊氏から代えることがないと、天下と楊氏に宣誓したに等しい。楊皇后と司馬衷を廃すためじゃなく、楊皇后と司馬衷を守り立てさせるために、女を集めたのである。

武帝は公卿以下の盛族良家の子女50余人らを集めた。女たちを迎えるときは、高い格式を保った。有力家族と司馬氏を、個別的に結合させるためである。
また武帝の8年のブランクで、司馬衷には親弟の人数が少なく、親弟たちの年齢も若すぎた。皇子を補充して藩屏を築くために、女を集めたのだ。